最終話
芦川院の麓に自転車を止める。待ち合わせの時間より二十分も早い。彼が必ず遅れてくるとわかっていても、時間より早く到着する習慣は、いよいよそのままだった。
彼のことを待つ時間が好きだ。叶うなら四六時中一緒にいたいけれど、今か今かと約束された幸福に焦らされる時間が、俺はずっと好きだった。
頭上から桜の花弁が一枚、ふわりと落ちてきた。あの垂れ桜が今年も美しく咲いたんだろう。
長い階段を下りてくる足音がする。俺は階段の方を見ずに自転車にもたれたまま、町と空を眺めた。澄みきった青空が広がっている。
「なんだ。最後ぐらい、俺の方が待っててやろうと思ったのに」
声のした方を振り返ると、ボストンバッグをひとつ抱えた春樹が立っていた。
「荷物、それだけか」
「他は郵送でもう送ったよ。って言っても、私物なんてほとんどないけど」
春樹がさも当然のように、俺の自転車の前かごにボストンバッグを乗せた。俺は自転車を押して歩き出す。
「あれ、後ろに乗せてくんないの」
「二人乗りは違反だろ」
「今更?はぁ、何のために呼び出したんだか」
春樹が渋々後ろをついてくる気配がする。俺はほんの少しだけ、歩く速度を落とした。
お前を後ろに乗せたら、俺はきっと駅には向かえない。反対の方向へ自転車を走らせてしまう。わかってるんじゃないのか。
二人黙ったまま、歩き慣れた道をいく。変わらない景色と、春の風。幼い少年がふたり、笑い声をあげながら駆けていくのとすれ違った。
今日、春樹はこの町を出ていく。
代永を見送ったあの日から、四ヶ月が経った。その間、俺が春樹と言葉を交わすことはなかった。
春樹は学校に通っていて、生前彼の後見人だった芦川のじいさんが残した伝手なのか、生活も治療も出来ているようだった。たまに学校で見かける彼は人に囲まれていて、小中学生の頃を思い出した。
本当はずっとわかっていた。俺の助けがなくとも、彼が生きていけることを。
ただ、春樹の傍にいたかった。それが彼を苦しめることになると、わかっていたのに。
春樹の願いを叶えることも、代永を救うことも出来ず、二人の苦しみを長引かせた。結局、彼らを救ったのは俺ではなく、帰蝶だった。
……当然だ。俺は俺のために、春樹と居たかっただけなのだから。俺の我儘が、彼とこの町を狂わせた。死んでいった、俺が死なせた人々が、いつでも俺を見つめている。
年が明け冬が終わる頃、真紘から春樹の話を聞いた。病気が回復してきていること、何とか二年生に進級出来そうなこと。
北海道に、引っ越すこと。
定時制高校に転校して、芦川院と縁がある北海道の児童養護施設で、この春から働くこと。
そして終業式の日、春樹から連絡が来た。今日、迎えに来るようにと。
「お前、痩せたなぁ」
「春樹に言われたくない。そっちこそ、身体は大丈夫なのか」
「ぼちぼち。通院の頻度も少なくなったし、体力を戻さないと。なんてったって、社会人になるからな」
まだちょっと信じられないな、と春樹が笑う。一時結べるほどまで伸びていた髪はすっかり短くなって、柔い癖っ毛が無造作に跳ねている。春の日差しに小麦色がきらきらと輝いて、俺は目を細めた。
またしばらく黙って歩く。自転車のからからとした音が響いて、互いの気配にだけ耳を澄ますような時間が流れる。
このまま、どこにも辿り着かなければいい。そんなことを思っていると、春樹が静かに口を開いた。
「俺はずっと、お前が嫌いだったよ」
「……知ってる」
「お前が誰かのものにならないように、幸せになれないように、ずっと繋ぎ止めておくつもりだった。けど…もういい。もういいんだ。ようやくお前から離れられて、清々する」
俺は今日初めて、春樹の顔をまじまじと見た。
「………なんで俺に頼まなかったんだ?わざわざそんなことしなくても、俺は誰かのものになんかならないって、わかるだろ」
「………………」
「俺はずっと幸せだったから、幸せになるなと言われると、どうしたもんかとは、思うけど…」
春樹は前を見据えたまましばらく黙り込んで、やがてひどく嫌悪するようにその顔が歪んだ。けれどそれも一瞬で、深呼吸のように大きなため息を吐いた後には、うんざりしたと言わんばかりの呆れの表情になっていた。
「お前のそういうところが、本当に…。はぁ。もういい。お前は一生そうしてろ」
「…………」
春樹の言うことがわからない。それだけは最後まで変わらないのだと寂しくなって、ほんの少しだけ嬉しかった。
「ここまででいい」
駅に着くと春樹はボストンバッグを前かごから回収して、さっさと改札に向かってしまう。自転車を駐輪場に止めている間に、その姿はホームに消えていた。
入場券を買って、その後を追いかける。
「電車が来るまでいる」
「だったら荷物持て」
「……それは、自分で持っとけ」
「はあ?じゃあさっさと帰れよ」
俺が荷物を持って逃げたら、彼は電車には乗らずに、この町に少しでも留まってくれるだろうか。ここまで来てもそんなことを考えてしまう自分が、本当にどうしようもない。
この四ヶ月、俺は自分に出来ることを考えていた。
春樹はもう、俺に何も望まない。何も受け取ってくれないとしても、祈るだけなら赦されるだろうか。
どうか、元気で。幸せに。
……どの口が?なんて、烏滸がましい。俺のせいで、彼は苦しんだのに。
幼い頃の記憶が甦る。春樹はいつも笑顔で、とびきりの世界の秘密を、俺に教えてくれた。
その全てを覚えている。彼の声と仕草と、表情と共に。
ホームに列車の到着を知らせる音が鳴る。心を引き裂くような残酷な音だ。
「じゃあな」
二両しかない列車が春樹を迎えにやって来る。彼をこの町からさらっていくのは呪いでも病気でもなく、ただの乗り物だった。
列車のドアが開いて、春樹が乗り込む。ホームに立ったままの俺と向かい合った。
時間が止まったようで、春樹の瞬きすらスローモーションに見える。
俺に、出来ること。春樹に最後に、贈るもの。
「春樹」
ずっと、彼からもらってばかりだった。すがって、乞うて、しがみついて。
その手を今、離そう。
「……さようなら」
春樹が目を見開く。その口が薄く開いたそのとき、列車のドアが閉まった。ドアのガラス越しに、固まったままの春樹と見つめ合う。
俺はただ、春樹に笑って欲しかった。二人で天体望遠鏡を覗いた、あの日のように。
春樹はどうだろうか。ほんの少しでも、二人で見た星空を、懐かしんでくれるだろうか。
俺は今、うまく笑えているだろうか。
列車が走り出す。俺と春樹の世界がゆっくりとずれていく。
俺はその場から動けずに、遠ざかる春樹を見つめ続けた。
「もう、次の電車来るよ」
「……いつからいた」
「今さっき。私だって本当は見送りたかったけど、遠慮したんだよ」
いつの間にか、帰蝶が隣に立っていた。今は春休みだというのに、何故かセーラー服を着ている。
「どうして制服なんだ…」
「服選ばなくていいの、楽だから。部活に行くってことにすれば、親に話しやすいし」
人のいないホームに、二人で佇む。風が強く吹いて、桜吹雪が舞った。
「桜、きれいだね」
反対のホームのすぐ横に桜の木があることに、ようやく気づいた。もしかしたら無意識に、それを眺めていたのかもしれない。
「……世界が終わった気分はどう?」
「容赦ないな、お前…」
デリカシーのなさに辟易しながら、改めて桜を見た。満開を過ぎて、ちょうど散り時だ。
「……ずっと怖かった。春樹のいない世界なんて知らないし、知りたくもない。春樹がいないなら、生きてる意味なんてない。……けど、どこかで笑っていてくれるなら、それがいいと思ったんだ」
はらはらと花びらが舞う。一枚の花びらが、帰蝶の白い頭についていた。
手を伸ばして、それを拾う。
「……桜って、こんなに白かったか?」
「知らない。品種によるんじゃない」
たしかに絵とかイメージはすごい桃色だよね、と帰蝶が首を傾げる。桜より白い髪が、さらりと流れた。
「……髪、伸びたな」
ショートと呼べるほど短かった髪が、鎖骨の辺りまで伸びている。春風になびいて、一瞬、舞っているのが桜なのか雪なのか、わからなくなった。
「うん。もう短いままで、伸びないかと思ったんだけど。短いの楽だったから、そろそろ切ろうかな」
「……そのまま伸ばしとけ」
「なんで?」
「何となく。もったいないだろ」
「そう?まあ、どっちでもいいけど」
いよいよ次の電車が来そうだったので、改札を出て駐輪場へ向かった。昼間で利用客が少ないので、こそこそ影に隠れている人物と堂々とバイクに寄りかかる人物が悪目立ちしていた。
「何してるんだ、お前ら…」
「うわっ、うわ、良かった!涼平くんおかえり!」
飛び出してきた真紘が俺の前で挙動不審になった。慌てているようにも、感激しているようにも見える。
「だから、何なんだ…」
「こいつが、あんたがホームから飛び降りやしないかって心配するもんだから、仕方なく来てやったのよ」
「橘さんーー!オブラート!オブラートに包んで!」
違うから!と喚きながら、真紘が顔を青くしている。
「真紘の部活が休みだし、芽依子も都合がついたから、どこか行こうかって。せっかく春休みだし」
後ろにいた帰蝶が説明したが、そもそもどうして今日この時間に、俺が駅にいることを知っているのか。
「足もあるし、少し遠出するのはどう?どこも桜が見頃だって」
「なんでわざわざ遠出して花見なのよ。桜なんてここにもあるじゃない」
「お弁当ないのに、お花見?何するの?」
「…………」
細かいことは、どうでもいいのかもしれない。
浮き足立っている三人を眺めてから、町の外へ続いている線路を振り返った。
春樹が去った町にも桜は咲いて、世界は色褪せず、美しいままだ。
心が千切れるような別れが訪れても、世界は終わらない。
「涼平!涼平は、どこ行きたい?」
まだ、俺の名前を呼ぶ奴がいるからだろうか。
「………桜が咲くなら、どこでも」
この季節にふさわしい彼の名前を、知らない誰かが、また呼ぶのだろう。
手のひらに納めたままの花びらに祈りをこめるように、そっと口づけた。




