目標
陽太は地面に倒れこんでいた。
腹には殴打の後、こめかみから伝った血が、頬をつたって地を赤く染める。
その様子を蒼翠郎は黙って見ていた。
なぜそこまでするのだ?
お前は神ではない。
神は己を顧みず、人々の祈りや尊い命を守るのが役割だ。
お前は違う。ただの人間だろ。
人間はいつだって自分を優先するはずだ。
幸せになれますように。
健康に過ごせますように。
お金持ちになれますように。
私はいつも人々の祈りを聞いてきた。
人間は他人の幸せを願うほど強くはない。
少年が陽太の頭を踏みつけようとした時ーー
「何をしているんだい?律貴」
その声と共に、屋敷の奥から一人の青年が現れた。
長いまつ毛の奥に覗く目は透き通るように澄んでいるのに、不思議とそこには一片の光もなかった。
蒼翠郎はその青年に目をやる。
律貴?この少年のことか?
この青年は律貴とやらの兄か?
「まさかお前、その見るからに弱そうな鎖印使を相手に、満足しているわけではないだろうね?」
律貴は黙ったまま青年を見つめる。
「だからお前はいつまで経っても”微弱”なんだよ。わかるかい?可哀想に...。鎖印使御三家に生まれてきたのに才能がないなんて...」
その声色は美しい見た目と同様に透き通っている。
だが、紡がれる言葉は淡白で、冷ややかだった。
律貴は唇を嚙み締め、目を逸らす。
「こいつは微弱なんかじゃねぇ!!!!」
さっきまで倒れていたはずの陽太が立ち上がった。
「こいつは強い!お前が誰だか知らねえが、強い!俺はこいつに本気でボコられた!」
陽太は血だらけになりながらもそう叫ぶ。
顔面は腫れ上がっている。
この阿保はなぜその律貴という少年を庇っているのだ?
そいつはさっきまでお前を殴っていたんだぞ?
「そうかい。こんな出来損ないに殴られるなら君はよっぽど弱いんだね。可哀想に...鎖印使やめたほうがいいじゃない?」
青年はそういい、屋敷へと戻っていった。
律貴は悔しそうに下を向く。
その場に重たい沈黙が流れる。
「お前は強い」
その言葉を発したのはーー
蒼翠郎だった。
律貴は驚き顔を上げる。
陽太も蒼翠郎の方を見た。
「お前は強い。しかしあの兄はもっと妖力が高く流石御三家の長男というところだ。あの兄には才能があるのだろう」
律貴は再び下を向く。
「才能がないのであれば努力すればいい。努力する人間は強い。お前はもっと強くなれる」
律貴は蒼翠郎を睨みつける。
「努力してもアイツには敵わねぇんだよ!!!」
律貴の怒号が響き渡った。
「兄より強くなりたいのか?」
「当たり前だ。でも敵わねぇんだ。どんなに努力をしても!!」
「ならばお前は努力が足りないのか、努力の仕方を間違えている」
「なんだと!!!」
律貴は蒼翠郎に殴りかかる。
陽太は止めようとするが体が動かない。
律貴は蒼翠郎の顔面に拳をぶつけた。
「おい!!!」
陽太は叫ぶ。
しかし蒼翠郎は口を止めなかった。
「お前は兄より強くなりたいという目標をもっている。お前はその目標を必ず達成できる」
「できるわけねぇだろ!こんなにも努力しているのに...」
「できる」
陽太はこんな蒼翠郎を初めて見た。
陽太が話しかけても一言でしか返ってこず、挙句の果てには一言すら返ってこないこともある。
初めて見る蒼翠郎の姿に少し嬉しさを感じた。
「人は無理だと思うことは目標にしない。それらは全て”願い”とし努力はしない。
だが、お前は兄より強くなるという目標を持っている。努力している。それはお前が兄より強くなれると信じているからだ」
律貴は黙ったままだ。
「俺と一緒にこいつを人に還らせようぜ!」
陽太は律貴に無邪気な笑顔で語りかけた。
「お前スゲー強いもん。俺喧嘩でこんなにボコられたの初めてだぜ?お前がいてくれたら心強い!」
律貴は
「お前俺より年下だろ。偉そうにすんな」
陽太はまた殴られると思いビクつく。
「今紋様を持ってきてやる。待ってろ」
そういい律貴は屋敷へと戻った。
「........へ?紋様を?」
「やったーーー!蒼ちゃん!紋様を持ってきてくれるって....」
バタンーー
陽太は地面に倒れ込んだ。
やはり阿保だ。
人は自分を犠牲にして人を守れるほど強くないと言うのに。
なぜ私のために、自分を殴ったやつのために自分を犠牲にできるのだ。
律貴が屋敷から戻ってきた。
「何してるんだこいつは」
「知らん」
「起きろ、またぶん殴られてえのか」
こうして陽太と蒼翠郎のもとに新たな仲間、鵜久森律貴が加わった。