ラスタの記憶6:後編
ラスタ姫のターン。
「私を、誰だと思っているのですか?」
小さく痩せているせいか、とても大きく見える漆黒の瞳がラスタの視線と絡まる。ラスタはその二つの大きな黒曜の瞳がとても美しく、貴重な物に感じた。
「私は、〈大地の芽〉をその名に抱く者。ヴラスタリ・トゥルバ。種を芽吹かせるのは、息をするより容易いこと」
薬液に浸された包帯をするりと解けば、一年位前の傷ではどう見てもなく。大地の集めた記憶が正しければ、この腕は二度切っている、二度だ。大切な事なので重ねて……ではない。
その上、細い通路をこの腕で匍匐前進? なんって……ホント、正気じゃない。
そんなこの人を構って今から五十年を共にしようとする自分も、きっと正気じゃないかもしれないが、迷いなどラスタにはなかった。
どうしても癒したかった。
焦って止めようとしている彼を見て、ちょっとだけ『一度くらい、心配する身になってみればいいんだわ』なんてチラと思いながら。
でも止める気は更々なく、魔法陣を組み、呪文を構成しながら、
「貴方の腕を再生することくらい、造作もないことなんだからっ!」
そう言い切って、魔法陣が発する光が網膜を焼いてから……ラスタの記憶はプツリと切れてなくなった。
「おはよう、ラスタ」
「ぉ……おはょぅごじゃぃますぅ……?????」
という、気の抜けた挨拶と共に、癒えた彼の右腕を枕に、その手の平をしっかり握りしめ、一晩、幸せに寝込んでしまっていたのに気付くまで。
「そろそろ殿方は寝所より退出されて下さいね。姫はまず湯あみをしてお着替えをいたしましょう」
ちゃぷん……
そう言ってくれた侍女に助けられ、今は真珠湯の猫足バスタブに浸けられている少女ラスタ。
男性と、幼児の姿と言え、意識はなくとも再会した当日に、同衾してしまうとは何たることか……それも半裸で……体が小さくなって衣装が合わなくなったという不可抗力ではあるが……イロイロ言い訳はあるとはいっても、である。
身体が退化してしまった事も驚いたが、やはり添い寝は、ソレが見た目は可愛い幼児とであろうとも、その『中身』を知っている以上、恥ずかしすぎる。
「わたくしったら、わたくしったら、本当に何という失態を……」
ラスタは顔を湯に埋めたり、両の腕を掴んで胸を寄せてみたりと、何時になく何所となくそわそわしつつ反省中だ。
それに合わせゆらりと年々真金色に近くなっていく豪華な金髪が白い湯に踊る。身長は低くなったがもともと腰の下ほどまでの髪の長さは変わらないので、座ったら踏むほどのとても長い髪となってしまった。
「大丈夫ですわ。私達が、ずっとお傍に居りましたから。黒髪の殿方は紳士でございましたよ?」
「ええ」
「ずいぶん嬉しそうに、姫の髪で遊んでらっしゃいましたけどね」
「ええ?」
「それはもう……本当に、本当に姫様を大切そうに見ておられましたよ」
「ぅえっ!」
自分が寝ていた間の事を聞きたいが、語られる度にどこかが擽られているようだ。頬を寄せて寝ていたとか、耳をそっと触られていたとか、侍女に言われた状況を想像すれば、ぬるめの風呂だと言うのにラスタの全身はいつもより赤みを帯びてくる。
それに自分の体が幼くなった事にきっと家族は驚き、心配するだろう。それでも先ほど別れた幼児の腕が二本、ちゃんとそろっていた事に安心し、後悔など微塵もないのは事実だ。
「念入りに肌はお手入れしましょうね」
「若返ったから。と、手を抜いてはなりません。いえ、今だからです!」
気合の入った侍女達を気に留めるよりも、自分の考え事に忙しくしながら、朝食として紅茶とスコーンなどを口にした。
3000年前。
求愛を受けるなら『妄想だけでも何故、イル様からじゃないの!』と自分にぷんすこしていた時、ふ、とラスタは思った事がある。何故、あの男、だったのか、と。
「まさかあの『最低男』の事を……? 私が??」
ぶんぶん頭を振り、そのありえない思考を追い払い、
「あの男の事を? 私が?? そんな事、あるはずないです。ええ、絶対に!」
一人、部屋に帰って自信満々に言ったし、思っていたのに。
昨日、会いに来てくれた事が、プロポーズしてくれた事が。
こんなにもこんなにも嬉しくて。
愛おしくて堪らないなんて……
出会ったあの時からーー
あの男の事なんて、と思ったその時から。
きっと。
ずっと。
好き、だったのだ。
自分ではわからなかったけど。
イル様に向けるモノとは、明らかに違う。
その感情が。
確かに、ラスタの中に芽吹いて……
そんな事をぽーーーーっと、考えながら食べていたせいで、スコーンの粉っぽい部分を吸い込んでしまい、ゴホゴホと噎せる。
「ひ、姫さまっ!」
「の、飲み物を。冷たい物をお出しして」
「だ、大丈夫です、だいじょうぶ、です」
何とか収めて冷たいレモンティをゆっくり飲み下し、落ち着いた。そしてガウンのまま侍女らに連れて行かれたフィッティングルームに驚いた。服がずらっと並べられていた。
昨日までの服は全て隅に追いやられて、全て今の身長に合う少女サイズの服だ。
「お洋服は全て一の姫様がご用意して下さいました」
「お選びください!」
「ささ、こちらに……」
ラスタは王族であるから、下賜などの関係もあり、その服の数は多い。相当気に入るか、特別な贈り物でもない限り、二度同じ服を着ないほどだ。だが3000年程、殆ど似たような代わり映えのしない服が多かった。そのシンプルさがラスタの容姿の良さを引き立ててはいたのだが。
若木に差し掛かる前は姉達が遊んで着替えさせてくれたが、イル様の従者になった頃には実用実利を求めた結果、行事や公式の場以外はそのままシンプルを貫いている形である。
「……これ、かわいい、ですわね。あ、あれの方が大人っぽく見えるでしょうか……」
いつも仕事がしやすければ、基本的にどうでもいいと思っているラスタだから。昨日だって侍女に推されて何とか髪を飾ったくらいはしていた。けれど……3000年ぶりに会って、今から五十年を一緒に居たいと言ってくれた男と会うのに、適切な服装であったかと言われればそうではない。
ただ、昨日は不意打ちだった。
彼もその姿は旅装で、今までの苦労を滲ませるもの。『奴隷だった』と言い、『また魔法使いになり損ねた』と、すでに聞くに堪えない環境で育った彼だが、痩せて小さいが可愛い、初めて見た幼い姿のあの男。潤んだ瞳などもう愛でてしまいたいとなる気持ちもわかる色気もあった。
「これ、は。素敵だわ……さすがクリュー姉上……」
用意された服は全て対で作られていた。
目を引いた女児服はフィッシュテールのワンピース。黒いタイツに合わせた上品な黒靴のリボンが可愛らしく、配色の効果で足首が細く、足が長く見える予想がつくし、何よりとても可愛かった。
対の男児服は共生地のシンプルだが仕立ての良いジャケットに、柔らかな飾りがついているシャツには目立たないが細かな刺繍が入っており、とても品が良い。
黒に新芽色……それは二人の瞳の色。お互いに交換したその色合いを、可愛い男児に着せてみたい欲と、これなら自分も可愛く見えそうだという乙女心が入り混じって……
「……あの、あの姫様がっ。し、真剣に悩まれていますわ」
「静かに。さ、今のうちです。今のうちに小物の用意も! 早く」
「先輩! こちらを! 私は殿方に姫が決められた服の片割れをお渡しして参りますっ」
「わかったわ。靴サイズ、小物も順次、取次をお願いね」
侍女達がこっそり、しかし精力的に動き始める。3300年、最初に使えたエルフの侍女達はもう生きていないが、ラスタの侍女達に受け継がれてきた歴史上、こんな、こんなに春色めいた四の姫の様子は初めてだった。
隣国の貴公子が詰め寄って来ようが、膝を付いて求愛されようが、目の中にも入っていない。それをシスコンの気が強い長兄デュセーリオが邪魔をしているから尚更だ。
彼女が弟妹を可愛がる姿は良く目にしているし、子供の姿を取る英雄イル様を追いかけていたので、年下好みだった線もあるが……そういう時の姫は相手の事ばかりを考えるだけで、自分の事は二の次。明らかに違う様子なのは側仕えとしてしっかり感じ取っていた。
「姫様。そちらにされるのでしたら、パニエはこちらでいかがでしょうか?」
「こちらへお座わりになられて下さい。髪を結わえながらゆっくり選びましょう。ハーフアップ、いえ編み込みでエルフらしさを出しましょうか。それによって飾りも印象が変わりますよ」
「後、爪を手入れいたしましょう。お任せくださいませ」
3000年ぶりに会う……なんて事を侍女達は知らない。
だが可愛くそして綺麗に見られたい、そう無意識にソワソワする姫を侍女達は囲み、彼女にやんわり意見を聞きつつ仕上げていく。ココで気付かれると『すん』となるのが我らの姫なので。無駄な事は言わない。
そうしていつもなら『もうこの辺で』と言って席を立つ彼女が、じっとされるがままに待っている事に侍女達は感動する。彼女達もそれに甘えず急ぎながら、ラスタが少しでも時間が有意義に使えるように秘書官を呼んで連携し、昨日と今日の仕事のスケジュールを調整した。
その途中、ラスタの生母ルツェーリアより映像投影が繋がり、幼くなった姿を見られ、ラスタは心配と共に柔らかく怒られる。
『! ヴィラちゃん……っ。そんなに小さくなってまで、助けたい方がいるのは、とても素敵なことだとは思うけれど……』
タレ目がちで優し気な雰囲気を持つ淡すぎる金瞳から、零れる前に涙を拭う。
ラスタの母は双子を産んでからは床上げを出来ない程、始終寝たきりだ。それもここ最近は数分の面会もままならない日が多いと言うのに。そんな生母にも流石に幼くなってしまった事実は伝えられた。ラスタは出来ると踏んだが、罷り間違えば命も危うかったのだから。
『無理をしては駄目、なのよ? 無理してまで……自分を癒される事など、その殿方も望みはしていないと思うのよ』
優しい母は自分の所為ではなくてもイロイロ背負い込んでしまう。生来から体が弱いとはいえ、病を治しきらないのはその優しさ故、向けられた『呪い』まであえてその身に受けてしまっているから。父王の魔法を行使しても解決しきれない『病』、そうラスタは聞いている。
そんな重病の母を心配させてしまった事にラスタの心がジワリと痛む。
「無理はしてないです! でも……心配させて、ごめんなさい。お母様こそ……大事になされて下さいね」
いつも以上に具合が悪いのは、金を水で薄めて、極々淡くしたような瞳に溢れる涙を拭う手爪の青白さで深く感じられる。
『ええ。わかればいいのよ。ヴィラちゃん。今は難しいけれど、もう少し……私の体調が整ったら。その方とココへおいでなさいね』
その会話を終えた頃、ウィアートルが笑顔でやって来て、口笛を吹いた。
「俺の妹はいつも可愛いけれど。リオ兄が見たら離さないかもね。『ヴィーは誰にもやらん』とかって、二刀で立ちはだかるんじゃない?」
今は漆黒の彼も湯あみし、着替えているらしい。侍女や補佐官は信頼を置いているが、ここから二人は念話で話し出す。王族とは機密が多い、周りは知っている為に気にもせず己達の仕事をこなす。
『包帯巻くのに時間がかかるから、その隙に来たよ』
『やはり、酷いのですか?』
『まぁ良くなった方? 言いたくないけど、もう死んだと思ったから。精霊王が融通してくれなかったらどうなった事か』
その灰の瞳が暗く濁るのを見て、当初の酷さが推測できた。
『またあの男は自分から『アタリ』に行ったのでしょう……自分にしか出来ないと判断したら、躊躇など微塵も無く走って行くのですから』
『昔っからなの? 物理的にホント死んでも治んないヤツかぁ……今も彼は痛みに強すぎるから動けてる。まだまだ薬や療養が欠かせないし。何より生まれからして環境が良くはなかったから、いずれ心臓なんかも注意した方がイイと思うんだよね』
『そうですか。心に止めておきます』
『後、昨夜、皆で集まった時に、彼が君を探していた事は言ってあるよ。それと彼が前世の記憶保持者であるのは、先行でこっそり父さんとシェアスル母さんだけに』
転生した記憶が残っている事はよくあるとは言えないが、魔法のある世界故、その存在は忌避されない。しかし取り扱いは注意されるべきものとなる。いずれ知られるとしても、すぐでなくてよいが、ではどうやって知り合ったのか説明するのは難しい。
『ハイエルフ、って事は伝えてあったんだね』
『彼はイル様と同じ他の星の人族でしたから。その星にはハイエルフどころかエルフもドワーフも妖精も……〈幻想〉の域を出ない、つまり想像の世界にしか住んでないそうですよ』
『へぇーーーーそれにしても超高位魔法なんて久々に見たなぁ。ヴラスタリの魔法がこんなに上達してて、お兄ちゃん嬉しいよ。おかげで彼の全体的な治癒も早まっている感じがしたし。じゃ、着替え終わったら薔薇庭で、ね。御前への召喚前に彼とも話す事があるだろうし』
『あ、あの! ウィア兄上』
男児の下に戻ろうとする灰色の兄を念話で引き止めれば、微笑みながら透き通ったその視線をくれる。
『あの、彼は奴隷、だったと』
『ん。あの手を見れば予測は付くけど。はっきり聞いたのは今朝、ほんのさっきだよ。生まれてすぐに、売られたらしいよ』
ウィアートルにしてみれば、やっと動けるようになった彼を身綺麗にして、話を聞いた上でラスタを数日内には呼び寄せる予定だった。ただ父王との約束で彼の存在を伏せるのは、ラスタが来るまでだったので仕方ない。
『それにしても腕を、切るなんて。茨の黒墨など、わたくしに会うには邪魔なだけ、不利益なだけなんて言っていましたけど。もっとやり方が……』
『それは本心だとは思うし。聖国には奴隷から解放されるため『隻腕の儀式』というのがあってね……まぁ体制が変わったけれども。彼はそれに則ろうとして……』
隻腕になる……ほぼ生き残らない、生き残っても過酷な、国に人を縛る為の法。奴隷が奴隷で無くなる事を許さず、国民は自分より下が居る事で安心し。奴隷はそれでも完全ではなく、ほんのわずかな希望がある事で死を選ばず、ギリギリの待遇で労働力として破綻させない。
『……で。上手い事を言って集めた子供を国民と奴隷にわけ、貴族と国の為に管理と飼育をしてたんだって……』
兄の締めの言葉にぞっとする。そんな場所に居ては会う前に死んでいた可能性は、思っていたよりも非常に高かっただろう事に。
『聖国の体制崩壊にも関わってそうだし……ともかくもう少し時間が欲しかったよ。まぁヴラスタリの側にいるならゆっくり紐解けばイイかぁ。そうそう。彼、竜神国の現王の王弟の子供だって。あそこは子が居ないから、彼を養子にしたがってる。精霊国とか妖精国とかも彼との謁見を求めているよ、誘拐事件解決の功労者だし。そーいや昨日エンツィアからも説明しに戻って来いってギルド経由で彼に手紙が来てたよーな』
『え……』
黒髪黒目の赤刀使い……彼の身分や状況が分からなさすぎる。ラスタが混乱した面持ちでいるのをみて、ウィアートルは笑った。
「あ、これ。執務室で落としかけてたから、預かってリオ兄に固めてもらって、細工師に加工してもらっといた。じゃ、そろそろ俺は戻って髪梳いてやろっ。久々に小さい義弟が出来そうで嬉しいなぁ。右手もあるし落ち着いたらハープ弾いてもらおっ」
「あっ兄上っ!」
立ち去り際にウィアートルが耳に飾ってくれたのは、昨日、彼がくれた小さな白い花。淡く紅の入った花弁に金の蕊が美しいそれは小さな氷水晶の中に入れられて、揺れるイヤーカフに加工されていた。
「姫様これは?」
「彼が昨日くれた、のです。同じくらい綺麗だ、と言って」
つい口を滑らせてしまえば、侍女達が微笑んだ。無意識だったが。先ほど選んだ髪飾りの小花が、耳を飾るその花によく似ていたから。
「まぁ……まぁまぁ……ちょうど髪の飾りと対のようで……美しいと思いますよ」
花の入ったソレが飾られた耳を朱に染めながら、髪飾りを付けたラスタは鏡の前の『少女』を見た。
ヒラ、ヒラとスカートを揺らし、髪を触って一周まわってみたりする。魔法があってもこんな幼い少女の姿に変幻する事はないのでとても新鮮だし、侍女達のおかげで可愛く出来ていた。
「ありがとう。素敵に……見えるかしら?」
「ええ、可愛く、エレガントにみえますわ」
「姫様、とても綺麗ですよ」
そんな声に背を押され、日傘を挿しかけてくれる侍女と、指定された庭で彼を待つ。白バラの花咲く庭は美しかった。
眺めていれば、そうせずに身なりを整えた小さな彼が手を引かれて歩いて来る。
男性と呼ぶには余りに幼かったが、思った通り彼はとても可愛かった。共生地のジャケットにはラスタの髪と耳を飾る小さな花と同じアクセサリーが輝き、まさに己と対になっていた。
彼もラスタを見た途端、顔を微かに赤らめ、口角が上がった事が、恥ずかしいけれども、嬉しかった。
サワサワと彼が背にした世界樹の居所が梢を揺らす。
世界樹とはこの世界を支える柱。世界に一本しかなく、父王に守られたエルフの森にしか生えない。この星の核と繋がる不思議な植物で、数千年に一度代替わりする。当代の世界樹が枯れれば、核が割れてこの星は消滅する。
このハイエルフが住む世界樹の居所は数代前の世界樹。核と繋がる役目は終えたが、魔法の残渣が宿る巨木の城だ。
全盛期より小さめになったとはいえ、その幹がざわと揺れ、朝と昼の狭間の光に、舞い落ちる乳白色の葉が七色に光って舞い落ち、地面に溶ける。幹には幾つもの宝石が輝き、ステンドグラスのような輝きを自然の造形として描き出す。
彼の頭の上に当たり前のように座している鳩が、従魔のドラゴンだった事に気付き、驚く。
ラスタは彼にまず挨拶と礼を取ろうとすれば、まるで必要ないとばかりに手を食まれてしまう。その様にウィアートルに揶揄われつつ、二人で話そうとすれば、3000年前と変わらない言い合いにホッとするような、イラりとするような、ままならぬ感覚も懐かしい。
そうして彼は持ってきてくれた緑琥珀をラスタに飾ってくれる。しゃがんだ彼女に抱き付くように手を回してつける、そして手を握られれば、彼女の心臓はきゅっとなった。
「コレを見た時にちょっとラスタに似ていると思った」
その石は見た目だけではなく、とても貴重な宝石だった。それも彼が念を持ってここまで運んでいるうちに、溢れんばかりに籠った魔力が力強くラスタを包む。
ソレに背を押されるように、今更、であるけれど、今更だからこそ、彼のその口から『名を聞こう』とラスタは思い口にする。
風が吹いて、ふわりと自分の金髪が空に揺られるのを感じながら、
「貴方のーー、名を教えてください。…………なまえ、を、そのぅ、呼びたい、ので……」
その質問で微かに黒曜の瞳が揺らいだ。
「ティ……だ」
その名はイルが口にしていた、3000年前と同じ名前。
同じ魂だから、生まれ変わっても同じ意味や音の名をいただく事は多い。また似た発音である事も多い。『魂の瑕疵』についていろいろ調べていた折に触れた資料を思い出し、ラスタはそんな事を思うが。
ああ、と、思う。
『まさか、名をもらっていないの? 何故この人は、普通の人が普通に与えられ、手にし、貰えるモノが何一つ与えられずにいるの……』
名前がもらえない人生があるのだと王族のラスタは見聞していても、想像の域。目の前のサンプルにたじろいでしまう。
ティ……その名だって、本当の名前ではなく『商品の番号』だったと、彼が死んでからやっと知った。その名すらラスタは呼んだ事がなかった。
「ん?」
彼自身は自分の揺らぎに気付いていないのだろうか。すぅと両手で彼女の顔を包み、右手の親指の腹でその唇を撫で、
「呼んで……くれないのか?」
表情筋が仕事しない事が多い彼の顔に浮かぶ、不安。
だからラスタは顔や唇に指で触れられる羞恥に耐えつつ、その名を口にしようとして、ちゅっ……と、唇に口付けを落とされる。身長差が埋まっているのは何故だろうとチラと思うが。
「っ……テっ……ん、ん……」
もう、もう、こ、この男はどうして恥ずかしげもなくこんな、こんな……だいたい言えない、こんなに口を塞がれていては。絶対に『挨拶』などではない、星の数の様に降らせるキスにラスタは混乱しながらも何とか思考を動かした。
『名前……誰も彼にあげないんなら、わたくしがあげればいいのでわ?』
……っと。だから、瞬時に頭の中の知識をかき集め、自分の彼への願いを絞って、その一瞬で百年分と言わないくらいに脳をフル回転させた。
その間に『これは言わせる気がないのではないでしょうか』そうラスタに思わせる程、たくさんのキスを降らせ、ようやっとそれを止めた彼。羞恥と頭の回転の負荷で赤く色付いたラスタの長い耳を軽く食んでから、
「3000年で初めて、好きな女に呼ばれる名だ。最初は誰にも聞かせたくないから、出来れば耳の側で言ってほしい」
と、言った。
だから彼が望むようにその耳に、気持ちを込めて囁く。
刻む様に。大切に贈る。
「…………オルティス・シュヴァル・ユウェル」
ラスタは耳に囁きながらも、彼の漆黒の瞳が大きく開かれるのを目の端で捉える。
最初は謎の呪文にでも聞こえただろうが、『魔法使い』の彼ならば。名を与えられるその重要性と繋がりはわかっているハズ。その瞳が見開かれた事で気付いてくれたと確信する。
「〈夜明けの黒き宝石〉と言う意味です。夜明け、故に、ティ、と、わたくしは貴方を生涯そう呼びましょう」
「俺に名を……くれたのか……」
暗い人生にあっても『夜明け』は来る。それは『希望』であり、彼はラスタが見つけた『漆黒の宝石』。自分自身にとっても『希望であり至宝』であるという意味だ。
ざあっ……
強く風が吹き、雲に遮られていた陽光が彼の髪を照らし、古き世界樹が祝福を降らせたのにラスタは気付く。この世に彼が生を受けた事、この森にて名を受けた事、ハイエルフの姫に愛されている事を示す様に、彼の漆黒の髪がゆっくり……彼に付けた『夜明けの黒』、黒交じりの藍紺色に変化していた。名は体を表すというその言葉そのままに。
庭の白薔薇までもがすぅっと色を変え、それは誰かを起草させるような赤に染まった。
はらりと彼の目から涙が伝うのを感じながら、ラスタは彼を離さぬようにキュッと抱いた。ラスタはその言葉に返事を返し、その身の温もりを確かめる。
見た目よりまだまだ傷ついた小さいその体が、早く大きくなるように願いながらも。
でも二人で少しでもゆっくりと、明るく、楽しい時間が少しでも長く過ごせるように。いや、この男がどこにいようと、必ず『夜明け』が来るようにとラスタはその名に祈った。
lllllllllll
父王の計らいで世界樹の居所に、ティは居室を与えられた。ラスタの家族は概ね歓待だったが、一番喰ってかかったのは、長兄のデュセーリオだった。
ガキィン
澄んだ青空に似つかわしくない、剣戟の音が響く。
「毎度毎度、懲りないな」
「お前がヴィーを諦めれば済む、話だっ!」
「断るっ」
ぎりりっっと二人の剣が噛み合う。模擬剣だがヘタすればただでは済まないのに、全く二人は構わず打ち込んだ。魔法も込めている為か氷が辺りに散った。近くの樹の上でドリーシャが首を傾げつつ、応援しているのかクルクル鳴いている。
「デュリオは嫁を早く探せ。ラスタは俺のだ。やらん」
「やるとかやらんの前に貴様にはやってないっ!」
「貰いに来たのはラスタだ。代わりラスタには俺の全て貰ってもらう。その是非をデュリオには聞いてない」
「くっ! だ、だいたい妹にも俺にも変な名前を付けくさりやがって! この、この、し、死神めっ」
「氷の貴公子っ……ふっ、笑わせるなぁデュリオ! 」
「お前なんか、お前なんか、ホント災厄だっ」
いつも冷静で『氷の貴公子』の異名を持つ彼に、怒ると耳が角に見えると『青炎の魔鬼』と影で呼び、『そう言う時の言い回しはラスタに似て愛いんだけどな』などとティが言っていたのは、未だに黙っている秘密だが。
「まぁ~た。やってるよ、あの二人」
二人を見ながらやれやれ、と肩を竦めるウィアートル。その横で巻き込まれぬ前にゼアが黙って引き上げの用意をしている。エクラはふーんとばかりに二人が剣を振り回す様子を見やっている。
俺の全て貰ってもらう……なんてティったら大声で……恥ずかしい……けれど少しは慣れないと、と、ラスタは出来るだけ顔に出ないようにしながら皆に近寄っていく。
「アレで楽しいみたいですよ、オルティスも。それにリオ兄上、いつになく嬉しそうに剣を研いでいましたし」
「それ、刀の錆にしてくれるってやつじゃ?」
ラスタが見に来ているのに気付き、ティはデュセーリオの剣をすぱんっと切り放って試合にカタをつけると、ラスタに駆け寄ってガバっと抱き付く。
「ラスタはラスタだ。俺のヒヨコの名だ」
「誰がヒヨコですかっ! ……って、うぇ?」
ぱちり、新芽色の瞳が瞬かれ。
「ぇ……ぁの……。おれ……の? ーーって、え?」
兄弟妹の前で言い放たれ、すでに先ほどの大声宣言でも限界だったラスタの顔が、かぁっ、と真っ赤になる。
「ラスタ。好きだ」
「にゃ、にゃんで唐突に」
「え? いつでも好きだ、ラスタ」
「しょうでなくって、ですねっ。あ、貴方と言う人はっ」
「毎日好きだっ……ん、すべて、愛してる」
「んんんんん……ちょ、くち……ぃ…………」
あの男は前に比べると言う事が砂糖掛けの様に甘くなったが、強引でマイペースなのは変わらない彼だった。そして蜂蜜に練乳までトッピングされた様子に、デュセーリオが爆死? するという光景がハイエルフの世界樹の居所での日常として繰り広げられた。




