第142話『潮目の共闘』
妖市の外れ、灯籠の列が尽きる路地の突き当たりに、それはあった。
石畳の目地が黒く濡れ、壁と壁の隙間だけが水面のようにゆらいでいる。
冷たい潮の匂いが、街の匂いを上書きしていった。
「……ここが“縫い目”」
結が息を整える。
瞳は怖がっているのに、立ち姿はぶれない。
「にゃっ(海の抜け道。向こうは夜の水路だ)」
「ノクスは“夜の水路”と言っておる。焦りは毒、深呼吸を一つ」
玄昌が尾で地をさっと掃くと、黒いゆらぎが輪の形になった。
輪の縁には古い紋が浮かび、波紋が静かに外へ広がる。
「にゃー(よし、みんな行くぞー!)」
ノクスがひと鳴きし、輪をぴょんと飛び越えた。
修も続く。
水に落ちる覚悟で踏み込んだ足裏が、意外にも“床”を踏んだ。
闇の向こうは、水路だった。
朽ちた桟橋が細く伸び、左右の壁は海洞のようにうねる。
頭上の空は見えない。
なのに波の音と、遠い鐘の音だけがはっきり届く。
「……寒い」
結が肩をすくめ、息を白くした。
壁に刻まれた無数の爪痕が、灯りの代わりに薄く光っている。
「妾が少しだけ風向きを曲げよう。塩風を緩める」
玄昌の尾が一度うねる。
潮の冷たさが半歩ほど遠ざかり、足取りが軽くなった。
「先生、船……ありますか」
「ある。――多分」
「多分って……大丈夫なんでしょうか?」
「“経験上多分ある”。異界の桟橋に舟はつきものだ」
「何の経験上ですかそれ」
先生が桟橋の影へ手を伸ばし、縄を引いた。
ぎぃ、と音を立てて、小舟が一艘、闇から滑り出る。
船首には割れた提灯。
その中で小さな青い火が揺れた。
「にゃにゃ(当たりだ、やるな先生)」
「“当たりだ”とな。――乗れ」
四人と一匹が身をかがめて舟へ移る。
舟底は冷たいのに、不思議と水は染みてこない。
「俺がオールだ。……言っとくが、船酔いはしない設定で生きてきた」
「設定!?」
先生がオールを押し出すと、舟は音もなく滑り始めた。
水は黒く、時々、白い指先のような泡が浮いては消える。
「にゃ……(来るぞ)」
ノクスの毛が逆立つ。
次の瞬間、舟の縁から“手”がそっとのぞいた。
青白い指。
爪はなく、皮膚だけが長く伸びている。
「……来る」
修は体を前へ。
心眼を開く。
これは“誰か”ではない。ただの名もない残り香。
それでも冷たさは本物で、引きずり込む力は強い。
「――離れてくれ。俺達は行かないといけないんだ」
真語断ち・壱式《魂打ち》。
短く、まっすぐ。
言葉が水面へ落ちると、伸びた指は霧のようにほどけた。
代わりに小さな波紋が、舟の周りだけ静かになった。
「にゃっ(十分だ)」
「“十分だ”とな」
舟は水路を抜け、大きな“窓”へ出た。
視界が一気に開け、真っ黒な海と、月のない空が広がる。
ただ、遠くの水平線に――黒い“城”の縁取りが一枚、浮かんでいた。
「……亡霊魔城船」
結の声が微かに震えた。
それでも、目は逸らさない。
「アシュベル」
修が呼ぶと、闇の上をコウモリが扇のように渡る。
次の瞬間、舟の後ろに気配が立った。
コウモリ化し空から気配を探知していたアシュベルが現れる。
「沖合に停泊。巡回は少数だが、全て“鼻の良い”奴だ。」
「やるしかないわね」
「にゃあ(怖がってる時間があったら、一漕ぎでも進め)」
「“怖がってる時間で一漕ぎ進め”。うむ、的確」
玄昌がクスりと笑い、尾で舟尾をぽんと叩いた。
舟はそれだけで少し加速する。
「陸は妾が抑えると言ったが、海でも鼻ぐらいは折ってやろう」
「頼もしいですけど、鼻って折れるんですか妖魔の……」
「折れる」
即答に、修と結が同時にうなずいた。
「先生とやら、接近は二段階。まず“音を消す”。次に“気配を薄める”。やれるか」
「問題なしだ」
先生が櫂を止め、舟の縁へ掌を置いた。
指先がわずかに光り、舟体の軋みが消える。
半サイボーグの制御が、振動を殺したのだ。
「次は妾」
玄昌が短く尾を振る。
潮の匂いが薄れ、代わりに“藻”の匂いがふわりと立つ。
人の気配が、草の影に隠れた。
「にゃー(いいぞ白モフ。やるじゃん)」
「“白モフ”じゃと。――雨城、前を」
「了解!」
修は身を低くし、舟首から海面を覗いた。
黒い水の下で、赤い線が一筋、細く流れている。
血ではない。魔城から漏れる“儀”の導線だ。
「ここだ。この線の外側を沿って行けば、嗅がれにくい」
「任せろ。――漕ぐぞ」
先生の腕が静かに動く。
舟は月のない海で、音も立てずに進む。
胸に貼りついた焦りはそのままに、ただ、輪郭だけがはっきりしていく。
「にゃん(愛菜、聞こえるか。おれ達は行く。すぐにだ、だから――)」
「ノクスは“行く”と言っておる。……届くかどうかは、あの城次第じゃがな……だが、いけるさ」
玄昌の金の瞳に、海風が映った。
亡霊魔城船は揺れない。
波だけが、足元の世界を静かに揺らす。
「結先輩」
「うん」
「絶対、連れ戻します」
「絶対よ」
短い言葉が、舟の芯になった。
その芯が、暗い海でまっすぐ伸びる。
やがて、城の縁で黒い影が一つ、こちらへ顔を向けた。
銀の仮面。
灰色の羽根の外套。
“灰羽の騎士”が、甲板の端に立つ。
「見つかったか……?」
「いや、まだ“こちらを嗅いだ”だけ。――間に合う」
アシュベルの声が静かに落ち、舟はさらに影へ沈む。
亡霊魔城船の巨影が、すぐそこまで大きくなった。
夜は、更に深く、続く――。
次回予告
第143話『影走る波路』
亡霊魔城船の直下まで迫る修達。
灰羽の騎士が動き、海面に“影の鎖”が走る。
音も匂いも殺した接近戦。
ノクスの短い鳴き声が、跳ぶべき“瞬間”を告げる。
辿り着けるか、舌と言葉だけの最前線へ――。
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