第二話 後編
後日加筆修正します……
春樹を訪ねた翌朝。帰蝶は未だ沈黙を続けるスマホを視界の隅に、教室で英語の予習に取り組んでいた。ホームルームまであと十分という時間で、クラスメイトは大半が揃っている。
落ち着かない気分を紛らわすように辞書を引く。少しして、開けっ放しの入口に涼平の姿が見えた。予習に集中している振りをしながら気配だけで様子をうかがう。
涼平の席は帰蝶の前隣なので、まっすぐこちらに向かってくる。
「おはよう」
いつもと変わらない調子の挨拶に、顔を上げる。普段通りの涼平がそこにいた。鞄を机の横に下げて、椅子に横座りする。
「…おはよう。昨日のノート、要るなら貸すけど。メールの返信ぐらいしたら」
「要らない。春樹から話は聞いてるか」
都合の悪いことは聞かないところが、帰蝶と涼平はよく似ていた。しかし自分はここまでではない、と帰蝶は思う。「聞いてる」と答えると、「そうか」と返ってきた。
「昼休みに詳しく聞かせてくれ」
「わかった」
簡潔に会話を済ませると、帰蝶は予習を再開し、涼平は机から料理のレシピ本を出して読み始める。
教室にいる間、二人はほとんど会話をしない。同好会以外では話題がないせいもあるが、帰蝶も涼平も、自分に必要な勉強のために日々時間を惜しんでいる。
程なくして担任がやって来てホームルームが始まった。帰蝶はそっと目を閉じて「耳」をすます。担任の声が遠くなっていく。
「静かすぎる」ことに気づいて、帰蝶は目を開いた。いつもの光景。涼平の後ろ姿。
…この人は自分が傷ついていることに気づいていない。
未だ落ち着かない気持ちが、同情なのか嫌な予感のせいなのか、帰蝶には分からなかった。
昼休み、二人は第一音楽室に足を運んだ。涼平は二人分の弁当を持参している。昨日の詫びのつもりだろうか、こういうところが憎めない。帰蝶も昼食は持参しているが二人前を平らげるぐらいは訳ないので、ありがたく頂くことにする。
涼平から受け取ったステンレスの弁当箱を開けると、高級レストランのランチかと目を疑いたくなる色鮮やかな料理が、これまた綺麗に敷き詰められていた。何度見ても新鮮に感動してしまう。
「女子の面目を全力で潰していく弁当…いただきます」
「良いものに男も女も関係ないだろ」
涼平も同じ内容の弁当を広げる。昼食をとりながら二人は本題に入る。帰蝶はレコーダーが録音したことを再生するかのように、春樹から聞かされたことを話し出した。
「偽造した佐鷺町の情報サイトのリンクを、例のスレッドに貼ったんだって。トロイの木馬…?マルウェアを仕込んだとかで、アクセスした人にバックドアを」
「……………」
箸を動かす手をとめて静かに殺気を放つ涼平に、帰蝶は先回りをする。
「……遠隔操作でやったって。自分のIPアドレスすら残さない、みたい」
「お前、何も意味わかってないだろ…」
こちらを睨み付けてくる涼平を無視して、話を続ける。
「その佐鷺町に食いついた人をクラっキングして、そしたら、自死を考えていそうな人を見つけたって。とにかく。私たちは今日、逢己橋に行けばいい」
一気に言いきる。涼平は険しい表情のまま、すっかり食べることをやめてしまっている。帰蝶は涼平からもらった弁当をたたんで自分の弁当を広げ、今しがた食べていたものとは比べ物にならないその中身にため息を吐く。そして、一番大事なことを伝え忘れていることに気づいた。
「今回はもしかしたら集団自決になるかもしれないって。そのときはどうしようか」
涼平の手から弁当箱が落ちて、中身が床に散乱した。散らばったおかずが死体みたいだ。もったいないなと思いながら、帰蝶は自分の弁当を食べ始めた。
放課後、二人は芦川院から逢己橋を見下ろしていた。芦川院は小さな山の麓にひっそりとたたずむ寺院で、長い階段を下ればそこに逢己橋がある。芦川寺としての本堂はもっと奥にあり、この辺りはもう使われていない精舎と桜の木があるだけだ。檀家以外には門を閉ざしているので訪れる人はほとんどいない。春樹は幼い頃、ここに住んでいたのだという。
まだ日差しが強く暑い時間帯だが、木陰で風に当たっていると心地が良い。ここはいつだって少し寂しく、涼しい。二人とも今日は夏服の白シャツを着ていた。
「本当に自死志願者が来るかなんてわからない。日暮れまでまだ時間もある。休んでろ」
休んだ方がいいのは涼平の方だとは言えず、帰蝶は桜の木の根元に腰をかけた。
「団体さんだったらどうするの。順番に並んでもらう?」
「………」
涼平が口元に手を当て考え込んでいる。自死代行するとき、主導権は涼平にある。精神を入れ替えるのは涼平の力で、帰蝶は関与出来ない。帰蝶に出来ることは他人の身体で死ぬことだけだ。
自死代行を同時に複数人に実行したことは今まで一度もない。
「……あくまで春樹の予想だ。知人同士で一緒に来たりでもしない限りは、これまで通り対応する」
「一緒に来たり、被ったりしたら?」
「「隔離」する。そのときは頼む」
「わかった」
手短に結論を出して、沈黙が訪れる。涼平はまた橋を見つめ出す。日が暮れるまでずっとそうしているんだろう。
誰も来なければいいのに。心の中でそう唱えて、帰蝶は目を閉じた。
「帰蝶、起きろ」
涼平の声に瞬時に頭が覚醒する。木々の隙間から覗く空が赤い。立ち上がって涼平の隣から下を見下ろす。
「仕事だ」
芦川院への階段を、一人の青年が登って来ている。あの青年が自死志願者かどうかわからないが、涼平がこう言うのだから何か「視えて」いるのだろう。帰蝶の「耳」は特に何も拾わない。
階段を登りきった先で並んで青年を迎える。青年は見るからにやつれていてその足取りは重く、さまよう幽霊のようだ。おそらく二十代半ばといったところだろうが、手入れが行き届いていない風貌や生気のなさで、老け込んで見えた。
青年の目が涼平と帰蝶を捉えると、その瞳が一瞬揺らいだ。
「………自死代行人です」
涼平の言葉に、青年が「まさか、本当に…?」と呟いた。青年はふらふらと涼平に歩み寄る。
「あんたが誰でも構わない…頼むから死なせてくれ…自分で死んだら地獄へ落ちて、彼女に会えない気がして…」
「大丈夫です。あなたは誰も、自分のことも殺さない。俺たちが、あなたの代わりに死にますから」
青年がその場で崩れ落ち、嗚咽し出す。その様は魂が引き剥がされているかのようで、生々しい痛みに満ちている。
「あなたは何もしなくていい。俺たちに任せてください」
涼平が青年に手を差し伸べる。青年が涼平の手を取る。
帰蝶も涼平の手を取ろうとした瞬間、帰蝶の「耳」に悲鳴が飛び込んできた。
『死なせないで!!』
驚いた刹那、既に身体が入れ替わっていた。慌てて涼平を見ると、一言『聴くな』と呟いた。
帰蝶の身体に入った青年は一瞬戸惑いを浮かべたが、すぐに先ほどのようにうずくまった。泣こうとしているのに涙が出ないようで、ひどく苦しそうだ。
「行こう、帰蝶」
涼平は「帰蝶」の手を引いて階段を降りて行こうとするが、「帰蝶」はその場に留まろうとした。
「駄目。聞こえたでしょ?この人は」
「…………」
涼平は何も言わない。
二人は黄昏時の間、手を繋いでいるときだけ、互いの感覚を共有する。涼平は帰蝶の「耳」を、帰蝶は涼平の「目」を。先ほどの悲鳴は涼平にも聞こえたはずなのだ。
「この人は死んじゃいけない。私はやらない」
「……死ぬしかないんだ」
涼平がこちらを見ないまま呟く。納得出来ず、想像以上に重い青年の身体と涼平を引きずって、青年が入っている自分の身体の元に戻る。蹲り顔を覆っている手を無理矢理に取って、涼平に握らせる。
黄昏時が終わるか、涼平の力を使わなければ精神は元に戻らない。涼平を睨みつけ、元に戻すように促す。
それでも涼平はこちらを見ないままだったが、やがて足元が揺らぎ、自分の身体に戻る気配がした。
次の瞬間、帰蝶は蹲った身体を起こす。耳に飛び込んでくる『死なせないで』という悲鳴に、やはり聴き間違いではなかったと、青年の身体を見上げた。
「………………あ、」
帰蝶は今、涼平と手を繋いでいる。涼平の「目」を共有している。
その視界に写るものは、青年の肩に縋るようにしがみつく、かつて人であったかもしれない、何かだった。
「死なせない、死なせない」と繰り返すそれは、泥のように淀み、蛆が集まったかのように蠢いている。目のようにも口のようにも見える空洞が淀みの中を移動し、そこから悲鳴が上がっている。
それが見えていない青年はしかしそれに押し潰されて、地面に膝をついた。青年の真っ青な顔がこちらを見つめる。
「お願いです…助けてください…」
全身から血の気が引くのがわかる。嘔吐きそうになったそのとき、『視るな、聴くな』という涼平の声が聞こえた。
世界が元に戻る。……泣きそうだ。
「帰蝶。仕事をしよう」
動けないでいる帰蝶の手を涼平が握り締めて、帰蝶はようやく我に返った。
「……うん」
帰蝶は頷くと、改めて青年の手を取る。
「怖いことは何もありません。もう少しだけ、待っていてくださいね」
涼平が一人で芦川院の階段を上がると、境内に帰蝶が倒れている。「戻ったか」と声をかけると、ややあってから帰蝶が起き上がった。
「…まだ黄昏時が終わるまで少しあるのに。逝ってしまうの、早かったね」
「きっと疲れてたんだろう」
青年の身体は見た目からは信じられないほどに重かった。やっとの思いでここまで来たんだろう。
「……自業自得かもしれないけどな」
ぽつりと呟いた涼平の表情からは、何も読み取れない。
あの青年に何があったかはわからない。「故人」の事情に、自死代行人は決して首を挟まない。
三人で唯一決めたルールだ。
「……帰ろうか」
帰蝶が先に階段を降り始める。後ろから涼平の気配がついてくる。
今日は涼平を春樹のところへ報告に行かせたくないな、と何となしに考えているうちに、階段は終わった。ふと橋を見やると、中年の男が橋から下を覗きこんでいる。
本能的に、ここから離れなければと全身に血が回った気がした。嫌な予感がする。
帰蝶が階段から降りてきた涼平の手を取って走りだそうとした瞬間、大声がした。
「本当だ!本当に飛び降りた!死んでる!死んでるぞ!」
大声を出したその男は、恐ろしい速さでこちらに駆けてくる。全身に鳥肌が立つ。
「まさか本当に死ぬなんて!あんたが殺したのか!自殺代理人!実在した!俺はこの目で見たぞ!なあ、あんたたちなのか!」
捲し立てる男に、涼平が「そうです」と答える。帰蝶は焦って涼平を引っ張ったが、涼平は動かない。帰蝶の手を剥がして、男と対峙する。
「自死代行人です。俺たちの力が必要ですか」
「ああ!さっきの要領で、殺してほしいやつがいる!」
「……………」
涼平は沈黙したが、男は興奮したまま喋り続ける。
「俺の嫁がガキを連れて男と逃げたんだ!許せねえだろ?手を貸してくれ!」
「……俺たちに出来るのは、あなたの自死のお手伝いだけです」
「何で俺が死ななきゃならねえんだ!!悪いのは嫁だろう!散々面倒を見てやったのに、若い男にすり寄りやがって…!」
男が唾を撒き散らして喚く。辺りは徐々に暗くなって、互いの表情がどんどん見え辛くなっていく。
「……なぜ、あなたは怒っているんですか…?」
「涼平!」
これ以上この男と会話させてはいけない。そう思うのに、身体が地面に縫い付けられたように動かない。
「愛した奥さんとお子さんが、どこかで幸せに暮らしている。あなたは何も失っていない。一体何に怒っているんですか」
涼平の声に怒りはなく、ただ純粋な疑問だけがあった。
一瞬ぽかんとした男が、怒髪天を突かれたように激情した。真っ赤な顔には血管が浮き上がり、その表情は永遠に元に戻らないのではという程に歪んでいる。
「俺を差し置いて幸せになるなんて許せるわけがねえだろうが!!あんたは頭がおかしいのか!?」
「……愛した人が生きている。それだけでは、駄目ですか…?」
涼平の声が微かに震える。
時の流れがゆっくりになったかのようで、男が何か言おうとするのがわかる。これを聞かせてはいけない。やめてと叫びたいのに声が出ない。涼平は無意識に「力」を使っている!
「駄目に決まってるだろう!他の奴のものになるぐらいなら殺してやる!嫁も!子供も!のうのうと生きてるなんて許せねえ!殺してやる!殺すんだ!死んじまえ!!」
男の張り裂けるような絶叫で、しん、と一瞬世界がとまった。直後帰蝶を抑えつけていた「力」が消え、身体が自由を取り戻す。即座に人形のように固まった涼平を背に抱え、全身全霊で地面を蹴った。
許さない!許さないからな!と男の声がこだまする。その声はすぐに遠くなって、やがて聞こえなくなった。
人目につくかを気にする余裕もなく全力で暗がりを駆ける。おそらく原付程度には速度が出ている。街明かりが近くなったところで速度を緩め、歩き出す。
病院の近くまで来て涼平を下ろし、スマホでタクシーを呼ぶ。すぐにタクシーはやってきて、運転手に涼平の自宅の住所を告げる。ぐったりとした涼平に驚いたようだが、「病院の帰りなんです」と言うと、「お大事に」と言って車を走らせてくれた。
ポケットに入れておいた財布の中身ぎりぎりで支払いを済ませると、帰蝶は涼平を背負って、ある一戸建ての玄関をくぐる。外観は無機質にシンプルで、しかし高級住宅だと一目でわかる。
合鍵を使って家の中に入ると、一人暮らしにはあまりに広すぎるリビングのソファーに涼平を座らせた。涼平は人形のように一点を見つめたまま動かない。
「涼平……」
手を握りじっと待っていると、どれくらい経っただろうか、涼平が身動いだ。何度かゆっくりと瞬く。
「帰蝶か。どうした」
涼平は何事もなかったようにけろりとしてして、帰蝶は唇を噛み締める。けれどすぐに表情を繕った。握っていた手を離す。
「何も。今日はちょっと、疲れただけ」
涼平は少し考えるように周りを確認して、「明日は月曜か。春樹の見舞いに行かないと」と言った。
「……今日は金曜日だよ。明日は休みだから、ゆっくり休んだら」
まだぼんやりと何か考え込んでいるような涼平に、おやすみ、とだけ告げて、帰蝶は涼平の家を出る。ようやく酷使した筋肉が悲鳴を上げた。
空を見上げると曇天で、少しも星が見えなかった。
知識ゼロで書いているので、諸々のあれそれは捏造を極めてます…
サイバー犯罪系のお話が好きな人は「王様たちのヴァイキング」という漫画を是非。めちゃくちゃ面白いです
細々続きます。何で日付変わる前に終わらんのや…なんでなん…