3.間に合いませんでした。
「――東中から来ました、隅原…伊織です」
あっと言う間の入学式。
結論から言わせてもらおう。
全然、まったくと言ってよいほど間に合いませんでした――。
事の顛末はそう、女性になる2日前から会社に泊まり込んでいた母親に、
女体化の事情を説明する事になった日。
入学式まで残り一週間を切った日にまで遡るとしよう。
「ただいま……ああ、我が家だ我が家」
一週間のデスマーチを終え、仕事から解放された母さんの声が聞こえる。
事前に聞いていた俺と咲は、玄関からその声が聞こえる前から
ずっとリビングに待機している。
そう、いつぞやの碇ゲンドウポーズである。
「ただいまー……ん?」
こぎみよい扉の音と共に、いつもながら疲れている母さんが姿を現す。
しかし、どうみても二人いるように見える自分の娘。
クマができている両目を擦りながら、母さんは笑った。
「あはは、さすがに睡眠不足すぎるのかな。咲が二人いるわ」
「……お母さん、これ現実」
「えぇー?」
いつまで経っても信じない母親に、咲は泣きながらも胸を指さして説明をした。
実の娘がこんなに大きいわけないでしょ!知ってるでしょ!
と、泣くぐらいなら言わなければ良いのに。
極度の疲労状態である母さんが、話を理解するのに30分ほど時間はかかった。
しかし、ある程度状況を把握すると、このあり得ない現象に対して、
「ぶはははは!!伊織が女って!!」
「ぜってぇ笑うと思ったよちくしょう!!」
そう、うちの母さんはこんな感じなのだ。
疲れを忘れたのか、ビール片手に爆笑する母親を咎める。
「いやあ、たまには家に帰らないもんだなあ、めっちゃおもろいじゃん」
「しょっちゅう家に帰らないじゃん……」
うちの母はとある企業のSEをやっている。
案件によっては度々炎上し、泊まり込みなどザラのようだ。
「で、病院にはいったんか?」
「……身分証出すまで頭のおかしな人に思われたよ」
「ぶははははは!!」
病院での出来事を事細かに話すが、聞くたびに笑い転げる母親。
ちくしょう、実の母じゃなければぶん殴りてえ!
「あー…笑った笑った。で、いくらほしいの」
「え?」
「金だよ金。下着とか買いに行くんでしょ?」
「一応…買うには買ったんだけどさ、3セットしかないから足りないかなって」
察しの良い母さんの発言に、咲がフォローを入れる。
ここばかりはさすがに母親というべきか。
不覚にも生きてきた年月の違いを感じてしまった。
「んー、こんぐらいでいいかいな。ほら」
「いっ!?」
俺の手元にポンと出される諭吉の顔ぶれ。
一瞬数え間違いと思うほどの豪華メンバーである。
なんとその十枚、つまり十万円である。
「下着もだけど服も揃えなきゃだし、病院にも通うんだろ?
いいからもっとけもっとけ」
「お…おう、ありがとう」
初めて女の子になった事に感謝を覚える。
「いいよ。普段かまえない分こんぐらいはしないとね」
そう言って、疲れた顔でビールを啜る母さん。
ここ数年で少しばかり老けてきた感じもあるが、
片親である責任を立派に勤め上げている姿に感動した。
「で、なんかおもろいことあった?」
「……俺の感情を返してくれ」
「あ、お母さん。お兄実はさ」
「なになに?」
俺が止めるより先に、告白作戦の事をいとも簡単にばらす妹。
案の定爆笑する母親。
溜息を吐くしかない俺。
そしてその溜息には、病院に行っても治らない現実も含まれていた。
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というわけで、特になんの進展もなく入学式まできたわけで。
クラス数は全部で5組。
平均的なクラス数だが、俺は1-Bに属する事になったのだ。
「……うう」
慣れないスカートを踏みながら、自席へと座り込む。
感じたことのない股の間を通り抜ける風。
そのなんとも言い難い違和感に、俺は思わず呻いてしまう。
「……変な声出さないでよ」
この偶然は必然なのか。
それとも神による悪戯なのか。
そうとも思える現状に、俺は二重の意味で神を呪う。
柊と同じクラス。
そしてなぜか席まで隣なのだ。
最初の席順はたいてい名前の順列で決まる。
俺はこれほどまでに【田中】という存在を欲する日がくるとは思わなかった。
なんで一人もいないんだよ!
そりゃもちろん柊と仲良くしたいって気持ちはある。
少なくとも、男の状態だったらそういう気持ちにもなっただろうさ。
でも、俺は今は女。
女子同士の絡みなんて、経験があるわけでもないし、
どの程度までがOKという境界線もわからない。
つまり気まずい事このうえないのである。
そんな事を考えている間に、オリエンテーションは過ぎ、
担任の自己紹介まで終わることとなった。
この阿澄高等学校はそこそこの進学校であり、
オリエンテーションの後にさっそく授業へと入る。
一限目は文学。
わりと自分でも好きな部類の科目であった。
静かに流れる時間の中、俺は柊に少しばかりの視線を送る。
透き通るような髪、筋の通った鼻に綺麗な横顔。
いつみても見とれてしまう。
そもそも仲良くなるにはどうすればよいのか。
テレビで見たことがある。
異性を感じさせつつ、仲良くなるには、スキンシップが一番だと。
――だが、俺は今は女子生徒。
そもそもこんな俺に異性を感じるとは思えない。
ちくしょー…べただけど教科書忘れて机をくっつけるとか、
そういうシチュエーションも考えていたんだが、
こんな姿じゃドキドキしてもらえたりは……。
「先生」
その時、ふいに隣から声が聞こえた。
目をやると、なぜか柊が教師に向かって手を挙げている。
「どうした?えーと」
「柊です。すみません、どうやら教科書を忘れてしまったようです」
「!?」
真面目一本の柊が珍しい。
思わず変な声あげそうになっちゃったぜ。
まぁでも、理事長の孫ってのは知ってるだろうし、そんなに怒られはしないか。
「そ、そうか…初日からやらかしたな。まぁいい、隣に見せてもらいなさい」
「はい」
あれ?
俺は数分前の頭の中で考えている事を思い出した。
――異性同士のスキンシップは、非常に有効的である。
なら、同性同士…は?
なんで俺、柊と教科書一緒に読んでんの?
「――ちょっと、もう少し近づいて。読みづらいわ」
「え、ちょっ?柊さん?」
なんかガンガンくるんですけどぉ!?
絡み方がわからないとか馬鹿な事を言ってる場合じゃなかった。
むしろなぜか柊が俺に仕掛けてきた。
心臓が激しく波打ち、視界がくらんできたような気がする。
必死に理性を取り戻し、俺は柊へ、
「柊、ちょっと近くない?」
「何言ってるの。今は女同士だから気にする必要ないでしょ」
……ですよね。
やっぱりそうか。
そうだよなあ、女子同士ならこんぐらい何とも思わないか…。
でもいきなりはやめてほしい、心臓が持たない……。
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そんなこんなで天国のようにも思える地獄が過ぎ、
午前中の授業が終わった。
阿澄の初日は特殊であり、午後からの授業はない。
つまりは一足早い下校時間となるのだ。
「……初日から無駄に疲れたな」
机に突っ伏して、俺は物思いにふけっていた。
女子になってからというもの、変に告白を意識してしまう。
あれだけ気合を入れていたってのに、このザマである。
「ねえねえ」
「……え?」
「君、隅原さんだっけ?東中だったよね?」
誰だっけ。
正直オリエンテーションに関しては、柊の事に意識が行き過ぎててまったく記憶にない。
だからこの男子の名前は全くわからん。
てか初日から女子(男子)に声かけてくるとは、鬼メンタルだなこいつ。
「あ、うん。そうだよ」
「へー、そうなんだ!俺西中なんだ!東中にも結構知り合いいてさ」
すげえガンガンくる。
ナニコレ。
しかも露骨に胸への視線を感じる。
そういえば女性って自分の胸への視線がたいていわかるって咲が言ってたな。
まぁあいつには見せる胸はないのだが。
……実際されるとなんともいえない不快感があるな。
と、少しばかりうんざりしている時だった。
机をはさんで会話をしていた俺達の間に、手のひらが叩きつけられる。
こぎみよい音と共に、俺らは思わず飛びのいてしまう。
「伊織」
「柊…さん?」
「帰るわよ」
柊は短くそう言い放つと、俺の鞄を持って教室から立ち去ってしまった。
「え、ちょっと!!」
追いかけて出ていく俺の後ろで、名前の知らないあいつの声が聞こえた気がしたが、
俺は俺で柊の謎の行動について言及する為、その場を後にした。
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「なぁ柊」
「なに?」
「なんでさっき下の名前で呼んだんだ?」
柊はいつも俺の事を上の名前で呼ぶ。
彼女の脳内には、隅原という苗字だと思い浮かぶ人物が二人いるはず。
だが、咲と俺が一緒にいても、必ず決まって苗字を呼ぶのだ。
だからこそこの質問に対して、帰ってくる答えは……
「差別化よ。咲ちゃんとどっちかわからないわ」
――嘘である。
なんの風の吹き回しだ?
今までない事をいきなりされると、妙な気分になる。
「そもそも貴方は無防備すぎる」
「えぇ……」
「股を閉じなさい!阿澄は共学なのよ?信じられない」
そりゃ共学なのは知っている。
だって俺受かったんだもん。
かといって、股をずっと閉じるのもなんか違和感あるんだよなぁ……。
「これから私がみっちり指導するわ。女性としての心構えを持ってもらうために」
「いや、女性としてのって…俺男だし。今は女だけど」
「いい?」
その綺麗な顔が目の前に近づいてきて、俺は一瞬ドキっとする。
思わず鞄で顔を隠すが、その上からその細い指が俺に向かって差され、
「男は皆、獣なの。貴方が無防備すぎると何があるかわからないわ」
「…遠まわしに俺の事も危険視してません?」
「それはそれ、これはこれ、今は貴方は【女性】なのだから」
まぁ確かに。
言われてみれば筋力なども男の時に比べるとだいぶ減った気がする。
男の時はそこそこ鍛えていたし、筋肉もあった。
今は見ての通り華奢であり、華憐な細身ボディである。
「……はぁ、わかったよ。よろしく頼む」
「わかればいいのよ」
こいつ、女になった瞬間お節介やきになったな。
まぁ、どう生活していいかわからないし、単純に助かる。
何より仲良くなれそうだし、好意に甘えとくとするか。
「しかし、お前も忘れものとかするんだなぁ」
「っ!」
「中学の頃から真面目一本だったけど、意外だったわ」
「――私だって、たまにミスぐらいするわよ」
教科書忘れに対し、突っ込みを入れる俺。
よっぽど恥ずかしいのか、耳まで赤い柊。
意外な一面を見た気がする。
……案外うまくやっていけるのかもな。
と、そんな俺の思いも、数日後の体育の授業で崩れ去ることになったのであった。