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自死代行  作者: 久保谷充
第一章
15/34

第五話 前編

歌が聞こえる。母の声だ。

歌声と後姿ばかりが記憶に残っている。

これは着物というのよ。日本のものなの。帰蝶も大きくなったら着ましょうね。

血のように紅い、母の着物。

広い家と広い庭。白い塀に囲まれて、外の世界は見たことがなかった。

大人はみな理解出来ない言葉を喋っている。


「帰蝶」


懐かしい声がする。人はみな「声」から忘れていくのだと、誰が言い出したのだろうか。

こんなに鮮明に、覚えている。


忘れたい。忘れたくない。


「帰蝶」


振り返れば、そこにいるのは記憶の中の彼だろうか。それとも。


「帰蝶」


私を呼ぶ、声がする。





「帰蝶!」


はっと目を開けると、黒いサングラスをかけた芽依子が隣に座ってマグカップを差し出している。


「コップこれしかないから、さっさと飲んで」


マグカップを受け取ると、温かいココアが入っている。甘い香りに尖った神経がいくらか落ち着くのを感じる。周りを見渡して、芽依子の家に来たことを思い出す。瞬間的に転寝をしてしまったらしい。


「本当にここに住んでるのか…?寝具の一つもないって…どういう生活してるんだ…」


槙を抱えるようにして床に座っている鈴鹿が独り言のように呟いた。


「ここで寝起きはほとんどしないわね。ほぼ物置よ」


芽依子の部屋はマンションの1LDKで、物がほとんどなかった。電源の入っていない冷蔵庫とケトルぐらいしか見当たらない。芽依子はクローゼットを開けると中から何か嵩張るものを取り出して、鈴鹿に放り投げた。


「はい、寝具」


「寝袋…」


放られた寝袋を受け取った鈴鹿は、仕方なさそうにそれを広げ、そこに槙を寝かせた。槙は白い顔で意識を失っている。


「槙さん、大丈夫なの」


帰蝶はようやく喋ることが出来た。横たわる槙の身体は小学生かと疑わしいほどに小さくなってしまっていた。


「多分な。あまり気にしないでやってくれ」


そう言う鈴鹿の顔色も悪い。帰蝶は立ち上がって鈴鹿の隣まで移動し、そこに腰かけた。


「ココアだって。とにかく飲んで」


鈴鹿は何か言いたげだが、黙ってマグカップを受け取って一口飲んだ。すぐに訝しげな表情になる。


「おい…ひょっとしてとんでもなく甘いんじゃ…じゃりじゃりいってんぞ…」


「砂糖の小匙二杯ってどれくらいなのかしら。わからないからシュガー十本入れたんだけど」


「コップの半分が溶けてない粉で埋まってやがる…」


何だかんだと文句を言いつつ鈴鹿は飲めるだけ飲んだようだ。芽依子がマグカップを受け取りにやって来る。


「そのサングラスは何だよ。外ではつけてなかっただろ」


芽依子はマグカップをシンクに置いてから、顔にかけているサングラスを上にずらしてみせた。

芽依子の瞳は架空の生き物のように真紅に染まっている。


「そのうち治るわ。あんなでかい木燃やしたのは初めてだから、どれくらいかかるかわからないけど」


「パイロキネシス、か。初めて見たな」


助かった、恩に着る、と鈴鹿が言う。芽依子はサングラスをかけ直して、「帰蝶のためだから気にしなくて結構よ」と壁にもたれて腕を組んだ。


「あんな派手に燃やして、山火事になったりしねえのか」


「私の力は定めた対象だけが燃えるの。それ自体が内側から発火して、他には燃え移らない」


だから桜の木は無事よ、と帰蝶が心配していることを芽依子は先回りして解消した。


「こいつの知り合いみたいだが、どうして芦川院に現れたんだ」


鈴鹿の問いに、芽依子は淡々と答えていく。


「帰蝶のお兄さんから連絡が来てね。詳しいことは聞いてないけど、念のために逢己橋の近くにいたのよ。そしたらえげつない気配がしたから」


「芽依子、愁兄さんを知ってるの」


紹介した覚えのない帰蝶は驚いた。いつの間に知り合ったのか。


「あんたのお兄さんはあんたが思ってるよりはやばい人よ」


「おい、愁さんに失礼なことを言うんじゃねえ」


「どいつもこいつもイカれてるわね。それで、その筆頭が暴走してるみたいだけど、これからどうするの。どう見ても手に負えないわよ」


「………」


帰蝶は答えがわからずに黙り込む。鈴鹿は少し顔色を取り戻した様子で、冷静な声を出した。


「向こうが話を聞く気がないならお手上げだな。遠野ひとりでもどうにもならねえのに、一体あれは何だったんだ。あんなにはっきりと実体化した呪いなんて見たことねえぞ」


「…春樹の病室で聞こえた声と、同じ声だった。多分あの子が、死んだ春樹の恋人」


「生前どんな人物で何があったか知らねえが、死後にあそこまで強力な呪いに育つことなんてあるのか。呪いが集まりに集まって規模の大きな災害になることはあるが、人の形を取り戻すなんて」


「わからない。でも…」


「…自死代行か。たしかにこの町には人の死が集まってた。だが、もっと死んでる場所や時代なんていくらでもある」


言いづらそうにしている帰蝶の代わりに鈴鹿が代弁した。帰蝶は今更、本当に今更になって、罪悪感を感じ始めていた。

自死代行が褒められた行為でないことは自覚していたつもりだが、それと同時にほんの少し、純粋に人助けのようにも感じていた。帰蝶自身も、もし昔に自死代行人に出会っていたら、と思う節があった。

きっと自分には、人間に当たり前にあるはずの情緒や感性が欠けている。それでもいいと思って生きてきたけれど、そうやって知らないものを知ろうとしなかった結果が、きっと今に繋がっている。

変わらなければ、と思う。しかし、何を、どうやって。

帰蝶が思考の小路を彷徨っていると、槙の声がした。


「…僕たちに被害を防ぐことは、おそらく無理です」


その声は、今までのそれより少し高い。身体を起こそうとした槙を支えようと鈴鹿が腕を伸ばしたが、「大丈夫ですよ」とそれを制して自力で起き上がった。


「遠野さんもあの少女も、手出し出来ません。彼らが積極的に人を害さないことを、祈るしか」


「あの様子じゃ、芦川春樹とやらに何かあったら、それこそ町が滅びそうだしな」


打つ手がない、と二人から告げられ、帰蝶は唇を噛み締めた。もう自分の手は何も掴むことが出来ないのだろうか。うつむく帰蝶の耳に、「ですが」と槙の声が届く。


「僕の読みでは攻撃は僕たちに集中するかと思ったのですが、あの少女は真っ先に妹さんを殺意を持って攻撃しました。その一方、僕のことは捕らえようとしただけで、殺意は感じなかったんです。何か目的があって、そしてその目的は、遠野さんと少女で、ずれているのかも」


「遠野とやらがあのチビを操ってる感じでもなかったしな。確証はねえが、呪いが独立してんだろう」


「何もしないでくれ、と遠野さんは言っていましたが、彼らに何かしら目的がある限り、対話の可能性は残されていると思います」


「………」


再び黙り込む帰蝶に、「しゃんとしな」と芽依子が声をかけた。


「どうせあの甘ったれはそのうち限界が来る。そのときにあんたがしっかりしてなくてどうすんの」


「…うん」


自分に出来ることがあるのかはわからない。それでも、諦めることは出来ない。

約束したのだ。たとえ、涼平がそれを覚えていなくとも。


それにしても、と槙が話を続ける。


「町の平和は諦めるとして、妹さんの身の安全を優先するにしても、どうにも分不相応ですね」


苦笑してみせた槙に、「槙、お前はもう東京に帰れ」と鈴鹿が言い放つ。槙は少し驚いてから、「嫌ですよ。鈴鹿さんがこれ以上馬鹿になったらどうするんです」と鈴鹿を睨みつけた。


「言霊は人間相手に使わなきゃ大して還ってこない。俺は大丈夫だ。お前は愁さんと一緒にいてくれ」


「……どうして」


傷ついたように鈴鹿を見つめる槙に、鈴鹿は「これ以上時間がズレるのは、勘弁してくれ」とこぼした。


「そんなの、いまさら…!」


槙が鈴鹿の方へと身を乗り出し食い下がろうとすると、ぱんぱんと手を叩く音が響いた。


「はいはい、痴話喧嘩は外。ここじゃ休むも何もないし、顔だけつき合わせてたって事態はよくならないし、解散よ解散」


「…誰が痴話喧嘩だ」


壁にもたれたままの芽依子を鈴鹿は一睨みして、しかしすぐに「世話になったな」と言って立ち上がった。槙は大きすぎるジャージの袖と裾を何重にも捲し上げている。槙のリュックは鈴鹿が持ち、その中身は空になっているようだった。

帰蝶の視線に気づいた鈴鹿が口元だけで笑ってみせる。


「これな。中身全部、種だったんだ。たんぽぽの。一回こっきりの目くらましにしかならねえけど、地味に嫌がらせになんだよ」


「…僕の秘蔵の盆栽や苗も、結構犠牲になりました。使わずに済んだら後で掘り返そうと思ったのに、見事に全滅です」


はあ、と槙がため息を吐く。槙が事前に準備していたのはこれだったのだろう。植物が瞬く間に生長する様は呪いと言うより魔法のようだった。

…本当に魔法ならいいのに。小さくなってしまった槙の身体に、帰蝶は申し訳なさとやるせなさで消えてしまいたくなったが、その感情を何とか飲み込んで、普段の無表情を繕った。


「二人とも、本当にありがとう。愁兄さんによろしく伝えて」


「一旦槙を愁さんとこに置いてくる。お前はしばらく大人しくしてろ。また連絡する」


「鈴鹿さん、話はまだ終わってませんよ。妹さん、くれぐれも気をつけて」


帰蝶はもう二人の手を借りる気はなかったが、二人はまだ親身になってくれるつもりのようだ。有難いが、後で愁にきちんと断りの連絡をしなければ。二人にこれ以上何かあっては愁が悲しむだろう。

鈴鹿と槙を見送って、部屋には帰蝶と芽依子の二人だけになった。


「全く。どいつもこいつも世話が焼けるわね」


「…芽依子。助けてくれて、ありがとう」


改めて礼を言う。芽依子はそれには反応せず、シンクでココアを作りはじめた。これ賞味期限切れてるわね、という一人言は聞かなかったことにした。

再び温かいココアを受け取って今度こそ飲むと、自分が空腹だったことに気づく。座っている帰蝶の隣に芽依子が腰をかけた。かっちり制服を着込んでいる帰蝶とは対照的に、芽依子は相変わらず露出の高い装いをしている。サングラスのせいで表情がわかりづらい。

しばらく沈黙が続き帰蝶がココアを飲み終わる頃、芽依子が口を開いた。


「こんなときに追い討ちをかけるような情報教えたくないんだけどね。事故的に遭遇するよりは心構えがあった方がまだマシだと、信じて話すわ」


唐突な話の切り口に、帰蝶は丸い目で芽依子を見た。「落ち着いて聞きなさいよ」と静かな声がする。


「今日、私があんたたちに合流する前、逢己橋であんたを見つけたと思った。良く見れば格好も、おそらく性別も違うのに、その人を帰蝶だと思ったの」


「…………」


「あんだじゃないと気づいて、それでもすぐには信じられないぐらい、気配が一緒だった」


芽依子の言葉を頭の中で反芻する。マグカップが割れる音がして、芽依子の口がスローモーションに見える。


「期待させたくないし、違っていて欲しいと思う。だけどあれはきっと、あんたの兄貴だった」


帰蝶、しっかりしなさい。自棄を起こしちゃ駄目よ。しばらく家にいなさい。家が居辛かったら、ここに居てもいいから。

芽依子の言葉が頭をするすると流れていく。全身の血が冷たくなっていくのを感じる。


帰蝶は自分の首をそっと撫でる。十年間、この首には自分にしか視えない痣がある。

その痣を上からなぞるように、自分の首を緩く絞める。


このときを、ずっと待っていた。


焦がれた瞬間が迫っている予感に身体が戦慄く。芽依子の声と涼平の顔が脳裏をよぎって、すぐに消えた。

気づいたときには夜の闇の中を駆けていた。セーラー服のスカーフが風にさらわれて、一度だけ振り返る。白いそれは飛ばされて、すぐに見えなくなった。暗闇に溶けて消えていく魂のようだ。きっと自分にはもう必要ない。


黒いセーラー服も、夜の中へと消えていった。






細々続きます

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