第137話『市(いち)へ――妖市潜入』
夜の帳が落ちると同時に、街の一角にぽっかりと穴が開いたような路地が現れた。
そこは普段、確かに存在していたはずの空き地。
だが今は、黒い幕を垂らしたような薄闇が揺らぎ、異質な気配を放っている。
「……ここ、だな」
修が懐中電灯を握り直し、息を呑む。
「ええ。結界の“縫い目”が見えるわ」
結が目を凝らすと、空気の膜が波打つのが見えた。
人間にはまず知覚出来ない結界の綻び。
そこを潜れば、妖怪達の“市”へと続く。
「にゃあ……(行くしかないにゃ)」
ノクスの尾が緊張で膨らむ。
彼の紅の瞳は、すでに向こう側に蠢く異形達を見抜いていた。
浜野先生が腕組みをし、いつになく真剣な顔をする。
「対非常時マニュアルその六……“未知の市街地に潜入する際は、まず全員で財布の中身を確認する事”。ほら、ちゃんと小銭は持ったか?」
「先生……そこですか?……ってか愛菜ちゃんの事が心配だからあんまりこのノリは……」
「いやこれも大事だぞ?異界だって取引は取引だからな。向こうで“払えません”なんて言ったら、命で清算されかねん」
「……妙にリアルで嫌なんですけど」
修が頭を抱える。
「愛菜については急がないといけないが、だからといって、慌てても良い事はないからな」
そうして三人と一匹は、結界の膜へと一歩を踏み出した。
◆
空気が一変した。
湿り気を帯びた暗闇の匂い、耳の奥で響く低いざわめき、遠くから聞こえる太鼓の音。
目の前に広がったのは、夜市を思わせる雑多な光景だった。
無数の灯籠が浮かび、歪んだ文字で書かれた店の看板が並ぶ。
だがそこに立つのは人ではない。
角の生えた男、影のような女、魚の顔をした商人……。
妖怪達が店を開き、珍妙な品を売り買いしているのだ。
「……妖市……」
結が小さく呟く。
「にゃう……(魂、骨、呪符……何でも売ってるにゃ)」
ノクスの声が低く震える。
「わー……思ったより市場っぽいな。焼きそばとか売ってないのかな」
「雨城君、物見遊山じゃないんですよ!」
結が慌てて袖を引っ張る。
修はしかし懐から財布を出して、ひょいと串焼きの屋台を見やった。
「すみませーん、これ一本いくらっすか?」
そこに並んでいたのは、何かの小さな骨に肉を巻き付けた串。
赤黒い汁が滴っている。
「……五十文だ」
顔の半分が仮面のような男が低く答える。
「五十文!?高ぇな!三十文でどうだ!」
修が即座に値切りを始めた。
「お前、今この状況で値切るのか……」
先生が呆れたように額を押さえる。
「にゃあ!(やめとけ、怒らせるにゃ!)」
ノクスが慌てて修の足を爪で引っかく。
だが修は引かない。
「三十文にしろって。どうせ仕入れ安いんだろ」
「……ほう」
仮面の男が無言で立ち上がる。
その背後から、影のような部下達がぞろぞろと立ち上がり――。
「雨城君ッ!」
「冗談です冗談です三十文の話はナシです!」
結が慌てて頭を下げ、修の首根っこを引っ張った。
「お前ら……! 死ぬ前にマニュアル読んでこい」
先生が小声でぼやきながら、腰のバッグから紙束を取り出した。
「対非常時マニュアルその二十二。“交渉では無理な値切りをしない”……な?」
「後出しで言われても……!」
修が呻き声を上げた。
◆
それでも、市を進む内に彼らは見つけた。
――“灰の羽根”。
道の端に、ぽつりと落ちていたのだ。
灰色に焼け焦げたような羽根。
間違いなく、愛菜を攫った眷属が残した痕跡だった。
「こっちで間違いない……!」
結が声を震わせる。
「にゃあ……(まだ近くにいるにゃ)」
ノクスの耳がぴくりと動く。
鋭い視線が、通りの奥の建物に吸い寄せられる。
その瞬間、修は気づいた。
近くの屋台で取引している二人の姿――和装の男と、洋装の女。
「彼女は奪う、全てを……」
「……今度の“新月”で、ヴァルガ様が喉を開く」
女の囁きが、湿った灯の下でほどけた。
彼らは確か、日本側の妖怪使いだったはず。
だが今は、明らかに西洋の妖魔と囁き合っている。
「……繋がってやがる」
修が小さく呟いた。
「日本勢の一部が……西洋に?一枚岩ではないって事ね……」
結の瞳が揺れる。
「にゃあ……(ややこしい事になってきたにゃ)」
暗いざわめきの中、彼らは互いに顔を見合わせた。
愛菜を追う道のりは、ますます混迷を極めていく――。
次回予告
第138話『血の誓環』
妖市の奥、異形たちの間で差し出されたのは奇妙な“盟約”。
吸血鬼側が「王の戴冠」を前提に一時協力を持ちかけてきた。
条件は──儀式の中止。彼らもまた、妖魔の王を恐れていた。
第138話『灰羽の行方』
“灰の羽根”を辿る修たち。だが市の奥で待ち受けていたのは、異国の妖異と通じる裏切り者の影だった。
交錯する思惑、迫る愛菜の気配――妖市の闇が牙を剥く。
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