第125話『母の選択』
暁の手前、空の色が薄い藍から乳白色に変わっていく。
西にある給水塔は冷たい金属の匂いを放ち、その長い脚の影が地面に伸びていた。
ひよりの白い頁は昨日よりも重い。
指先で支えると、まるで言葉そのものが重さを持っているみたいだった。
「四段目を作る」
修が静かに言う。
全員が頷いた。声を揃えはしない。
ただ同じ意味を心の中で読む。
空白の書に刻まれた四つの合図──西/暁/全員/四段目──それだけを、同じ向きで“見る”。
「にゃう(息を合わせろ)」
愛菜が小さく訳す。
「息を合わせろ、だって」
一段、二段、三段と踏み出す。
見えない階段の空気が硬くなっていく。
四段目はまだ無い。
だから作る。
“全員で帰る”その思いを一つに束ねて目の前に置く。
結が深く息を吸い、吐いた。
「全員で帰る」
その一言で空気に薄い段差が生まれた。
靴の底が微かに引っかかる。
修がそこに重さを足し、ノクスが低く喉を鳴らし、ひよりの持つ書が、凄く軽くなる。
四段目が出来た。
塔の根元の穴に、白い風が灯る。
その形はすぐに人の輪郭になり、長い黒髪と眼鏡の影を結び、柔らかな笑みを現実に連れ戻した。
「結」
「お母さん」
呼び合うだけで、胸の奥の張り詰めた糸が解けそうになる。
けれど近づきすぎない。
足元が穴に変わるやり口は、もう学んだ。
「時間は少しだけ。必要な事だけ伝えるね」
「お願いします」
母は頷き、ひよりの書に目を落とした。
「鍵を渡す。“誰も置かない”を扉にする鍵。形は簡単、言葉も短い。でも使うには約束が必要。その代わり、一つの扉を閉じる」
「閉じる扉って、東の踏切ですか」
「そう。黄昏の道はもう使えない。あそこは捕まえる為に作られた道だから。あなた達が覚えたやり方も、すぐに真似される」
「にゃう(こっちも学んだが、向こうも学ぶ)」
愛菜が息を呑む。
「だから閉じるんだね」
「閉じたら帰り道は減る。それでもいい?」
結の母が真剣な表情で修に言う。
修は即答した。
「大丈夫。俺達は自分の言葉で帰る」
母は嬉しそうに笑い、結に向き直る。
「鍵はあなたが持って。形は“結び”。名前の通りね」
母はスカーフの端をそっと裂いた。
細い布切れは夜露で冷たく湿っている。
そこに母はペンを使わず、指で一行だけなぞった。
布に薄く文字が浮かぶ。
──全員で帰る。扉は私達の声。
修には、布が小さな灯りを帯びたように見えた。
これは呪具でも護符でもない。
ただの言葉。
けれど“全員”で読めば扉になる。
「使い方を教えてください」
「暁に四段目を作って、この結びをその空白の書に重ねる。その時、誰も黙らない。小声でも心の中でもいい。“全員で帰る”それを徹底する、気持ちで負けたらダメだよ?」
「にゃう!(簡単だにゃ!)」
愛菜が笑う。
「出来るよね」
「出来る」
結は布を胸元に重ね、深く息を吸って吐いた。
「代わりに閉じる扉……本当に、黄昏はもう使えないんですね」
「そう。あなた達が“選んで”閉じる。それで向こうからの呼び声も弱まる」
「今は戻らないで、って事ですね」
「今は。暁なら何度でも会える」
母はひよりへ視線を向けた。白い頁が小さく鳴る。
「書は呼ばれる。あなたは覚悟して。あなたは、みんなの声が増えるほど強くなる。だから、一人で抱えこまないで」
「うん。みんなで持つ」
ひよりは書を抱え、頷いた。
浜野先生が塔の脚に手を当て、短く息を吐く。
「時間切れが近い。監視が回ってくる」
「急ごう」
修が言った瞬間、足元の砂利がざわりと動いた。
細い影が走り、塔の根元に黒い線が三本、針のように立つ。
駅員の鋏は現れない。
ただ、言葉を“一人”に削ろうとする気配だけが、冷たく這ってくる。
「来た。短いの、三本だけ」
「にゃう(まとめて折れ)」
修は首を横に振った。
「いや、今日は別のやり方でいく」
彼は結の隣に立った。
結が布の“結び”を掲げ、ひよりの持つ書へ、そっと重ねる。
愛菜は息を合わせ、ノクスは喉を鳴らし、浜野先生は一歩影を踏んで重さを加える。
「読むよ」
結の声は小さいが、芯がある。
「全員で帰る」
修が続き、愛菜が続き、ひよりが続く。
ノクスは短く鳴き、それを愛菜が胸の内で訳す。
浜野先生は声に出さず、呼吸で同意を示す。
“同じ向き”が塔の周りに満ち、針は立つ場所を失った。
ぱき、ぱき、ぱき。
細い音と共に三本の針が折れる。
黒い粉は地面に落ちず、朝の風に混じって消えた。
「……閉じました」
ひよりが書のページを撫でる。針の跡はどこにもない。
母はほっと息をついた。
「上出来。東の踏切はもう開かない。黄昏の声が来ても、ただの風になる」
「やったにゃ」
愛菜が笑い、すぐに真顔に戻る。
「でも、これからは暁だけ。勝負はいつも短いって事だよね?」
「そう。だから準備して、迷わないで」
母は結の手を見つめる。
結は布の結びを握りしめた。
「結。あなたはここで“待つ力”を使う。焦って踏み込まない事。それが全員を助ける」
「……はい。待ちます。見る、合図する、読む。私に出来る事をやります」
「それが一番強い」
母の笑みは柔らかい。
背後の風が少し冷え、塔の影が縮む。
世界が朝へ寄っていく。
「そろそろお別れ。次は扉の向こうで」
「向こう?」
「書の匂いが強い場所。あなた達の言葉でしか入れない部屋」
修は頷く。
「分かった。鍵は受け取った。東は閉じた。次は俺達の番だ」
「にゃう(全員で、だ)」
「全員で、だ」
母は一度深く頭を下げ、白い風にほどけた。
塔の根元の穴から朝の色があふれ出す。
四段目の空気はまだ硬く、踏めば確かにそこにある。
「行こう。今日は引き返す。扉に行くのは次の暁だ」
「分かりました」
結は布の結びをスカーフに繋ぎ、胸に戻した。
空白の書の白紙のページ──ひよりの持つ特別な一枚は、軽くなっていた。
今は持てる。
全員でなら、尚更。
鳥の声が遅れて降りてくる。
西の稜線の上、薄い光が新しい一日の輪郭を描いた。
次回予告
第126話『開くのは言葉』
黄昏は閉じ、暁だけが開く
合図と結びを胸に、言葉でしか入れない部屋へ
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