第109話『霧の向こうに』
霧が、肌にまとわりつくように重く漂っていた。
駅員服の人影は、逆さの顔のままこちらに近づいてくる。
歪んだ笑みを浮かべた口が、低く告げた。
「一人を……置いていってください」
その声は耳からだけでなく、頭の奥にも直接響いた。
愛菜が息を呑み、修の背中にしがみつく。
「な……何言ってるんですか……」
「にゃう(言葉通りだ。こいつは俺達の数を減らそうとしてる)」
愛菜がノクスを見下ろし、顔をこわばらせて修達に向き直る。
「ノクスが……こいつ、私達の数を減らすつもりだって」
浜野先生が一歩前に出た。
「仮にだ、置いて行かないとどうなる」
駅員はゆっくりと首を元の向きに戻し、無表情で答える。
「全員……帰れません」
「脅しか?」
修が睨む。
「決まりです。この駅からの帰還には“代償”が必要」
ひよりがその言葉に頷いた。
「本当だよ……この駅はそういう場所だから」
霧が流れ、周囲の景色がぼんやりと動いた気がした。
ホームの端の先には線路が続いているが、その向こうは闇しか見えない。
まるで、闇の中に落ちる為の道だ。
「……っ」
結が震えた声を漏らす。
「さっき……私のお母さんを見たんです。ここの……どこかに」
「にゃう(それ、たぶん生きてる存在じゃない)」
愛菜が息を詰め、修と結に伝える。
「ノクスが……それ、生きてる存在じゃないって」
「やめろ、今それ言うな」
修が低く言い返す。
愛菜は結の肩に手を置いた。
「結先輩……絶対に見つけましょう。犠牲とか、そんなの無しで!」
駅員がゆっくりと歩き出す。
足音は乾いた木のようにコツコツと響き、霧の奥へと誘う。
「ついてきなさい。あなた方が犠牲者を選ぶ場所まで案内します」
「勝手に決めんなよ」
修が吐き捨てる。
「決めなければ、全員残ってもらいます」
駅員の声に、冷たい確信が滲む。
浜野先生が低く呟く。
「……どうする、雨城」
「まだ決めない。あいつの言葉が真実かどうかも分からない」
ひよりが小さく首を傾げる。
「真実だよ。でも……“形”は変えられるかもしれない」
線路脇の細い通路を歩くと、古びた木造の待合室が現れた。
窓は曇りガラスで、外は霧しか見えない。
中に入ると、壁には古い時計が掛けられており、針は十二時で止まっていた。
ベンチの上には切符が六枚、無造作に置かれている。
「……人数分、ないな」
浜野先生が切符を指差す。
「にゃう(足りない分が犠牲だ)」
愛菜がノクスの言葉を訳す。
「ノクスが……足りない分が犠牲だって」
「俺、結先輩、愛菜、先生、ノクス、ひより……そして、結先輩のお母さん……この中から……」
「そんなの……納得出来ません!」
愛菜が声を上げる。
結は無言で切符を見つめていた。
手を伸ばしかけ、引っ込める。
その指先が小刻みに震える。
修がベンチの切符を手に取った瞬間、視界が暗転した。
次に見えたのは、ぎゅうぎゅう詰めの電車の中。
乗客達の顔はどれも青白く、目は虚ろ。
窓の外は真っ黒な闇が流れている。
「……事故か」
修は直感的に理解した。
彼らは皆、この世にはもういない。
目の前の中年男性が、膝の上で何かを握りしめていた。
小さなランドセルだ。
「息子が……先に行ってしまったんだ。俺が守らなきゃいけなかったのに」
その声は途切れ途切れで、悔しさと哀しみが混じっていた。
「お前が怒ってるのは……守れなかった自分にだろ」
修は静かに言った。
「にゃあ(それでも、お前は行けと言ってる)」
愛菜が短く訳す。
「ノクスが……それでも行けって」
「だったら……その子の所へ行け。お前が行くべきなのは、ここじゃない」
男の輪郭が揺らぎ、薄くなっていく。
「……ありがとう」
最後の言葉とともに、景色がはじけ、修は現実に引き戻された。
手の中の切符が、一枚、黒く燃えて灰になった。
「……足りないのは変わらないか」
浜野先生が苦い顔をする。
「そう。だから、やっぱり一人は置いていくしかない」
駅員が淡々と告げる。
ひよりが窓際に立ち、霧の向こうを見た。
「結の……お母さん、まだ近くにいる。でも長くはもたない」
結が顔を上げる。
「長く、もたない!?それ、どういう……」
「行きます。探しに」
「結先輩、待ってください──」
修の制止も聞かず、結はドアを押し開け、再び霧の中へ消えた。
愛菜が慌てて後を追い、修と浜野先生、ノクスも続く。
外の霧は、さっきよりも濃くなっていた。
数歩先も見えない白の中で、鐘の音が一定の間隔で響いている。
その音が導く先に、何が待っているのか──まだ誰にも分からなかった。
次回予告
第110話『切符は一枚足りない』
犠牲条件を突きつけられたまま、進む先で待つのは、失われた時代の切符と、過去からの囁き。
選択の時は、確実に迫っていた。
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