第七話 中編
月夜の湖畔に折り重なって倒れている、学生服の男女。その光景は現実味がなく、幻想的でさえある。
……実際は幻想もクソもあったもんじゃない。ここにあるのは、呪いだけだ。
倒れている二人に近づいて男の方の身体を起こすと、後ろから腕を掴まれた。
「…何を、する気だ」
遠野涼平の顔は、死人のように青褪めている。俺の腕を掴む手には、ほとんど力が入っていない。
…月に照らされて、透けている手。
「何って、こいつを起こすんだよ。いつまでも眠ったままでいられたら、困るんだろ」
「春樹は、望んでない」
「………」
いつかの俺は、こいつを見定めろと書き残している。こいつらには自殺幇助の罪があって、今後も周囲の人間を害する危険がある。
…守られたことのない子供たちが、失うことに怯えている。
俺は静かに息を吸った。
【目を、覚ませ】
俺の腕を掴んだままの遠野涼平の身体が強張る。それでも、俺に危害を加えるような様子はない。
「……っ!」
眩暈と吐き気に襲われる。…言霊が、返されている。
「……抵抗しようってか。いつまでも女の影に隠れやがって、恥ずかしくねえのかよ…」
芦川春樹。死んだ恋人に呪われた、自死代行人。
「いいぜ、とことん付き合ってやる。根比べだ。引きずり、出してやる…」
脳が焼けるような感覚に肌がひりつく。槙と愁さんの顔が頭に浮かぶ。まだ、廃人になるわけにはいかない。
…ジリ貧になることだけは、回避しなければ。
俺が大きく息を吸った瞬間、遠野涼平がびくりと震えた。
「あ…」
倒れたままだった愁さんの妹の身体が、帰蝶が、その身を起こそうとしている。遠野涼平は息まで止まったように、その様子を見つめている。
「………」
ゆっくりと上半身を起き上がらせた帰蝶が、白い髪の間からこちらを、俺たち三人を見た。その顔に表情はなく、俺にはそれが帰蝶かどうかわからない。
「…ア、ヤ」
固まったままの遠野涼平の呟きに、ざっと血の気が引いた。
…失敗、したのか?
帰蝶の規格外の身体能力が凶悪な呪いの物になったら。それだけは絶対に阻止しなければならない。呪いがこのまま一人歩きするリスクと帰蝶を失うかもしれないリスクを天秤にかけて、俺たちは後者を選んだ。
決着をつけると言い切った、帰蝶を信じた。
帰蝶は動かず、俺に支えられている芦川春樹をじっと見つめている。
その唇が、微かに動いた。
「…春ちゃん」
「……!!」
こいつは帰蝶じゃない。俺は身構えたが、纏っていたはずの禍々しい空気を感じないせいで、判断に迷う。
「もう、いいよ。…約束は、もう、いい」
ひどい痛みに堪えるかのようにその顔が歪む。しかしすぐにその表情を解いて、芦川春樹の頬に手を伸ばし、ほんの僅か、その指をかすめた。
「…ごめんね」
「………代永、なのか…?」
「…………」
遠野涼平の問いが、静かに空気を震わす。少女は立ち上がると、身体を引きずるようにして湖へと歩き出した。
【待て!】
「…………」
少女は立ち止まらず、湖へと入っていく。予想はしていたが、言霊が効いていない。
しかし、呪いが、返ってこない。
何が起きているのか思考を巡らせようとしたとき、遠野涼平が弾かれたように少女に向かって駆け出した。派手に水飛沫を上げて、湖の奥へと向かっていく少女に追いつき、その腕を掴んだ。
膝まで水に浸かった二人を、月が照らしている。
「……代永」
少女が振り向いて、二人が向かい合う。
「なぁに、涼平。南帰蝶なら、もういない」
「………」
「離してくれる?この身体、すごく痛いし、寒いの」
「代永、」
「何か期待してるんだったら、悪いけど。私は元からこういう奴だったよ。春ちゃんも涼平も、私のいない世界で幸せになるのが許せないの」
「……知ってた」
「…………」
何か話しているようだが、内容までは聞き取れない。俺も動くべきかと考えて、もう少し様子を見ることに決めた。
先程までの、切羽詰まった空気は流れていない。今ここにあるのは、静かで冷たい、夜の気配だけだ。
もう波紋も立っていない湖の中で、少年と少女が見つめ合っている。
「代永に意地悪なところがあるのは知ってた。ヴァイオリンも、明るい曲ばかり弾いてたけど、本当はおっかないぐらいの曲の方が得意だったろ」
「………もう春ちゃんを人質に取ってない。私に用はないでしょ」
「代永は春樹を人質になんてしてない。春樹を人質にしてたのは、春樹自身だ」
「……だったら何?私は悪くないって?私が今から何をしようとしてるかわかる?」
「………自死」
「違うわ。無理心中、道連れよ。この女がどうしても気に食わないから、最期に殺してやるの」
「帰蝶は、もういないんじゃなかったのか」
「…………」
遠野涼平が一歩、少女に近づいた。水面が揺れる。
「俺が、一緒にいく」
「………え、」
「代永と、一緒に」
「……どう、して。涼平は、私のことが嫌いだったでしょ……?涼平が、春ちゃんを置いていけるはず、」
「忘れられなかったからだ」
少女は目を見開いて、信じられないものを見るように、間近にある遠野涼平の顔を見つめている。
「どうしても、忘れられない。代永が笑った顔も、ヴァイオリンの音も。…たしかに俺は代永が羨ましかった。妬ましさもあった」
「……な、ら」
「それでも、恋ではなかったけど、俺はお前が好きだった。春樹以外要らない俺の世界で唯一、特別だった」
「……春ちゃんのため、でしょ」
「……否定はしきれないな。今までは、春樹のためになることが、代永のためにもなると思ってた。…だけど、違ったんだな」
「………」
「それに俺は、春樹の傍にいない方がいい。……ずっと、分かってたんだ。春樹のためと思われるかもしれない。でもお前は、それでも構わないだろ?」
「………私が生前、春ちゃんと何を約束したのか、知ったら…」
「聞くつもりはない。二人だけの、大切なことだったんだろ」
「…………本当に、一緒に死んでくれるの」
「……ああ」
遠野涼平が掴んでいた少女の腕を離し、その手を少女に差しのべた。
「代行じゃない。…ひとりで、逝かせない」
「………」
少女はその手を取らずにしばらく立ち尽くして、やがて何かを諦めるように苦笑した。
「本当に、ひどい人。憎らしさもここまでくると、馬鹿馬鹿しくなっちゃう」
「代永、」
「ねえ涼平。さっきの言葉、本当は誰に言ったの?」
「……?意味が、」
「気づいてないならいいよ」
突如、湖が赤く照らされた。何事かと立ち上がろうとして、腕の中の存在にそれを阻まれた。
芦川春樹が、目覚めている。
「だめだ、アヤ…」
再び湖に目をやれば、ゆらゆらと穏やかに、蝋燭の灯りのように燃えている少女がいた。
帰蝶の身体が、燃えている。
【……っ!沈め!】
叫ぶが、やはり効果はない。腕の中の芦川春樹だけが苦痛に顔を歪める。
少女が揺らめきながら燃え上がる光景に、ふと、この炎を知っていると思った。俺は、この炎を見たことがある。
「代永!!」
遠野涼平が燃える少女の肩を抱くが、炎は燃え移らない。よく見れば、帰蝶の身体も燃えていない。
暖炉の火のように暖かな炎。湖面が橙に揺れる。
蝋燭の最後の灯火のように、魂が、燃えている。
「……なるほどね。結構、抜かりないじゃない」
「なんで…どうして、」
「何もかも面白くないけど、まぁ、いいや。溺死よりはマシだし。寒いのも苦しいのも、もう十分」
…二人の会話はやはり聞こえないが、恐らく、状況は俺たちにとって良い方向に転がっている。
呆然と美しい浄化の炎に見入っていると、突然ぞわりと悪寒が走った。
「………よくも、暴いたな」
黒い気配に総毛立つ。芦川春樹が、食い入るように燃える少女を見つめている。
「根本を断ったつもりだろうけど、惜しかったな。本命はこっちだ。………アヤ、還ってくるんだ。逝かせない」
芦川春樹が学ランの内側から何かを取り出す。掌に軽く収まる程の、小さな瓶。
本能が、警鐘を打ち鳴らした。思考するより先に、大声で叫ぶ。
【砕けろォ!!】
「………っ!」
ばりんとガラスが割れる音を最後に、俺は意識を失った。
細々続きます




