第117話『失われた人影』
朝靄が広場を包んでいた。
崩壊寸前のきさらぎ駅から飛び出した六人(うち一匹)は、その場に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。
外の空気は冷たく湿っている。
それでも、あの圧迫感と耳鳴りがないだけで、生きている実感が戻ってくる。
「……全員、生きてるな」
浜野先生が短く言った。
愛菜が振り返り、修の顔を覗き込む。
「しゅーくん、顔色悪いよ……」
「ちょっと、使い過ぎただけだ」
修は肩で息をしながらも立ち上がった。
零式《虚空》の代償は、体よりも心を削る。
頭の奥がまだ重く、視界の端が揺れている。
結は広場の端を見回していた。
「……いない。やっぱり……」
その声は掠れている。
彼女の視線の先に、結の母の姿は無かった。
「改札を抜けた時、確かにいたんだ……でも、振り返ったら──」
ひよりが言葉を飲み込む。
「連れてかれた……のかも」
愛菜が小さく呟く。
その時だった。
ノクスが耳をピクリと動かし、地面の隅を覗き込む。
「にゃう……(これ、落ちてたぞ)」
彼が指し示したのは、小さな銀色のペンダントだった。
細いチェーンが切れかけている。
結はそれを見るなり息を呑んだ。
「……お母さんの……」
浜野先生がしゃがみ込み、ペンダントを受け取る。
「開けるぞ?」
慎重に留め具を外すと、中には小さな紙片が折り畳まれて入っていた。
紙は薄く、触れれば崩れそうだ。
それでも、確かに何かが書かれている。
「“戻らないで”……?」
修が読み上げる。
その筆跡は、結の母のものに間違いなかった。
結は唇を噛む。
「どういう意味……? お母さん、私を避けてるの……?」
修は静かに首を振った。
「違う……何かから守ろうとしてる」
愛菜がペンダントを見つめながら呟く。
「って事は……まだ大丈夫って事だよね?」
広場の空気が重くなる。
遠くの山並みから、不気味な風が吹き下ろしてきた。
その風の中、誰かの声が確かに聞こえた気がした。
◆
その夜。
一行は近くの廃村跡の小屋に身を寄せていた。
かろうじて屋根と壁が残っているだけの小屋だが、火を焚けば夜風は防げる。
修は焚き火の横で膝を抱え、じっと炎を見つめていた。
零式の影響はまだ抜けきらず、胸の奥がざらついている。
「……聞こえる?」
不意に結が小さく呟いた。
「え?」
愛菜が顔を上げる。
結は耳を澄ませたまま、闇の方を指差した。
「……お母さんの声が……風に混じって……」
ひよりがそっと立ち上がり、外に出て耳をすます。
浜野先生も眉をひそめ、
「ただの風じゃねぇな……」
と呟いた。
風の音に紛れて、確かに人の声がする。
それは遠くから呼びかけるような声──。
「……来ないで……」
女の声だった。
悲しみと焦燥が入り混じった、切迫した響き。
「お母さん……!」
結が思わず駆け出しかける。
だが修が腕を掴み、引き止めた。
「先輩、罠の可能性がある」
ノクスが低く唸る。
「にゃうーにゃにゃにゃう……にゃーお(あの声に生気を感じられない……結の母はすでに亡くなってはいるが、良い生気を漂わせているからな……あれは恐らく罠、だが、あの声は向こうから来るもの……どちらか判断つきにくい)」
「……それ、言いづらいよぉ」
ノクスに小声で話す愛菜。
焚き火が揺れ、影が壁に踊る。
結は涙をこらえながらも頷いた。
「……でも、あの声を無視出来ない」
修は深く息を吐いた。
「分かってる。明日、一緒に確かめに行こう」
夜の闇は、静かに一行を包み込んでいった。
その風の中には、まだ微かに声が混じっている──
まるで、誰かが道案内をしているように。
次回予告
第118話『風に誘われて』
声が導くのは救いか、それとも破滅か。
結と仲間たちは、再び境界の向こうを目指す──。
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