名残雪
誰かが側にいる気配がする。ぼんやりと意識が浮上しても、身体がひどく重くて動けそうにない。
…やはり、熱を出してしまったのか。この季節に頭まで水に浸かったのだから無理もない。暑くて息苦しいのに、寒くて仕方がない。
回らない頭につまらない記憶たちが巡る。ここ数年、こうして何度も熱にうなされた。
「…………帰蝶か」
「うん」
自室のベッドに横たわる俺の傍らに、帰蝶がいた。熱で目が潤むのか、視界が滲んで顔がよく見えない。
どうしてここにいる、とは思わなかった。
「真紘と、橘は?」
「帰ったよ。お大事にって言ってた」
頭をさっと抱えられ、枕を替えられた。ごぽりと音がして、独特の冷たい感触に頭を沈める。……水枕だ。
俺は水枕が好きじゃない。もう何度も話したはずなのに。
額に濡れタオルが当てられる。布地が大きく、目まで塞がれた。雑な看病にため息がこぼれる。吐いた息が熱い。
……どうせ、何も見えない。大人しく瞼を閉じた。
「……春樹のことは、聞かないの」
少し気遣わしげな、帰蝶の声。冷えた頭が心地良くて、意識が遠退いていく。
「………俺に、知られたく、ないだろうから……」
「……そう」
桜が舞う。春の日射しに、柔らかな小麦色が揺れる。
俺はもう、夢を見ているのかもしれない。
「………代永が、教えてくれた。お前がまだ、間に合うかもって……」
「……………」
桜が風に押し流されて、一面が雪景色になる。どこまでも続く銀世界の果てを目指すように、帰蝶の背中が遠ざかっていく。
俺は追いかけて、その手を掴んでいた。
「……謝らない、ぞ…」
「うん」
「お前に、だけは…」
「……うん」
この世でただ一人。大切な人を守るための、互いの盾。
「……ずるい、だろ。お前は、地獄に、お前を待ってる人が、いて。俺は…俺には、」
「…………」
もう、声が出ない。夢すら消えて、世界が暗くなる。
……歌が、聞きたい。
ただピアノの音色に寄り添うような、歌詞のない歌を。
沈んでいく意識の彼方、控えめな鼻歌が聞こえた気がした。




