回帰
………まだ、目覚めていない。ここは、意識だけの、夢の中…?
「………ッ!?」
突如、氷漬けにされたような悪寒に、喉が絞まって声が出ない。寒い、寒い!
現実じゃないとわかっていても自分の身体を確認しようとして、今度は目が回った。私は一体どこを見ている!?
どこまでも見えるようで、何も見ることが出来ない。望遠レンズのピントが永遠に合わないような感覚に混乱する。
「慣れるまで、時間がかかるかも」
あの女の声が聞こえたと思えば、ひどい耳鳴りに頭が割れそうになる。たった一声で、脳に入ってくる膨大な情報量。痛い、寒い、意味が、わからない!
這うようにして身体を動かしたつもりで、身体が全く動かない。全身が途方もなく拡張されたかのように、身体の全てが遠い。感覚だけは果てしなく広く遠いのに、神経だけは剥き出しにされたかのようで、全ての情報が痛みとなって襲ってくる。
「………私に、なにを、した…」
かちかちと歯の根が噛み合わない中で、何とか声を絞り出した。自分からあの女の声がする不快感より、発した声が体内で響く強烈な感覚に叫び出しそうになる。
「何も。話した通り、あなたに私の身体を明け渡した」
「…これが、あなたの身体だっていうの…」
「以前はここまでじゃなかったけど、兄が死んでからは。うまく情報を遮断しないと、わかりすぎて、何もわからない」
風に吹かれるだけで針のむしろになるよ、と忌々しい声が告げる。
「よくも、騙したな…!」
こんな身体で生きていける訳がない。早く目覚めて、春樹の身体に戻らなければ。
「健康なのは間違いない。そろそろ、身体が動かせるはず」
さも当然のような物言いに頭に血が上って、ガンガンと脈打つように痛む。言われた通りにするのも癪だが、たとえ夢の中でも一発殴ってやらないと気が済みそうにない。何とか立ち上がろうとした瞬間、足が砕ける衝撃が全身に響いた。
音にならない悲鳴を上げながら手で身体を支えようとして、その手も砕けた。
「…っ!…う、あぁ…」
「大丈夫。折れてるけど、折れながらもう再生してる。はたから見れば、何も起きてない」
…嘘だ。こんなの、動けるはずがない。
やはり騙されている。ここは夢の中だ。あの女の術中にいるだけだ。
「私の身体は力が強い。だけど強度は、人並みなの。常に緻密なコントロールが必要だし、人並み以上の力を発揮するときは、身体を壊しながらになる。壊したそばから治るから、問題ない」
「…はやく、解放、しろ…」
何が問題ないだ。ふざけるな。怒りをぶつける手段が見つからず、気が触れそうになる。
「……誰かを殺しながら生き永らえるより、確実に、生きられる」
「………」
「不便なのは、我慢してもらうしかないけど…」
…少しずつ目が慣れてきた。這い蹲る私の前に立っているのは、黒い長髪をなびかせた、エスニックな装いの幼い少女だった。周りはどうやら日本庭園のようで、その存在はひどくミスマッチに映る。
「南、帰蝶なの…?」
「…………」
少女は答えない。表情なく佇んでいる。
私はようやく今の自分の身体に目をやる。黒いセーラー服に、長い手足。白い髪。何度も殺してやりたくなった、憎い女の姿。
少し冷静になって、自分の優位を確認する。身体を乗っ取るには相手の同意が要る。それを達成した今、この身体をどう扱おうが、私の自由だ。春樹の身体に戻ることも出来る。この女は私に頭を下げて、自死代行をやめてくれと懇願するしかない。
……何のために?
意識が途切れる前の涼平の様子を思い出して、今更腸が煮えくり返った。
「…家族のためなんて、嘘。私があなたに成り代わって、あなたの家族が無事で済むなんて、本気で思ってる…?」
「生きていくのに、家族は有用だから。あなたの狡さを、信じてみる」
「………」
敵意のない様子に一瞬毒気が抜かれそうになって、それでも涼平のことを思い出すと、やはり怒りが湧いた。
私の存在の大半を占めるもの。それは、嫉妬だ。
「ぜんぶ、涼平のためでしょ。彼のためなら自分は死んでも構わないって?春樹を取り戻すことが涼平のためになると思ってるなら、理解が浅いわ。私がこの身体で生き始めれば、春樹は遠からず死ぬ。それは涼平にとって最悪の結末よ」
あなたは涼平のことをこれっぽっちもわかっていない。ようやく喋ることに慣れてきて、嘲るように言ってやった。
「……そう、かも」
ぽつりと呟くこいつは少し寂しげで、それでも動じた様子はない。
…もっと、絶望の底に突き落としてやりたいのに。
お前には何も出来ない。お前の存在は涼平にとって価値がないのだと、叩きつけてやりたいのに!
「涼平は、あとどれくらい生きられる?」
「…え?」
予想だにしない問いに面を喰らう。
春樹ではなく、涼平?
「呪いに詳しい人に相談した。涼平はあなたのために、自分の存在を分けてるだろうって。そういう人は、長くもたないって。…涼平が死んだらあなたは消える。あなたが消えて春樹が死ぬなら、このままじゃ結局、誰も助からない」
「……私は呪いとして存在を確立してきた。この町で自殺者がいる限り、私は消えない」
「………本当に?」
少女の表情が初めて訝しげに歪んだ。平静を装って、それでも動揺してるのは私の方だった。
私は佐鷺町で、寿命を持て余した人の命を糧にする、呪い。呪いそのものだ。
……いつから?
いつから、「そういう呪い」になった?
「違う…」
震える手で口を覆う。春樹の願い、交わした約束。
私は、最初は、何だった?
「私は、…っ!」
地震が起きたかのように世界が揺れ、景色にヒビが入っていく。箱庭の光景がばらばらと剥がれ、崩れていく。
失われていく世界の中で、少女だけが、動かない。
「目が、覚めるよ」
「………!」
「……会いたい人がいるから、もう、いくね」
足元が崩れて宙に放り出される。もう少女の姿は見えない。
ひとりにしないで、と聞こえた気がした。




