第68話「犬鳴トンネルと幻の犬鳴村」
森は静まり返っていた。
車を降りた瞬間、空気が一変したのを俺は感じた。
蝉の声も風の音も、すべてが吸い込まれたように消えた。
音のない世界。
旧犬鳴トンネルの入り口に立つ俺達の周囲だけ、まるで別空間だ。
「……トンネル、封鎖されているはずだよな?」
結先輩の声が震えている。確かに、封鎖壁があるはずだった。
だが、そこにはぽっかりと開いた穴があった。
誰かが通った形跡。
無言で浜野先生が呟く。
「……誰かが、通った跡だな」
俺の足元でノクスが低く唸った。
「にゃう……(気配が濃すぎる)」
愛菜は慌ててノクスを抱きしめる。
俺は一歩、また一歩とトンネルへ近づく。
湿った土とカビと鉄の混じった匂いが鼻を突く。
足元の土が靴を沈ませる。
「何だか、この場所は妙な気配を感じます……」
ひよりは辺りの気配を読み取った。
懐中電灯の細い光が、コンクリートの壁を照らす。
落書き、ひび割れ、割れた酒瓶、そして血のような赤い手形がいくつも残っていた。
「……これ、マジでやばい奴じゃん……」
愛菜の声が震える。
俺は耳を澄ませた。
水滴の音じゃない。
どこか遠くから、拍手のような音が繰り返されている。
「……始まってるな」
小さく呟いて、俺はトンネルの中へ入った。
◆
中は想像以上に狭く、長かった。
結先輩、愛菜、浜野先生も続く。
湿気のせいで髪が張り付く。
ノクスはじっと前方を凝視している。
数歩進むと、空気が急に冷たくなった。
「……誰かいる……?」
結先輩が震える手で俺の服を掴む。
その瞬間、闇の中からひよりが現れた。
青いワンピースを纏い、薄明かりに浮かび上がる少女。
無言でこちらを見つめるひよりは、ふと指先をトンネルの奥へ向けた。
俺は言われるまま奥へ進む。
壁に滲むように浮かび上がるのは、無数の名前だった。
かすれた文字の一つ一つが怨念と哀しみに満ちている。
俺は《真語断ち》で声を紡いだ。
「お前達の名は知らないが、叫べ。未練を吐き出せ。そうすれば消える」
名前が一つ、また一つと消えていく。
ノクスがうなる。
「にゃう……(言葉が届いてる)」
だが、奥からは更なる深い怨念がうごめいている。
やがて風が吹き込んだ。
密閉されたトンネル内にありえない風が、俺達を押す。
押し流されるように出口へ。
トンネルを抜けた。
◆
灰色の空の下、そこに広がっていたのは森ではなかった。
朽ちた木造の家々、古びた電柱、沈黙の鳥居。
噂の犬鳴村――地図にない、憲法すら通じぬ禁断の村が眼前にあった。
「……幻覚か?」
「いや、違う。これは……」
空気の質感、色彩がまったく異なる。
ここは確かに“向こう側”だった。
視線が集まる。
人の形だが人ならざる何かが、村の陰からこちらを見ている。
◆
「……戻ろうよ、お兄さん……」
ひよりがそっと囁く。
愛菜が震え声で呼ぶ。
「しゅーくん……」
ノクスが低く唸る。
「にゃう……(もう逃げ場はない……)」
俺は振り返るが、あったはずのトンネルの穴は消えて、ただの土壁に戻っていた。
ひよりは振り返らず、白いワンピースを風に揺らしている。
「……試されてるんだな」
俺は覚悟を決めて息を吸い込んだ。
「行くぞ。あの先に真実がある」
次回予告
第68話『犬鳴村の夜』
消えたトンネル。閉ざされた集落。
現れる名前を捨てた者達のと、村を縛る掟。
闇の中、修が見る“ありえない名前”。
光が届かぬなら、声で斬る。
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