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自死代行  作者: 久保谷充
第一章
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第三話 後編

帰蝶たちはタクシーを使い、五人で愁の取っていたホテルへとやって来た。広いツインルームのベッドに涼平を寝かせた帰蝶はその前から動こうとしない。


「…こっちにおいで。座って話そう」


愁はソファーに腰をかけ、帰蝶に声をかける。鈴鹿はまだ顔色が悪いまま備え付けの紅茶を入れ始め、槙は部屋の隅に体育座りをしてヘッドホンを被り、スマホをいじり始めた。


「大丈夫。悪いようにはしないから」


愁がそう言うと、帰蝶はようやくゆっくりと動き出し、テーブルを挟んだ愁の向かいのソファーに座った。顔色を失い表情がごっそりと抜け落ちた様は能面のようだ。うつむいたまま、視線を上げない。


「さっきは驚かせてすまなかった。怖かったろう。この二人は職場の同僚なんだ。私が紹介する前に勝手に会いに行ってしまって、私も驚いた。……改めて、正月ぶりかな。元気にしていた?」


「……愁兄さん。彼は私のクラスメイトで、最近体調が良くないの。目が覚めたときに驚くと可哀相だから、家に帰してあげたい」


ようやく帰蝶が口を開く。愁は慈しむように帰蝶を見て、苦笑した。


「家族になってずいぶん経つけれど、そんな姿を見るのは初めてだ。君は私の前でいつだって「良い妹」だったから。なかなか複雑な気持ちになるものだね」


鈴鹿がテーブルに二人分の紅茶を並べる。「ありがとう、君も少し休みなさい」と愁が告げると、鈴鹿は「平気です」と言って愁の隣に控え、動こうとしない。「困った子たちだな」と愁は息を吐く。

愁は一口紅茶を口に含むとカップを置き、自分の膝元で手を組んだ。帰蝶を見据えて話を切り出す。


「単刀直入に聞くけれど、自殺代理人というものに聞き覚えはあるかい」


「………ない」


帰蝶の言葉に、「俺が吐かせます」と鈴鹿が冷たく言い放つ。愁は片手でそれを制して、会話を続ける。


「彼を紹介してくれる?」


「学校で一緒に同好会をやってる。放課後はいつも、彼と音楽を作ってる」


「同好会のことは何度か話してくれたことがあったね。最近、学校の近くで事件があったことは?」


「…逢己橋から、人が飛び降りた」


「そうか。そうしたら、これは知っているかな」


少し間を置いてから、愁が口を開く。


「自殺幇助は、犯罪だ」


「………」


帰蝶は微動だにしない。沈黙が流れ硬直した空間に、地を這うような声が響いた。


「……自殺幇助じゃない。自死代行だ」


帰蝶が驚いてベッドを見ると、涼平が上半身を起こして愁を睨みつけている。


「あんたら一体何なんだ。何を根拠に俺たちを疑った。仮に俺たちの仕業だったところで何だって言うんだ。歩道を走る自転車にいちいち声をかけるか?信号無視した車をわざわざ追いかけるか?他人のことなんて放っておけばいいだろ」


「…小さい子供のような屁理屈はやめなさい。違法行為と犯罪は違う。わかっているだろう。遠野涼平くん」


愁が痛ましい視線を涼平に向ける。名前を呼ばれた涼平の表情は一層険しくなる。


「それに、帰蝶は私の妹なんだ。他人じゃないんだよ」


涼平は顔を歪めて嘲笑った。


「それなら帰蝶には手を引かせる。俺のことは警察にでも突き出したらいい。どんな罪状がつくのか、俺も知りたい」


「…いけない子だ。自分が捕まらないことを知っている」


「今警察を呼んだら捕まるのはあんたらだ。これは立派な誘拐だろ。俺は帰らせてもらう」


涼平はベッドから抜け出すとそのまま部屋の出口へ向かおうとして、足をふらつかせた。帰蝶は慌てて立ち上がり涼平を支えるが、このまま涼平を連れて立ち去るべきか逡巡しているようだ。愁は再び紅茶を口にし、やがて静かに息を吐いた。


「君たちの他に、協力者がいるね」


しん、と部屋が静まりかえる。涼平の首だけがゆらりと動いて、その目が愁を見る。


「遠野くん。君は三年程前からとある人物の医療費を負担している。ご両親が遺された財産がどれほどかわからないけれど、他人に易々と使っていい額じゃない。大切な人なのかな」


涼平の真っ黒な瞳は愁を捉えたまま、瞬きひとつしない。


「誤解しないで欲しいのだけれど、私は君たちを警察に突き出すつもりはない。ただ、過ちを犯しているなら、それを止めたい」


心配しているんだ、と愁は重ねた。


「………」


冷たい空気が流れる。実際に、室温が下がってきていた。パリン、とテーブルのカップが割れる音が響く。


「…………後悔、させてやる」


「涼平!!」


帰蝶が青ざめて叫ぶ。吐く息が白い。涼平は愁を射殺さんばかりに見つめて動かない。


「鈴鹿、槙。君たちはどう思う」


動じた様子のない愁に問われ、黙って傍らに立ち続けていた鈴鹿が淡々と言葉を吐く。


「今ここで消すべきです。危険すぎる」


「兄さん!私が全部」


「無理ですね」


帰蝶の悲鳴染みた声を遮るように、それまで沈黙を貫いていた槙が言葉を発した。「聞かせてくれ」と愁が促す。


「…ずいぶん良心的なやつだと思いました。僕が彼だったら、町のひとつやふたつどころか、もう日本が沈んでるかも」


鈴鹿は「大袈裟だ」とこぼしたが、「大袈裟じゃないですよ。鈴鹿さんだってわかってるでしょ」と、槙は仕方なさそうにヘッドホンを外した。


「今まで曲がりなりにも普通に生きてこれたのが不思議です。鈴鹿さんだってその気になれば町のひとつぐらい滅ぼせちゃいますけど、そんなの比じゃない。彼が本気で怒ったら僕らの首なんてとっくに飛んでますよ。この場は彼の良心で成り立ってる」


ぎりぎりかもしれませんけど、と槙は付け足す。


「それぐらい途方もない力の差なので、僕たちで彼を始末するのは不可能です」


「…それで、どうすべきだと?」


そうですね、と束の間考えてから、槙は何てことのないことを話す口ぶりで言い放った。


「彼の良心に訴えて、自主的に死んでくれるように、お願いするとか」


その瞬間、バン!と大きな音がして、気づけば槙は部屋の壁に押さえつけられていた。ジャージの襟元を掴まれ首を絞め上げんばかりに身体を持ち上げられている。殺気を放つ帰蝶の顔が目と鼻の先にあった。


「…っ。こっちもこっちで、規格外、ですか」


「おまえ…!よくも…!」


口を利かせないとばかりに締め上げてくる帰蝶の手を、槙が掴んだ。


「!?」


帰蝶は瞬時に槙を振りほどき、距離を取る。ぱらぱらと、槙に掴まれた部分の皮膚が剥がれ落ちる。痛みはない。


「驚きました?こっちも驚いたけど。細胞の入れ替えどうなってんだか」


元々よれていた乱れたジャージを気持ちばかりに整えて、槙は改まった。


「さっきのは、馬鹿な鈴鹿さんの案を採用するなら、の話です。僕は現状維持を推しますよ。下手に死なれて、「呪い」の行き先がわからなくなる方が厄介です」


「一体、何の話を」


「もしかしなくてもあんたたち、自分の力のこと、わかってませんね」


槙の言葉に、帰蝶が息を呑んだ。愁を睨みつけたままだった涼平もゆっくりと槙を見る。


「しっかり話をした方がいいです、彼らのために。…僕らの、ためにも」


鈴鹿が何か言いかけて、諦めたように口を閉ざした。







ソファと椅子を集めて、改めて五人がテーブルにつく。テーブルには「甘いもんでも飲みながらじゃないとやってらんないですよ」と言って槙が買ってきたコーラが並んでいる。室温はすっかり元に戻っていた。


「さて。何から話しましょうか。ちなみに今から話すことは愁さんも知らないことがほとんどです。妹さん、愁さんを怒らないであげてくださいね」


「……愁さんは、別に知らないままでも」


鈴鹿が言いづらそうに呟くが、槙はピシャリと言い返す。


「今までは鈴鹿さんの我侭に付き合いましたけど、潮時です。いい機会なんで、腹括ってください」


「………」


鈴鹿が口を噤む。愁は黙って腕を組んで槙の話を待っている。帰蝶は隣に座っている生きているのか心配になるほど動かない涼平の手を、離したらどこかへいってしまうと言わんばかりに握り締めていた。


「…僕たちの話からしましょうか。察しはついてると思いますが、鈴鹿さんと僕には常人にはない力があります。ざっくり言うと、鈴鹿さんは「言霊」、僕は「治癒」です。僕らを育てたやつらは「神託」だとか「再生」だとか呼んでました。言霊信仰はさすがに知ってますかね。言葉を口にするとその通りになるというあれです。はい、実践」


槙から話を振られた鈴鹿は何か言いたげな顔をしたが、仕方なさそうに息を吐いた。


【…片目を閉じろ】


鈴鹿の声が静かに響くと、鈴鹿と涼平以外の三人の目が片方だけ閉じられた。


「…とまぁこんな感じです。全く効かない人は、遠野さんが初めてですね」


鈴鹿が「解」と呟くと、三人の目が開いた。


「言葉という音で人や物に干渉し、強制する。鈴鹿さんの声が物理的に届かなければ効果はないですけど、ほぼ敵なしです。町内放送で「歌え」なんて流したら、町内大合唱になります」


怖いですよね、と全く怖がっていない様子で槙は続ける。


「遠野さんの力も最初「言霊」だと思ったんですが、どうやら違うみたいです」


槙は少し考え込んで、「話す順序が難しいな」とぼやいた。


「僕たちはこの力を「呪い」と呼んでます。それは、この力が使用者に少なからず還ってくるからです。誰かを呪えば相応の報いを受けます。その呪いが誰かにはね返されることがあれば、呪ったときの何倍にもなって使用者に襲いかかる。強力な力であればあるほど、その代償は大きい。恐ろしいのは、呪いが還ったりはね返される先が、力を使った本人とは限らないところです」


槙は「すみません」と言ってコーラを飲む。


「「呪い」と呼ぶのにはもうひとつ理由があります。この力は基本的に誰かから与えられるか引き継がれるもので、生来のものではないからです。お二人とも、心あたりはありますか」


帰蝶はひどく傷ついたような表情を見せたが、ややあって頷いた。涼平は反応しない。


「…僕を例にしましょうか。僕はある宗教の御神体として育てられました。いくつのときだったか、教祖に今の力を与えられました。その宗教は「再生」を謳い、怪我や病気の人々を集めていました。僕は言われるがまま請われるがまま、怪我や病気の人々を治療しました。しかしどういうことか、僕が治療した人は遠くないうちに死んでしまうことが多かったんです」


涼平が虚ろな目で槙を見た。その瞳には暗い炎が燃えているようで、槙は息を呑む。


「詳細は割愛しますが、結論から言うと僕の力は「再生」なんて都合の良いものではなく、正確には「老化」です」


「…なるほど、そういうことか」


愁の呟きに、槙は「はい」と返事をする。


「「治癒」と言えば聞こえを良くすることも出来ますけど。要は細胞分裂を急速に促しているだけです。細胞分裂の回数は決まっている、というのはさすがに知ってますかね。テロメアが短くなる、なんて言われ方もしますか。簡単に言うと、ただ時間を早送りしているだけ、ということです」


槙は自嘲気味に笑う。


「怪我ぐらいだったらいいんですけどね。ガン患者なんかはもう目も当てられない」


「……槙」


鈴鹿が呼ぶが、「平気です」と言って槙は話し続ける。


「大勢死んで、ようやくそのことに気づいたときには、治療していない人までもが死んでいました。僕の力は僕自身に還らず、僕の周囲に還っていたんです。誰もいなくなった宗教で教祖は僕に言いました。我、神を創造しけり。これが呪いじゃないなら、一体何と呼べばいいですか」


一息に言ってから、「…すみません。話が逸れました」と槙は目を伏せる。


「鈴鹿さんもまあ僕と似たようなものです。「呪い」の与え方や引き継ぎ、「還る」と「返す」の詳細は鈴鹿さんに聞いてください。僕は詳しくないんで。ちなみに鈴鹿さんの場合は鈴鹿さん自身に呪いが還るので、元気そうに見えるかもしれませんけど、この人中身ボロボロですよ」


「槙てめえ!適当言うんじゃねえ!」


鈴鹿が怒鳴るが、「いつまでも隠せないでしょ」と槙は一蹴した。


「今日公園で鈴鹿さんが言霊を使いました。「眠れ」という命令は言霊としてさほど強力なものじゃないんですが、それが「還った」鈴鹿さんはえらく苦しそうでした。対して遠野さんの命令は妹さんに対する「聞くな」です。鈴鹿さんを攻撃したり言霊をはね返す意図のない言葉のはずなんですが、鈴鹿さんは「返された」と感じた」


槙はそこで一旦区切ると、すっかり項垂れてしまっている涼平に問いかける。


「…遠野さんは何で「聞くな」と言ったんですか?喋る元気がなさそうなんで僕が話しますが、自分の力を言霊だと思ってたんじゃないですか。言霊しか知らないから、鈴鹿さんから言霊がとんでくると思った」


「………違うのか」


涼平が力なく呟いた。


「言霊だと説明がつかないことばかりですよ。言霊の影響を受けないのも、本来以上に呪いが「還った」のも、ひとえにあんたの力が強すぎるせいです。あんたの力はおそらく万物を凌駕する。わざわざ言葉にして発さずとも強く願うだけで、それは実現する」


「……ふざけてるのか」


涼平の気配が揺らいだ。その声には隠し切れない怒りが滲んでいる。槙はほんの僅か、羨望の目を向けた。


「あんたはきっと誰のことも呪わずに生きてきたんでしょうね。一体何がどうなったらそんな風に生きられるのかは、わからないですけど…」


「そんなこと、あるわけない。俺は人には視えないものが視えて、簡単な言霊が使えるだけだ」


「そう思い込んでいるだけですよ。どこにも呪いが還らないように。誰にも呪いを返さないように。あんたは誰も傷つけないように、無意識に力を制御してる」


「そんな力があるなら!!」


涼平が叫んだ。項垂れていた頭を上げ、その顔はぐしゃぐしゃに歪んでいる。この世の終わりかのような表情を見ていられなくて、槙はとっさに顔を背けた。


「…そんな力が本当にあるなら、どうして俺の大事な人は不幸になる。どうして病気が治らない。どうして病気になったんだ。どうして恋人が死んだんだ。どうして今このときも苦しんでる。どうして、昔みたいに、笑ってくれないんだ!!」


全身の内臓を絞り上げられているかのような叫びに、帰蝶は耳を塞ぎたくなる。帰蝶の身体が震えるが、涼平の身体はもっと震えていた。


「…それはお前の力が「呪い」だからだ。俺たちの力は誰かを祝福するようにできていない。この力で誰かを幸せにすることは出来ない。祈りはとどかず、呪いだけが形となる」


鈴鹿が静かに語る。その様は見た目に釣り合わず俗世に疲れた僧のようで、老いすら感じさせた。


「……俺にはまだ、やることがある」


涼平はそう言って立ち上がると、自分の手を握る帰蝶の手をそっと外した。帰蝶の手は涼平を追おうとして空をかき、しかしその指が届くことはなかった。


「やめておけ」


部屋の出口へと歩き出す涼平に、鈴鹿が声をかける。


「逃げずに考えろ。本当に、お前に必要なことなのか」


涼平は振り返らない。


「必要とされているのは、お前自身なのか。それとも、お前の「力」なのか」


不幸になるぞ、と鈴鹿が言う。涼平は扉に手をかけて、振り返った。


「俺は不幸にならない」


その瞳に迷いはなく、ただただ透明な祈りのようなものが、涼平の身体を立たせていた。


「必要とされてなくても、ただ苦しめるだけだとしても、そばにいたい」


ばたんと扉が閉まる音がして、部屋には四人が残された。










「……鈴鹿と槙は、どう思う?」


ソファーに座ったまま動けない愁が口を開く。その足には帰蝶が縋りついていて、震える手できつくスーツを握り締めている。愁は帰蝶の頭を優しく撫でる。


「俺の考えは変わらないっすよ。あいつは化け物です」


「………」


槙は黙ったままコーラを飲んでいる。鈴鹿は悪びれる様子もなく話す。


「俺は難しいことはわからないっすけど、俺たちみたいな奴にしかわからないこともあります。あいつは生かしておく方が気の毒です」


「どっちにしても、彼……」


槙はそれだけ呟いてから、ベッドに倒れこんで動かなくなった。「こいつ今日だけで十年分ぐらい喋ったんじゃないすかね」と、鈴鹿は乱暴に槙をベッドに寝かしつける。


「槙の話によれば、彼は誰のことも傷つけまいとしているようだけど」


「あんな呪い背負って、どうやって誰のことも傷つけないっていうんです。人と一緒には生きられない」


「…………涼平は誰も呪わない」


愁にしがみついたままの帰蝶が声を震わせる。


「あんたなんかに何がわかるの」


「…わかりたくないね」


帰蝶の頭を撫でていた愁がまた口を開いた。


「鈴鹿はさっき「俺たちみたいな奴」と言ったね。鈴鹿の基準では遠野くんは化け物で、君自身は何になるのかな」


「そりゃ化け物っすよ」


鈴鹿は当然のように言い切った。愁が笑う。


「そうだな。私に何かあったら、君はどうする?たとえば、誰かに命を狙われてるとか。もしくは誰かを殺そうとしてるとか。病気になったとか」


「何すかいきなり!やめてくださいよ!」


鈴鹿は本気で嫌そうな顔をする。愁がまた笑って、「いいから」と急かす。


「…俺と槙の目が黒いうちはそんなことになりませんよ。なっても解決します。そのために俺たちがいるんすから」


愁は満足そうに目を閉じる。その顔がうつくしくて、鈴鹿は思わずじっと見つめてしまう。


「…私も君たちに何かあったら、君たちが思っているよりはずっと形振り構わないだろうね。そういう意味では私も十分、化け物だ」


どう考えても愁さんは違うでしょ、と鈴鹿は不服の声をもらす。同じさ、と愁は目を開いた。


「だけど、君も私も人間でいたいんだ。きっと彼もそうなんだろう」


「だったら尚更ですよ。…人間でいられるうちに死なせてやった方がいい」


あんなの既に自縛霊っす、と鈴鹿がぼやくと、愁は「ところで」と笑みを深めた。


「私は君と槙の事情について今まで言及してこなかったわけだけど、雇用するにあたり健康診断は受けさせているはずだ。結果は何も問題なかったように記憶しているけれど、さっき槙が聞き捨てならないことを言っていた気がするね。何か弁明はあるのかな」


「…っと。それはっすね。呪いもち特有のメンタル的な問題ってやつで。身体の方は特に何とも」


「私の目を見て言ってごらん」


鈴鹿はしどろもどろになって視線を彷徨わせ、愁の笑みはどんどん冷たくなっていく。槙は寝返りひとつ打つことなく熟睡している。

先程までこの部屋を包んでいた緊張感は既に失われている。帰蝶はまだ夢をみているような気分で、自分が取りこぼしたかもしれない何かを想う。

夢なら覚めて。そう思いながら意識を手放していく。音楽室が恋しくて、きっと人はこういうときに泣くんだろうと思った。目蓋を閉じる。涙は出なかった。



次回から過去編です

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