第136話『人柱、奪取』
その夜、街の灯りはどこか揺らいで見えた。
ここは浜野のアパート。
アパートの窓越しに外を見つめていた愛菜は、胸の奥に走るざわめきを押さえられずにいた。
「……来る。すぐそこまで来てる……!」
背筋に冷たいものが這い上がる。
いつもなら「見えないけど分かる」という程度の感覚が、今夜に限っては違った。
圧力のように、頭の内側を叩き続ける。
「しゅーくん!結先輩!先生!」
愛菜が叫んだと同時に、部屋の空気が裂けた。
闇の裂け目から滲み出るように現れたのは、人型の影。
銀の仮面。灰色の羽根の外套。
静かに佇む。
だが凄まじい威圧感を発する。
「──こいつ、ヤバい……」
修が息を呑んだ。
その存在感は、今まで遭遇してきた妖魔とは格が違う。
思わず後ろに下がった結を庇いながら、修は懐中電灯を強く握り締める。
「にゃあああああっ!!(この気配……“王”直属の騎士にゃ!!)」
ノクスが毛を逆立て、耳を伏せて唸った。
瞳孔は針のように細まり、今にも飛びかかりそうな気配。
「雨城君!」
「分かってます、結先輩!けど……!」
言葉より速く、眷属の腕が振り下ろされた。
鈍い衝撃音。
木製のドアが粉々に砕け散る。
愛菜が必死に後退ろうとするが、その首筋を掴む冷たい手が彼女を捕らえた。
「っ──!」
悲鳴を上げる暇すらなかった。
騎士は一瞬で、愛菜の姿ごと闇に溶けていた。
「……っ! 愛菜!!」
修が飛び出すが、掴めたのは虚空だけだった。
その場には、灰のような燐粉と──ひとひらの灰色の羽根だけが、床に落ちていた。
「にゃあああああああっ!!(返せぇぇぇぇ!!)」
ノクスが絶叫し、全身から闇が吹き荒れる。
翼の影が膨張し、部屋の天井を突き破る勢いで広がる。
床板が軋み、窓ガラスが割れんばかりに震えた。
「ノクス、駄目だ!! 今暴れたら──」
「にゃあああああ!(止めるな!仲間を、愛菜を奪われたんだぞ!!)」
結が思わず耳を塞いだ。
空気が震え、心臓まで鷲掴みにされるような怒気。
ノクスの“制御”が外れかけている。
修は、喉までせり上がる恐怖を押し殺して叫んだ。
「ノクス!今ここで暴れたら、愛菜がどこに連れて行かれたか分からなくなる!俺達が……追えなくなる!」
その言葉に、ノクスの瞳が一瞬だけ揺らいだ。
牙を剥き、爪を突き立てたまま、悔しげに床を引っかく。
「怒りはとっておけ、攫った張本人にぶつける為に」
「……っ、にゃう……!(ちくしょう……!)」
翼の闇が収束し、部屋に重苦しい沈黙が戻る。
その時、横で先生が咳払いした。
「こういう時の為にな……」
彼はカバンから、一冊のファイルを取り出した。
「“対非常時マニュアル・その七”──『仲間が攫われた場合の初動行動』!」
真剣な顔で読み上げる先生。
「一、慌てるな。まず深呼吸。
二、証拠を確保せよ。
三、相手の痕跡を追う準備を整えよ」
「……先生、それ、本当に役に立つんですか」
修が思わずツッコむ。
「役に立つとも。今の俺達に必要なのは落ち着きと手がかりだ」
呆気にとられつつも、修は床に残った羽根を拾い上げた。
黒灰色に燻んだその羽根は、微かに熱を帯びており、触れた指先に鈍い痛みを走らせる。
「……これが、奴らの痕跡」
「にゃう……(間違いない。王の眷属の羽根だにゃ)」
修は羽根を強く握りしめ、決意を新たにした。
「向こうが愛菜を奪ったなら……俺達は、必ず取り返す」
窓の外では、風が嵐の前触れのように唸っていた。
攫いの夜は、まだ始まったばかりだ。
次回予告
第137話『灰色の行方』
残された“灰の羽根”が示す先は、妖魔の王の影が差す場所。
愛菜を奪還するため、修たちは危険な追跡に踏み出す。
だが、そこには想像以上の“代償”が待ち受けていた。
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