第141話『海の兆し』
妖市の奥。
誓環の赤い光がまだ石畳に薄く残っていた。
残光は、今は冷たく足裏へ張りつく。
「……日本の沖合、だって」
結が小さく呟く。
瞳の奥で、恐怖と焦りが微かにぶつかった。
「にゃあ(潮が変わる、行くなら早めに行かないとな)」
ノクスが尾をふくらませ、赤い瞳を細めた。
「……のんびりしてたら、本当に間に合わない」
修は顔をしかめ、胸の奥で脈拍を数え直した。
数え直しても、嫌な速さは落ちない。
「ルナは早い。愛菜を持ってる側が、全部の主導権を握る」
浜野先生の声は低い。
冗談を混ぜない口調に、場の温度が一度だけ下がった。
「こやつは“急げ”と言っておる」
ふいに、玄昌がのそのそと前へ出た。
九つの尾がさわりと広がり、金の瞳が笑い皺を刻む。
「えっ、通訳……!」
結の肩が小さく跳ね、眼鏡が微かにずれた。
「妾の耳は古い言葉も猫の鳴きも拾う。便利な老耳じゃ」
「にゃにゃ(便利言うな白モフ)」
「“便利言うな白モフ”とな」
「そこは伏せて通訳してくださいよ!」
修が額を押さえる。
張り詰めた空気が、ほんの少しだけ丸くなる。
「でも、助かる。ノクスの考えが、言葉になるのは心強いわ」
結がふっと笑い、眼鏡の位置を直した。
笑いは薄いが、確かに足の震えを止める。
「灰羽は北東へ固定……沖の奴の居城“亡霊魔城船”でほぼ間違いない」
「亡霊、魔城船……なんか禍々しい名前だな」
修は掌の灰羽を掲げる。
風もないのに、羽根は海の方角へ小刻みに傾いた。
「にゃー(海を行く城か)」
「沖合で儀式を始められる。上陸はしない“かもしれない”。けど、海の上でも十分に危険だ」
先生は言い切ってから、短く息を吐いた。
「動き方、決めましょう。陸の準備と、海へ出る手段」
「陸は妾が押さえる。人払いと目隠し、ついでに風向きも少し弄ってやろう」
玄昌が尾を一振りすると、灯籠の影が路地の奥へすっと退いた。
ざわめきが一枚ぶん遠ざかり、足音が軽くなる。
「影から沖を偵察する。背中は任せろ」
屋根の上で靴音がひとつ、石畳へ吸い込まれた。
アシュベルの髪が月光をはじき、すぐ闇へ溶ける。
「アシュベル……頼む」
「礼は要らん。利害は一致している」
短い返事だけが残り、頭上でコウモリが扇のように広がった。
「にゃっ(潮目が変わる。時間がない)」
「雨城。役割はいつも通りでいく。俺が後ろ、黒咲は視界と安全確認。お前は前。困ったら呼べ、すぐに変わる」
先生が手短に刻むと、体の芯が自然と“部活の並び”に収まった。
この並びになると、呼吸が勝手に揃う。
「先生、頼りにしてます」
修は灰羽を握り直す。
羽根の震えが、掌の脈と同じ速さになった。
「……ただ、俺の“言葉”は、幽霊には刺さっても、妖には鈍る」
吐き出した途端、喉が軽くなる。
怖さは減らないのに、足は前へ出やすくなった。
「にゃん(それでも撃て。お前の舌は、妖魔王が嫌う舌だ)」
「“それでも撃て。お前の舌は妖魔王が嫌う舌だ”とな。――良い褒め言葉じゃ」
「褒められてる気がしないですけど」
「にゃ(褒めてる)」
結がくすっと笑い、すぐ真顔に戻る。
笑いの余韻だけが、拳の強張りをほどいた。
「黒咲。怖い時は怖いと言え。それでも足を出すのが部長だ」
「はい。怖いです。だから進みます」
「よし。……じゃ、行くか」
修が一歩踏み出した時、骨の門の上で玄昌が鼻先を上げた。
九つの尾が同時にぴたりと止まり、金の瞳が細くなる。
「……見ておるな。沖の影が、こちらを」
風の向きが変わった。
潮に混じって、鉄と薔薇の匂いがうっすら乗る。
遠く、海の方角で、低い鐘が一度だけ鳴った。
灯籠が二つ、風もないのにふっと消える。
「妖魔王が、こちらを見ている」
修の背筋に、冷たい指が一本、撫でていった。
覗かれている感覚は、声より先に肌を固くする。
「市の縫い目を開ける。古い舟幽霊の通り道じゃ。そこから海へ出るがよい」
「そんな便利な道、最初に言ってくださいよ」
「言えば最初に頼る。若いのはすぐ楽を覚える」
「先生、なんとか言ってください」
「大人はもっと楽を覚える。――だから走れ」
いつもの掛け合いが、靴底を前へ押した。
路地を抜けるたび、潮の匂いが確かに濃くなる。
「にゃーご(愛菜、待ってろ。すぐ行く)」
ノクスが短く鳴き、灯りの切れ目を先導する。
玄昌の尾が石畳を掃き、足場から小骨のような灰を払った。
最後の角で、修は振り返る。
広場の中心――誓環の残光は、もう見えない。
それでも足首に、目に見えない“輪”がそっと結ばれている気がした。
「結先輩」
「うん」
「絶対、連れ戻します」
「絶対よ」
短い言葉が、背骨の真ん中に芯を通す。
その芯が熱を帯び、迷いを焼く。
「にゃっ(来た)」
頭上でアシュベルの影が一度止まり、月が雲間から顔を出した。
夜の底、水平線の向こうに、黒い城の輪郭がせり上がる。
亡霊魔城船。
月を背にして、城壁だけが薄く浮かぶ。
「――見えた」
修の喉が乾いた音を立てた。
次の瞬間には、もう走り出している。
妖市の縫い目へ。
海の抜け道へ。
愛菜のいる方角へ。
夜は、更に深く――。
次回予告
第142話『潮目の共闘』
妖市の縫い目が開き、海への抜け道が現れる。
玄昌が東の妖を束ね、アシュベルが沖を偵察。
ノクスの短い鳴き声が、進むべき瞬間を告げる。
沖合に浮かぶ亡霊魔城船。
迫る“儀”の気配に、修達は覚悟を固める――。
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