追憶
満開の桜から通り雨の雫が滴っている。雲の隙間から日の光が差し込んで、濡れた彼を照らしている。
透き通るような空の色と、舞い散る桃色と、彼の髪のやわらかい小麦色がきらきらと反射して、俺は瞬きひとつ出来なかった。
「名前、何ていうの」
瞬間、話しかけられたとわからなかった。聞こえた音は、彼の髪色のようにやわらかかった。
俺は呆然と立ちすくんだまま、何とか声を絞り出す。
「とおの。遠野、涼平…」
目の前の美しいひとはきょとんとしてから、彼の頭上で咲く花のように、ほころぶように笑った。
「違うよ。お前じゃなくて、こいつ」
彼は腕に抱いている子犬を抱えなおして、また笑った。
「あ。天使の梯子だ。」
彼の目線の遠く先で、雲の切れ間から一筋の光が降りている。幻想的な雨上がりよりも、あなたの方がずっときれいだ。天使は空の上ではなく、今、目の前にいる。俺は声を失ったように黙りこくって、ただ彼を見つめている。
「名前、つけてやらないと。何がいいかなぁ」
きっと、この光景以上のものは、二度とない。
白と黒に沈んでいた世界が鮮やかに塗り替えられたその日、俺の人生は始まってしまった。
この出会いがなければ、彼は今もどこかで、あの日のように笑ってくれていただろうか。
冷めた瞳の奥に呪いを隠しながら、口元だけで微笑んで、病院の白い壁が似合ってしまうような憂いを帯びずにすんだのだろうか。
もし一度だけ過去に戻れるなら、俺はどんな神話よりも美しいこの日に還って、その日の俺を殺すだろう。
絶対に、しくじったりしない。もう二度と。
美しい景色が滲み歪み出す。引き剥がされていく意識の中でもう一度だけ彼の笑顔を見ようとして、それは叶わなかった。