幕間 出逢い
日曜の朝は家の中が騒がしい。三人の姉がそれぞれ、やれ服がない、ワックスどこいった、人のものを勝手に使うな、ドライヤー交代しろ、などと一方通行に喚いている。ケバい…いや、華やかな姉たちがどたばたと洗面所と居間を行ったり来たりしている中、俺は朝食を食べながらニュースを流し見る。
「…続いてのニュースです。先日多々良川上流で発見された遺体の身元が確認されました。遺体は県内に住む二十代男性で、頭部に強い衝撃を受け首の骨が折れていることから、警察は逢己橋から男性が転落した可能性が高いとみて、事件と事故の両面から捜査を…」
昨日速報で知ったニュースだ。どうせ自殺なんだろうなと思いながら食パンを噛る。近所と言えば近所だが、この世に人が死んでない場所なんてない。雑な思考でコーヒーを流し込んでいると、知らない情報が耳に入った。
「また、別の身元不明の男性が逢己橋付近で遺体で発見されており、付近の聞き込みによると、死亡推定時刻と思われる時間帯に男性の言い争う声が聞こえたとの情報があり、警察は身元の特定を急ぐと共に、この二人に関連性があるかを…」
「真紘ー!背中ファスナー上げて!」
姉の声にニュースが遮られる。物騒な世の中だなと思いながら、従順なロボットのように姉のワンピースのファスナーを上げる。「行ってきまーす」と次々に声が聞こえ、姉たちが出勤する。彼女らは皆サービス業なので週末が忙しい。休日家に誰もいないのは正直ありがたい。
とはいえ俺もこれから部活だ。平日よりゆっくりと朝食を済ませ、ジャージを着て家を出た。愛用の自転車を走らせる。
学校に着いて、人気がないことにおや、となった。普段なら某かの運動部の朝練が始まっているのに。体育館まで来るが開いていない。これはやってしまったかと思い携帯を見ると、朝イチで部活の連絡が来ていた。ニュースの件に事件性があるかもしれないことを考慮して、今日は全部活動が自粛になるようだ。
なぜ確認しなかった…と一時間前の自分を恨んだが仕方がない。昨日のうちに決まってくれていれば…と思いながら、とぼとぼと自転車置き場に引き返す。
旧校舎の前を通りかかったとき、ポロン、と一瞬だがピアノの音が聞こえた。音楽同好会は休日に学校で活動していないはずだけれど、誰かいるのだろうか。
部活動が自粛になって誰もいないのをこれ幸いと、涼平くんと帰蝶ちゃんがこっそりやって来たのだろうか。あり得なくはない。せっかく一時間も自転車をこいで来たのだ。二人に会えるなら会いたいと思い、旧校舎に入る。
階段を上がり廊下を歩くが、ピアノの音はしない。もしかして気のせいだったかな、まあその時は今度こそ帰るだけだと思い、第一音楽室の扉に手をかける。鍵はかかっておらず、扉が開いた。やはり二人が来ているようだと浮き足だったそのとき、目の前の光景に固まった。
音楽室には知らない少女がいた。胸元の開いたシャツ、短いプリーツスカートからは素足が晒け出されていて、何とも目に毒だ。行儀悪く机に腰かけ足を組んでいる。
そして何より、こちらを振り向いた顔。はっきりとした目鼻立ちにそばかすが浮いていて、明るい粟色の髪は肩につかない長さでパーマをかけたように波打っている。ブロードウェイミュージカルに出ていそうな美少女に、口が開いたままぽかんとしてしまった。
「誰」
強気に放たれた声は見た目に反してハスキーで、セクシーだな、なんて思っていたら反応が遅れてしまった。
「えっと、君は」
「音楽同好会だけど」
「え」
予想外の返答に戸惑う。たじろいで動けないでいると、机から降りた少女がすたすたと一気に距離を詰めてきた。近い。とんでもなく、距離が。小柄な少女が下から俺を見上げている。
「五万」
「……ん?」
「五万で一回ヤらせてあげる。どう?」
「なっ」
一気に顔に血が集まる。きっと耳まで赤くなっている。
こんなことが俺の日常に起きるはずがない、夢でもみてるのか、と言葉を失っていると、後ろから「もしかしてもう食べられちゃった?」と声がした。慌てて振り返る。帰蝶ちゃんだ。
「うっ!帰蝶ちゃん~!」
緊張感から解き放たれて、思わず帰蝶ちゃんの背に飛びついて隠れる。彼女の背中は頼もしい。俺は情けない。
「うわ、怯えてる…。かわいそうに、怖かったね」
「ちょっと。こいつ鼻の下伸ばしてたから、少しからかっただけだってば」
男のロマンの具現化のようなこの少女と帰蝶ちゃんは気兼ねない様子で、やはり知り合いのようだ。
「真紘、この子は音楽同好会の芽依子。あまり学校来ないから、初めて会う?」
帰蝶ちゃんの言葉に、そういえばと思い至る。音楽同好会は、帰蝶ちゃんと涼平くんが、不登校の子と三人で立ち上げたもの。
この子が、そうなのか。
まだどこか現実に戻って来れていない俺を見て、少女が言う。
「橘。橘芽依子。あんたが、真紘?」
「あっはい」
反射で返事をしてしまってからまだ名乗っていなかったことを思い出す。ようやく頭が冷静になってきた。
「二年B組、和泉真紘です。俺のこと知ってるの?」
「帰蝶がたまに話す」
「えっと、芽依子さんは…」
「橘」
「はい。すみません橘さん」
音楽室の入口でもだもだしていると、携帯が鳴った。涼平くんからだ。通話に出ると、携帯と背後から同時に彼の声がする。
「……いい加減、教室に入ってくれ」
振り返ると、涼平くんが十歩程離れたところからじとりとこちらを見ている。やたらと大荷物だ。
「……何で電話?」
「近寄りたくない」
ぶつりと通話が切れる。何のこっちゃと思うが、ひとまず教室に入った方が良さそうだ。
「何だ、遠野も来てたの。あいつ役に立たないから来なくていいのに」
橘さんは声を潜めることもなくそう言い放って、先程まで座っていた机に戻っていく。驚く俺に帰蝶ちゃんが解説してくれる。「芽依子と涼平はあまり仲良くない」
あまり…?と思いながら今度こそ音楽室に入る。涼平くんも後から入ってきて、不思議な四人が揃った。いや、不思議ではない。俺以外は音楽同好会だ。
橘さんの近くに俺と帰蝶ちゃんは座り、涼平くんは定位置のピアノに腰かけている。
「真紘は、何でここに?」
帰蝶ちゃんに問われ、苦笑する。
「普通に部活に来たんだけど、着いてから今日は部活動自粛って気づいてさ。音楽同好会は大丈夫なの」
「何で自粛?」
「ほら、逢己橋の件。顧問から連絡来てない?」
「来てない。普段土日は来ないから、放っておかれたのかな。それで、何で音楽室?」
「あはは…ピアノの音、聞こえた気がして。涼平くんと帰蝶ちゃんがいるのかなって。せっかくなら会いたいな、と。普段ゆっくり話す機会ないし」
「………」
帰蝶ちゃんは少しくすぐったそうにはにかんでしまった。普段クールな印象を周りに与えているけれど、こういうところはとても可愛いと思う。すると「チッ」と舌打ちが聞こえた。
「なるほど。無害そうに見えてそうじゃない、人タラシなわけね」
「ぶはっ」
ひどい言われように思わず吹き出してしまう。
「何笑ってんのよ。馬鹿にしてる?」
「いえ、とんでもないです……」
俺が困っていると、帰蝶ちゃんがはにかみモードから帰還した。
「今日は勉強会だよ。芽依子が学校来ないから、三人で勉強するの。真紘もする?」
「…お邪魔していいの?」
音楽はやらないのか、と少し残念に思ったけれど、せっかくの休日なら友達と過ごしたいし、どっちにしろ勉強はしなくてはならない。俺の成績はせいぜい中の上といったところだ。一応お伺いをたてる俺に、帰蝶ちゃんが頷いた。
「うん。先生役、やってくれる?」
「……ん?」
日曜正午。まだセミの鳴き声が聞こえる音楽室で、俺は教科書と帰蝶ちゃんのノート、そして危うい自分の記憶を頼りに、三人に数学を教えていた。帰蝶ちゃんは何なら俺より数学の出来は良かったが、人に教える才能がゼロなことが判明したので、泣く泣く俺が頑張るしかない。
「すごい。言葉の意味がわかる。あんた役に立つわね」
橘さんに褒められて嬉しいが、おそらくこの学校ではだいぶ低レベルの勉強会となっている。
「いや、俺もかなり怪しいから、申し訳ないけども…」
「聞いてると頭が宇宙を漂い始める帰蝶の解説より百倍良いわ」
橘さんはかなり飲み込みが早い。おそらく基礎は自主学習で事足りているんだろう。少し教えればあっという間に応用をこなしてしまう。
それに比べて涼平くんは壊滅的だった。脳が思考することを拒否しているようで、ずっと苦しそうにしている。特に空間把握能力は息をしていなかった。
「涼平くんって、入学して最初の考査で成績上位者に名前載ってたよね…?どういうことなの…」
「一年あれば人は変わる…」
涼平くんは数学を諦めたようで、古典に手をつけ始めた。
「ちょっと涼平!古典は先生役!」
「帰蝶、遠野は放っておきな。あいつはもう手遅れよ」
ずいぶんと仲が良さそうな三人の様子に、俺は勉強より俄然三人に興味がわく。勉強中だとわかっているのに、とうとう我慢が出来なくなった。
「……三人はさ、どうして音楽同好会を作ったの?」
三人ともそれは見事に同時にペンを置いて、帰蝶ちゃんが「休憩!弁当!」と声をあげた。
「どういうことなの……」
俺はついさっき口にした言葉をもう一度呟いた。目の前に広げられた、花見か?とツッコミたくなる料理の数々に呆然とする。三段重箱が2セット。朝、涼平くんを見たときに荷物が重そうだなとは思ったけれど、まさか全部手料理だったとは。
「料理と掃除ほどストレス発散になるものはない」
涼平くんは紙皿に料理を取り分けてくれる。それを受け取りながら、「めっちゃ美味しそうだけど、食べきれるのかな…」とこぼすと、帰蝶ちゃんが「大丈夫」と力強く頷く。
「私がたくさん食べるし、芽依子がたくさん持って帰る」
「遠野の唯一の長所よね」
女性陣が先陣きって食べ始めた。美味しそうに食べる女の子は可愛い。しかし食べるのが早すぎる。涼平くんはおしぼりを用意してからプラコップに全員分のお茶を注いでいて、女子力が爆発している。
いただきます、と言って、俺も取り分けられた卵焼きを食べる。
「えっ…うま…え、これ卵焼きだよね…?うま…」
「お粗末さまです」
手渡されたお茶までが謎に美味しい。お金を払わなくていいのか心配になってきた。
「それで、音楽同好会のきっかけだっけ。中学の頃に作った」
唐突に帰蝶ちゃんが話し出す。ちょっと、いや普通に引くぐらい食べるのが早い。既に重箱一段の半分がなくなっていた。
「中二の夏に、私がこの町に引越してきて。涼平が同じクラスだった。芽依子は別のクラスだったけど、冬に仲良くなって」
「三人とも同中なの?それで全員ここに進学?すごいね」
「オナチュー?」と聞き返され、同じ中学校のことだよと付け足した。なぜか背徳感がすごい。
帰蝶ちゃんの微妙に詳細のわからない説明に、橘さんが補足をしてくれた。
「馴れ初めは私も知らない。知り合ったときにはもう二人で歌ってたから、三人で作ったというのは嘘よ」
「馴れ初めと言うのはやめろ……」
渋い顔でそうこぼす涼平くんは料理には手をつけずにちびちびとお茶ばかり飲んでいて、心配になる。
「それじゃ、立ち上げたときは二人だけ?」
涼平くんが説明を引き継ぐ。
「中学の頃はそもそも同好会ですらなかった。ただ俺が適当にピアノ弾いて、帰蝶が勝手に歌ってただけだ。全員帰宅部だったから、帰蝶の話は全部嘘だ」
「出会ったタイミングは本当でしょ?何があって仲良くなったの?」
「…………………」
この質問には全員が黙り混んだ。気まずい、というよりは、三人とも何と説明したらいいのかわからない、といった様子だ。
「……帰蝶と遠野は出会った頃、めちゃくちゃに仲が悪かったわよ。親の仇か?ってぐらい険悪だった。どうしてか知らないけど」
「そうなの?!」
とんでも情報に驚くと、帰蝶ちゃんが「顔も見たくなかった」と、おにぎりを飲み込む間に呟く。涼平くんは悟りを開いたかのような表情で遠くを見ていて、どうやら現実逃避しているらしい。
「涼平が私を嫌いだったんだよ。お互い身内が入院してて。何度か本気で殴り合ってたら、いつだったかどうでも良くなった気がする」
「すごい。めっちゃ気になるのに、何にもわからない」
涼平くんはこの件に関しては何も語る気がないらしく遠くを見たままだ。謎だけが増えて強烈にもどかしい。他の謎を解決しようと橘さんに話を振る。
「橘さんと二人は、何がきっかけで」
「私の父親が服役してんだけど、その父親が捕まるときに色々あって、そんとき世話になったの」
「………ごめん、聞いて大丈夫なやつだった……?」
直球ストレートで返され、その内容がこの平和な空間とあまりにミスマッチ過ぎて、一瞬脳がバグった。当の橘さんは「何が?」という顔をしている。気を悪くした様子はなさそうで、ほっと息をつく。
「色々あったんだね。付き合いが長いのは羨ましいけど」
「たかが三年、経ったか経たないかだ」
涼平くんがようやく口を開く。
「長ければいいってもんじゃないしな」
そう呟いた涼平くんはどこか寂しそうで、俺は何と言ったらいいのかわからなくなってしまい、誤魔化すように鯖の味噌煮を頬張る。「すごく美味しい」と本心から言うと、涼平くんは微かに笑ってくれた。
「……で、和泉。あんたは何者なの」
「…真紘でいいよ」
「親しくもない男を名前で呼ぶ趣味はないわ。私らばっかじゃなくてあんたも何か話しなさい」
…橘さんが気を使ってくれたのがわかる。この子はきっと優しい人だ。空気を変えるために、俺は自分のことを話し始めた。
「そうだね、俺は三人も姉がいるんだけどさ…」
気がつけば音楽室に夕日が差し込んでいる。あれから豪華花見弁当を平らげた俺たちは、今日の本分を忘れずにちゃんと勉強を再開した。バスケ部だったら絶対にこうはならない。ちなみに弁当は重箱四段を帰蝶ちゃんが食べ、一段分を俺と橘さんが食べ、残りの一段は橘さんが持ち帰るらしい。涼平くんは「家に残りがあるから」と結局ほとんど手をつけなかった。
「キリもいいし、自粛と言われてるぐらいだし、暗くなる前にそろそろ解散しようか。というか、ここ鍵かかってないの?」
「音楽同好会の入会条件は最低限のピッキングが出来ることなんだ」
「あはは何それ。最低限のピッキングって」
涼平くんも冗談を言うらしい。昼を食べなかったことは心配だが、雰囲気は少し明るくなっているようで安心する。
「真紘。芽依子を送ってくれる?」
帰蝶ちゃんに頼まれ、「もちろん」と返す。橘さんが嫌がりそうだと思ったけれど、橘さんは何も言わなかった。
学校の正門まで四人で並んで歩く。後ろから夕日が照って、四人の影が足元に伸びる。
「真紘、また勉強会にきて」
今日の帰蝶ちゃんは甘え上手だ。気分が良くなる反面、何だか帰蝶ちゃんらしくないような気もする。まるで何かを繋ぎ留めようと必死になっているような…。
「部活が休みの日なら喜んで。なかなかないんだけどね。でもちゃんと連絡する」
俺の返事に安心したかのように帰蝶ちゃんの表情が緩む。
「涼平くん、お昼ご馳走さまでした。次は荷物持ちやるよ。俺、自転車だし」
「平気だ。授業料だから、気にするな」
正門に着いて、「また明日」と言って帰蝶ちゃんと涼平くんと別れる。並んで遠ざかっていく後ろ姿は、やはりカップルにしか見えない。
「あの二人、付き合ってないんだよね…」
「…………」
黙ったままの橘さんにはっとして、「ごめん!独り言!」と言い訳するが、手遅れだ。気まずい空気を誤魔化すように、「帰ろうか」と促した。
「あんた、良い奴ね」
「ええ?どうしたの、急に」
橘さんは真顔のまま、なぜか動こうとしない。
「どうして私が不登校なのか、聞かない」
「…気にならないわけじゃない。でも何か事情があるんでしょ」
「帰蝶と遠野を頼むわね」
唐突な物言いに今度こそ戸惑う。何と返そうか言いあぐねていると、「私には何もできないの」と橘さんは視線を落とした。足元には俺たちの影しかない。
「送らなくて結構よ。私は大丈夫。あんたこそ気をつけて帰って」
橘さんはそう言って、俺を置いて歩いて行ってしまう。自転車を押して後を追いかけようとすると、橘さんが振り返った。
俺を見る大きな瞳が夕日よりも紅く見えたのは、気のせいだろうか。
「家まで振り返らずに帰って。寄り道も駄目よ」
何となく、引き際を感じた。
「……また会えるよね?」
同じ学校の同級生なのに大袈裟な、と我ながら思ったが、実際入学してから一年以上、一度も顔を合わせなかったのだ。念押ししたくもなる。
橘さんは今朝初めて会ったときのような不敵な表情を浮かべた。
「五万でまた会ってあげる」
「えっ」
またしても本格的に固まった俺を見て、橘さんは笑った。彼女の初めての笑顔に、俺はかっと顔が赤くなる。きっと夕日よりも赤いに違いない。
「冗談よ。じゃあね、和泉」
そう言って、橘さんは迷いない足取りで夕暮れの街に消えていった。
残された俺は赤い顔をそのままに、しばらく立ち尽くした。もう誰もいないのに、顔を隠すように口元を手のひらで覆う。
「………音楽同好会、破壊力ありすぎでは……?」
顔の火照りを冷ますように勢いよく自転車をこぎ始める。当然のように、顔はさらに熱くなった。
細々続きます