第67話『おらびの浜』
波の音だけが、夜の堤防を満たしていた。
日本海に面した京都・宮津の海辺。
鈍い街灯の下、オカルト研究同好会の3人が、釣り糸を垂らしていた。
釣り――というのは名目上の理由。
本当の目的は、この地域に伝わる、ある“怪異”の調査だった。
「“おらび”って知ってる?」
愛菜が小さな声で言う。
彼女の足元では黒猫のノクスが、風の匂いを警戒するように鼻をひくつかせていた。
「この辺の古い方言で“叫ぶ”って意味。でもね、『おらばれる』って言い回しになると、意味が変わるの」
夜釣り中、背後から“誰か”に声をかけられる。
――『おーい』と。
無視すれば何も起こらない。
だが、返事をしてしまったり、振り返ってしまった瞬間。
「耳元で、囁く声がするんだって。『おい……』って」
そして、海面に浮かぶのは、あり得ない“人影”。
やがてそれは、水の中へと人を連れ去っていく。
「土着系の水死霊……? いや、あれはもっと“原始的”かもしれない」
修がスマホをいじりながら呟いた。
その目は夜の海を見つめているが、意識はもっと深い闇に潜っていた。
――その時、声が響いた。
「……おーい……」
背後。堤防の内側。
誰もいないはずの場所から、しわがれた呼びかけが聞こえてくる。
誰一人、振り返らない。
「……おーい……」
もう一歩、近づいた。
愛菜がごくりと唾を飲む。
ノクスの毛が逆立ち、低く唸った。
「私にも聞こえる……耳を貸しちゃだめ……目も合わせたらだめよ」
結が鋭く囁いた時――
「おい」
耳元。
すぐそばで、湿った吐息混じりの囁きが、確かに響いた。
その直後。
「ポチャ……」
海面で、水音。
波間に浮かぶ、白い“顔”。
それは、表情を持たない。
ただ虚ろに口を開けたり閉じたり、こちらを見ている。
一つ……また一つ……。
波の奥から、いくつもの“顔”が現れる。
「こいつら……全部、違う人間の顔を模してる」
修が静かに言う。
顔達が同時に口を動かす。
“おい……おい……おい……”
声は、外からではない。
頭の中に直接流れ込んでくるようだった。
――その時。
「しゅーくん、来る!」
愛菜が叫んだ。
ノクスが、堤防の縁に向かって身構える。
何かが這い上がってくる気配。
――視線じゃ、もう止まらない。
修は、目を閉じた。
内側で、何かに触れる。
“心眼”が開く。
音もなく、魂の底に届いた。
そこにあるのは――怒り、孤独、置いてけぼりにされた感情。
「……なるほど。そういう事か」
修は、目を開いた。
その目は、もはやただの人間のものではなかった。
「――真語断ち、壱式《魂打ち》」
修が、一歩前へ出て、声を放つ。
「お前が怒ってるのは、置いていかれたからだろ」
海が、揺れた。
“顔”達が、一斉に振り向くように視線を向けてくる。
「だったら、叫べよ。その名前、呼んでみろ。誰にも聞かれなかったなら、ここで俺にぶつけろ」
波が、裂けた。
“顔”達の輪郭が揺らぎ、崩れはじめる。
海面が、青白く光った。
空気の密度が変わる。
圧が抜ける。
結が小さく息を飲んだ。
ノクスが、にゃう……と低く唸った。
「効いてる……!」
愛菜の声が震える。
修は、ゆっくりと続けた。
「お前らがどれだけ声を出しても、誰にも届かない。だから……今度は、俺が返す」
「ここにいるぞ。届いた。……もう、黙って消えていい」
その瞬間だった。
“顔”達が、ひとつひとつ、砕けるように消えていった。
まるで波が引くように。
静かに、でも確かに。
水音だけが残り、海はまた、静かに戻っていた。
「……やった、の?」
愛菜が口を開く。
修は深く息を吐いた。
「浄化ってほどじゃない。でも、あいつらの“声”は、ちゃんと届いたと思う」
「言葉だけで、追い返した……」
結が呟く。
修はスマホをポケットに戻した。
「言葉は武器だ。幽霊だって、魂の塊なんだから、真芯を突けば揺らぐ」
風が吹き、ノクスの尻尾がふわりと揺れた。
「ばあちゃんがさ、昔こう言ってた」
「“視た”だけじゃ弱い。本当に戦うなら、“言葉にする事じゃ”ってな」
その口元に、少しだけ微笑が浮かぶ。
「“口が悪い”って言われてたけど――ようやく、この舌の使い方がわかった気がするわ」
闇の向こう、海はまた波を打っていた。
でも、もうそこに“顔”はなかった。
次回予告
第68話「犬鳴トンネルと幻の犬鳴村」
封鎖された旧トンネルの先に現れた、“存在しないはずの村”。
鳴るはずのない足音、迫る見えない気配――
《真語断ち》が、封じられた記憶に触れる。
次回、「犬鳴トンネルと幻の犬鳴村」
その一歩が、境界を越える。
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