第129話『ただいま』
朝の光は、驚くほど普通だった。
駅前のパン屋から甘い匂い。
バスのブレーキが響く。
遠くで工事のハンマーが一定のリズムを刻む。
ベンチに腰を下ろした結は、両手で胸元を押さえた。
震えはない。
ただ、心臓の音がゆっくり追いついていくのを待っていた。
隣で母が、いつもの笑みを浮かべている。
見える。
はっきりと。
輪郭も表情も、光の当たり方も。
「……お母さん」
「結」
呼び合うだけで、世界の色が一段濃くなる。
「しゅーくん、顔色」
「問題ない。ちょっと乾いてるだけだ」
「強がりは後で」
愛菜が水を押し付け、ノクスがリュックの口から顔を出す。
「にゃう(今は休め、倒れるぞ?)」
「しゅーくん倒れるよって言ってるよ」
浜野先生は自販機の影で肩を回し、小さく苦笑した。
「関節、だいぶ持ったな。リーヴァに褒められる奴だ」
「先生、かっこ良かったです」
「当然だ」
ひよりは空白の書を抱え、端をそっと撫でる。
黒い針はない。
もう安全だ。
「……“残るのは沈黙だけ”が、ここでも効いてる。黄昏の呼び声、弱い」
結はスカーフの“結び”を見つめ、母に向き直った。
「どうして、私に見えるようになったんだろう」
「あなたが“読む”人になったから。『全員で帰る』を、何度も同じ向きで読んだ。私も、皆さんと同じ列に入れた……だから見えるようになったのかも」
「じゃあ、ずっと一緒に」
「ええ。あなたが見る限り、私はここにいる」
修が立ち上がり、伸びをした。
心の棘はまだ残る。
だが、痛みの形はもう知っている。
「続きは部室でやるぞ」
「了解」
◆
オカ研の部室は、相変わらず雑然としていた。
ホワイトボードには“謎の足音録り直し”“夏合宿候補地(安全)”の文字。
愛菜が机を拭き、ノクスが丸くなり、ひよりが書を本棚の一番上に寝かせる。
浜野先生はソファーに沈み、アイマスクして、寝息を立てている。
「先生、の◯太かよ」
「雨城君」
「先輩?」
「ありがとう。……そして、お疲れさま」
「礼は、全員に、ね」
母が部屋の隅で微笑む。
結の視線の先、いつでも見える位置に。
彼女は、娘の肩越しに黒板を眺め、静かに頷いた。
「にゃーご(次の課題、どうするにゃ)」
ノクスが欠伸を噛み殺す。
「まずは、寝ようよ、もう疲れちゃった……パ◯ラッシュが二足歩行でダッシュしてくるよ」
「にゃう(異議なし)」
笑いが小さく重なった。
窓の外で風鈴が鳴り、どこかでチャイムが遅れて合図する。
日常の音は、いつも通りだ。
けれど、確かに少しだけ増えた。
見える母の気配という新しい音が。
結は胸に手を当て、静かに言う。
「ただいま」
母が微笑んで答える。
「おかえり」
次回予告
第130話『夏合宿(安全)』
恐怖の後は、たまにはゆるい回
結の母が持ってきた“書”のページ。
そこに記録されたものとは……!?
次回、第五章完!
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