表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自死代行  作者: 久保谷充
第二章
28/34

第八話

真っ白な世界に立っている。音はなく、ただ身を引き裂くような寒さだけがある。足首から下が凍りついて、動くことが出来ない。


ふと、数メートル先に浮かび上がる輪郭に気づく。世界に同化してしまったかのように、白銀よりさらに白い、人影。

僅か数メートルしか離れていないのに、その場所はひどく吹雪いている。なびく白い髪に積もる雪。七分丈の真っ白なジーンズから覗く足は素足で、完全に凍りついている。

そこは地獄なのだと、直感で悟った。


にいさん。


口を開けば舌が凍って、声が出ない。

動かない足を無理に動かすと、右の足首がもげた。吹き出す血がすぐに凍って、何とか倒れずに前を見据える。

その人の顔が見える。睫毛まで凍って、彫刻のようだ。

きっともう動けないのだ。氷漬けになって、その身体の中に閉じ込められている。


それでも、構わない。


残った方の足首も捨てて、もう一歩彼に近づく。吹雪く風を微かに感じる。自分が最早どうやって立っているのかわからない。釘になったような身体で、じりじりと距離を詰めていく。

手を伸ばせば届きそうな場所まで辿り着いて、気づいた。

先程まで彫刻のようだったその表情が、仕方のないものを見るように、僅かに微笑んでいる。


自分のよく知っている、兄の顔だ。


困った子だ、と聞こえた気がした。涙が滲んで、零れる前に凍っていく。


………にいさん。


にいさん、あのね、わたし




「帰蝶!!」


悲鳴のような声で瞼を開くと、世界が一瞬で色づいた。目の前にはずぶ濡れの髪から水を滴らせた、何故か泣き出しそうな、少年の顔。


「………………よくも、」


邪魔してくれたな、と言葉を続ける前に、肩口にすがるように覆い被された。自分も全身濡れていて、地面に横たわっていることに気づく。


「……せっかく、会える、ところだった、のに」


「…………」


声が震える。つい今しがたまで、凍てついた地獄にいたはずなのに。水に濡れるぐらい、何てことのないはずなのに。

どうしてか、無性に寒かった。

肩に顔を伏せたままの彼の身体が、震えているからだろうか。


「……………で、くれ…」


「………なに」


「おいて、いかないでくれ」


「…………」


「さきに、いくな」


絞り出すように囁くような懇願に、唖然とする。先程の八つ当たりのような感情がぶり返しそうになって、しかしすぐに馬鹿馬鹿しくなってしまい、全身の力が抜けた。


なんて勝手な奴なんだろうか。先に置いていこうとしたのはどこのどいつだ。鏡を見ろ。


色々と言いたいことが頭を駆け巡って、それでも自分勝手なのはお互い様だと自覚があるので、全部飲み込んだ。

弱々しくすがる涼平の姿に、これは一体どういうことだと考えそうになって、冷静になるなと本能が告げる。その本能に従って、肩口にある黒い頭に向かって、自分の頭を降りかぶった。

そこそこ威力のある頭突きが、華麗に決まった。


「……!?…………!!」


涼平がもんどり売って転がる。帰蝶はようやく解放されて、身体を起こした。


「どういう状況?」


「それはこっちの台詞かな」


「愁、兄さん…」


やや離れたところから、愁がこちらを見下ろしている。大きく肩を落とすとこちらにやって来て、仕立ての良いジャケットを脱いで、帰蝶の肩にかけた。


「もう寒いのに、そんなに濡れて。風邪をひくよ。すぐに連れ帰ろうと思っても、遠野くんが離してくれなくてね」


辺りを見渡すと、鈴鹿が木の根元に座り込んでいる。抱え込んでいるのはジャージだろうか。


「鈴鹿。春樹は…」


「俺が目覚めたときにはもういなかった」


鈴鹿はこちらを見ずに、温度のない声で答えた。心がここにないような、全てを拒絶しているかのような雰囲気に、それ以上何も聞けなくなる。


「みんな、一度帰ろう。ほら、遠野くんも。君の友人たちが心配して待っている」


頭を抑えながら涼平が何とか立ち上がる。帰蝶も立ち上がって、自身の変化に気がついた。

……呪いが、弱くなっている。

弱くなったというより、兄が死ぬ以前の状態に戻ったと表現した方が正しい。常に全身の神経が研ぎ澄まされ、針のむしろのようだった感覚がなくなっている。


「………代永綾は、もういないの?」


一番重要なことを確認すると、ああ、と涼平が呟いた。


「四年前にいなくなってからずっと…もう、いなかったんだ」


「あの子も一緒だった?賢い子が、私たちをここまで案内してくれたの」


春樹が復学してから、帰蝶は視えない何かに纏わり憑かれていた。それがある日突然、犬なのだとわかった。寂しい声で鳴いて、必死に助けを求めていた。


「……サクラが?そう、か、でも、一体どうやって…」


涼平は少し考えてから、橘か、と呟いた。


「サクラ…良い名前。好きな人の元に帰れて、良かった」


「…………」


どこか遠くを見ている涼平の身体は、月明かりに照らされても、もう透けていなかった。





愁の車で四人は涼平の自宅に着いた。まだ日が昇るまでは時間がある。

涼平が鈴鹿たちを拒むのではと心配したが、そんな素振りはなかった。いつかの鬼気迫るようだった様子が嘘だったかのように平然としている。何を考えているのかわからない、以前の涼平だ。

道中、春樹を探さなくていいのかと聞くと、ああ、と短く返事があった。

脳裏に、自分が知らない春樹の姿が浮かぶ。何かを慈しむような、優しい笑み。


「おい」


涼平の声にはっとする。玄関に立ち尽くしていたことに気づいた。


「風呂、入ってこい。適当にあるもの使え」


「涼平が先に。風邪ひくよ」


私は風邪ひかないし、と続けると、涼平が呆れたようにため息をついた。


「俺はもう手遅れだ。あのな、お前の兄貴の前で、お前を差し置いて我先に風呂使えないだろ」


「そんなの、今更気にする?」


「いいからさっさと入ってこい」


背中を押され、脱衣所に無理矢理押し込められた。涼平を愁と鈴鹿の三人にするのが不安だったが、さすがに全身濡れ鼠で着替えない訳にはいかない。可能な限り手早く済ませようと、セーラー服を脱いだ。


烏の行水の如くシャワーを済ませて居間に向かうと、愁はソファーに腰をかけ、鈴鹿はその後ろの壁にもたれかかっている。スウェットに着替えた涼平はキッチンでお茶を入れているところだった。こちらに気づいて顔を上げた涼平が、帰蝶を見て眉をひそめる。


「…………髪を乾かせ。ドライヤーあっただろ」


「前みたいに長くないから平気」


涼平が心底嫌そうにタオルを投げて寄こした。そのタオルで髪を雑に拭きながら、ラグに座る。テーブルを挟んで、愁の斜め向かいの位置だ。正面に座る勇気はなかった。


「うん、妹が男物の部屋着を着てるのを見る羽目になるとは」


複雑だよ、と愁が苦笑する。帰蝶と涼平は服のサイズはほぼ変わらない。何が複雑なのかわからなかったが、涼平がお茶をテーブルに並べだしたので、黙って受け取った。涼平が帰蝶の隣、愁の向かいに座る。

愁はお茶を口にしたが、鈴鹿は壁から動かなかった。


「とても美味しいね。何のお茶かな。紅茶には詳しいつもりなんだけど」


「秘密です」


「……君たちに一体何があったのかも、秘密なのかな」


「はい」


淡々と答える涼平の隣で、帰蝶は何を話せばいいのか整理がつかず俯いていたが、「なあ」と鈴鹿の声がして、顔を上げた。鈴鹿が無表情に帰蝶を見ている。


「お前、もしかして死ぬつもりだったか?」


「……そ、れは」


「俺は、お前が勝算があると言うから、それを信じて協力した。身体を乗っ取られたのは仕方なしだったのか?計算だったのか?それとも、」


鈴鹿の目が見たことないほど冷たく、すっと細まった。


「俺を騙したか」


違う、と言おうとして、言葉に詰まる。そんなつもりはなかった。けれど一度、生を手放した。

あの呪いを取り込んだときの感情を、一体どう説明すればいいだろう。

口を開けたまま何も言えないでいる帰蝶に、鈴鹿は頭を振って深く息を吐いた。その表情は苦悶に満ちて、何かに堪えるように額を抑えている。


「悪い、八つ当たりだ。……お前、槙のこと、覚えてるか」


呟かれた言葉が唐突で、先程の問いに対して何か答えなければと必死に考えていた頭が一瞬固まる。そういえば、槙はここに来ていない。


「槙さん、どうかした…?」


声に出してからはっとする。もしかして、鈴鹿の記憶に何か問題が起きているのか。記憶障害のことは愁には知らせていないと、以前話していたはず。


「鈴鹿、」


「覚えてるならいい。遠野涼平、」


鈴鹿が涼平を見る。涼平も顔を上げて、鈴鹿を見ていた。


「芦川春樹は、もういいんだな?」


「アヤがいないなら、春樹にはもう、手段も目的もない。……自死代行をする理由が、俺たちにはもうない」


そうか、と鈴鹿は呟くと、愁が飲んでいたお茶を置いた。


「さて、ひとまず帰蝶が無事ならお暇しようか。私の仕事はどうやら別のところにありそうだ。帰蝶、」


帰蝶が立ち上がろうとするのを制して、愁がジャケットを羽織る。


「私のところで預かっている体になっているけれど、帰ったら父さんと母さんにしっかり謝りなさい。橘さんと、和泉くんにも。身を削って、解決に協力してくれた」


心配したんだよ、と愁が言う。困ったように微笑む彼を見て、胸がざわついた。

これは、罪悪感だろうか。


「……はい。ごめんなさい、兄さん」


「今すぐにとは言わないけれど、なるべく早く帰るように。……鈴鹿、私たちも帰ろう」


居間を出て行こうとする愁が鈴鹿に声をかける。鈴鹿は唇をひき結んでから、何かを振り切るように愁の後に続いた。


「鈴鹿!」


玄関に向かう背中を呼び止める。様子がおかしい理由はわからない。けれど、これだけは伝えなければ。


「ありがとう…助けてくれて」


「………」


鈴鹿は立ち止まって、しかし何も言わずに、愁と共に出て行った。

帰蝶と涼平の二人だけになる。何事もなかったかのような涼平を見ていると、平和で平凡な、いつもの週末なんじゃないかと錯覚しそうになる。

過去の自分たちの日常が、平和で平凡であったかはわからない。あまりに「死」を近くに置いて、触れすぎた。


「私、出かけてくる。今すぐ行かなきゃならないところがあるから」


本当の日常に戻るために出来ることが、きっとまだ帰蝶に残されている。

涼平は驚かなかった。


「……制服が乾いてからにしろ。その格好で行く気か」


「そろそろ乾くんじゃないかな。乾燥機かけたから」


「ばっ!制服を乾燥機にかけたのか!?馬鹿か!あと一年着るんだぞ!」


涼平が脱衣所に駆けて行くのを見ながら、帰蝶はようやくお茶を飲んだ。まだ少し温かかった。








空が白み始めている。もうじき鳥たちが鳴き出すだろう。

帰蝶は芦川院に着ていた。長い階段を一段ずつ上る。

紅葉した垂れ桜の下に、少年が立っているのが見えた。亜麻色にも見える淡い金髪に、黒い学生服。彼とはほとんど病院でしか会ったことがなかったので、今更ながら、その姿は新鮮だった。


「春樹」


春樹がこちらを振り返る。その顔に表情はなく、何を思っているのかは窺えない。


「彼女に身体を明け渡したとき、断片的に、彼女の記憶が視えた。その記憶の中に、いつもあなたがいた」


帰蝶の言葉を信じていないのか、春樹の表情は変わらない。


「……どうだか。綾はいつだって、涼平を見てた。俺に憑いていたあの呪いは、俺が呼んだものだ。本当に本人だったかなんて、誰にもわからない」


春樹が握っていた掌を開く。割れたガラス瓶の中に、微かに砂のようなものが入っている。

風に吹かれればそのまま失くなってしまうであろう、儚い灰。


「本人にだってわからなかったろう。望まない姿に、俺がした。傍にいてくれさえすれば、どんな形でも、どんな姿でも良かったから。…たとえ俺の目に映らなくても。俺自身が、失われようとも」


掌から顔を上げて、忌々しげに帰蝶を見た。


「あんたにはアヤの声が聞こえてたんだろう。涼平にも、アヤの姿が見えてた。俺だけが、彼女の声も姿も、わからなかった。………たしかにここにいると、感じて、いたのに」


苦しそうに両手でガラス瓶を抱き締める。割れたガラスで傷ついた手から、血が流れる。


「生きているときも、死んだ後でさえ、綾は俺を好きになってくれなかった。それでも、綾との約束があれば、俺はそれで良かったんだ。なのに、」


学ランを余らせた華奢な体躯が震え出す。今にも崩れ落ちそうなその様は痛ましく、世界の全てを拒絶したいと、全身で叫んでいる。


「もう、いいと……約束はもういいと、言ったんだ…」


春樹が割れたガラス瓶の口を首にあてる。頸動脈の辺りに血が滲む。それを見て、自然と口が開いた。


〈一緒にいてくれてありがとう。……春ちゃん〉


「…………」


春樹が絶句してこちらを見ている。自分の中から彼女の記憶が消えていく。


「代永綾の、最期の思考。……彼女、私の呪いも随分、持って逝ってくれたみたい」


風が吹いて、春樹の手の中の僅かな灰をさらっていく。


「………綾」


優しい葉擦れの音がする桜の下、風の跡を追いかけるように、春樹は朝焼けに染まる空をいつまでも仰いでいた。










合鍵で涼平の家に入ると、玄関に知らないスニーカーとブーツが並んでいる。居間から穏やかでない声が響いている。


「……芽依子?真紘?」


「……帰蝶ちゃん………」


居間に入った瞬間、真紘の険しい視線が飛んできた。帰蝶はすかさず両手を挙げた。


「ごめんなさい」


「適当に謝らないで…ってごめん、いきなり。帰蝶ちゃんに怒るのは、ひとまず置いとく。…無事で良かった」


真紘は帰蝶に軽く微笑んでから、真剣な表情で、ソファーに腰かける涼平に向かい合った。


「何度も言わせないで。記憶を元に戻して」


「出来ない」


「俺の目ぇ見て言ってみろ!ふざけるなよ!」


真紘が声を荒げる。彼がここまで怒った姿を見たことがなく、帰蝶は思わず固まった。視線だけ動かすと、居間の隅に煙草を吹かしている芽依子がいる。

芽依子は普段、自分たちの前で煙草を吸わない。この家が禁煙であることも知っている。

…彼女も相当、怒っている。


「消失させたものは復元出来ない。…生活には、何も困ってないだろ」


「……ッ!」


真紘が弾かれたように涼平の胸ぐらを掴み上げる。至近距離で涼平を睨み付けるが、涼平は頑なに目を合わせようとしない。


「失ってなんてない。思い出せないだけなんだ。だって君のことを、俺はよく知ってる」


真紘の顔が泣き出しそうに歪む。涼平は胸ぐらを掴む腕を振り払おうとするが、完全に力負けしている。


「……離せ…っ」


「離してやんな」


芽依子がやってきて真紘の肩を叩く。吸っていた煙草を床に落として踏みつけると、ジュッと音がしてフローリングが焦げた。彼女の足は無事だろうか。

乱暴に解放された涼平がたたらを踏む。芽依子を睨み付けるが、彼女は涼しい顔で新しい煙草に火を点けた。


「頼まれた訳じゃないけど、あんたらの為に奔走したってのに、あんまりじゃない?本当に不可能だって言うなら、その力で今すぐ追い返せばいいわ」


「………」


涼平は黙ったままだ。真紘がもう一度、正面から対峙する。


「ねえ、本当にどうにもならないの?そうだとしても、何とかならないのか、試す努力ぐらいしてよ。言い訳のひとつでもしてみせてよ。どうして黙ってるの…」


「……俺に関する記憶が消えたからって、何も困らないだろ。出会ってから一年と少ししか経ってない」


真紘が目を見開く。全てを見透かしそうなその瞳に、ぞくりと肌が粟立った。


「嘘だ。君だけはそんなこと、思うはずがない。一瞬の思い出の尊さを、君が一番知ってるはずだ」


「……帰蝶」


涼平と目が合う。その眼差しの意味を察する。

涼平の態度に、帰蝶は心当たりがある。


「真紘。私と初めて会ったときのこと、覚えてる?」


「え…?」


突然発言した帰蝶に真紘は一瞬驚いて、しかしすぐに答えてくれる。


「それはえっと…隣のクラスなんだから、いくらでも機会はあるよ。体育とか合同授業は一緒だし」


「こうして親しく話すようになったのは、いつから?」


「いつって、そんな、の…」


ちらと涼平を見ると、涼平はその目を伏せた。帰蝶は確信する。


「……真紘。私も、思い出さない方がいいと思う」


「帰蝶ちゃんまで、何で…」


裏切られたと言わんばかりのひどく傷ついた表情で、真紘が帰蝶を見た。その視線をあえて受け止める。


「わかって欲しいとは言わない。けど、私も涼平も、あなたを失いたくない」


「………俺が、狂ってるから?」


予想外の言葉に、今度は帰蝶が目を見開いた。涼平も同じようで、青ざめて固まっている。


「俺が、居もしない姉と暮らす振りをし続ける狂人だから?君を忘れて何も困らないって言うけど、じゃあ何が起きたら困ってることになるんだ」


「真紘…いつから、」


「少し前に。帰蝶ちゃんが行方不明になって、探したことがあったでしょ。あの後から、何かがおかしいって思い始めて。この違和感は何だろうって。冷静になったらおかしいなんてもんじゃない。朝、四人分の食卓並べて、四人分の身支度をしてる。マネキンにウィッグ被せて着替えさせて、玄関のヒールを出しては仕舞って。こんなの、正気じゃない」


真紘が一気に言い募る。その声は悲壮に満ちて、それでも彼の眼差しは力強いままだ。


「正気じゃなくても、今の俺に必要なことなんだと思った。どうして姉さんたちがいないのか、どうしてもわからない。でも、覚えてるんだ。姉さんたちと過ごした日々を。声も、仕草まで」


芽依子の煙草が吸われないまま灰になって落ちる。時が止まったように、誰も動かない。


「思い出が奪われたら、駄目なんだよ…。生きて、いけない…」


真紘の言葉が終わる前に、涼平が真紘の腕を引いてその身体を抱き寄せた。涼平の方が泣き出しそうな顔をしている。


「わ、男前…」


「約束してくれ。何を思い出しても、いなくなるな」


「………きっと、これを言うのは、二回目なんだね」


真紘が次に口にする言葉を、帰蝶は知っていた。

一年前、絶望の淵にいた彼が、振り絞るように微かに音にした、その言葉。


「俺を、助けて」


一言一句同じ台詞が、はっきりと強い意思を持って放たれた。


『思い出せ』


応えるように、涼平の声が響いた。


「………」


しんと、部屋の中が静まりかえる。

恐る恐る、涼平が真紘の顔を覗き込んだ、そのとき。


ゴツリと鈍い音がして、涼平が転がった。


「なん……えっ?くそっ…同じとこ…!」


「これぐらいは許されるでしょ」


床で悶絶している涼平を、腕を組んだ真紘が冷たい眼差しで見下ろしている。華麗な頭突きだった。


「勝手に人の記憶いじってさ。一回目はまぁ、俺が頼んだ訳だけど。今回のはアウトだよ。一生根に持つ」


「真紘、大丈夫…?」


帰蝶が問うと、真紘が苦笑する。


「はは…帰蝶ちゃんと涼平くんが過剰に心配するわけだって感じ。俺のこと、二人が今まで守ってくれてたんだね…。ありがとう」


「言動が一致してないぞ…」


「それとこれとは話が別です」


呻く涼平を真紘が一刀両断に切り捨てる。何か冷やすものある?と真紘が言うので、帰蝶は冷凍庫の氷で氷嚢を作って手渡した。


「なぜ手際が良いのか…。涼平くんほら、一応冷やして…ってあれ?瘤の上に瘤ができてる?この腫れ、今さっきのじゃなくない?」


「俺の周りでいきなり頭突きが流行り出した…」


「涼平がらしくなく唐突にゼロ距離コミュニケーションかますからでしょ」


「なあ真紘、俺の言い分も聞いてくれ。あのときはお前の身を守るためにああするしか」


「それこそコミュニケーション、相談してよって話。ここまで事態が悪化する前に頼ってくれたら良かったんだ。これは帰蝶ちゃんにも怒ってるからね。君たちには報連相って概念がないの?」


「だって、本当に」


「言い訳は聞きません」


床で三人がごちゃごちゃと話していると、これ見よがしに芽依子のため息が聞こえた。うんざりしているのを隠す気がなさそうだ。


「ねえ。とんだ茶番を見せられたわけだけど、この気分、どうしてくれんの。何も事情は知らないけど、都合の悪いことは忘れたままで、遠野のことだけ思い出すとか出来なかったわけ?」


「ちゃ、茶番…」


「そんな器用なこと出来るわけないだろ。そんな都合の良い力が使えるなら、もっと楽に生きてる」


「はぁ、無駄に費やしたエネルギーを返して欲しいわ。私は帰るわよ」


「外、もうとっくに明るいぞ。サングラスあるのか。表歩けない目してるぞ」


「誰のせいよ、誰の!!」


芽依子と涼平が久しぶりに噛み付き合っているのを見ながら、真紘にそっと声をかける。


「本当に、大丈夫なの」


真紘は、かつて帰蝶と涼平が初めて自死代行に失敗した、殺さなかった人物だった。受け入れがたい真実を封印して、偽りの日常を生きることを、彼は選んだ。


「…正直に言うとね、家に帰るのが、震えるほど怖い。現実と、自分の狂気と犯した罪に、耐えられそうにない」


帰蝶が真紘の手を握る。真紘はその手を握り返してくれた。


「けどね。前と違って、今はひとりじゃない。君たちがいる。だからきっと、大丈夫だと思う」


どこか寂しそうに笑う真紘に、帰蝶は一番大事なことをまだ伝えていなかったことを思い出した。


「真紘。私たちを助けてくれて、ありがとう」


「どういたしまして」


微笑み合う二人の後ろから、芽依子がぬっと現れた。


「なにこっそりいちゃついてんのよ」


「いちゃ…はい、すみません」


「芽依子も。助けてくれて、本当にありがとう」


真紘の手を離した手で、芽依子の手を握る。芽依子はぎょっと驚いて、でもその手を振り払いはしなかった。


「涼平は?」


「横になるって二階に行ったわよ。…あいつ、本当に大丈夫なの。あいつにとってしんどいのは、多分これからなんでしょ」


「………」


三人が押し黙る。帰蝶は涼平がよく弾いていた曲を思い出す。

Take me to the world's end.

繰り返し、終わらない潮騒のように、弾き続けていた。


世界の果てを、終わりを、彼は見るだろうか。


耳を澄ませば、涼平のピアノが聞こえてくる気がする。喪失の予感は、こんな音をしているのかもしれない。

今なら自分にも歌詞が書ける気がして、そんなことはないなと、すぐに思い直した。


あと二話

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ