第140話『囚われの檻』
鉄と潮の匂いが、呼吸の度に喉へ張りついた。
目を開けると、赤い線が空中で脈打っている。
線は重なり、結び、やがて鎖になって私を吊った。
手首と足首に冷たい輪。
動けば食い込み、縫い針みたいな痛みが遅れて走る。
「……ここ、どこ」
階段の上から、よく通る女の声が落ちてきた。
「起きたのね、人柱の巫女ちゃん」
黒いドレスの裾が床板を撫で、赤い月の光が肩へこぼれた。
女は笑った。
紅い瞳の奥で、氷のような光が怪しげに動く。
「妖魔王……ルナ=ヴァルガ、だよね」
「呼びやすい名で呼べばいいわ」
彼女が指を鳴らす。
天井の梁から垂れた鎖が、音もなく長さを変えた。
私の体が少し下がり、つま先が木板に触れる。
板が軋む。
波が響く。
でもこれは普通の船じゃない。
「ここ……船、なの?」
「亡霊魔城船。城であり、墓標であり、私の家」
「ボクを帰して!!」
「残念だけど、それは無理なお話よ」
「帰して!!皆の所に!!」
「五月蝿いのは嫌いよ私」
彼女はつま先で檻を軽く蹴った。
鎖がびくりと震え、足首の輪がきゅっと締まる。
呼吸が跳ねる。
「痛いっ!!」
「いい声。痛みは立場を教える。迷子には首輪が似合う」
「ボク、迷子じゃない」
「すぐ迷子になる。心で。役目で。――あなたは“人柱の巫女”。門を開閉する鍵。私を新たな高みに導く存在……その為には、貴女には犠牲になってもらわないといけないの、ごめんなさいね」
言葉では謝っているが、目や口はニヤニヤと嘲笑っている。
「ボクは貴方の為にはならない、ボクはボクだ!!」
「私の為になる。それで充分」
ルナはしゃがみ、ゆっくりと愛菜の目を見る。
指先が檻の鉄をなぞる。
金属が小さく悲鳴をあげた。
「貴女は“鍵”、そして、世界は私のものに。貴女の生命でそれが成せる……とても安いものでしょう?」
「ボクは鍵じゃない。人だよ」
「人は簡単に壊れる。壊れ方もかわいい」
彼女は楽しそうに肩を揺らした。
その笑い方が、いちばん冷たかった。
「……ノクスの事、知ってるの?」
「もちろん。常夜の王は目立つ。貴女が抱いて寝るその猫、私が欲しかった玩具」
「玩具って言うな」
「じゃあ飾り。もっと悪い?」
「最悪」
「気に入った。怒る顔がいちばん綺麗で、かわいい、好きよ巫女ちゃん?」
ルナは首を少し傾け、私の瞳の奥を覗き込む。
見られている感覚が、皮膚の下まで沈んでくる。
「彼は貴女のどこが好きだと思う」
「そんなの、本人に聞いて」
「聞きたいけど恥ずかしいから聞けないのよ。だから貴女に聞くの。ね、教えて?」
「知るか!」
「すぐ怒る、野蛮ねぇ。壊したくなる」
彼女は微笑み、鎖を一つだけ短くした。
膝が勝手に折れる。
呼吸の隙間に、黒い囁きが入り込んでくる。
耳の奥で、誰かが笑った気がした。
「……今どこなの」
「沖合。岸は見える。港は要らない。数日後、新月の日、ここで儀は始まる」
「やめて」
「止められるなら止めてみなさい。声で。――貴女、声は悪くない、貴女の悲鳴や断末魔を早く聞きたいわぁ」
「こわっ!」
「褒めてるのよ?この感性が分からないなんて悲しいわぁ」
コツ、と彼女の踵が甲板を打つ。
上の甲板で鐘が一つ鳴り、船体が低く身じろぎした。
「そうそう、紹介しておくわね、貴女を捕らえてきた私だけの騎士」
階段の影がほどけた。
銀の仮面。黒い羽根の外套。
真っ直ぐな背。
足音は揺れない。
空気だけがきつく締まる。
「この子は強い。抗わない方が良いわよ、人は簡単に死んじゃうから」
ルナは、人差し指で自分の下唇をなぞった。
赤が艶めく。
舌先がちらりと覗く。
「ねえ、巫女ちゃん。貴女の覚悟はどのくらい」
「覚悟?」
「分かってすらないのねこの状況を。このままでは、すぐ折れてしまうかもね」
「折れない」
「折ったら、私が形を作り直してあげるわ、ありがたく思って?」
「勝手に決めないで」
「決める」
彼女はくるりと背を向け、三段だけ階段を上がった。
その背に影が寄り添う。
灰羽の騎士が無言で続く。
「ねえ、ルナ」
声が勝手に出る。
彼女の足が半分だけ止まった。
「何」
「しゅーくん達、来るよ。来たら、容赦しない、貴女の事、ギタギタにするから!コテンパンだから!!」
「楽しみにしてる(コテンパン……まだこの言葉あったのね……)」
振り返らずに答える。
扉が閉まる。
静けさが落ちる。
鎖の脈動だけが、私の鼓動と喧嘩する。
「……ノクス……」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
でも、胸の奥がきゅっと熱くなる。
ノクスの重み。
夜の匂い。
しっぽのくすぐったさ。
全部、覚えてる。
傷ついたノクスを拾ったあの日の事も……。
「来てね。待ってるから」
波の音が、ほんの少しだけ優しく聞こえた。
亡霊魔城船は黒い水を裂き、沖合に身を潜める。
赤い月は、まだ落ちない。
次回予告
第141話『海の兆し』
血の契約を交わした修達。
誓環が示したのは、日本の沖合――亡霊魔城船の影。
迫るルナの気配に、焦燥が胸を焼く。
だがその最中、ノクスの鳴き声に玄昌が通訳役を買って出る。
緊張と笑いが交錯し、仲間の絆が深まるひととき。
海の向こうに迫る脅威を前に、修達は何を掴むのか――。
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