第139話『九尾の試し』
灯籠の火が、誰かに息を吹き消されたみたいに揺れて、ぱたりと落ちた。
音が消える。
色も薄くなる。
広場の石畳だけが黒く残り、周囲は墨で塗られたような闇に包まれた。
「……どこだ、ここ」
足裏から冷たさが這い上がる。
空気が軽いのに、胸だけが重い。
息を吸う度、古い香の匂いが喉の奥に残った。
「人の子。名を」
「雨城 修」
「雨城よ。力無き舌で、妾に抗えるか。――確かめるぞ」
闇の向こうで、九つの尾が花開いた。
銀の毛並み。
黄金の双眸。
巨獣の影が、音も立てずこちらへ歩み出る。
足がすくむ――が、引かない。
俺の武器は“言葉”だけだ。
それで十分だと、自分に言い聞かせる。
「来いよ、九尾」
尾の一本が、槍に変わった。
空気を裂く。
反射で上体をひねり、頬の横を掠める冷たい風をやり過ごす。
「怨霊なら斬れよう。だが妾は“妖”ぞ」
「試してみてくれ」
喉の奥で言葉が形になる。
――怒り、怨み、置いていかれた痛み。
核を掴んで、叩く。
「お前、長い長い時間に腹を立ててるな。忘れられて当然だなんて顔をするなよ。名は残る。残したいなら、今ここで牙を見せろ」
真語断ち・壱式《魂打ち》。
響きが闇へ走り、槍の尾が一瞬だけ鈍る。
銀毛がさざめき、九尾の黄金の瞳が細く笑った。
「ふむ。軽い。胸板には届かぬ」
「なら次は――こっちだ」
相手の奥の声を拾い、代わりに言葉にして返す。
責めるんじゃない。
“届かなかった声”をここで届ける。
「本当は、守りたかったんだろ。牙で傷つけた数より、守れた数を数えたい。違うか」
真語断ち・弐式《叫返し》。
尾の槍が震え、形を保てず砂のように崩れる。
だが、別の尾がすぐ剣へと変わり、俺の足首を薙いだ。
靴底が裂ける。
冷たい痛み。
膝が沈む前に拳を地面へついた。
石が痛い。
まだ立てる。
「良い舌だ。だが、妾には人の言葉だけでは、ほだされんぞ?」
「だったら――結び直す」
胸の奥で、知らない熱が灯る。
断ち切るんじゃない。
ばらばらになったものを、一度だけ寄せて結び直す。
言葉が、喉へ上がって来た。
「お前の尾は九つ。ばらけて走るから、痛みを分け合えない。いまだけ一つにしろ。痛みも、誇りも、全部まとめて――俺が結ぶ」
言い終える前に、熱が弾けた。
目の前の剣の尾がぱきん、と氷みたいな音を立てて止まる。
銀毛の一本が白く霜を吹き、粉雪のように砕けて消えた。
「……ほう」
九尾の巨体が、わずかに首を傾けた。
残る八本の尾が、同じ呼吸で揺れる。
さっきまでのばらばらな鼓動が揃っていく。
「未熟だが、筋は悪くない。今のは“断ち”ではないな。縫い直す舌。面白い」
「まだ完成じゃない。けど、届く」
「なら、もう一手だ」
尾が扇になり、夜風が刃へ変わる。
視界が白くなるくらい速い。
避けきれない――
「――“全部、お前が背負う必要はない”」
口が勝手に動いた。
誰に向けて、でもない。
ここにいる“全部”へ向けた言葉。
扇の尾が足元で散り、風だけが後ろへ抜ける。
九尾は静かに息を吐いた。
黄金の瞳の奥の色が、ほんの少しだけ、柔らいだ気がした。
「雨城。妾の名は玄昌。今までは“老獣”で通してやったが――気が変わった」
巨獣の影がほどけ、ひとりの少女が闇から歩み出た。
銀の髪を高く結い、白いきものに赤の裾。尾は九つのまま、しかし軽やかに揺れる。
顔立ちは驚くほど整っていて、黄金の瞳をもつ。
いたずらめいた小悪魔な笑顔を修に向ける。
「獣化より人型の方が消耗が少なくていいな……ん?どうした?」
あまりの美少女っぷりに修達は驚愕する。
「反則級だろ、それ」
「褒め言葉と受け取っておくのじゃ。試しはここまで。妾はお主らの“縁”に入る。だが覚えておけ、雨城」
少女――玄昌は、俺の胸を指先でとん、と突いた。
指先は温かい。
爪先はちょっと痛い。
「今の“結び”は、まだほどけやすい。強く結ぶには、“誰と誰をどう結ぶか”を言葉で明らかにするのじゃ。曖昧はほどける」
「肝に銘じます」
「よろしい。――さて、帰るぞ」
玄昌が手のひらをひらりと振った。
墨色の闇が反転して、灯籠の赤が戻ってくる。
石畳、骨の門、杯。
広場のざわめきが耳へ戻った。
「雨城君!」
結の声。振り向く間もなく、肩を支えられる。
膝が笑っていたのに、その手で真ん中をつかまれたみたいに体が立つ。
「大丈夫?」
「はい。少し、走らされた感じです」
「ふん。顔色は悪くない。合格だ、雨城」
先生が腕を組み、ほっと息を吐く。
その横で、アシュベルが細い笑みを浮かべた。
「東の子は“舌で殴る”。理解した」
「言い方よ」
「にゃあー……」
足元でノクスが小さく鳴く。
――わかってる。
愛菜がいない今、意味は受け取れない。
だけど、その尾の振り方で、だいたい伝わる。
「戻ったか、老……いや、玄昌」
アシュベルが目を細める。
玄昌は少女の姿のまま、尾でちょいと杯を持ち上げた。
「西の若造。妾は契るぞ。王を止める為なら、東西の差などどうでもよい」
「同意する」
杯が静かに鳴る。
血で結んだ輪に、狐の気配が新しく混じった。
広場の空気が、少しだけ、前へ動く。
「行こう。――愛菜を迎えに」
結の声に、皆が頷いた。
灰羽は北東を指し続ける。輪は一つ太くなった。
俺は一歩、前へ出る。
夜は、さらに深く――。
次回予告
第140話『囚われの檻』
冷たい鎖に囚われた愛菜。
その前に現れるのは、妖魔王ルナ=ヴァルガ。
彼女の冷酷な笑みは、新たな舞台を指し示す。
亡霊魔城船を従え、日本近海へ――。
修達の知らぬ所で、決戦の幕はすでに上がろうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
評価(★★★★★)やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
続きの執筆の原動力になります!