第110話『切符は一枚足りない』
霧の中を進むと、足元の感触が急に変わった。
さっきまで湿ったアスファルトだったのに、いつの間にか乾いた木の板を踏んでいる。
視界が開けると、そこは古びた屋根付きのホームのような場所だった。
「……ここ、別の駅?」
愛菜が辺りを見回す。
「にゃう(同じ“きさらぎ”の、違う時間)」
ノクスの声は低い。
愛菜が短く訳す。
「同じ“きさらぎ”の……違う時間、だって」
「違う時間……?」
結がその言葉を反芻した。
ホームの中央に、無人の切符売り場があった。
窓口の奥には、埃をかぶった木製の棚。
そして、その上にきれいに並べられた六枚の切符。
どれも黄ばんでおり、印字された日付は昭和の終わりや明治の初め、更には元号すら見た事のないものまであった。
「……全部で六枚」
浜野先生が低く呟く。
「俺達は七人……一枚足りない」
修が眉をひそめる。
「にゃう(だから犠牲を出せって言ってる)」
ノクスが尻尾を揺らす。
愛菜がきっぱりと首を振る。
「やめてよ……そんなの絶対嫌だ」
ひよりが切符の一枚に手を伸ばしかけ、途中で止める。
「これは……持ち主の記憶を閉じ込めてる。触れると、その人の“最後”が見えるよ」
修がひよりと目を合わせ、無言で一枚を手に取った。
指先が紙を掴んだ瞬間、視界が白く弾けた。
──電車の揺れ。
──ぎゅう詰めの乗客。
──車内放送の声が、途中で不自然に途切れる。
窓の外は闇しかなく、線路の両脇には何も見えない。
その中で、目の前に座っていた若い女性が、小さな紙袋を胸に抱えていた。
袋からは、花の匂いがほのかに漂う。
「……結婚式、だったの」
女性は笑顔を作ろうとしていたが、目が赤く潤んでいた。
「途中で……事故があって。あの人は、先に行っちゃった」
声がかすれ、視線が下を向く。
「……お前、行きたかったんだろ。本当は最後まで」
修の声は静かだった。
「にゃあ(でも、それは叶わなかった)」
ノクスが言葉を補う。
愛菜が短く訳す。
「……でも、それは叶わなかったって」
「だったら行けよ。今からでも、あいつの隣に。誰も邪魔しない」
女性の瞳が見開かれ、次の瞬間ふっと笑った。
「行っていいのかな……そんな自分勝手しても良いのかな……ありがとう」
輪郭が透け、花の香りだけが残って消えていく。
この女性の持っていた切符が地面に落ちる。
意識が現実に戻った時、地面の切符は黒く燃え、灰となって消えた。
「切符使えなかったか……」
浜野先生の声は低い。
「それでも……まだ足りない」
愛菜が唇を噛む。
その時、結が声を上げた。
「……この切符……」
彼女が見ていたのは、残された切符の中の一枚だった。
印字された駅名の横に、微かに見覚えのあるサインのようなものがある。
「これ……お母さんの……筆跡です」
空気が一気に張り詰める。
「つまり……先輩のお母さんも、この駅を通った」
修が確認する。
「うん……きっとまだ、ここにいる」
結の瞳に決意が宿る。
「にゃう(早く見つけないと、もう戻れないぞ)」
ノクスの言葉に、愛菜も強く頷いた。
「犠牲なんて出さずに、全員で帰ります!」
ひよりが、そんな愛菜を静かに見つめる。
「……出来るといいね」
その瞬間、霧の奥からカーン……とあの鐘の音が響いた。
同時に、ホームの端に電車が滑り込んでくる。
ガタン……と停車音。
だが、車内は薄暗く、窓の内側に立つ人影はどれも動かない。
「乗るのか?」
浜野先生が問いかける。
「お母さんがいるなら、乗ります」
結が即答した。
修は短く息を吐く。
「なら行くしかないな」
扉へ向かう。
車内からは何も聞こえない。
ただ、無数の視線だけがこちらを見ている気配がした。
電車の扉が開き、冷たい空気が流れ込む。
「……ようこそ、“戻れない電車”へ」
いつの間にか乗務員のような影が、扉の内側からそう呟いた。
次回予告
第111話『乗客たちの囁き』
薄暗い車内、無数の視線。そこで告げられる“母の行方”──そして犠牲の選択は、さらに重くなる。
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