一話 離縁しましょう
「珍しいね。ヴェロニカが執務室まで来るだなんて」
まるで私の言葉が聞こえてなどいなかったかのように、ジュリアスはゆっくりと片眼鏡を外しながら言った。
「はぐらかさないで」
敢えて高圧的に言ってみれば、ようやくジュリアスと目が合った。
「……どうして急に?」
まさか、何も心当たりが無いとでも言うのだろうか。
けれど、浮気をされたからなんて不確実なことを理由にするのは、何だか馬鹿らしい気がした。
「それは、……あなたが、変わったからよ」
もともと私たちは恋愛結婚だった訳だし、それなりに仲良くやっていたと思う。けれど、いつからかすれ違うことばかりが増えていた。
「あなたにはもう、私は必要ないのでしょう?……いえ、元からそうだったのね」
私とは違って人気者な彼のことだ。結婚だって、私に抱く感情だって、大したものではなかったのだろう。
私の言葉の意味が伝わっていないのか、ジュリアスは小さく首を傾げていた。
「とにかく。私はもうあなたと一緒に居たくないの」
「……ヴェロニカがそこまで言うなら、わかった」
やけにあっさり了承する彼に、やっぱりこの結婚に大したこだわりを持っていなかったのかと、少し寂しくなった。それは、これから離縁するのに未練を感じている気がして不快だった。
「それでは、提出しに行きましょう」
「今から?」
珍しいジュリアスの驚いた顔が面白くて、こんなときにも拘らず笑ってしまいそうになった。
「ええ、勿論よ」
はっきり言い切ると、ジュリアスは小さく息をついてから頷いた。
「わかった。それじゃあ、準備しようか」
◇
「離縁するというのに意外にもあっさりしていたわね」
教会で離婚届を提出した私は、思わず呟く。つい先ほどまで未練にも似た感情を抱いていたのが不思議なくらい、今は心が凪いでいた。
離縁が成立したとはいえ、伯爵夫妻が突然離縁したと公表されては領民たちにも迷惑をかけてしまうかもしれない。だから、離縁を公表するのは今すぐではないという約束をジュリアスとしていた。それまでは表面上と言えど夫婦関係であり続けるわけだが、とにかく彼の側を離れられるのなら何でもよかった。
離婚届を提出する時には、紙切れ一つで八年続いた関係が終わってしまうのかと寂しく思っていたものの、今や妙な達成感すら感じている。
――ところで、今どこにいるのかと言えば、伯爵家の屋敷がある街から少し離れた街である。離縁したのに同じ街に居座り続けるのは気が進まなかった。それに、ジュリアスと鉢合わせしてしまう可能性もあるわけだし。領地である以上この街もまた彼が訪れることはあるかもしれないけれど、きっと大丈夫だろうというどこからか来る自信があった。
ちなみにジュリアスはというと、仕事が残っていると言って屋敷に引き返していった。離縁したばかりだというのに、そんなにも仕事が大切なのか。
「……それにしても、本当にひとりになってしまったのね」
その言葉に、他人事のような感傷はあれど、悲しみはない。
……引き留めようとしてくれないのか、と思わなくもないけれど、そんなこと思ってはいけないい。
「私から離縁を言いだしたのにそんなふうに思うのは烏滸がましいわ。それに、後悔はしてないもの」
誰に見られているわけでもないが、無意味に胸を張って歩く。
「何はともあれ、せっかく離縁できたのだからこれまで以上に幸せにならないと!」
私は不審に思われない程度に、一人拳を掲げた。