回顧録 馬来西亜
母はいつも縁側から外を見ていた。広い池泉式庭園の眺めは美しく、しかしその果ては高い塀に囲まれて、外の世界を知ることはない。母は庭の景観ではなく、どこかもっと遠い場所へ思いを馳せていたように思う。
気まぐれのように日本語の歌をうたい、琴を弾いた。私は母のそれをとても楽しみにしていたけれど、決して自分に関心が向かないことをとても寂しく思っていた。
家の中には住み込みの使用人が何人かいたが、日本語が話せるのは一人だけだった。後に日本へ強制送還され、さらに時が経ってから、彼女たちが話していた言葉は英語とマレー語であり、この箱庭の世界がマレーシアという国の中にあったのだと知った。
唯一日本語が話せる使用人も母と何とか意思の疎通が出来る程度で、幼い私に教育を出来る程度ではなく、何よりどの使用人も最低限でしか私に関わらなかったので、私は衣食住以外は放置されていた。
他者とのコミュニケーションがほとんどなかった私は、読み書きどころか言葉さえ口を出なかった。広い屋敷の中で文字通り猫のように暮らしていた。母の元に通っては気まぐれに可愛がってもらい、そっぽを向かれればふらふらと庭を歩いた。塀の外のことなど考えたこともなかった。
ある日いつもと同じように庭の草陰で丸くなっていると、見たことのない人影が現れた。私に気づいていなかったのか、私がむくりと身体を起こすと「うわっ」と驚いた声を上げた。それは少年で、私が初めて遭遇した大人以外の存在であり、初めての男だった。少年は私をまじまじと見て、「もしかして、君が帰蝶なのか」と言った。
「帰蝶」は私が知る数少ない言葉の内のひとつだった。私が頷くと少年は微笑んで、「はじめまして。君のお兄さんだよ」と言った。
兄を名乗った人物は、時折私を訪ねてくるようになった。日本語の教材を持ってきて、私に言葉を教えた。
「ほら帰蝶、兄さんって呼んでごらん」
「にいさん」
「いい子だ。…あれ、また日向ぼっこするの?帰蝶は本当に猫みたいだな」
「ねこ?」
「そういう動物がいるんだ。とても可愛いよ。次は動物図鑑を持ってきてあげる」
兄はよく私の頭を撫でた。赤ん坊の頃を誰に世話されたかわからない私にとって、初めて触れる人の体温だった。向けられる関心、言葉、表情、全てが経験したことのない温かさとなって、私を人間に育てた。
ある日、庭で転んで足を擦りむいた。怪我は大したことなく自分で歩けたが、兄は私を背中におぶった。
「泣かないなんて帰蝶は強い子だ。何もなかったからいいけど、岩場では足元に気をつけるんだよ」
人に抱きしめられた記憶のない私に、兄の背はあまりに温かすぎた。顔が燃えるように熱くなって、足なんてなくなってしまえばいいのにと思った。
「え、どうしたんだい!?やっぱり足が痛む?」
突然泣き出した私に兄が慌てた声を出した。私はきっとこの世に生まれてきたときよりも泣いて、泣きつくして、このときに涙が枯れてしまったのだと思う。
この日から、私はまだ一度も泣いていない。
「にいさん。つぎはいつくる?」
「近いうちにまた来るよ。お土産は何がいい?」
「いらないから、あしたきて」
「あはは、明日は無理だ。今日たくさん遊んだだろう?」
「いや。かえらないで」
兄が来るようになって半年ほど経つと、私はわがままを言うようになった。兄の帰り際は決まって駄々を捏ねて、兄を困らせた。
「兄さんの家は、ここじゃないからね」
「どうして?」
「お母さんが違うからだよ」
私はまだ血の繋がりがどういうものなのかを理解していなかった。兄のことは、ただそういう呼び名の存在だという認識だった。
「おかあさんがちがうといっしょにすめないの?」
「そうだね。けど、僕たちはお父さんが一緒だから。ほら、顔が似てるだろう。帰蝶も僕もお父さん似だ。帰蝶の髪が黒いのは、お母さん譲りだね」
「わたしとにいさん、にてる?」
「うん、とても」
私は話の意味もよくわからないまま喜んで、兄に抱きついてはしゃいだ。兄と共通点があるのが嬉しくて仕方がなかった。
「わたし、おかあさんより、にいさんがすき」
「………」
「ここじゃなくて、にいさんといたい」
「…じゃあ、いつか二人で、お外に行こうか」
私は口約束に有頂天になって、兄とずっと一緒に過ごす未来を夢想した。
このとき兄はどんな顔をしていただろう。愚かな私はただ、それまで欠片も興味のなかった外の世界に胸を躍らせた。
兄と出会って一年が経とうという頃、私はずいぶんと知識が増え、言葉も流暢になっていた。一方で兄は時折、憂いを帯びた表情を見せるようになっていた。
「兄さん、わたし、雪がみてみたい」
「…急にどうしたんだい」
「ここってずっと夏なんだって。冬があるところには雪がふるんだって。ほら、兄さんとおなじいろで、すごくきれい!」
私は兄がくれた本のカラーページを開いてみせる。見開きいっぱいに、美しい銀世界の写真が載っていた。
「お外にいったら、これをみにいこう。雪ってつめたいんだって。さわってみたい」
「……こんなところに行ったら、凍えてしまうかもしれないよ」
「兄さんといっしょならへいき!」
笑う私の頭を撫でる兄の手が出会った頃より冷たいことに、外の世界に夢中な私は気づかなかった。
「寒いところに行こうか」
「うん!」
私は笑顔もこのときに置いてきてしまったのかもしれない。この日を境に、兄が訪れなくなった。
兄が来ない日々が続いても私はめげなかった。きっと兄は私と遠くへ行く準備をしているのだと信じていた。
ある夜、母の歌声がして、久しぶりに母の部屋へ足を向けた。兄と過ごすようになってから母を訪ねる機会は極端に減っていたが、母の様子が変わることはなかった。外を眺め、歌をうたい、琴を弾く。一度だけ、大きすぎる着物を着せてくれたことがあったが、大きくなったらまた着ましょうねと言ってすぐに仕舞われてしまったのが悲しかった。大人になれば、母ともっと色々な話が出来ただろうか。
母の部屋の前に着いて、急に部屋の中が静かになった。また気まぐれに歌うのをやめてしまったのだろうか。襖に手をかけ横に開くと、嗅いだことのない匂いがした。
部屋の中は幻想的だった。白い着物が胸元から紅く染まっている母の身体を、兄が床に座るようにして支えている。兄の白いシャツも、髪も、肌も、紅に染まって、最初からそうデザインされていたかのように美しい。白い睫までも紅が滴っていて、それは涙のように睫から肌を流れていった。
「兄さん…?お母さん、どうしたの?」
「…遠くへ行った」
兄は母の身体を静かに横たえた。みるみるうちに着物に紅が広がり、床に水溜りが出来ていく。
「お外にいくじゅんびができた?お母さんもいっしょにいくの?」
「帰蝶」
部屋の入り口から動けない私に、兄がゆっくりと歩み寄る。私はただただ兄を見上げた。その姿は紅く染まってなお白が際立ち、写真でしか見たことのない雪のようだと思った。雪はきっとこんな風に、しんしんと、静かに、冷たく降るに違いない。
「お前は銀世界を綺麗だと言ったね」
兄と今まさに同じことを考えていたことに嬉しくなる。兄の表情がようやく動く。口元が見たことのない形に弧を描いた。
「わかってないな。白は、赤く染まってはじめて、美しいんだ」
強い衝撃に、自分がどうなってどこを見ているのかわからない。気づいたときには床に押し倒され、兄が自分の首を絞めていた。息が出来ない。兄の穏やかな顔がすぐ目の前にある。
「これだけ近くで見ると、やっぱりあの汚らわしい女に似てるかな」
醜いな、と兄が呟いた。苦しくて痛くてたまらないのに、それでもまだ恐怖を感じられなかった。
首を絞める兄の手に必死に触れる。
「…っ」
「苦しいかい」
兄の手がほんの僅かに緩む。むせ返りそうになりながら、何とか声を絞り出した。
「…て、つめた……さ、むい、の?」
にいさん、と音にならず、口の動きだけで兄を呼んだ。兄の手を温めたいと思っても、私の手からも体温が失われていく。
「………」
もう兄の顔も見えない。ごきりと音がして、全てが途絶えた。
気がついたときには病院にいた。首はギプスで固定されていて、どうやら骨が折れているらしかった。
マレー語が飛び交いたまに英語で話しかけられたが、私は何もわからず、何も答えられなかった。
時だけがどんどんと過ぎていって数年後、私は流されるまま日本にいた。母は日本国籍で紫雲桔梗という名だと初めて知った。東京の施設で過ごしたが、生命維持だけに徹し、死んだように生きた。
あの夜から、私の髪は真っ白になってしまっていた。病院や施設で何度も短く切られたが、そのたびに異常な速さで元の長さに戻ってしまう。自分が周りから何と呼ばれているかはわかっていた。
白い自分の髪を見るたびに兄のことを思い出した。長いときが経ってようやく、私は兄の名すら知らなかったのだと気づいた。
自分の記憶は全て夢幻で、兄の存在は孤独な自分が創り出した空想ではないかと考えては、いつまでも消えない首の痣がそれを打ち消した。首の痣を主張するたびに精神科に入院させられ、私にはPTSDという病名がついた。書類上で私は十二歳になっていた。
ある日気がつくと外にいて、彼岸花畑の前で立ち尽くしていた。葉がなく真っ直ぐな茎に大きな赤い華が乗っている様は人の頭のようで、妖しげで美しい。母の最期を思い出す。
花を摘もうと手を伸ばすと、後ろから「摘んではいけないよ」と声がした。振り返ればスーツに身を包んだ大人が立っている。大人だと思ったけれど、今思えば彼はこのときまだ二十二歳で、大学を卒業したばかりだった。
「彼岸花を摘んではいけない。亡くなった人の声が聞こえてしまうから」
その言葉に私はすぐさま花を摘んだ。母の歌が聞こえるだろうか。「いけない子だ」と後ろから聞こえた。
母の歌は聞こえず、私は茎から花をぶちりと千切って地面に打ち捨てた。花が茎から離れ散らかったその様が、まるで自分のように見えた。
あの日、母だけでなく私も、首を手折られて死んだのだ。
無残な姿になった花を一心に見つめる私に、その大人が声をかけた。
「もうじき日が暮れる。お家の場所はわかるかい」
「マレーシア」
その人は少し驚いた様子で、しかしすぐに穏やかな表情で微笑んだ。
「ずいぶん遠いところから来たんだね。日本へようこそ」
「………」
自分の言葉が否定されなかったのはいつ以来だろう。黙ったままの私に手が差し伸べられる。
「私は愁。南、愁だ。良かったら、道を案内させてもらえないかい」
「…帰蝶」
その手を取ってぽつりと呟く。その人は「良い響きだね」と笑って、私の手を引いて歩き出した。
握る手の温かさが懐かしい。兄が生きていれば、この人のような大人になっているだろうか。
少し、兄に似ている。そんな思いを振り切るかのように、彼岸花畑を後にした。
細々続きます




