第111話『乗客たちの囁き』
ガタン……と鈍い音を立て、電車は完全に停まった。
ドアがゆっくりと開き、冷たい空気が外へ吐き出される。
その冷気には、霧よりも濃い“よどみ”が混じっていた。
鼻の奥に、古びた鉄と湿った土の匂いがまとわりつく。
「……ようこそ、“戻れない電車”へ」
いつの間にか乗務員のような影が、扉の内側からそう呟いた。
「……無視無視!行くぞ!」
修が一歩踏み出す。
愛菜がノクスのリュックを抱えたまま続き、結、浜野先生、ひよりも後に続く。
車内は薄暗かった。
座席にはずらりと乗客が並んでいるが、その誰もが微動だにしない。
よく見ると、全員の顔の半分が影に覆われ、残りの半分はひび割れた陶器のようだった。
目のあるべき場所には、黒い穴だけが開いている。
「にゃう(全員、向こうの世界の住人だ)」
ノクスが低く唸る。
愛菜が眉をひそめて訳す。
「全員、向こうの世界の……住人だって」
「向こうって……もう、生きてないってこと?」
愛菜が小声で尋ねる。
「そうだな。少なくとも“帰る”切符は持ってない」
修は淡々と答えた。
電車が動き出すと、ガタン……ガタン……と一定のリズムが響く。
その揺れに合わせるように、乗客達の首がゆっくりとこちらへ向いた。
陶器の割れ目の奥、空洞のような視線が全員をなぞる。
その中の一人、白いワンピースを着た中年の女性が、ふらりと立ち上がった。
影のない半分の顔は、涙の跡で濡れている。
「……あなた」
その声は結に向けられていた。
「……あなたのお母さんを、見た事がある」
結の瞳が揺れる。
「お母さん……どこに?」
「……終点。降りられないホームの先」
「降りられない……?」
愛菜が首を傾げる。
「降りようとした人は、皆……消えた」
女性の声が震えた。
その時、最後尾から駅員服の影が歩いてくる。
逆さ顔ではないが、その存在感は異様だった。
「ここは“戻れない電車”。終点で降りるには、一人を置いていく必要がある」
車内の空気が、さらに冷え込む。
浜野先生が腕を組んだまま、わざと軽口を叩く。
「置いてく奴を決めるなら、俺はパスだぞ」
「そういう冗談やめてください!」
愛菜が食ってかかるが、声には焦りが滲んでいた。
「にゃう(焦るな。決めるのはまだ早い)」
ノクスが諭すように言う。
愛菜が短く訳す。
「……焦るな、決めるのはまだ早いって」
修は黙って女性の前に立った。
「あんた、先輩のお母さんの事をもっと詳しく教えてくれ」
女性は小さく頷き、話し始めた。
「……長い黒髪で、眼鏡をかけていた。優しそうな人で、私に“戻りたいなら東のホームへ行け”って」
結が息を飲む。
「間違いない……お母さんだ」
「でも……その人も、自分では戻れないって言っていた」
女性は視線を伏せた。
車内の奥から、別の乗客が囁く声が聞こえた。
「誰かを置いていけば、帰れる……」
「置けば、帰れる……」
その言葉が車内を伝染するように広がっていく。
やがて、ほとんどの乗客が同じ言葉を繰り返す“囁き”になった。
愛菜が両耳を塞ぐ。
「やだ……頭の中に入ってくる……」
ひよりは静かに目を閉じる。
「……この声は、この電車の呪い。聞けば聞くほど、選びたくなる」
「選びたくなる……?」
結が顔を上げる。
「そう。この駅と電車は、“犠牲”を自然に受け入れさせる為に、心を削る」
修は奥歯を噛む。
「……くだらねぇルールだな」
駅員服の影が一歩前に出た。
「ルールはルールです」
「じゃあぶっ壊すまでだ」
修の瞳が鋭く光る。
その瞬間、車内の照明が一斉に落ちた。
暗闇の中で、ガタンガタンという走行音だけが響く。
やがて、前方の窓から赤い光が差し込み、車内を不気味に照らした。
終点が近い──その予感が、全員の胸を重く圧し潰す。
「結先輩……絶対お母さんを見つけますから」
愛菜が強く言う。
「……うん。でも……誰かが……」
結の声は震えていた。
「誰も置いてかねぇよ」
修は短く断言した。
やがて、電車は速度を落とし、赤い光の中にホームが浮かび上がる。
そこは普通の駅よりも広く、しかし人影はなく、代わりに黒い靄が床を這っていた。
「ここが……終点だ」
駅員の声が響く。
ドアが開き、冷気と共に、耳の奥に囁きが染み込んでくる。
──置いていけば、帰れる。
次回予告
第112話『終点、母の影』
赤い月の下、降りられないホームの先に見える母の姿。
だが、その一歩は、誰かを犠牲にする覚悟と引き換えだった。
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