第120話『終着の扉』
車輪が闇の中を切り裂いていく。
窓の外は相変わらずの濁った黒だが、時折遠くで赤い光が瞬き、まるで心臓の拍動のように明滅した。
「……速度が落ちた」
修の呟きと同時に、電車は長い息を吐くように減速し、やがて完全に止まった。
ドアが左右に開く。
外には、短いホームと、石の鳥居のような枠がぽつんと立っている。
枠の奥は完全な暗闇だが、天面にだけ古い標札が掛かっていた。
──終着駅。
「終点、か」
「にゃう(扉の向こうが“外”だにゃ)」
ノクスの声は低い。
愛菜が喉を鳴らし、結は無意識にスカーフを握りしめる。
ホームの端、影のような駅員が一人。
顔はやはり黒い空洞で、手には古びた切符の箱。
「通行条件──切符六枚に加え、一つの残留」
短く告げると、箱の中が勝手に開いた。
黄ばみきった切符が六枚、規則正しく並んでいる。
「残留……つまり誰かが残るって事か」
浜野先生が低く吐き、修は顎を固く結んだ。
「また同じルールかよ……どうしても一人は排除したいんだな……」
「やめてください」
結が一歩前へ出る。
「誰も置いていけない。ここまで来て、置いていくなんて……出来ない」
影の駅員は無言で鳥居を指した。
標札の裏側に、黒い文字が滲み、ゆっくりと読める形を取る。
──残響一つ、残せば良い。
「残響……?」
愛菜が眉をひそめる。
「にゃう(“人”じゃなくてもいい、かもしれない)」
ノクスの紅色の瞳が細くなる。修は駅員を射抜くように見た。
「残響で足りるなら、条件は“ここに留まる気配”だ」
「それ、どうやって?」
ひよりが小首を傾げる。修はポケットから護符を一枚抜いたが、すぐに引っ込めた。
言葉が先だ、と心眼が告げていた。
ホームの空気が微かに震える。
どこからともなく、あの囁きが蘇る。
──置いていけば、帰れる。
何百、何千の声が重なり、耳の内側に黒い墨のように染みてくる。
「……こいつらの“残響”で、扉を満たせないか」
修の呟きに、ひよりが瞬きをした。
「“届かなかった声”を集めれば、一つ分の重さになる」
「それ、どうやって集めるの?」
愛菜が目を丸くする。修は静かに目を閉じた。
心眼の奥、黒い鳥居に絡む
囁きが、連結していく。
ひよりがそっと両手を差し出す。
掌の上に、色のない小さな頁がふわりと浮かび、筆圧のない文字が次々と浮かび上がる。
それは“空白の書”の、ほんの欠片。
誰の目にもただの白紙のように見えるが、声は確かに染みていた。
「にゃう(やるなら今だ)」
ノクスが闇の爪で、崩れかけたホームの天井から落ちる黒い煤を払い落とす。
浜野先生は鳥居の柱に手を置き、その質量分布を確かめるように目を細めた。
「崩壊が近い。長くは持たねぇ」
「……先輩」
修が振り向く。言葉少なに、しかしはっきりと。
「“帰ろう”って、言ってくれ。ここで俺が迷ったら、終わるから」
結は息を吸い、頷いた。
「帰ろう、みんなで。だから、しっかりして」
その一言は、どんな術よりも真っ直ぐだった。
修は笑い、再び闇へ向く。
「借りるぞ。俺の言葉に、乗ってくれ」
叫返しが深く潜る。
届かなかった声が、修の胸腔で形を持ち、ひよりの白い頁に吸い込まれていく。
愛菜が頁の端を押さえ、震えを鎮める。
「大丈夫、怖くないよ。……ね、ノクス」
「にゃう(怖がる暇があったら、息を合わせろ)」
最後の一声が収まった時、白い頁は薄い光を帯びていた。
修はそれを駅員の持つ箱に置く。
切符六枚と、一つの残響。
影の駅員は無言で頷き、鳥居の標札がカチリと音を立てて裏返る。
──帰還口。
鳥居の奥の闇が、静かに“光”に変わる。
だが、その刹那。
ホームの端で、赤い靄が渦を巻いた。
靄の中から、あの声がした。
「結……」
母の声。
次の瞬間、靄から手が伸び、結の手首を掴む。
冷たい。
痛いほどに。
「お母さん!」
結の目に涙が滲む。
だが、その指は“温度”だけを持ち、形が崩れている。
修が踏み込み、指先に言葉を撃つ。
「置いていくのは、俺達じゃない。置いていくのは“残るべき声”だ」
言葉が触れた瞬間、手はほどけ、赤い靄は鳥居の外へ押し流された。
靄の奥で、確かに母の横顔が笑った気がした。
「……届いてる」
ひよりが小さく囁く。
「急げ!」
浜野先生が先に鳥居をくぐる。
続いて愛菜とノクス。
ひよりが軽く会釈してから一歩を踏み出し、修が最後に結の背を押した。
「大丈夫だ。もう誰も置いていかない」
「……はい」
鳥居の内側は、白い風の通路だった。
足音が遠ざかり、背後で駅の音が薄れていく。
ふと、修の視界がわずかに揺れた。
零式《虚空》の残滓が、まだ胸の奥に棘のように残っている。
「雨城君……」
結の声。彼女が心配そうに目を覗き込んでいた。
「ちょっと、心が乾いてるだけだよ」
冗談めかして言い、修は前を向く。
光が近づく。
鳥居の出口の向こうに、見慣れた駅の構内がぼんやりと現れ始めた。
改札、売店、蛍光灯の青白い光。
現実だ。帰れる。
その時、風が一度だけ逆流した。
背後の闇から、遠い声が追いかけてくる。
「私は、戻れない──今は」
結の母の、最後の囁き。
光の縁で、結は立ち止まりかけた。
修が隣に並び、そっと肩を押す。
「今は、ね。すぐに迎えに行きます」
結は涙を拭き、頷いた。
「……はい。必ず」
六人は光の中へ歩み出る。
背後で“終着の扉”が静かに閉まり、きさらぎ駅の気配は、夏の夜の夢のように、音もなく消えていった。
次回予告
第121話『駅の外で』
帰還。だが置かれた“残響”は何を揺り起こすのか。
現実に滲む異界の影、そして新たに届く、もう一つの呼び声。
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