第123話『暁の給水塔』
夜と朝の境目は、息を潜める。
西の稜線に古い給水塔が立っていた。
胴は錆に覆われ、脚は蔦に呑まれ、塔の根元には四角い穴が口を開けている。
風は冷たく、空白の書の縁を微かに震わせた。
「……ここで合ってます」
結が小さく頷いた。
スカーフを握る指が、薄明の色に染まっている。
「にゃう(匂いは薄いが、やはり向こうの風が漂ってる)」
ノクスが尻尾を低く揺らぐ。
愛菜がリュックを抱え直し、息を合わせる様に頷いた。
塔の影が伸び縮みし、暗がりの奥で空気がたわむ。
見えない階段が、影の濃淡に合わせて一段ずつ浮かぶのが分かった。
「段差、三つ目が“抜け目”です。踏み外すと戻されます」
ひよりが書のページに指を置き、細い線をなぞる。
ページの中央には、塔の基礎の図が淡く浮かんでいた。
「行くぞ。急がないが、迷わない」
修が前に立ち、足を掛ける“気配”だけを踏む。
空気の硬さが靴底に伝わり、三つ目の段は意識して“踏まない”。
塔の根元の穴が、静脈の鼓動みたいに開いた。
「……お母さん」
結の声が薄明に滲む。
穴の向こう、白い風が渦を作った。
渦は人の背丈に伸び、輪郭を持ち、やがて長い黒髪と眼鏡の形を取る。笑みは柔らかいのに、その背後には深い静けさがあった。
「結」
その一言に、夜の残滓がほどける。
「どうして“東の踏切・夕刻・誰も連れてこないで”なんて……あれは、罠だったの」
結の問いは震えていない。ただまっすぐに答えを求めていた。
影の向こうで、母は短く首を振った。
「半分は罠、半分は合図。この駅は“言葉に税”がかかるの。通れる言葉が決まっていて、他は削られたり、書き換えられたりする」
「税……」
愛菜が目を丸くする。
「“東”“夕刻”“一人”。あれがこの駅の許可語。だから表向きはそう言った。けれど本当に伝えたかったのは……見えない角で、視界の外にいて」
修の心眼に、母の言葉から黒い棘が剥がれていく様が見えた。
許可語の駅側の“ルール”は、ここでは働かないようだ。
「じゃあ、わざと危ない方に呼んだのは……」
「偽物を炙る為です。黄昏は“捕える薄さ”。あなた達が見る練習をする場所。今日の暁は“解く薄さ”。話す為の場所」
「にゃう(東は試験、西は面会って事か、結母は頭良いな)」
ノクスの呟きに、母は目を細めた。
「ふふ。その通り」
「“誰も連れてこないで”は、やっぱり……」
結が確認する。母は微笑み、指を一本立てた。
「形式上の単独は通行の鍵。でも、あなた達は視界の外で一緒に来た。数ではなく姿勢で数えるこの駅では、それが正解」
ひよりの持つ書のページに、灰色の細い傷が浮かぶ。
「……“誰も連れてこないで”の端に、黒い針が刺さっていた。それは駅が付けたルールの針。でも、視界の外で並走したから、効かなかった」
「同じ言葉でも、どう解釈するかによって“助け”にも“罠”にもなるって事か……」
修がぽつりと落とす。母は小さく頷いた。
「ごめんなさいね、分かりづらくって」
塔の影が一段深くなり、外の風が少しだけ逆流する。
境界の薄さは長く続かない。
「時間がない。伝えるね」
母は胸に手を置き、視線を結へ戻した。
「向こうは書を探してるみたい。リーベル・イナーニス。その匂いに、あなた達が触れた“残響一つ”が反応した。……でも、あれは人じゃない。重さで門は開く。だから、誰も置いていかなくて良かった、修君の機転がグッドだったよ?」
修は結に似た女性に褒められて嬉しそう。
結の目が潤む。
「……ありがとう」
「ありがとうと言いたいのは私の方。あなた達の“言葉”が、私をこちらへ引き寄せた」
その時、塔の根元に細い罅が走った。
塔の脚がきしみ、穴の縁に黒い水が滲む。
「にゃう(監視が来る)」
ノクスが翼をわずかに広げる。
浜野先生は塔の脚を見上げ、崩落の予兆を読む。
「次の合図を渡すね」
母は指先で空をなぞった。
薄明の中に、黒い文字が浮かび、すぐに消える。
ひよりの持つ書がそれを受け取り、静かな筆圧で線を刻む。
「西/暁/全員。これが正規タグ。今度は誰も隠れない……そして、全員で来て。場所はこの塔の影の奥──見えない階段の四段目」
「四段目……さっきは三段で止まった」
愛菜が息を呑む。
「四段目は“まだない段”。あなた達の言葉で作る段」
母は結を見つめる。
「あなたは踏まなくて良い。待って、見届けて、合図して……出来る?」
結は強く頷いた。
「はい!出来ます!」
塔の影の奥で、小さな鐘が一度、鳴る。
黄昏の鐘ではない、夜明けの合図。
罅の音がそれを打ち消そうとして、逆に浅く砕けた。
「最後に一つ」
母の声がわずかに低くなる。
「今は戻らないで。暁まで、誰の“声”にも耳を貸さないで」
修は短く返す。
「約束します」
風がほどけ、母の輪郭が細くなっていく。
「またすぐに」
その言葉が、薄明へ吸い込まれ、塔の影は元の静けさを取り戻した。
空が、青を取り戻し始める。
空白の書には“西/暁/全員/四段目”が静かに刻まれ、ノクスは鼻先で紙の匂いを嗅いだ。
「にゃう(書の匂いは強くなる。準備をしよう)」
「準備しよう!だって!」
「OK」
修は頷き、結を振り向く。
「次は、真正面からだ」
「……はい」
結はスカーフを胸に抱き、朝の風を吸い込む。
冷たさはもう痛くない。
約束の温度に近い。
次回予告
第124話『関門言語』
駅が課す“言葉の通行税”──付けられた黒い針を、言葉で抜く
四段目を作る為、みんなの声を一つに
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