第118話『風に誘われて』
夜が明けた。
廃村跡の小屋は、朝露に濡れた匂いで満ちていた。
焚き火はすでに消え、白い煙だけが細く空に昇っていく。
結はほとんど眠れなかった。
瞼を閉じれば、あの声が耳の奥で何度も反響する──
“来ないで”と“助けて”の、どちらとも取れる、揺らいだ声。
修が外から戻ってきた。
額には薄く汗が浮かんでいる。
「足跡があった。夜の内に……誰かが近くまで来てた」
浜野先生が眉を寄せる。
「人間か?」
「……分からない。ただ、駅の方角だ」
愛菜が顔を上げた。
「じゃあ、行くしかないよね?」
結は強く頷いた。
「お母さんが……あの声が、本当なら……」
「先輩、罠かもしれないって話、忘れないで」
修が低く釘を刺す。
それでも彼の声に迷いはなかった。
向かう覚悟は、全員の中で固まりつつあった。
◆
朝霧の中、一行は歩き出した。
ノクスが先頭に立ち、鼻先を風に向ける。
「にゃう……(匂いが薄い。向こうは“人”じゃねぇ)」
「……じゃあ何?」
ひよりが不安げに問いかける。
「恐らく、霊的な残滓だ」
修が答えた。
「でも、完全に消えてない。まだ繋がってる」
道はやがて、線路沿いに続く細い山道へと変わった。
所々、枕木が腐り落ち、錆びたレールが草に飲まれている。
しかし、そこを吹き抜ける風だけは、不思議と澄んでいた。
その風に混じって、また声が聞こえる。
「……こっち……」
結が振り返り、皆の顔を見る。
愛菜がうなずいた。
「やっぱり、聞こえるよね」
◆
やがて、開けた場所に出た。
そこには、異様な光景が広がっていた。
地面に、円形の枠組みが半分だけ埋まっている。
まるで古い噴水の跡のようだが、中央は黒い穴になっており、底が見えない。
穴の周囲には、白い布切れのようなものが風に揺れていた。
「……あれ」
ひよりが指差す。
白布の一枚に、小さな花柄の模様があった。
結の声が震える。
「お母さんの……スカーフ……」
近づこうとした瞬間、ノクスが牙を剥いた。
「にゃうっ!(待て!)」
同時に、穴の奥から低いうねりのような音が響いた。
それは声というより、深い地鳴りに近い。
浜野先生が結の肩を掴む。
「引け。これは、呼んでるんじゃねぇ……引きずり込もうとしてる」
修も穴を睨みつけた。
「“あれ”の正体はまだ見えない。でも……ここはきさらぎ駅の外縁だ。境界線のすぐそば」
◆
突然、風が強く吹いた。
白布が一斉にはためき、黒い穴の中から何かが這い出そうとする。
それは人の形をしていたが、輪郭は霧のように崩れ、顔の部分だけが異様に鮮明だった。
──結の母の顔。
「お母さんっ!」
結が叫ぶ。
だが、その顔はすぐに歪み、血のように赤い笑みを浮かべた。
「……来てくれたのね……」
声は甘く、それでいて底知れない寒気を伴っていた。
修が前に出る。
「結、下がれ!」
彼の言葉に結は躊躇いながらも後ずさる。
その隙に、霧の人影は穴から半身を出し、こちらへと腕を伸ばしてきた。
ノクスが飛びかかり、その腕を爪で裂く。
裂け目から黒い霧が溢れ出し、地面を這うように広がった。
「にゃう!(こいつ、本物じゃねぇ!)」
浜野先生が低く呟く。
「……影の分身か」
修は頷き、腰の護符袋から一枚の札を取り出す。
「こいつを追い払って、先に進むぞ」
◆
札が燃え、光が霧を押し返す。
人影は悲鳴を上げ、穴の奥へと引きずり戻された。
風が止み、再び静寂が訪れる。
「……あれは何だったの?」
ひよりが呆然と呟く。
「境界の番人だろう。侵入者を試してくる……ただ、俺達を歓迎してはいない」
修が短く答えた。
結はスカーフを拾い上げ、胸に抱きしめた。
「必ず……お母さんを見つける」
その瞳には、迷いも恐れもなかった。
愛菜が微笑んだ。
「じゃあ行こう。次は……駅の中だね」
誰も口にはしなかったが、全員が感じていた。
──あの声の先に、もっと深い闇が待っている事を。
次回予告
第119話『境界を越えて』
再び足を踏み入れる、きさらぎ駅の内部。
そこは時間も空間も歪んだ、出口なき迷宮だった──。
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