第135話『攫(さら)いの前夜』
その夜、オカルト研究同好会の部室は妙に静かだった。
窓の外は風もなく、階段の踊り場から漏れる蛍光灯の明滅だけが、遠い鼓動のように壁を照らしている。
普段は耳にまとわりつく校内放送のハム音すら消えて、空気は乾いて重たかった。
「……あれ? ボクのスマホ、急に真っ暗になった」
愛菜が電源を何度も押す。
「さっきまで満タンだったよな?」
修が顔を上げる。
「うん。十分前に充電終わってたのに、全然点かない。再起動も出来ない」
その時、部室の壁時計の秒針が、ぴたりと止まった。
“7”と“8”の間で粘るみたいに固まったまま、二度と進まない。
「……時が止まった?」
結先輩が眼鏡のブリッジを押し上げ、息を呑む。
「結先輩、下がってください。愛菜の周りに層が出来ています」
修は視線を凝らした。
愛菜の椅子の周囲だけ、空気が沈んでいる。
まるで水面に沈めたガラス鉢の中にいるように、動きや音が遅れて返ってくる。
「にゃ、にゃあ……(来やがったにゃ……嫌な気配だ)」
「ノクスが“来た、嫌な気配”って言ってます!」
愛菜は強がって笑ったが、指先は震えていた。
左手首の人柱紋が淡く明滅し、鼓動と同じリズムで光を返す。
冷えた水に触れているような感覚が、時折じわりと戻ってきた。
「護符、置いてあって正解だったよね。机の上――」
結先輩が言いかけた瞬間、護符の縁が黒く泡立った。
乾いた“パチ”という音を立て、朱の印は煤に変わり、紙は波打って焦げ落ちる。
「護符が……焼けてる……!」
「仕掛けられています。ここごと“空白”に抜かれかけている」
修は一歩踏み出し、胸の奥に真言を組んだ。
「――断て」
真語断ち・壱式《魂打ち》。
しかし言葉は空気に弾かれ、乾いた音を立てただけだった。
相手は怒りを抱えた霊ではなく、冷たい時間の層。
断ち切る芯が存在しない。
「……弾かれた」
「雨城君の“真語断ち”が……効かないの?」
結先輩が不安を押し隠すように修の横へ出る。
修は奥歯を噛み、構え直した。
「もう一度。今度は共鳴で縫い直します」
深呼吸一つ、唇を結ぶ。
「――縫い直せ」
真語断ち・弐式《叫返し》。
言葉は層の外郭に沿って糸のように走ったが、外縁に刻まれた楔字の影が返響を歪め、真語はねじ切られた。
「にゃあっ!(駄目だにゃ。向こうから“王の文法”で上書きされてる)」
「“王の文法で上書き”って言ってます!」
「“戴冠式”の準備段階……。結先輩、愛菜を中央から右へ二歩。僕が薄盾を重ねます」
「分かった。愛菜ちゃん、ゆっくり。手を握るわ」
「う、うん」
結先輩が愛菜の手を握る。
一歩進んだ瞬間、止まっていた時計の秒針が“コツ、コツ”と二拍だけ刻み、また止まった。
空白の時間は肺の内側で押し返しているように伸び縮みした。
ドアが勢いよく開いた。
「全員、今すぐ移動だ。雨城、黒咲、君鳥、乗れ」
浜野先生が片手に車のキー、もう片手にスポーツバッグを担いで立っていた。
眉間に深い皺。
声は低く、迷いがない。
「先生!」
「ここは保てても十分が限界だ。保護モードに切り替える。動け」
「了解です」
修が頷くと、先生は短く指を鳴らした。
蛍光灯が一瞬だけ脈打ち、床の影が中央に重なる。
空白の縁が退いた。今しかない。
「避難準備、三十秒で。貴重品と最低限の荷だけ」
「最低限って、何持てば――」
「“最低限”は“最低限”だ。食料と水は俺が用意した」
「にゃー(さすが先生だにゃ)」
「ノクス、感心してる場合じゃないです!」
結先輩と愛菜が、たった三十秒の中でカバンに手を突っ込む。
だが、いつの間にか場はお約束の騒ぎに変わっていた。
「愛菜ちゃん、それ何?」
「限定フィギュア!」
「要らないでしょそれぇ!非常時よ非常時!」
「じゃあ結先輩のそれは?」
「特大サイズのポテチ。一つぐらい許して」
「湿気てますよ絶対!」
「にゃあ(その議論、今いる?)」
「“今いる?”って言ってます!いるんだよ!」
「君鳥、黒咲。優先順位。身分証、医薬、モバイル電源。以上」
「は、はい!」
「分かった!」
先生の一言で二人の手が素直に動いた。
修は部屋の中央に立ち、盾を張り直す。
「――守れ」
真語断ち・弐式《叫返し》を薄膜に変え、層の縁で相殺する。
空白はじわりと押しやられ、動線が一本通った。
「今です。行きましょう」
「了解」
先生が先頭、修が最後尾。
三人と一匹は、一列になって廊下へ出る。
蛍光灯が順に消えては点き、足音が遅く伸びて聞こえ、また短く切れた。
空白の時間が校舎の中でひび割れのように走っている。
「――今、何秒か飛ばなかった?」
階段を降りかけた所で、愛菜がつぶやいた。
気づけば踊り場の手前に立っている。
三段、記憶がない。
「飛んでいます。十秒以下の抜け」
「怖いよ……」
「大丈夫。結先輩も俺もいるから」
「……うん」
駐車場の闇は体育館の白壁に押しつけられて、重たく見えた。
先生の車のドアが解錠される乾いた音が、妙に遠い。
「乗れ」
運転席に先生。
後部座席に結先輩と愛菜、助手席横の足元にノクス、最後尾に修。
エンジンの振動が背骨に伝わった瞬間、愛菜の視界がふっと滑った。
景色が一コマ抜け、学校の門が後ろに遠のいている。
「また、抜けた……」
「にゃあ……(近い。匂いがするにゃ)」
「“近い、匂いがする”って」
「雨城、保護拠点まで十五分。持つか?」
「持たせます。ただ、“王の文法”相手には遅延しか出来ない」
「遅延でいい。夜を越える」
先生の声は、いつもの飄々を脱ぎ捨てていた。
ハンドルを切る角度も、視線も、全てが最短で正確だ。
市街地の灯が流れ出す頃、空白は車の外周を舐めるだけになり、内部は辛うじて時間を保つ。
「しゅーくん、左手首、あったかい……」
「人柱紋が反応しています。冷やしてください」
結先輩がカバンから保冷剤を出す。
「これでどう?」
「少し楽。ありがとう、結先輩」
「良かった……」
言葉と息が重なった、その刹那。
車体を、何かが外から撫でた。
見えない掌で薄皮を剥ぐみたいに。
窓の外を、灰色の羽根が一枚、舞って消えた。
「今の、見えましたか」
「見えた。悪い予感しかしない」
「にゃあ(攫いは前夜に匂いを付ける。古いやり口だにゃ)」
「ノクスが、“攫いは前夜に匂いを付ける。古いやり口”って言ってます!」
「前夜……」
愛菜が呟く。
ルームミラーに映る瞳は、いつもより深い色を帯びていた。
外はもう、完全な夜。
信号の青だけが、深い湖の底の光みたいに淡く瞬いている。
胸の奥で、修は一瞬だけ考える。
真語断ち・裏式《嘘暴き》なら、層に潜む虚偽を暴けるかもしれない。
あるいは、奥義零式《虚空》を放てば、全てを消し飛ばす事も出来る……?いやこれは霊にしか効かない……。
「……まだだ。ここで撃つ技じゃない」
修は小さく首を振り、手を下ろした。
「雨城、どうする?」
「向こうが大切なものを奪いにくるなら……最後まで、抗うだけです」
「上等だ」
先生は短く笑い、アクセルを踏み込んだ。
タイヤが路面を掴む音が、現実に引き戻す錘になる。
それでも、時は所々欠け続け、胸の中の秒針は不規則に跳ねていた。
――攫いの前夜。静かなる嵐は、もう窓の外に立っている。
次回予告
第136話『人柱、奪取』
夜の帳を切り裂いて現れたのは――妖魔の王の直轄眷属。
その手に攫われる愛菜。
ノクスの怒りが制御を外れ、闇を震わせる。
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