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そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう

作者: きい

ご存知の通り、題名は宮沢賢治氏の詩のものです。(ほぼ)引用箇所があります。





 隣で寝ている女の、喉を振るわせる声が妖艶だった。

 暑がるように薄いタオルケットから滑らかで白い肌の脚を出して、僕に背中を向けてから、また動かなくなった。

 僕は、一時間前に思う存分に触れたその脚を見て、また触れたくなったけれど、両手を頭の後ろで組んで仰向けになった。夕方の部屋は薄暗く、天井が灰色のグラデーションに染まり、白い棚も、静かに唸る白い冷蔵庫も、全てが天井と同じ灰色になっていた。

 女がタオルケットを引っ張ると、僕の左半身が空気に触れて、鳥肌が立った。僕はタオルケットを寄せようと軽く引くが、女の体にまとわりついていて、引き寄せることができない。タオルケットは女の体のラインに沿っていて、柔らかでなだらかな起伏を作っている。

 身を寄せるように近づくと、女の髪から香水とは違う香りが鼻に触れた。タオルケットは女の体温で温められている。女は薄らと寝汗を掻いていて、肌が触れるとぺとぺとと僕と女の肌がくっつく。

 首に手をまわして、優しく抱きしめると、もぞもぞと動いてから僕の方へ向いた。

「もういちど?」

 舌たらずに言う。女の口から生臭い匂いが漂った気がした。

「いや、しないよ」

「そう?」

「起こしちゃったね。もうちょっと寝てたら?」

 僕は首にまわしてた手を引いて、頭の後ろで組んだ。

 女は何も言わずに顔を枕に埋めると、またすぐに寝息を立て始めた。

 天井を見続けていると、次第に灰色が濃くなっていって、灰色をだんだんと闇が浸食する。僕の目はしっかりと開けているのに、少しずつ閉じていっているようになにもかもが見えなくなっていく。

 まばたきをせずに、ひたすらに目を開いていると、乾き始めた目の端に涙が滲んでくるのが分かった。

 僕は静かにベッドから這い出る。唸る冷蔵庫を開けるとひんやりした冷気が照らされて、僕の脚を撫でた。

 ペットボトルのキャップを外して、そのまま口をつけ、喉から小刻みに降りていく冷たい水が、僕の食道と胃に流れ込んでいくのを感じる。冷蔵庫を閉めると、一瞬だけ部屋の中が真っ暗になり、僕が一人だけ知らない世界にいる気がしたけれど、すぐに目が慣れて、部屋中のかくかくした輪郭が見えた。

「ケイって、すごいんだね。若いから?」柔らかな輪郭が起き上がった。

 僕は冷蔵庫に寄りかかる。じかに触れる冷蔵庫は固く、冷たかった。

「はじめてだからね。かなりがんばったんだよ。よかっただろ?」

 女はころんと枕に向かって倒れて、「うん」と頷き、「もういちど?」と言った。

「もう帰るよ」僕は立ち上がる。冷蔵庫からぺっとりと背中の皮膚が剥がれていくのを感じた。

「彼氏と別れちゃおうかな」

「きっかけが無いんじゃなかったの?」

 女は黙ったまま動かなくなった。「きっかけなら、あるじゃん」

「確かに体の相性も大事だと思うけど」シャツを羽織ってボタンを上から留める。どうしても何かを言うような気にはならなかった。スラックスを履いてからベッドの上に腰掛けた。女は僕のことを見ようとしなかった。「カナのことは好きだってば」

 カナは黙ったままだった。僕は、「こんど、いつ会える?」と聞く。

「明日の夜、また。会社まで迎えにきて欲しいな。わたしとの接待って言えば、早く帰れるよね?」

「急な接待だな」

「大事なお得意様には変わらないでしょ?」女が口を開くと、また生臭い匂いがした気がした。

「はいはい、迎えにいきますよ」

「そうしたら、納期をもう少し多めに見てあげる」

「そのおかげで、もう帰らなきゃなんだけどね」

「じゃあ見てあげるから、もう少しいてほしいな」

「ここで、仕事の話は、やめてくれよ」

 僕はベッドから腰を上げて四角いバッグを手に取った。小さな通路を通って玄関へと向かう。

 柔らかな感触を背中に感じた。僕の腰に白い腕がある。

「ごめん」

 溜息をつきたいのを我慢して手に触れる。「ああ、分かってるよ」そっと手を摩ってから出来るだけ優しく手を外させた。

 玄関を開いて、後ろ手に扉を閉める。僕の目の前をくたびれたスーツを着た小太りな男がふらふらと通っていき、手に持っている鍵をかちゃかちゃと鳴らしていた。



 プライベートで会うときは敬語を話さないこと。

 仕事として会うときは必要以上に親しげにしないこと。

 公私混同をしないこと。

 僕達はそれを標語のように胸に刻んでおくようにしていたのに、最初の日の、それもものの数時間で最後の一行が崩れ去った。他の二行はどうでもいい。僕が守って欲しかったのは最後の一行だけなのだから。二人で決めたこの言葉三つを守っているのは、もう僕だけとなってしまったようだ。

「あのサンプル分は今日の納品じゃなかったの?」

 カナは自分のデスクに座りながら、周りを少しだけ気にしてから、いたずらっぽく目を細めて僕の顔を見てくる。

「最短でいけば今日だったんですけど、入ってこなくて」

 今日確実に持って来れるなんて約束はしていなかったのに、それなのに埋め合わせを求められているようだ。

「あと三十分したら下に行くね。それまではどこかにいて。電話するから」小声で呟いた。

 僕は彼女に軽く頭を下げてから、周りにも軽く頭を下げながらオフィスを出る。

 携帯電話を取り出して自分の会社に電話かけた。

「今日は社長と食事をして帰ることになりましたので直帰します」

 ああそう、おまえの大事な取引先なんだか、あまりヘマをするなよ、何人なんだ? 僕は、四人です、そう嘘をついてから電話を切った。

 カナの会社が入っているビルは小さいが小綺麗だ。都心の中心部に位置している立地に起業するだけでも素直にすごいと感じるが、この女社長が一人で立ち上げたこの会社は六年の間に社員が三十名になるまでに成長した。

 もちろんもっと短い年数でもっと大きな会社にしているベンチャー企業はあるが、ただ目指している場所が違うだけなのだろう。紛れもなくカナは成功者の一人だ。

 ビルの出入口で社員と顔を合わすのもバツが悪いなと思って、近くのコンビニへ入った。 

 雑誌のコーナーには綺麗な顔立ちをした女がどれも表紙を飾っていて、その間に肉汁が滴り落ちるグルメ雑誌が置いてあった。そこから目を落とすと、仕立ての良いスーツを着た中年の男性が表紙の雑誌があり、年収がどうたらという言葉が書いてあったが、僕はそれらには手を伸ばさずに宮沢賢治の短編集を手に取ってぱらぱらとめくってから、手を止めた。



「ここだと思ったよ」

 僕は慌てて電話を取り出し画面を見るが、着信はなかった。

「電話してないよ。たぶんここにいるような気がしたから」やっぱりね、そう笑うカナの顔は、いつもよりもより彼女の年齢を若返らした。

「すいません」

「いいんだよ。それよりも、もう敬語は、やめてね」

「うん」

「どこのお店を予約したの?」

「してない……よ?」

「うそでしょ?」

「いえ……その……」

 僕の肩をぱしぱしと叩いてくる。「うそうそ。わたしがちゃんと予約してるから。美味しいお肉でも食べに行きましょ。若いんだから精力つくようなものも食べないとね」

「いつものも、嫌いじゃないよ。美味しいし」

 カナは僕の腕に抱きつくようにして、「たまには、ね」と言った。

 僕はできるだけの笑顔で答えてから、ここで社員の人に見られちゃったらよくないんじゃないの、と呟く。



 そして僕はまもなく死ぬのだろう。

 僕というのはいったい何だ。

 結局まだはっきりとしていない。

 はっきりとしないまま同じ命の中で、僕は輪廻転生を繰り返す。

 明日の朝、裸の彼女を横に、新しい僕が生まれているのだろう。












出だしの一行が間違ったままUPされていたので修正しました。

誠に申し訳ございませんでした。

さらに一カ所、送り仮名を修正しました。

PCの調子が……。すいません、いいわけです涙

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― 新着の感想 ―
[良い点] タイトルに惹かれて読ませていただきました。 宮沢賢治の詩のことはよく知りませんが、とてもいい短編だと思います。とくに前半の、いやーな皮膚感覚の描写が良かったです。 他の作品も読ませても…
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