第112話『終点、母の影』
電車が軋むような音を立てて停まった。
ドアが左右に開き、冷たい、そして、淀んだ空気が一斉に流れ込む。
その冷気はただの冷たさではなく、骨の奥まで染み込むような、湿った死の匂いを含んでいた。
外に広がるのは、見慣れた駅のホームではなかった。
床は黒い石畳で、所どころひび割れから赤い光が漏れている。
頭上には、異様に大きな赤い月が浮かび、その光がホーム全体を血のように染め上げていた。
風はないのに、霧のような靄が地面を這い、足首に絡みつく。
「……ここが終点か」
浜野先生が低く呟く。
「にゃう(降りたら、もう戻れないかもしれない)」
ノクスが尻尾を揺らし、低い声を出す。
愛菜が不安そうに訳す。
「降りたら、もう戻れないかもって……」
「やめてよ……」
愛菜の声は心なしか震えていた。
その時、結が小さく息を呑んだ。
「……あそこ」
彼女の視線の先、ホームの奥に一人の女性が立っていた。
長い黒髪、眼鏡、淡い色のワンピース──記憶の中と寸分違わない姿。
結の母だった。
「お母さん!」
結が駆け出す。
修が反射的に手を伸ばしたが、掴む前に結は靄の中へ消えていった。
「にゃう(追うぞ!)」
ノクスが短く鳴く。
愛菜が短く伝える。
「追うぞって!」
全員が結の後を追い、靄をかき分けて進む。
しかし、足を踏み出すごとに視界が歪み、ホームの距離感が狂っていく。
目の前にあるはずの母の背中が、何歩進んでも遠ざかるのだ。
「くそっ……幻惑だ」
修が奥歯を噛む。
ひよりが横目で修を見た。
「……この幻は、犠牲者を決めるまで解けない」
「犠牲者……」
愛菜が苦く呟く。
その時、ホーム中央に立つ駅員が口を開いた。
「一人を置いていけば、母に会わせてやる。そして出口も用意する」
その声は確信に満ちており、嘘の響きはなかった。
「……ふざけんな。犠牲なんて出さずに全員で帰る」
修が睨み返す。
「出来るなら、やってみなさい」
駅員は口角をわずかに上げた。
結は母の姿を見失うまいと必死に目を凝らしていた。
「お母さん……帰ろう、一緒に」
すると、母が初めて振り返った。
赤い月の光が横顔を照らし、その瞳は柔らかくも悲しげだった。
「……結。あなたは、帰りなさい」
「嫌です!やっと……やっとこうして、会えたのに……」
「私は……もうこっちの人間なの」
母は小さく首を振る。
「でも、あなた達は帰らなきゃだめ」
その瞬間、ホームの端から無数の黒い影が這い出してきた。
形は人に似ているが、手足は異様に長く、顔には穴が三つ、真っ黒な空洞が開いている。
「にゃう(あいつら、“犠牲”を取りに来た)」
ノクスの声が低く響く。
愛菜が息を詰めて伝える。
「“犠牲”を取りに来たって……」
影達は無音で近づき、全員を囲むようにじわじわと輪を縮めていく。
「ちっ……囲まれた」
浜野先生が構えを取る。
愛菜のリュックからノクスが飛び出て、威嚇する。
修は母と結の間に割って入るように立つ。
「……結先輩、時間がない。あれが来る前に、お母さんを……」
「でも……」
結の瞳が揺れる。
「にゃあ(お前が迷ってたら、全員持ってかれる)」
ノクスが鋭く言い放つ。
愛菜が息を呑んで訳す。
「迷ってたら、全員持ってかれるって……」
母は小さく笑った。
「結……ありがとう。会えて、良かった」
そう言うと、赤い靄が彼女を包み込み、その姿をホームの奥へと引き込んでいく。
「お母さん!」
結が駆け出すが、靄は壁のように立ちはだかり、その先へは一歩も進めなかった。
影達の輪がさらに狭まる。
駅員が再び告げる。
「犠牲を決めろ。さもなくば、全員ここで終わる」
その声に、場の空気が張り詰める。
誰も口を開かない。
しかし、その沈黙の奥で、それぞれの心が揺れ動いていた。
──自分が残るべきか。
──いや、他の誰かが……。
そんな思考が、黒い囁きと混じり合い、耳の奥で響き続ける。
修は深く息を吐き、視線を鋭くした。
「……やるなら、俺達のやり方でやる」
赤い月の下、影達の黒い輪がついに完全に閉じようとしていた。
次回予告
第113話『闇の選択』
迫る影と犠牲条件。選択の時はすぐそこ──だが修は、全員を生かす道を諦めていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
評価(星一つでも良いのでどうか!)やブックマークで応援していただけると嬉しいです。
続きの執筆の原動力になります!