第119話『境界を越えて』
駅の入り口は、まるで朽ち果てた廃駅舎のようだった。
錆びた看板に、かすれた文字が浮かび上がる。
──きさらぎ駅。
正面のガラス戸は割れ、枠だけが辛うじて形を保っている。
その向こうには薄暗いホームが広がり、線路はどこまでも闇の中へと続いていた。
しかし、空気は不自然なほど静かで、鳥も虫も音を立てない。
結が息を呑んだ。
「……ここが……」
修は慎重に足を踏み入れる前に、境界の地面へ護符を一枚置いた。
「これを越えたら、もう普通の道じゃ戻れない」
浜野先生が肩をすくめる。
「今さら怖気づく奴はいねぇだろ」
◆
全員が一列になり、境界を越えた。
その瞬間、背後の廃村と山道が霧の中に溶けて消えた。
振り返っても、もう何も見えない。
「……にゃあ(閉じられたな)」
ノクスの声に、ひよりが小さく同意する。
「確かに、今の所、この世界から抜け出すのは無理そうですね」
「戻れない。少なくとも、こっちの条件を満たすまではな」
修が言った。
◆
ホームを進むと、古びたベンチに、誰かの影が座っているのが見えた。
結は思わず駆け寄る。
「お母さんっ……!」
しかし、そこに座っていたのは、髪の長い見知らぬ女だった。
顔の半分が影に沈み、口元だけが見える。
「……貴方達、乗るの?」
女の声は、金属の擦れるような響きを持っていた。
「乗る?」
愛菜が眉をひそめる。
「次の電車は、帰りの道か、永遠の片道か……でも、一つだけ。降りる為には、誰かがここに残らないといけないの」
その言葉に、皆の背筋が凍る。
「……あの切符と同じだね」
ひよりの声が震える。
「くだらない……」
修が短く答える。
女は笑みを浮かべ、立ち上がると霧の中に溶けた。
◆
沈黙の中、ホームの奥から不気味な風が吹いた。
風に乗って、結の耳にあの声が届く。
「……こっちよ……結……」
間違いなく、結の母の声だった。
「行かないと!」
結が駆け出そうとするのを、修が止める。
「待て、あれは本物かどうか分からない」
「でも、もし本物だったら……!」
「だからこそ慎重になれ。罠に落ちたら全員終わりだ」
結は唇を噛みしめた。
その表情を見て、浜野先生が前に出る。
「じゃあこうしよう。俺と修で声の方を探る。残りは駅の構造を調べろ」
◆
調査を始めると、この駅が普通の構造ではない事がすぐに分かった。
ホームの端に向かうと、同じ場所に逆側から戻ってくる。
階段を降りても、同じホームに戻される。
ループ構造。
物理法則が成り立っていない。
「これ……迷宮じゃん」
愛菜が顔をしかめる。
「精神を削るタイプのやつだにゃ」
ノクスが低く唸った。
そこへ、霧の中から再び声が響く。
今度は、皆がはっきりと聞こえた。
「ひとり……ここに残って……」
◆
霧の奥から、古い電車が姿を現した。
外装はひび割れ、窓は曇り、車体の番号は黒く塗り潰されている。
それでも、車内には淡い灯りが漏れ、誰かの気配があった。
「……乗るのか?」
浜野先生が問う。
「このままじゃ進めない。けど、残る人間を決めなきゃ……」
修が唇を噛む。
皆の視線が交錯する。
誰も言わないが、それぞれが覚悟を探っていた。
結は胸にスカーフを握り、震える声で言った。
「……お母さんを助けるまでは、誰も……誰も置いていかない」
◆
その瞬間、電車のライトが強く光り、霧を切り裂いた。
ホームに影が伸び、その奥に……確かに結の母の姿があった。
目が合った気がした。
しかし、彼女は何も言わず、車両の奥へと消えていった。
「追うぞ!」
修の声と同時に、皆が駆け出した。
そして全員が車両へ飛び乗った瞬間、扉が自動的に閉まり、電車はゆっくりと動き出す。
◆
車内は不気味なほど静かだった。
座席には誰もいないはずなのに、時折、背後から視線を感じる。
「……この電車、どこに向かってるの?」
ひよりが小声で呟く。
修は答えず、前方を見据えたまま、ポケットの護符を握りしめた。
──誰かが、残らなければ帰れない。
その条件は、車両の中でも確かに生きているはずだった。
次回予告
第120話『終着の扉』
行き先不明の電車が止まる先は、出口か、それとも……。
そして犠牲者の名が、静かに決まる。
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