第七話 前編
デスクに腰をかけて、窓の外を眺める。無機質なオフィス街を帰路につく人々が早足に流れていく。もう直にコートが必要な季節になる。
「…………」
槙は応接用のソファに突っ伏したまま動かない。私が入れた紅茶はテーブルの上ですっかり冷めてしまって、出した紅茶を飲んでもらえないなんて一体いつぶりだろうか、と些末なことを思った。
冷えきった紅茶の隣には、「必ず無事に戻ります」と書かれたメモがある。達筆には程遠いが丁寧に書かれた、鈴鹿の文字だ。
「…槙」
「……鈴鹿さんに何かあったら、妹さんを許しません」
槙はソファにすがるようにして、苦渋に満ちた声を絞り出した。
「どうして…」
「私たちを案じてくれたんだろう。さらに言えば、私たちでは役に立たない思ったんだろうね」
槙がゆっくりと顔を上げる。その表情は恨めしいと言わんばかりで、憎々しげに私を睨みつける。
「愁さんに、あの子のなにがわかりますか」
「私にわかるのは、鈴鹿は決して無謀ではないということと…」
デスクを立って、槙の向かいに立つ。鈴鹿の書き置きを手に取って、その文字をそっと撫でる。
「帰蝶は、破滅に他人を巻き込まない。私の妹は誰に似たのか、薄情でね。勝算があるんだろう」
「………」
「それに、私も手をこまねいているつもりはないよ。…そろそろ、役者が揃う頃だ」
槙がはっと身体を起こすのと同時に、事務所の扉が開いた。
「紅茶を、入れなおそうか」
寒い、と感じなくなったのはいつからだろう。暦を気にする余裕はとうになくなった。視線を落とせば、悴んでいるかもしれない手が月明かりに透けている。
「良いところだ」
春樹がこちらを振り返った。機嫌が良いようで、踊るようにステップを踏む。彼の後ろには湖面が広がっている。
「遠いから面倒だと思ったけど、人里離れてるし、貯水湖なんてうってつけな場所、どうして今まで候補になかったんだろう。なあ、涼平」
春樹が笑う。月に照らされて、彼は美しかった。彼から伸びる影が少女の形をしていることに、俺は目を瞑る。鏡のような湖面に、彼の姿は映っていない。
「…お前も今言っただろ。遠いからだ。それに…溺死はさせたくない」
「二十四時間機械に繋がれて生殺しよりは、幾分マシだろ」
「………」
さらりと言ってのける春樹に、二の句が継げなくなる。寒さがわからなくなっても、まだ胸は痛むようだ。
「サクラが還って来ないのが気になるけど…まあこんなもんかな。次はもっと頑丈そうなのを飼おうか」
今度こそ涼平の家で飼っていいでしょ、と春樹が微笑む。どうしてか、その姿がとても遠くに感じる。
…やっぱりほんの少し、寒いかもしれない。
午前二時を回る。丑三つ時だ。今日は誰も来ないかもしれない。もう帰ろうかと言おうとして、空気を吸った、そのとき。
「自死代行、お願いします」
りんと、鈴が鳴ったような、澄んだ音。
この声を、聞き違えるわけがない。
「…き、ちょう」
振り返ると、帰蝶が立っている。月に照らされた白い髪とスカーフが白銀に光って、風に揺れている。
春樹が大袈裟に肩を落とした。
「君も懲りないな。しつこい女は嫌われるよ?」
「………」
帰蝶が春樹にゆっくりと近づく。俺はまだ目の前の光景が信じられないのか、石になったように動けない。
「あなたと、交渉したい」
「俺が君に求めるものなんて何もないよ。さっさと消えてくれ」
「……それを、叶える」
「…は?なに?」
春樹が顔をしかめると、澄んだ空気が濁っていく。黒く淀んだ空気にあてられても、帰蝶は動じなかった。
「黄昏時の間だけでも、丑三つ時の間だけでもない。私の身体を、あなたに明け渡す」
永遠に、と帰蝶は付け足した。……何を言っている?
「…なにそれ。そしたら、君がこの身体を使うの」
「違う。私は、そのまま消える。その身体を、芦川春樹に返して欲しい」
春樹が失笑した。
「俺が芦川春樹じゃないとでも?と、言いたいところだけど。もうこんな茶番も、面倒かな」
春樹の目がもったいぶるようにひとつ瞬くと、その瞳の縁が青く輝いた。演技がかったように両手を広げて見せる。
「春ちゃんが望んだことなの。私は彼の願いを叶えただけだし、彼は私との約束を守ってるだけ」
「…あなたたちの間に何があったのか、知るつもりはない。私は口を挟む立場じゃない」
帰蝶は真っ直ぐに、春樹を…アヤを、見つめている。
俺は、春樹とアヤが交わした約束を知らない。聞かずに、触れずに、ここまで来た。
……俺は、口を挟める立場だったのだろうか。
今何が起きているのか、頭が、ようやく回りだす。
「この町には家族が住んでる。これ以上、無闇に人が死んで欲しくない。その代償に、私の身体を。私の身体で生きるなら、あなたの呪いは必要ないはず」
「…何を、言ってるんだ…?」
俺の口が、やっと言葉を発する。どうしてか、声が震えた。
「身体を差し出して、お前が消える…?春樹のために、死ぬって言うのか?なんで、お前が。首を突っ込むなって、関わるなって、言っただろ」
帰蝶はこちらを見ない。まさか聞こえていないのかと、不安がこみ上げる。
「家族とこの町のために死ぬってこと?信じられるわけない。我が身可愛さに、人を殺してきたくせに」
アヤが嘲笑う。帰蝶が僅かに目を伏せて、白い睫が影を作る。
「私は失敗した」
「………」
「愛した人と一緒に生きられなかった。それならもう、生きてる意味がない。あなたたちになら、わかるはず」
もう疲れたの、と帰蝶がこぼす。
そんなはずはない。帰蝶がそんなこと。ありえない。俺が何か言う前に、帰蝶のはっきりとした言葉が続いた。
「どうせ死ぬなら、最後に家族の役に立ちたい」
アヤははっと笑ってから、腕を組んで帰蝶をにらみつけた。
「矛盾してるね。家族のためと言っておきながら、家族のことなんて考えてない」
愛してないのね、かわいそうに、とアヤはひどく軽蔑したように吐き捨てた。それでも帰蝶は揺るがない。
「死にかけの身体より、健康な身体が、欲しくない?どこも痛くなくて、苦しくない身体が」
「………」
帰蝶が淡々と残酷な言葉を紡ぐと、アヤの目がすっと細くなった。
「…それとも、春樹に身体を返したくない理由が?」
ずんと、一気に周囲の空気が重くなる。俺は思わずふらついて、また言葉を発するタイミングを逃した。
「いいわ。あなたの願いを叶えてあげる。…殺してあげる」
待ってくれ。
「あなたに成り代わって、あなたの分まで幸せになってあげる」
やめてくれ。
「大丈夫よ、涼平。乗っ取るだけなら、涼平の力はいらない。…良かったね。春ちゃんに、会えるよ」
嫌だ。…嫌だ!
『やめ』
【聞くな】
俺の言葉を遮るようにして、覚えのある言霊が響く。信じられない思いで声のした方を見れば、いつかの金髪がこちらに向かって歩いて来るところだった。
「悪いが邪魔させねえ。…っておい、ずいぶん薄くなってんなあ。そんなんじゃ自分どころか、誰も守れねえぞ」
「……!!お、まえ、」
「おっと、滅多なこと言うんじゃねえぞ。今の消えかけのお前さんじゃ、俺を呪っても返されるだけだ」
「なん、で…」
「耳を塞いでくれと頼まれた。万が一のときの、後始末も」
すっかり感覚がなくなっていたはずの足元から、急激に恐怖が這い上がってくる。
春樹を失うこと以外に怖いものなんてない。
なかったはず、なのに。
アヤの両手が帰蝶の顔に伸びて、その頬に触れる。帰蝶がここに来て初めて、俺を見た。
目が合って、時間が止まった気がした。
「さよなら、涼平」
二人の身体が崩折れて、重なるように地面に倒れた。金髪と白髪が、無造作に散る。
足が動かない。息が吸えない。目を逸らせない。
本当の別れなんて、知らない。
「………帰蝶、」
散々歌詞に綴ってきた言葉の意味を、俺は知らなかった。
細々続きます




