第122話『東の踏切、黄昏にて』
黄昏が街の輪郭を柔らかく溶かしていく。
東の踏切は、雑木林を抜けた先に忽然と現れた。
錆びた遮断機、歪んだ警報灯、線路の上に漂う白い靄。
踏切の片側だけ、色が一段階ほど薄れて見える。
ひよりの白いページには、うっすらと道筋が残っていた。
三つの角。
二つ目が“見えない角”。
ここを横切ると、踏切はいつまで経っても遠ざかる。
真正面から行けば、時間が一周回って戻される。
見えない角を曲がるには条件がある。
「にゃう(結は一人と見せかけ、踏切の鐘の三度目の音で、見えない角を曲がれる、そのまま踏み込め)」
ノクスが鼻先で風を嗅ぐ。愛菜が頷き、結の手をそっと握る。
「しゅーくん達は視界の外で。結先輩は、一人でいると“見せかける”だけ、そして、鐘が三度鳴ると、見えない角に曲がれるそうです!」
「ありがとう愛菜ちゃん、ノクスちゃん……雨城君。行ってきます」
「先輩ならやれます!」
結はこくんと頷き、深呼吸を一つ。
スカーフを腕に巻き、黄昏色の踏切へと歩み出した。
カン、カン、カン──。
三度目の鐘が鳴る直前、結は“見えない角”を踏み抜いた。
空気がたわみ、世界の膜が薄くなる。
遠かった踏切が、たった二歩で目の前に迫る。
遮断機は下りていないのに、渡れないという確信だけが胸に刺さった。
「……お母さん」
呼ぶ声は、黄昏に吸い込まれていく。
その瞬間、線路の向こう側に人影が立った。
長い黒髪、眼鏡、柔らかな笑み。
結の母が、暮れ色の風にスカートを揺らしている。
「結」
声は確かに、あの日のまま。
「お母さん……会いたかった」
「来ては駄目。今は、まだ」
母は首を横に振る。
言葉は優しいのに、背後の空気は黒く、深い。
物陰の修は、結から三メートルほど離れた電柱の影に身を寄せ、息を殺した。
ひよりは書を抱え、浜野先生は踏切の基礎の傾きを目で測る。
愛菜はノクスのリュックを胸に抱え、猫の鼓動を感じながら結の背中を見守る。
「にゃう(声は本物。だが、足元は“穴”だ)」
愛菜だけに届く低い警告。
彼女は小さく頷き、結の進路に視線で白線を描いた。
風が一度止まり、すぐに逆流した。
踏切の警報灯が遅れて点滅を始める。
カン、カン、カン──音が半拍ずれて、黄昏に継ぎ目を作る。
そこから黒い靄が細く滲み出した。
靄の中から、もう一つの“母”が顔を出す。
こちらは微笑まず、真っ直ぐに手を差し伸べてくる。
指先は妙に白く、爪の形が均一で、絵の具のように平坦だった。
「結、渡ってきなさい」
結の指がわずかに動く。
その背で、修の視界に黒い糸が走った。
靄の“母”の喉から踏切の枕木へ、細い、嘘の筋。
「……真語断ち・裏式《嘘暴き》」
修の言葉は風より低く、靄だけに届く角度で投げ込まれた。
「お前は“本当の呼び方”を知らない。結先輩のお母さんは、そんな言い方はしない」
靄の“母”の口元が、わずかに崩れた。
微笑の角度が定規で引かれた線のように一瞬で直線に戻る。
目の焦点が消え、顔が紙片めいて薄くなる。
「……にゃう(バレた)」
ノクスが喉で笑う。
愛菜は息を吐き、結に声を飛ばす。
「結先輩、半歩だけ下がって。線の外にいて」
結は頷き、靴の踵を白線の外へ戻した。
靄の“母”は薄い舌で音をまね、カン、カン、カンをぎこちなくなぞった。
次の瞬間、紙のように破れて線路へ落ち、黒い灰になって消えた。
残ったのは、暮れ色の風と、本物の母の影だけ。
母はそっと手を胸に当て、結を見つめる。
「結。戻らないで。今は」
「どうして……」
「向こうが、書を探しているの。ここを通じて、あなた達にも触れようとしてる」
ひよりの腕の中で、白いページが震え、小さなヒビが走った。
目には見えない言葉が、紙の裏で擦れ合う音。
リーベル・イナーニスの、遠い脈動。
「……私が鍵になっている。だから、今は近づかないで」
「結先輩のお母さん、貴方はページを持たれていますね?」
「ええ、出た時にお渡しします、でも今は奴らが見てる……」
母の声は揺れず、確かだった。
そこに嘘はない。
修の心眼にも、黒い筋は一本も見えなかった。
その時、踏切の内側で地面がわずかに沈む。
足元の砂利が、形の悪い“口”を作る。気づかれないままに飲み込む為の、静かな罠。
「雨城、右前!」
浜野先生の警告と同時に、修は結の前へ素早く回り込んだ。
靴先で砂利の“口”を踏み潰し、低く言葉を撃つ。
「お前達のやり方は分かってる。“卑劣な罠”で喰いやがるのは、もう終わりだ」
砂利の口が閉じ、ヒビの音が遠ざかる。
結は震える息を一つ、吐いた。
「お母さん。いつなら、会えますか」
「夕刻の反対。暁。東ではなく、西」
母はゆっくりと背後を振り返り、遠くの稜線を指差した。
「古い給水塔の影。そこなら、大丈夫」
空白の書のページに、見取り図の西側が薄く塗られていく。
線路脇の古地図のような影、塔の丸い天井、根元に穿たれた四角い穴。
その全てが、まだ誰にも見えない細さで。
「ただし一つ。誰も置いていかないで」
母は微笑んだ。
「それが、あなた達の強さだから」
警報灯が急に明滅をやめ、風が生ぬるくなった。
黄昏が夜へ折れる合図。
世界の布目が、もう一度縫い直されようとしている。
「戻ろう、結先輩」
修の声に、結は名残を飲み込むように頷いた。
「……はい」
「ひより、隠れやすそうな角はあるか?」
「角は三つ。だけど隠れやすそうなのはないみたい」
「にゃう(全力で抜けろ)」
振り返れば、もう母の影はない。
ただ、空気の柔らかさだけが残っている。
それは確かに、人のぬくもりの形をしていた。
駅へ戻る道で、修の歩みが一瞬だけふらついた。
愛菜がすぐに肩を差し出す。
「しゅーくん、まだ“乾いてる”んでしょ」
「まあな。……けど、大丈夫だ」
強がりを言う声は軽いが、ひよりは目を伏せ、ページの端をそっと撫でた。
紙のヒビが、指の温度でやわらぐ。
「雨城」
浜野先生が歩調を合わせる。
「暁は、向こうにとっても薄い。準備を増やす。お前の心、もう一つ削る余裕はねぇ」
「分かってます。次は言葉じゃなく、“残した声”で行きます」
「にゃう(書の匂いが濃くなるぞ)」
ノクスが鼻を鳴らし、尾を揺らす。
「にゃうにゃう(塔の影、嫌な風が回ってる)」
結はスカーフを胸に当て、夜の空を見上げた。
星はまだ少なく、街の光が勝っている。
けれど、その向こうに暁の色が、確かに待っている気がした。
「お母さん。次は、必ず助けます……必ず」
誰に聞かせるでもない小さな宣言に、風が微かに頷いた。
次回予告
第123話『暁の給水塔』
西の稜線、塔の影、空白の書が描く見えない階段。
“誰も置いていかない”約束を抱えて、暁は静かに口を開く。
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