第121話『駅の外で』
白い風の通路を抜けた瞬間、乾いた蛍光灯の明かりと、遠くの発車メロディが耳に刺さった。
足裏に感じるのは、普通の駅のタイルの冷たさ。
漂うのはコーヒーと油の匂い。
そこに“死”の湿気はない。
「……帰ってきた、のかな」
結の声は細いが、確かに震えではなく安堵を含んでいた。
「確認するぞ」
浜野先生が改札の案内板に目をやる。
時刻は早朝、日付も現実のまま。
構内アナウンスはやけに平板で、逆に生々しい。
修は手すりに指を引っかけ、深く息を吐いた。
胸の奥で砂利が擦れるような痛みが残っている。
零式《虚空》の残滓は、まだ完全には抜けていなかった。
「しゅーくん、座って」
「大丈夫だ。……ちょっと、心が乾いてるだけだ(二回目)」
「強がりは後にして」
愛菜がムッとしながらも、持っていたペットボトルを押し付ける。
ノクスがリュックの口から顔を出し、鼻をひくつかせた。
「にゃう(匂いは現実。だが“向こう”の風が少し混ざってる)」
「どういうこと?」
「にゃう(残してきた“残響”の余波が、こっちに滲んでる)」
その時、構内スピーカーが一瞬だけザザッと揺れ、囁きが混じった。
──戻らないで……今は。
次の瞬間にはいつもの車掌の声に戻っている。
誰も気づいていない。気づけない。
「……聞こえました」
結が胸元のスカーフを握る。
「お母さんの声。やっぱり、まだ繋がってる」
「繋がってるからこそ、“今は”戻るなって言ったんだ」
修はゆっくりと立ち上がる。
「戻る道筋は出来た。だが、同時に向こうもこっちを見てる」
ひよりが足元を見つめ、小さく首を傾げた。
「……ここ、薄い。境界が、少しだけ薄くなってる」
床のタイルに、黒い煤のような粉がうっすらと残っている。
あの鳥居の縁が、現実側に擦れた跡だ。
「長居は無用だ。場所を変える」
浜野先生の促しで、改札を抜ける。
外気は眩しく、半歩毎に現実の色が濃くなる……はずだった。
駅前の広場の端で、風が少しだけ逆流した。
結が思わず振り向く。
「今の……」
「気のせいにしてください」
修が短く笑う。
「でないと、すぐ呼び返されます」
人の目がある場所まで出て、やっとみんなの肩が一度だけ落ちた。
タクシーのクラクション、通勤の靴音、スマホの着信音。
雑音がうるさいほど優しい。
ベンチに腰を下ろすと、愛菜が小声で言った。
「“残響一つ”って、置いてきたあれ……大丈夫かな」
「……あれは“戻れなかった声”の束だ。人じゃない」
修は答えながらも、胸の内側のざらつきを隠せない。
ひよりが修の横顔を覗き込み、首を振る。
「でも、置かれたものは、呼び水にもなる。優しい声は、別の声を呼ぶ」
「つまり、現実にも幽霊が寄ってくるって事?」
「にゃう(いや……“向こう”にいた家族や恋人の声が、思い出されやすくなる)」
「向こうにいる家族とか恋人の声がより思い出されるようになるらしい……」
愛菜の言葉に、結の指がわずかに強張った。
「……お母さんは、こっちに呼ばれてしまうのかな」
「違う」
修ははっきり言った。
「呼ばれるのは“似た声”だ。本人は、まだ自分で選んでる」
その時、結の胸元──ペンダントが小さく鳴った。
金属が陽に温められ、閉じた蓋の縁がかすかに歪む。
「開くね」
小さな紙片が一枚、ふわりと落ちた。今まで気づかなかった二重底。
紙は熱でほぐれ、薄い灰色の文字が浮かび上がる。
「……“東の踏切、夕刻、誰も連れてこないで”」
結の指先が震える。
「これ、やっぱりお母さんの字です」
「単独指定、しかも黄昏時。いちばん境界が薄い時間帯だ」
浜野先生が眉間を押さえる。
「露骨に危険だな」
「罠の可能性は高い。けど、会える可能性もある」
修が紙片を光にかざす。
「“今は戻らないで”と矛盾はしない。“今”じゃない、夕刻だ」
「でも“誰も連れてこないで”はダメだよ」
愛菜が即座に首を振る。
「一人で行ったら、詰むやつ」
「にゃう(ひよりの言う通り、詰むぞ?ただ、逆に罠にかけるのも……)」
「……行きます」
結が顔を上げる。
「でも、一人では行きません。視界の外で、ついてきてください」
修はそれでいいと頷いた。
「正面から破るんじゃなく、ルールの隙間を歩く」
ひよりがそっと掌を開く。
空白のページ──ひよりの“書”の欠片が、朝の風に光る。
無地だったはずの紙の中央に、うっすらと駅周辺の見取り図のような線が浮かび上がっていた。
「……さっき集めた“残響”が、道を描いてくれてる。ここから東の踏切まで、曲がり角は三つ。二つ目の角は“見えない角”、まっすぐ歩くと戻される」
「見えない角、か」
修は頬を掻き、「ありがたいネタバレだな」と苦笑する。
「ネタバレじゃなくて救済だよ!」
愛菜がむっとして肩をすくめ、すぐに笑って結の手を握る。
「大丈夫。絶対大丈夫だよ!」
「にゃう(甘く見るな。相手は学習する)」
ノクスは低く唸り、空気の匂いを嗅ぐ。
「それに、匂いが混じり始めた。禁書の匂いだ」
修の視線がひよりへ流れる。ひよりは静かに頷いた。
「……“書”は、誰かに呼ばれてる。多分だけど、結のお母さんが書のページ持ってくれてる」
「急ぐぞ。夕刻までに、準備して道を確かめる」
浜野先生が立ち上がり、体を伸ばす。
動作の途中で一瞬だけ、微かな機械音が鳴った。
修が横目で見やり、「先生、無理しちゃだめっすよ」
「無理じゃねぇ。思い出してるだけだ、あと雨城だけには言われたくねぇ……零式だったか?あれ、かなりの負担だろ?」
その言い方は、冗談半分だが、どこか遠い。
修は苦笑し先を見やる。
東の踏切は、駅から少し離れた雑木林の向こうだ。
昼の間に下見を済ませ、夕刻に備える。
歩き出す直前、スピーカーがまた一瞬だけ歪んだ。
──戻らないで……今は。
同時に、風が背中を押す。東へ、東へ。
結は一歩だけ遅れて、空を仰いだ。
「お母さん。行きます」
誰に聞かせるでもない声に、風が返事をした気がした。
駅舎の影が短くなり、やがて午後の黄が混じり始める。
街の音は相変わらずだが、耳の奥では別のリズムが鳴っていた。
向こう側の拍動。
修はポケットの護符を確かめ、心の棘を数える。
まだ抜けない痛みは、ちゃんと痛い。
だからこそ、次は迷わない。
「ルールは守らない。けど、破り方は選ぶ」
「うん」
結が頷き、愛菜がVサインを作る。
ノクスは小さく欠伸をして、ひよりは空白の書を抱え直した。
夕刻は、境界が薄くなる。
東の踏切で、もう一度だけ扉が開く。
それが救いか罠か──選ぶのは、いつだってこちらの言葉だ。
次回予告
第122話『東の踏切、黄昏にて』
「ひとりで来い」という招待状。
視界の外から寄り添う五つの影が、見えない角を越えた先で目にするものは──。
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