第130話『夏合宿(安全)』
第五章:そうだ、きさらぎ駅に行こう!編ラスト!
昼下がりの部室は、麦茶とどら焼きの匂いで満ちていた。
ホワイトボードの「温泉(図書館付き)」の文字にはハートが三つ増え、机の端ではノクスが袋菓子を前足でちょいちょいと寄せている。
「ノクス、それは一人一袋までです」
「にゃう(じゃあ半袋でいいにゃ)」
「ダメ」
笑いが弾み、空気が柔らかくたわむ。
窓辺では、結の母が湯呑に麦茶を注いでいた。
彼女の姿はもう常に見える……後で分かった事だが、あの場にいた全員が結の母を見えるようになった。
光の加減で薄くなる事はあっても、消えはしない。
「……ひよりちゃん、持ち帰ったもの、渡すね」
母が薄い封筒を差し出す。
中から出てきたのは、白いページの欠片がいくつも。
端は灰に煤け、中央だけが透き通るように白い。
「ありがとう結ママ、受け取ります」
ひよりが両手で欠片を受け、胸の前でそっと重ねる。
かすかに鈴の音。
部室の空気が少しだけ軽くなった。
「何か分かる?」
「……思い出してます。いくつか、です」
ひよりは欠片を三枚、机に並べた。
どれも小さいのに、別々の温度があった。
「一つ目。書の仕組み。空白は空じゃない。“誰かの中の空白”に合わせて形になる。読む人が増えるほど、道が太くなる。……だから、私達の“全員で帰ろうとする気持ち”は強かった」
「じゃあ、これからは皆で読めば良いって事だな」
「はい」
ひよりは二枚目を指で撫でる。
指先に、微かな冷たさ。
「二つ目。狙う影。駅員みたいな怪異達、古い妖魔、そして……遠くの星から来る人達。書を手に入れて“時間の縫い目”を抜き取ろうとしている。……リーヴァさん達の、敵」
「にゃう(宇宙側も動いてる訳だにゃ)」
「だね。ボクらの相手、地上だけじゃないって事だよ」
「敵の顔、分かるか」
「輪郭だけ。目が無い顔、声を持たない声、赤い目の群れ……はっきりは、まだ」
ひよりは首を小さく振り、三枚目の欠片を持ち上げる。
中央に、ごく薄い結びの印。
「三つ目。リーベル・イナーニスそのもの。書は“もの”じゃない。“在るべきページ”は人に寄って現れる。許された人が近くにいるほど、扉は開きやすい。……だから、結さんの“言葉”が道になる」
「私の“言葉”が」
「はい。お母さんも、それでここに在るのを選びやすくなる」
結は胸元を押さえ、そっと笑った。
母も同じ笑みを返す。
「他には……なんだろうこれ……?予言?確定してない未来?七人の人影、絶望、焦り、想い、奇跡を願う……凄く抽象的な未来……これは現実?」
「これはよく分からないな」
「にゃう(何かを揶揄してるのか?)」
「難しくて何も分かりませーん」
笑いがまた重なり、白いページの端がほんの少し軽くなる。
ひよりは残りのより小さな欠片を掌に包み、しばらく目を閉じた。
まぶたの裏に、色と音がゆっくりと立ち上がる。
──白い螺旋階段。
──名も無き図書館。
──記された事が消えるという記録。
──星のあいだを渡る、黒い帆の艦。
──その甲板で、銀の髪が風に鳴る。誰かの横顔。
遠い日の約束。
──そして……
ひよりは結の母を見る。
──別れと輪廻……それに関わるのは……私自身?でもこれは、私とは全く違う……それでも、これは私?なら私とは、一体……
胸の奥に、薄い鐘の音が鳴った。
ひよりは目を開け、欠片を静かに置く。
「……他にも、思い出しました。少しだけ」
「どんな事」
「“私がどこに立っていたか”。そして、“書を守る為に、どこまで歩くのか”。……でも、今はまだ、言葉にする時ではありません」
その言い方は柔らかいのに、底に小さな決意の硬さがあった。
修はそれ以上は聞かず、頷く。
「分かった。必要な時に、必要な分だけ言ってくれ」
「はい。今は、これだけ」
ひよりはみんなへ向き直り、言葉を選ぶように微笑んだ。
「私、多分……“向こう側”で息をしていた者。ここで言うと、たぶん“図書館の窓”みたいな役目です。だから、どうしても“開き方”が分からない書でも、出来ない訳じゃない。……そういう感じ」
「にゃう(ぼかすの、上手だにゃ)」
「ありがとう、ノクス」
「今のでも十分に助かるよ。出来る範囲で教えてくれたら、それで」
「はい。皆の笑顔を守る、そんな時だけ」
母が湯呑を配り終え、最後の一杯をひよりの前へ置いた。
湯気がゆらぎ、欠片の白に小さな虹を作る。
「ありがと、結ママ!」
「さて、次は“現実の準備”だな。合宿の買い出しリスト更新」
「非常食、救急セット、鈴、“急な夏の雨”用の雨具、ビニールカバー」
「にゃう(温泉後のコーヒー牛乳)」
「それは必須じゃないけど必須だね」
ホワイトボードの下に、走り書きの矢印が増えていく。
笑いと雑音のあいだで、ひよりはそっと欠片を重ね、空白の書に戻した。
余白は穏やかに呼吸し、さっきより少しだけあたたかい。
窓の外、夏の雲が大きく盛り上がる。
部室の空気は軽く、安心な重さで満ちていた。
「……お母さん、皆いい人でしょ?」
結がつぶやく。
母は微笑んで答える。
「そうね……」
目に見えない絆が、また一つだけ濃くなった。
次回予告
第六章:妖魔界激震編
第131話『開幕/夜はうごめく』
全国で妖怪達の小競り合いが相次ぎ、夜の空気がざわつき始める。
愛菜の肌に浮かんだ薄い紋様、そしてノクスの奥底で蠢く“王権”の影。
深夜のパトロール中、二つの夜が同じ獲物を狙い始める――。
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