回顧録 春
涼平と出会ったのは小学三年になる直前の春だった。親がいない俺が預けられていた寺の前で、雨の中ずぶ濡れで立ち尽くしている涼平に声をかけたのがきっかけだ。涼平はひとつ下の学年だったので、話を聞くまで同じ学校だとも知らなかった。
涼平は大きな一戸建てに住んでいたが両親はおらず、叔父が後見人とのことだがその叔父とすら別居状態だった。元々はヘルパーが家に入っていたようだが誰も続かなかったらしい。生活費は振り込まれているらしく特に困ることはないようで、涼平は小学校低学年ながら家の中のことを完璧に回していた。
精舎という名の施設でパーソナルスペースが持てない俺と、広い家と孤独を持て余している涼平はすぐに親しくなった。涼平の家に入り浸っては図書館から持ち出した本を二人で読み漁った。娯楽が少ないせいで読書家だった俺は、ひとつ年下の涼平に、あたかも先生のように、もしくは兄のように振舞った。俺の聞かせる物語や知識に目を輝かせ、俺の言うことを少しも疑わない涼平と過ごすのは、とても気分が良かった。
一度天体観測がしてみたいとこぼしたら、数日後、寺の裏山に呼び出され立派な望遠鏡があったときには度肝を抜かれた。今思い返せばいったいいくらしたのか、どうやって運んだのか、少し呟いてみただけなのに、と気になることばかりなのだが、俺もいかんせん子供だったので、目の前のぴかぴかの天体望遠鏡にすぐに夢中になって、細かいことは頭から吹き飛んだ。
あの日の夜空の濃紺さと、冷えた空気と、かじかんだ手が全く気にならないほどの自分の浮かれっぷりは、今でもよく覚えている。手を伸ばせば届きそうな瞬く星々と、規律を破って精舎を抜け出している背徳感に、酔いしれた。
ファンタジー冒険譚や天文学、神話についての本が高く積まれた涼平の部屋と、夜中にこっそり抜け出して天体観測をする裏山が、俺たちの秘密基地だった。そこにいる間は二人で何でも出来る気がした。実際、子供だけでは行ってはいけないと教えられていた場所にも、あの手この手で出向いた。金銭面を何とかするのが涼平の役割で、移動手段や経路などを調べるのは俺の役割だった。夏は山や川へ、冬は星が見えるところならどこにでも。年齢に不相応な場所に自分たちの力でたどり着くことは憧れた本の世界の冒険のようで、俺たちの心を幸福で満たした。幼さゆえの万能感に浸っている間は自分たちが非力な存在で庇護者もなく、可哀想な子供たちであることを忘れられた。
涼平のことは、冒険における相棒のようにも、かわいい弟のようにも、都合の良い子分のようにも思っていた。
違和感が生じ始めたのは、お互い小学校の高学年になった頃だ。
「なぁ芦川。お前、いっこ下の遠野って知ってる?」
同級生から初めて涼平の名前を聞いた。俺と涼平は放課後こそ毎日つるんでべったりだったが、学校では接点がないので、お互いどのように過ごしているかは知らなかった。と言っても大方予想はついていた。涼平は俺以外に極端に愛想がなく、表情の変化も口数も乏しい。家庭環境のせいもあって年の割りに達観している。きっと休み時間も自席から離れずぼーっとしているか、本でも読んでいるんだろう。クラスメイトと仲良くしている姿は想像出来ない。だからといってトラブルメーカーのように存在しているとも思えない。涼平の基本スタイルが「無関心」であることは俺が一番よく知っていた。
「ああ、うん。名前と顔だけなら。うちの施設と家の方向、一緒だから。集団下校のときとか」
俺は自分が周りからどう評価されているのか、幼いうちからよくわかっていた。親に捨てられた、一目でわかる異国の血をひいた、かわいそうな美少年。俺はその評価を裏切らないように振舞う術を、完璧に身に着けていたと思う。自分の容姿や境遇が周りにどのような印象をもたらすのかわかっていた。もらえる同情はもらう。使えるものは使う。何より大事なことはリスクを負わないことだった。俺は子供で、だけれど自分の身を自分で守らなければならない。情報の駆け引きというものの有用さを理解していた。余計な情報は与えないに限る。
「なんだそっか。遠野ってどんなやつって、今女子の間でちょっとブームなんだと」
「何でまた。接点なくない?」
俺は見てないんだけどさ、と同級生は続けた。
「こないだの体育の授業、下級生とグラウンド被ってたんだけど。やたらうちのクラスの方じっと見てくるイケメンがいたんだと」
「イケメン…。それが遠野だって?」
言われてみれば、涼平も最近顔立ちが少し大人っぽくなってきたような気がする。顔のパーツはどれも薄いのだが、配置のバランスと輪郭が良いのだろうか。本人の醸す雰囲気も相まって、ミステリアスな東洋美人、のように見えなくもない。
「んな遠くから見てイケメンも何もわかんねえよなーって。で、わざわざそいつのクラスまで見に行った奴がいて」
「へえ」
かわいい女の子がこっそり教室を覗き込む姿を想像してみる。窓際で頬づえをついて、外の景色に思いを馳せる涼平。射し込む夕日、風に揺れるカーテン…。
…思ったより、絵になりそうだ。
「で、やっぱりイケメンだった!誰だろうあの子!って女子がはしゃいでるってわけ」
「はぁ」
「なんだよ。反応薄いな。…いいよな、お前もイケメンだもんな」
「髪の色と目の色が珍しいだけだろ。ここが日本じゃなかったら、俺の顔もありふれてるって」
「ここは日本なんだよなぁー」
じっとり僻みモードになってしまった同級生に、困ったように笑っておく。武器がいつでも武器とは限らない。
適当に話を切り上げて、さっき自分が想像した涼平をもう一度思い浮かべてみる。おそらく実際の涼平と大した差異はないだろう。
上級生をじっと見つめていたという涼平を思い浮かべてみる。こちらはうまく想像出来なかった。俺の脳内の涼平はがらんどうの瞳で、どこともわからない一点を見つめている。イケメンとは程遠い、気味の悪いイメージだ。
そもそも、目立つことと他人に構われることを何より嫌う涼平が、人の注目を集めるような真似をするだろうか。自分のクラスメイトたちの自意識過剰だったのかもしれない。
何はともあれ面倒そうだ。涼平と馴染みであることは同級生には知られたくない、そう思った。
そんな俺の願いを打ち砕く事件が、俺の小学校卒業間近に、起きた。
冬の朝の、登校時間帯だった。
「やめて!やめてよお!」
女子の泣き叫ぶ声が下駄箱のあたりから響いていた。俺が駆けつける頃にはもう人だかりが出来ていた。
奇しくも揉め事の現場は俺の下駄箱のあたりのようだった。人だかりを掻き分けて前に出る。
俺は目を剥いて、目前の光景に、固まった。
涼平が、女の子から、何かを取り上げようとしている。女の子は、よく見れば俺のクラスメイトだ。
クラスメイトの女の子は嫌だ嫌だと泣きながら抵抗している。涼平は容赦なく女の子をぶん回して床に振り落とした。涼平の手には女の子のものであろう何かが握られていて、涼平に振り落とされた女の子は地べたに転んで泣いている。
…何が起きている?
俺が呆然と立ち尽くしている間に、誰かが呼んだであろう先生たちが駆けつけて、涼平を取り囲んだ。教師たちと二言三言言葉を交わした後、涼平が職員室に向かって連行されていく。俺の前を通り過ぎる瞬間、目が合った。
てっきり目を逸らされるかと思ったが、違った。はっきり、強い眼差しで見つめ返してきた。ひゅっと喉が閉まった気がした。見たことのない涼平がそこにいた。
「放課後、迎えに行くから。教室に、いろよ」
決して大きな声ではないが、一言一句、強く言い含めるような、高圧的な言い方だった。
俺が何も言えずにいる間に涼平は通り過ぎていく。かと思いきや、ぐるり、とこちらを振り返った。今度こそ心臓が止まるかと思った。
「今日一日、何も貰うな」
そのときになってようやく、涼平の手に何が握られているのか気づいた。教師たちに囲まれた涼平の後ろ姿が遠ざかっていく。
バレンタインデー。二月十四日。
嘘だろ…と立ち尽くす俺に、野次馬の何人かが声をかけてくる。周りで勝手に話し出す。誰?あいつ何年?やばくない?芦川くん知り合いなの?遠野涼平だ知ってる!美和ちゃんかわいそう…
すぐに他の先生がやってきて、野次馬たちは散らされた。各々それぞれの教室へと向かっていく。
俺は自分の見た光景が目に焼きついて頭から離れず、吐く寸前のようにずっと口元を覆っていた。
その日一日、俺はクラスメイトから遠巻きに見られ、優しい誰かに遠慮がちに気遣われたりしながら、何とか下校の時間を迎えた。俺も職員室に呼び出されるかと思っていたが、呼び出しはなかった。クラスメイトによると、遠野涼平は「持ち込み禁止の菓子類を持ち込んでいる生徒から注意して取り上げただけ」、と一貫して主張したそうだ。
チョコレートが持ち込み禁止なのはその通りであるし、女生徒に怪我もなかったので、教師側も強く出れなかったらしい。強制的に形だけの謝罪と仲直りをさせられ、事は済んでしまった。
そしてクラスメイトの女の子には大変申し訳ないが、一番恐ろしい思いをしているのは間違いなく俺だった。この後どんな顔で、あいつと何を話せばいい。
去年のバレンタインを思い出す。菓子類の持ち込みが禁止と言っても、その日ぐらいは教師たちも目を瞑ってくれる。暗黙の了解だ。みんなわかっている。俺は手提げの紙袋が二つほど一杯になるぐらいにはチョコレートを貰った。ほとんどがミーハーイベントを楽しみたいだけの義理で、いくつかは本命だった。
精舎には帰らず涼平の家にそのまま行って、いつも通りダラダラ過ごしていたら、
「食うのか。それ。量」
と聞かれた。俺はクロスワード片手間だったので、涼平の顔を見ていなかったと思う。
「既製品は、施設のチビたちと一緒に食べようかなぁ。一人じゃ食べきれないし。手作りのは…うーん処分かな。無闇にあげられないし」
「食べるのか。少しは。どれを」
変なところで食い下がる涼平を不思議がるより、面倒くさい気持ちが勝った。
「なに。おこぼれに預かりたい?いいよ、好きなの選んで」
「いらない。気持ち悪い」
間髪入れない即答だった。気持ち悪いって、そんなにチョコ嫌いだったか?と思い返すより先に、クロスワードの最後のピースがひらめいてしまった。
「よっし上がり!懸賞出そう!切手どこだっけ?貰っていい?」
「電話の下の引き出し。一番上」
「サンキュ!」
俺は上機嫌で、涼平の不機嫌そうな声音は無視した。懸賞応募ハガキに寺の名前は使いたくないので、いつも通り涼平の住所と名前を記入する。
「…なんでそんなに貰ってくるんだ。手作りは食べられないなら、断ればいいだろ」
まだ続くのか、この話。面倒くさい。ハガキにペンを走らせながら適当に答える。
「向こうがあげたいって言ってるんだから、難しいことは考えずに貰っておけばいいんだよ。誰かのだけ貰って誰かのは断る、なんてことはさすがに出来ないし、一律に貰うか一律に断るかしかないなら、俺は貰っとく。俺の場合、ホワイトデーのお返し期待されてないしね。施設っ子は気楽だよ」
必要事項を書き終えてペンを置き、切手を舌で湿らす。口元にやたらと涼平の視線を感じながら、切手をハガキに貼りつけた。
「…あげたいと願えば、お前はもらってくれるのか」
「ええ?なんて?」
涼平が何か呟いたが、聞き取れなかった。
俺は近所のポストにハガキを投函しに行って、帰ってきたときにはいつもの涼平に戻っていた。
それから一年。まさかこんな事態になるとは。涼平が何を考えているのか、さっぱりわからない。
朝の異様な様子を思い出す。…怖い。このまま教室で待っていたくない。今は会いたくない。
そもそも涼平と二人きりで下校したことなんて今までない。学年が違うから微妙に帰宅時間がズレるのもあるが、学校ではお互い不干渉を、はっきりと約束こそしたことはなくとも、今まで貫いてきたのだ。どうして、いきなり。
…帰ろう。せめて日を改めたい。明日になれば、今日のことなんて何もなかったみたいに話せるかもしれない。
急いで荷物をまとめて帰り支度をする。念には念を入れて、正門ではなく裏門へ向かった。
裏門を通り抜けようとしたとき、うっそりと声がかかった。
「…ハルキ」
ざあっと血の気が引いた。口から心臓が出るほど驚いたのに、声も出せなかった。門の死角になっている場所に、すぐ真横に、涼平はいた。
動けない。からからになった口から、何とか言葉を捻り出す。
「…誰も待つなんて言ってないだろ。今日は施設の手伝いあるから、このまま帰るから」
「そうか」
「うん。じゃあな」
「ああ」
涼平の顔は見ないまま前を通り過ぎ、裏門を抜けて学校から出た。
相当ホラーな登場だったが、あまりにもあっさり振り切れてしまった。拍子抜けするのと同時にどっと安心した。教室に迎えに来るのではなくどうして裏門にいたのかは考えないようにした。
かなり距離を歩いてからそっと後ろを振り返る。涼平がまだこちらを見ているのではないかと思ったからだ。
有難いことに予想は外れて、涼平はこちらを見てはいなかった。門に身体を預けて校舎の方を向いている。よく見れば荷物も何も持っていない。くったりしたその後ろ姿は、行き場のない野良猫のように見えた。
悪夢のバレンタインから俺の卒業までは、驚くほど平穏な日々だった。どうなることかと緊張したバレンタイン翌日も、涼平は何事もなかったかのようにけろっとしていた。いつも通り涼平の家で過ごしたが、お互い前日のことには触れなかった。
例年よりずいぶんと早く桜が満開だった卒業式、涼平は来なかった。卒業式は五年生も参列する。予行練習のときにどこの位置にいるのか把握していたので、いないのはすぐにわかった。
巣立ちの歌なんて歌わされてもほとんどの生徒は一緒の公立校にそのまま進学する。お別れなんて私立校を受験したごく一部だけだ。
何となく帰りがたい雰囲気でいつまでも居残り続ける同級生たちに「施設の手伝いがあるから」と言って別れを告げる。「こんな日ぐらい少し帰りが遅くったって…」と健気に粘る女の子たちは可愛らしいが、少し煩わしい。そこそこ気心の知れた男の友人からは「いつもそう言っとけばいいと思って!」と背中をどつかれた。「ご理解痛み入るよ」と苦笑を返せば、「かわいくねえ!」と罵られた。いよいよ帰ろうとして、後ろから「また入学式でな!」と声が聞こえた。有難い距離感だ。
帰路の最中、ぼんやりと涼平のことを考えた。今日の欠席は体調不良か、さぼりか。
いつもの放課後のように、家を訪ねてみようか。具合が悪かったら、ちょっと見舞って帰ればいい。
卒業証書や記念品などの荷物を置いていこうと、自分が育った寺院への階段を登る。
長い階段の最後の一段を登り終え、朝も見たが、足元が桜の絨毯だと、もう一度思って。顔を上げて、驚いた。
敷地内唯一の大きな枝垂れ桜の樹の下に、涼平がいる。舞い散る桜を浴びながら、一心に樹を見つめている。
空の青と、柔らかな日の光と、ひらひらと舞う桃色が混じって、ここだけ世界が切り取られたみたいに、現実味がなかった。
声がかけられずにいると、涼平がゆっくりと俺の方を振り向いた。
「ハルキ」
「…なんだよ。気づいてたのか。つか、何でいんの。卒業式、ふけたのか」
「今気づいた。桜、みにきた。なんちゃら式とかそういうのは、今までもさぼってたよ」
穏やか、というには静かすぎる雰囲気をまとった涼平の顔には、表情がなかった。バレンタインで一瞬気まずくなって以降、涼平が何を考えているかわからない時間が増えた気がする。
…いや、俺が気にするようになっただけか。出会ってから今までずっと、涼平が何を考えているかなんて気にしてこなかったじゃないか。
ただ涼平は俺のことが好きなんだろうと、それだけ感じていた。
「今年も、もう終わりかな」
はっとして顔を上げる。涼平はまた桜の樹に視線を戻していた。
「明日、雨みたいだから」
涼平の顔に表情が宿る。
「今、降ればいいのに」
風が吹いて、涼平の声がかき消されていく。
「あの日の景色が、また見られるかもしれないのに」
涼平は眩しそうに微笑んで、流れ星に祈りを捧げるような、そんな顔をしていた。あれは、うつくしい想い出を懐かしみ、慈しむ顔だ。叶わぬ願いを、空に溶かす顔だ。
天気雨の春の日のことを。二度と戻らない、俺たちが出会った日のことを。
唐突にわかってしまった。涼平と俺の、この先決して埋まることのないであろう溝を。
どうして今まで気づかずにいられたのか。答えはわかっている。気づけば、俺が耐えられなかったからだ。
俺は涼平と同じ熱量でもって、涼平のことを愛してはいない。
「卒業、おめでとう。中学でも、ちゃんとやれよ」
涼平はもう桜を見ていなかった。俺の横を幽霊のように通り過ぎて、階段の方へ向かっていく。
「……っ」
俺は涼平を追うように振り向く。涼平は振り返らない。ここで俺が何も言わなければ、このまま去って、もう二度とここを訪れないだろうと直感で悟った。
…それでいいじゃないか。これ以上一緒にいても、今までからは想像がつかないぐらい、きっとお互い苦しくなる。涼平はそれをわかって、こうして手を離そうとしてくれているんじゃないのか。俺のために。
俺は涼平に応えられない。
引き止めてはいけない。
「……っ。……っ。………学、ラン」
かすれた音が口からこぼれる。涼平は歩みを止めない。まだ引き返せる。このまま見送ればいいと、わかっている。
なのに、どうして。
「…学ラン姿、見せてやろうか。気が、早いけど。施設の誰かの、お古だけどさ」
つっかえながら声を張って呼びかけた。声は震えていたと思う。
涼平は階段の手前で立ち止まった。こちらを振り返った顔には戸惑いと驚きが入り混じっている。
「…いいのか」
じっと見つめてくる眼差しに、何に対して許可を求められているのか、もうわからなかった。
「…別にもったいつけるようなもんじゃないだろ。まぁ、どうせすぐ見飽きるだろうけど」
入学式のときには桜、散ってるだろうからさ。気分だよ、と笑いかけた。うまく笑えていただろうか。
「見たい」
先程までの、どこか遠くへ消えてしまいそうな儚さなどは嘘のように、涼平は駆け寄ってきた。出会った頃、どこへ行くにも子犬のように俺の後ろをついて回っていた頃の涼平が脳裏に浮かんで、けれど、目の前の涼平とは、もう重ならなかった。
「第二ボタン、ちゃんとついてるかな」
「ついてるに決まってるだろ。それは卒業式だって」
「お古なんだろ。いつかの先輩が誰かにあげて、そのままかもしれない」
「さすがに気づくって…。てかお前、第二ボタンの謂れ、ちゃんと知ってるのな…」
「本で読んだ」
制服の裾、余ってたら面白いな、と涼平が笑った。笑った顔を、ずいぶんと久しぶりに見たことに気づく。
二人で並んで、桜の絨毯を歩いた。
…手放せなかった。涼平を失えば、俺は無力で非力な、かわいそうな子供に戻ってしまう。
たとえ涼平が重荷だとしても。いつか俺の手に負えなくなるとわかっていても。いいように利用している罪悪感に苦しめられようとも。
俺たちはひどく孤独で、互いの手を離した先の世界が耐え難く恐ろしかった。
今はまだ大丈夫。うまく立ち回ってコントロールしてみせる。無邪気にはしゃぐ涼平に、俺も笑ってみせた。
このときの甘ったれた感傷を、俺は死ぬほど後悔することになる。
この部分だけ大昔に書いたものなのでお蔵にするか書き直すか迷ったのですが、そのまま載せることにしました。供養
整合性が取れなくなったらまるっと差し替えるかもしれません…そのときはifの世界線の番外編ということに…それはどうなんだ