五話 私の居場所があるところ
「ヴェロニカ。やっと見つけた」
「……何、で」
屋敷を出てから二週間、私はジュリアスと再会した。
間隔を開けたまま立ち止まった私たちを避け、人々は歩いていく。けれど、私の足は地面に縫い止められたかのように動かなかった。
「探してたんだ」
ジュリアスの言葉に、抑えていた感情が溢れかけた。
「それは……便利な妻がいないと面倒だから?」
「ヴェロニカ?何を言ってるの?」
知らないフリを続けるジュリアスが憎らしい。
絶対、あなたのもとには帰らない。
「もういいわ。あなたに私の気持ちは分からない」
私の言葉に反論するようなジュリアスの声が聞こえたけど、無視して私は走り出した。
人並みを縫って、細い路地に飛び込んで。
逃げるため、つかまらないために、必死に走り続けた。
邪魔だから踵の高い靴は脱ぎ捨てた。
ドレスが汚れるのも、足が痛むのも気にせず走り続けた。ただ、あの人から離れるために。
「はぁ……はぁ……ここは……どこかしら……?」
息も絶え絶えになるまで走って辿り着いたのは、見知らぬ狭い裏道だった。
そもそもこの街に来ることも初めてだし、土地勘は全くと言っていいほどない。
太陽は傾き始め、辺りには人が一人としていない。
「馬鹿みたい。いい年して迷子になるだなんて」
せめて、大通りに出ないと。
疲れた足に鞭を打ち、開けた場所を目指そうとする。
「痛っ」
しかし、一歩足を踏み出すとともに足が鋭く痛んだ。
一心不乱に走り続けていたため足の裏はところどころ切れていて、血がにじんでいる。
夢中で逃げていたうちは足の痛みも忘れていたけれど、一度意識してしまうと体は無視できないほどに痛みを訴え続けた。
何だか、急にどうでもよくなってしまいその場に座り込んだ。
足を抱えて、膝に顔を押し当てる。
「もう一歩も歩きたくない……」
覆われた視界と風のそよぐ音だけが聞こえる世界に、一人きりなんだと感じて、なぜかひどく安心した。
『ねえ』
呼びかけられた気がして、反射的に顔を上げた。けれど、当然誰もいない。
空を見れば、太陽の沈む向きとは反対に、薄っすらと月が浮かんでいる。
こんな場所に座り込んでいる私に、話しかけてくれる人なんているわけ無いじゃない。
そう思うのに、ある日の光景が蘇ってきた。
『君、大丈夫?』
変声期特有の少し掠れた、柔らかい声。
今は聞くことは出来ないその声は、……出会った当時のジュリアスのものだった。
思い出してみれば、ジュリアスと初めて出会ったとき、今のように私は迷子になっていた。
初めて行った王城で、両親と逸れてしまい迷ってしまったのだ。それで、座り込んで泣きそうになっていたとき、ジュリアスに話しかけられたんだった。
『一緒に、広間へ行こうか』
私は幼いながらに女性らしくないと言われてばかりで、同年代の令嬢たちから孤立していた。
〝女性らしくない変わった令嬢〟
その噂をきっと知っていただろうに、ジュリアスは何事もないように助けてくれた。
そんな彼に、思えば一目惚れしてたんだと思う。我ながら単純だ。彼は、誰にだってそうするだろうに。私は、端から彼の特別ではなかった。
「愛されたかったなぁ……特別に、なりたかった……」
少しだけ顔を上げ、目の端の雫を指先で払った。けれど、堰を切ったように涙が溢れ出して、拭っても拭っても涙で視界が歪んでいく。
きっと、今の私はひどい顔をしているだろう。
涙を拭うのも煩わしくなって、私は再び顔を膝に押し付けた。
「――ヴェロニカ」
何だ。また、都合の良い幻聴でも聞こえてしまっているのだろうか。
……この期に及んでまだあの人を思い描いてしまうのか。
「ヴェロニカ、ごめんね」
頭を撫でられる感触に、それがさっきまでの幻聴では無いことを悟った。
「……、……ジュリアス?どう、して……」
「君を探しに来たんだ。迎えに来るのが遅れてごめん」
いたわるような優しい言葉に、零れたのは疑問だった。
「…………どうして」
どうして今更、そんな申し訳なさそうにするの?何故私を追いかけてくれたの?どうして?どうして私を大切そうに扱うの……?
言いたいことはいくつもあった。
でも、口にできたのは。
「どうして……どうして、私が家出したことになってるの……」
「ごめんね。ヴェロニカを探すためにはこうすることしか思いつかなかったんだ」
私を探すために?
……だから、〝見つけた〟と言っていたんだ。
「家出したとなれば、ヴェロニカが注目されることになるでしょう?そうすれば、どこに居るか見つけられると思ったんだ。実際、君を見かけたという噂が聞こえ始めた。それを頼りに僕はここまで来たんだ」
「……何よそれ……ストーカーみたい」
そこまで執着するほど、私に妻であってほしいの……?
「そう言われると思った。でも間違ってはないよ。君を探すために色々な街を巡ったわけだし」
ちらりとジュリアスの顔を盗み見ると、あの日と比べてだいぶやつれているように見えた。
「どうして、そこまでするの……?どうして放っておいてくれないの?どうして……、……離縁してくれないの?」
顔を膝に押し付けたままの、くぐもった声だったけど、彼はしっかり聞き取ったのだろう。間を置かずしてジュリアスは答えた。
「それは、君を手放したくなかったから」
迷いのない言葉に、まるで自分が愛されているのだと錯覚してしまいそうだ。
期待など、するだけ無駄なのに。
「……どうせ浮気相手にだってそう言うのでしょう」
「やっぱり、僕の浮気を気にしてたんだね」
やっぱり?
私が浮気を気にしていると知りながら放置していたの?
そんな私の怒りが通じたのか、ジュリアスは慌てたように付け足した。
「君が出て行ってから、僕の浮気の噂を聞いたんだ」
話を戻すけど、と言ってジュリアスは続けた。
「ヴェロニカと会ったことは本人から聞いてるけど、フランシスがこの前屋敷来たんだ」
急に何を言い出すのかと思った。
フランシスが来ていることと、浮気の噂。どんな関係があるというの?
「でさ、フランシスって、僕と似てるじゃない?だから、多分勘違いされたんだと思うんだよね」
「勘違い……?」
つい顔を上げて、でもジュリアスと視線が合うのが怖くてつま先に視線を向けた。
「フランシスと奥さんで歩いてるところを使用人の誰かが見てたんじゃないかな。それを僕だと勘違いして浮気の噂が流れたんだと思う。……僕とフランシスは双子でもないのに、遠目じゃ見分けがつかないからね。両親にすらよく間違えられていたくらいだし」
そう言われて、妙に納得した。
私は見間違えたことはないけど、確かに二人はそっくりだ。
「……そっか。……そうだったんだ」
少しは安心した。
ジュリアスはやっぱり浮気なんてしていなかったと。
「でも、だとしても……あなたは私を愛してくれない」
ぽつりと零れた言葉に、ジュリアスは答える前に私の隣に座った。
そっと気づかれないようにジュリアスの方をうかがうと、正面を真っ直ぐ見ていた。けれど、その表情はどこか寂しそうで、悲しそうだった。
「やっぱり、ずっと不安にさせていたんだよね。本当に、ごめんね。……でも、僕の気持ちを聞いて欲しい」
日が沈みはじめ辺りには静けさが漂うなか、ジュリアスは言葉を紡ぎはじめた。
「僕は、ヴェロニカを愛している。君を、一人の女性として心から愛しているんだ。信じて欲しい」
最近は、ずっとすれ違ってばかりだった。
私に寄り添ってくれることもなかった。
それなのに、そんなあなたを信じろというの?
「……ヴェロニカが側に居ることが当たり前になっていたことに気づいたんだ。君が僕に愛情を向けてくれることも日常になっていて、疑うこともなくなってた」
「でも、僕はヴェロニカが居ないと駄目みたいだ。仕事をしていても手がつかないし、一日中ヴェロニカのことばかり考えてた。それで、ヴェロニカは僕の日常には欠かせない存在だったんだなって思った。……君が居ない間にやっと気付くなんて、遅すぎるよね。ごめん」
そう言って、ジュリアスがこちらを見る気配がした。私は目を合わせるのがなんとなく怖くて、地面を見ていた。
「君が、僕が居ない生活の方が幸せならそれでいい。でも、僕はヴェロニカといることこそが幸せなんだ」
「――だから、ヴェロニカ。もう一度、やり直したい。屋敷に、帰ってきてほしい」
「……」
……まだ、信じられたわけじゃなかった。それなのに何故か、本音を漏らしていた。
「……私も……本当はジュリアスとずっと一緒に居られたらって思ってた」
「うん」
「でも、不安なの。私は……私には、何の魅力もないから。今はそうでなくとも、いつか愛想を尽かされるんじゃないかって」
「――ヴェロニカ。君は自分で思っているよりずっと魅力的だよ。自分の意志を強く持ってるところも、凛とした態度で隠してる不器用なところも。全部愛おしいと思えるんだ」
恐る恐る隣に視線を向けると、ジュリアスは愛おしげに目を細めていた。その瞳には、目元も頬も真っ赤な私が映っていた。
「……何よ、それ……恥ずかしい」
愛おしい、なんて。よく恥じらいもせず言えるものだ。私はひどい顔をしているというのに、恥ずかしいことを言いながら微笑んでいるジュリアスが憎たらしい。
「かもね。でも、これだけは忘れないで。僕はヴェロニカを愛してる。君だから側に居てほしいと思う」
「……、……そんなのずるいじゃない」
「今更ごめんね。でも、これが僕の本心。ずっと伝えられてなくてごめん」
結局、折れたのは私だった。
……いえ、折れたわけではないわね。自分の本当の気持ちに従っただけ。だから、きっと後悔はしない。
「…………わかった。屋敷に帰るわ」
そう言ったときのジュリアスの表情は、見たことないくらい嬉しそうでつられて私も笑ってしまった。
「でも、一つだけ条件をつけさせて」
「何でもするよ」
当たり前のように何でもすると言い切っているが、もし私が無理難題を押し付けたらどうするのだろう。
……まあ、そんな意地悪はしないけれど。
「これからは、絶対私が離縁なんて言い出さないくらいに愛すること」
「もちろん。神に誓って、君を一生愛するよ」
「……なら、いいわ」
日はすっかり沈み、代わりに月が輝いている。
二人で見上げた空は、いつの日か見た夜空にも負けないくらい綺麗だった。