第132話『招かれざる使者』
夜の大学構内は、夏の湿った空気を包み込むように静まり返っていた。
講義棟の窓はほとんどが暗く、芝生を渡る風が草の穂先をわずかに揺らす。
遠い車道の音は小さく溶け、時計台の針だけが規則正しく時を刻んでいた。
「……来るぞ」
修が低く告げると、肩の上のノクスの耳がピクリと動いた。
「にゃあ……(いや〜な気配だな)」
「ノクスが“嫌な予感”って」
愛菜が短く通訳する。
彼女の左手首では、人柱紋が淡く呼吸するように光っていた。
冷えた水面に触れているような感覚が、ときどき脈に合わせて戻ってくる。
その時、グラウンドの端に人影が現れた。
長身、黒のロングコート。
歩みの度に靴音が石畳へ吸い込まれる。
銀糸のような髪が月光をはじき、琥珀色の瞳がこちらをまっすぐ射抜いた。
「お初にお目にかかる……夜の同胞よ」
低く響く声。
空気の温度が一段、下がる。
血の匂いと古い礼節の匂いが、夜気の中で静かに混ざった。
男は名をアシュベルと名乗り、吸血鬼勢力の大幹部だと告げた。
そして、挨拶よりも重いひと言を置く。
「ノクス殿。貴殿を“夜の王”に据えたい」
「にゃあ?(はあ?)」
ノクスの尾がバサリと揺れ、愛菜の肩で止まる。
「代わりに……東京一円を不可侵とする協定を結ぶ。我らは干渉しない」
淡々とした口調の背後で、長い歴史の影がうねった。
修はアシュベルの目を見返す。
提案を呑めば確かに街は守られる。
だが“王冠”は飾りではない。
縛る道具だ。
ノクスの自由と引き換えの平穏に、頷けるかどうか。
「にゃあ……(悪くねぇ話の顔、すんな)」
「ノクス、“良さそうに見えてもダメ”って」
愛菜の訳に、結が眼鏡を押し上げる。
浜野は無言で周囲の見通しを確認し、ポケットの中で名刺入れを探った。
「話の場を改めよう。ここは学び舎、血の政治は似つかわしくない」
アシュベルが視線を流す。
植え込みの影が月に長く引かれ、先端がふっと逆向きにたわんだ。
風ではない。
「……今の、見えた」
結が小さく息を呑む。
木立の間から、巨大な影が滑り出た。
白銀の毛並み。
扇のように広がる九本の尾の先端が、微かな光を帯びて揺れる。
「おい、西の、このお方に妙な首輪をつけようってかい。そりゃ、笑えねぇ冗談だ」
しわがれた声。
九尾の古狐――玄昌。
場の匂いが一転、木の皮と古い香の匂いに変わる。
長い時を生きた獣の、乾いた強さが近づいた。
「交渉の場を壊すな、老獣」
「壊しとらんわ、“守って”やってるんだ。王冠は飾りじゃない、噛み跡を隠す蓋だ」
玄昌の尾がひと振り、芝の表面をさっと撫でる。
それだけで足元の圧が抜け、肺の奥の重さが剝がれ落ちたように呼吸が通った。
「にゃあ(首輪は、ただの縛りにしない)」
ノクスの鳴き声に、愛菜が頷く。
「“縛りの道具は別の力に変える”って」
アシュベルが片眉を上げる。
「解釈で鎖をリボンに替える、と。だが我らの王冠は歴史で鍛えられた。簡単にはほどけまい」
修は一歩、前へ出た。
真正面から視線を合わせ、言葉を選ぶ。
幽霊とは違う相手でも、言葉は刃になるはずだ。
「王冠で守るって言うなら、まず“誰を縛るか”をはっきりさせた方がいい。守りたい街の為に、仲間の首に枷をはめる守りは、長くは続かない」
短い沈黙。
夜風が草を撫で、月が雲の切れ目をひとつ越える。
アシュベルの瞳に、かすかな興味の光が走った。
「なら問おう。不可侵の範囲はどこまで望む」
修が訊き返すと、アシュベルは即答した。
「東は湾岸線、西は多摩の山並み。南は海、北は河。異端の儀は禁止。人柱は――」
視線が、愛菜の手首に吸い寄せられた。
淡い光が波紋を作る。
「……鍵は、すでに起きているのだな」
「見るな」
修の声が低く落ち、ノクスの尾が空を切る。
目に見えない風が走り、アシュベルのコートの裾がわずかに揺れた。
「にゃあ(それ以上は礼節に反するぞ?)」
「“礼節に反する”って」
アシュベルは肩をすくめる。
「礼節は守ろう。だからこそ提案する。王位は枷ではない。都市を護る剣だ」
玄昌が鼻で笑う。
「剣は持ち手を選ぶ。柄に鎖が付いてる剣は、最初に自分を切る」
空気がまた張り詰める。
次の瞬間、玄昌がふっと力を抜いた。
「おっと……自己紹介がまだだったな」
懐から上質な和紙の名刺を取り出す。
端に小さく古社の印。
「え、そこから」
修が思わず漏らす。
「浜野京介、オカルト研究同好会の顧問だ」
先生も律儀に名刺入れを出す。
差し出されたカードには大学の連絡先と、なぜか商店街のスタンプカードがホチキス留めされている。
「今月、ポイント二倍。悪くない条件だろ」
「……ああ、条件提示は嫌いではない」
アシュベルは一拍遅れて受け取り、玄昌も器用に爪でつまむ。
九尾と吸血鬼と半サイボーグと大学生――月光の下だけで成立する、妙にビジネスライクな間合いが生まれ、緊張の糸がわずかに緩んだ。
「にゃあ(ポイントは力)」
「ノクス、それ今じゃない」
愛菜が小声で突っ込み、結が思わず口元を押さえる。
しかし核心はまだそこにある。
「不可侵の対価が“戴冠”なら、こちらの条件もある」
修が言うと、アシュベルは顎を引いた。
「聞こう」
「王冠は護りの証として使う。縛る為じゃない。支配の道具を、守る基準に作り替える。それが飲めないなら、話はここまでだ」
短いやり取りの間に、愛菜の手首の光は静まった。
ノクスが肩から降り、彼女の足元に座る。
尾の先が、砂粒を小さく払った。
「にゃあ(今は、首輪をただの縛りにしない。それが先)」
「“まずは縛りを変える”って」
玄昌が長い尾を二度揺らし、芝生に残る瘴気を霧のように散らす。
「答えは出たな。今夜は、物別れだ」
アシュベルが小さく笑い、月光の中で銀髪を遊ばせる。
踵を返し、コートの裾が夜を切る。
足音は整い、すぐに遠ざかった。
足跡は残らない。
ただ夜だけが、ほんの少し深くなる。
「言うのを忘れていた」
「なんだ?」
「奴が狙っている……」
「奴?誰の事だ?」
「妖魔達を統べる者、妖魔王が……」
その名を聞いて、ノクスは静かに震えていた。
静けさが戻る。
遅れていた蝉が、一声だけ鳴いた。
植え込みから、小鳥の寝息がこぼれる。
「雨城君」
結が呼びかける。
眼鏡の奥の瞳は揺れているが、芯は固い。
「私達は、動く準備を急ごう。向こうも仕掛けてくる」
「先生、ルートの見直しを」
「任せろ。夜間はこっちの門を閉じて、警備の死角を抜けるコースが一つある」
「玄昌さん、結界は」
「ひと晩はもつ。明日は別の社へ移る。若いの、足で見て、言葉で縫え」
修は頷き、胸の内で言葉の重さを確かめた。
幽霊に向けてきた言葉は、血を持つ異形にも届くのか――届かせる。
それが今の役目だ。
「にゃあ(腹、減った)」
ノクスのお腹が鳴る。
「今それ?」
愛菜が笑い、先生が肩をすくめる。
「学食の夜メニュー、まだギリいける。……行くか」
夜風が少し温度を戻した。
四人と一匹は並んで歩き出す。
月は高く、遠く、しかし確かに見ていた
次回予告
第133話『巫女の痕』
古社の記録と一枚の写真が、愛菜の過去を呼び起こす。
“人柱の巫女”は境界を鎮める楔――古い誓いは、まだ終わっていない。
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