第48話『名を呼ぶ影』
ギィ……と、古びたドアが僅かに開く音がした。
修達が立つ旧校舎の廊下。
その先の教室の扉が、誰の手も触れていないのに、ゆっくりと内側に開かれていく。
他の教室も開いてはいるが、その部屋から漂う気配が、その部屋に何かがあるのを物語っていた。
「……“入ってこい”ってか」
修は懐中電灯の光を細く絞り、開いた扉の奥を照らす。
その先には――何もない。
黒板も机も、全てが埃をかぶり、時間に打ち捨てられたままだ。
けれど、空間には確かに“気配”があった。
「ここ……息苦しい」
愛菜が肩をすくめると、ノクスがリュックから身を乗り出した。
「にゃう(重いな……残ってる、“感情”が)」
教室の中央に、一つだけ椅子があった。
そこに、誰かがいたような“気配”。
修が一歩踏み出し、静かに呟いた。
「ここで……何かがあった」
その瞬間。
教室の奥、黒板の前に――“それ”はいた。
薄暗い空間にぼんやりと立つ人影。
性別も年齢も定かではない。
顔はぼやけて見えず、ただ、まっすぐにこちらを見ている。
「……お前は、誰だ」
修の声に、影は小さく首をかしげる。
「……呼んだのは、お前か?」
返事はない。
ただ、影の手が、黒板に向かってすっと伸びた。
その指がなぞるように動くと、黒板に白いチョークの文字が浮かび上がる。
“しゅうくんへ”
「……!」
思わず、愛菜が息を呑む。
「しゅーくんの事……?」
「……これは、俺の」
修の頭の中に、過去の記憶がよぎった。
その声。
呼ばれた名前。
あの日、校舎のどこかで――
だが、その先の記憶は、ぼんやりと霞んでいる。
影が、再び動いた。
今度は、チョークでこう書いた。
“どうして、来てくれなかったの?”
胸が、締めつけられるような感覚。
修の喉が、かすかに鳴った。
胸の奥で、何かが引っかかる。
けれど――思い出せない。
「……ごめん。俺は……お前の事を、覚えていない」
その言葉に、影の身体がかすかに揺れた。
チョークが再び黒板に走る。
“どうして、来てくれなかったの?”
修は、拳をぎゅっと握りしめた。
その言葉が、胸の奥に刺さる。
「……その日、何があったのか……何を約束したのか……思い出せない。だけど」
視線を逸らさず、まっすぐ影を見据える。
「お前が、俺を待ってた。それだけは、伝わってきた」
黒板の文字が、また変わる。
“こわかった。さみしかった”
その時、ふっと教室の空気が揺れた。
影がかすかに崩れかけるように揺れ、そして、また形を保つ。
「……苦しんでる?」
「言葉に出来なかった“何か”を、ずっと抱えたまま……」
修は目を伏せ、そっと拳を握った。
「……なら、俺が聞く。お前の叫びを。お前の痛みを」
「にゃう(しゅー……“弐式”の出番だ)」
修の瞳が、わずかに光を帯びる。
「“真語断ち・弐式”――いくぞ」
声に出したその瞬間、教室の空気がまた一変した。
影の内側から、沈んでいた“言葉にならない叫び”が、静かに漏れ始めた。
ノクスの声を背に、修は静かに目を閉じた。
心眼が、影の内側を覗く。
そこには、“叫び”があった。
――どうして来なかったの
――どうして笑ってくれなかったの
――どうして、忘れたの
修は目を開け、口を開いた。
「……俺は、お前との約束を……守れなかったんだな」
自分の言葉が、黒板に書かれた言葉と重なるように思えた。
「……ごめん。全部、忘れてた。お前の事も、名前も、声も……」
声が震えた。
「でも、それでも……“いま”なら、向き合える。もう逃げたりしない」
影が、一歩こちらへにじむように近づいてくる。
その手が、最後にひとこと、黒板に記した。
“また、来てくれる?”
修は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ。思い出すまで、何度でも」
影は、微かにうなずいたように見えた。
そして、黒板の前から、静かに消えていった。
教室には、深い静寂だけが残っていた。
次回予告
第49話『覚えていなくても、忘れてなかったもの』
かすかに残る温もりと、名前すら思い出せない面影。
修の中に少しずつ積み重なる“彼女”の記憶。
だがその記憶の奥には、決して触れてはならない“扉”があった――。
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