第103話『夜を裂くもの』
地蔵の一つが、首を傾けていた。
風等無かった。
虫の音さえ、遠くでかすかに聞こえるだけだった。
「……見間違い、じゃないよな?」
修がゆっくりと一歩引いた。
愛菜と結も、すでにその場から動けずにいた。
六体の地蔵。
その内の一体だけが、まるでこちらに首をかしげるように傾いている。
にこり、と笑って。
ほかの地蔵はどれも古びた石像で、ひび割れもあり、風化も激しい。
だが“それ”だけが、あまりに滑らかで、新しかった。
まるで、誰かが――今朝ここに置いたような。
「もう帰ろう。山道、戻れるんでしょ? もう……大丈夫なんでしょ?」
愛菜が、か細い声で言う。
だがその時、音がした。
――ベチャ。
湿った何かが、地面に落ちたような、生々しい音。
「……今の、何?」
結が振り返る。
木々の間。
誰もいないはずの獣道の向こうに、影があった。
何かが、這っていた。
白く細長い腕。
土と血にまみれたような髪の塊。
そしてその中心に、“人の顔”のようなものが幾つも重なっていた。
「ちょっ……まって、それ、まだ……」
修の言葉より早く、サイレンのような音が一瞬だけ鳴った。
だがそれは、電子音ではなかった。
“人の声”だった。
――「やっと……みつけた……」
低く、かすれた女の声。
笑っているようにも、泣いているようにも聞こえる声。
「走れ!」
修が叫ぶと同時に、三人は再び山を駆け出す。
朝の光はまだ消えていない。
だが、その後ろを、確かに“何か”が追ってきていた。
獣のように四つ足で、地面を舐めるように進み、
時折木の幹に顔を擦り付けて、笑っている。
その笑い声が、徐々に増えていく。
一人、二人、三人――数えきれない声が、笑っている。
やがて、森が裂けた。
突然、開けた舗装道路。
標識。
ガードレール。
電線。
現実が、そこに戻ってきた。
「出た……っ!」
修の声が裏返る。
愛菜がよろけ、結が泣きそうな顔で彼女を支える。
だが、振り返ると、森の奥にあったはずの道は――もう、無かった。
そこは、ただの深い木々の壁。
地蔵も、社も、あの村の名残さえ、全て消えていた。
ポケットで、修のスマホが鳴った。
《現在地を特定出来ません》
「……は?」
GPSは狂ったままだった。
だが、空は明るく、木漏れ日も確かに心地よく……。
けれど、ふと。
修の後ろポケットに、何かが入っている事に気づく。
取り出すと、それは折りたたまれた紙切れだった。
開くと、そこには文字が書かれていた。
赤い、指でなぞったような筆跡で。
《あの夜は終わらない。まだ五体、残ってる》
「……嘘だろ……」
呟いた修の耳に――
ガサ……ガササ……と、木の間で何かが動く音が届いた。
次の瞬間、道の向こうから、一台の軽トラが走ってきた。
老人が窓から顔を出し、三人に気づいて停まる。
「おお、あんたら、こんなとこで何してんだ。熊出るぞ」
その一言で、現実がようやく戻ってきた気がした。
だが修達は、安堵しきれなかった。
――“まだ五体、残っている”。
あの地蔵の視線は、終わっていなかった。
次回予告
第104話『笑う石仏と森の音』
帰還しても終わらない異変。地蔵は山に留まっていない。
“笑っている”のは、すでに人の形をしていなかった――。
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