うつうつおばけ3.5~四月~
会うたび会うたび、△△先輩は目に見えて顔色がどんどん悪くなっていく。
サラサラとした黒髪は艶を失い、幽霊のように青白い肌はカサカサに乾いている。
辛うじて、整っている身嗜みは、ブレザーの制服とヘッドフォンのみ。
「先輩、うつうつおばけの話をするの、もうやめませんか?」
「ん~? なんで?」
先輩は不満げな様子で、私に疑問を返す。
なんで、なんでかって、そんなの……ああ、そうか、△△先輩は気付いていないのか。
ならば、私が真剣で斬り込もう。
「鏡で御自分の顔を確かめれば分かりますよ。先輩、酷い顔ですから」
私は鞄から折り畳み式の鏡を取り出し、先輩に手渡す。
今の先輩の状態をたとえるなら、悄々になった野菜のように窶れていて、使い古しの雑巾みたいにぼろぼろである。
嗚呼、大変見ていられない姿になっている。
「毎日、幸せな気持ちでいるのだけど……君から見ると、僕は心配されてしまうのか。不思議な感覚だ」
先輩は頬に手を置きながらそう言って、鏡の中にいる自身をじーっと観察している。
「幸せなんですか? うつうつおばけの夢を見ることが……?」
信じられない。心に痛みと苦しみを与えてくる化け物に、会うことが幸福だなんて――私は絶対に信じない。
今の先輩は異常だ。苦痛を苦痛として感じとれないなんておかしい。感覚が麻痺をしているのではないか。
今の私を鏡で映したのならば、目が見開いて驚いた顔になっているのだろう。
そんな私を見て、がっかりしたのか。私に見切りをつけるように、
「夢を見るのは、悲しくなるほど辛い。だけど、同時に喜びを感じるほど幸せなんだ。残念だが、他人は、そんな僕の心を理解することができないだろうね」
きっぱりと先輩は言う。
そして、フゥ……と悲しそうに溜め息をつき、鏡を閉じる△△先輩。
突然、バシャッ、と冷水をかけられたような気分になる。
さっきまで、興奮して激しく動いていた心が、途端に静まり大人しくなっていく。
言うなれば、冷めたということ――冷静さを取り戻した私は、唇を噛む。失敗したな。
「鏡をありがとうね。お陰で、自分のことを客観的に見れそうだよ」
「あっ……はい」
先輩は優しくお礼を言いながら、鏡を返してくれた。
しまった、感じの良い反応が出来なかった。
まるで、初めて会話した人のように、余所余所しい態度をとってしまった。
失敗した。こんなはずじゃなかった。そうだ、こんなの全然違う。
頭と心がぐるぐると混乱する。
ギュッと手に力が籠り、持っていた四角い鏡がミシッと悲鳴を上げる。
「君の言う通り、辞めるのが正しいのだろう――僕は、うつうつおばけと手を切ろうと思う」
「えっ……そうですね、それが良いと思います」
渋っていたのが、嘘みたい。△△先輩が考え方を変えるなんて。
でも、本当に良かった。うつうつおばけのことを先輩が諦めてくれて。
もう鏡は必要ない。鞄に仕舞おう。
「どうせ、最後の夢になるのならば、天から垂れ下がっている細い紐のようなものに、触れてみるとするよ。少しずつ少しずつ僕の方へ近付いてきてるあれが、ずっと気になっていたことだし、何なのかも確かめたいし」
先輩は顔を上に向けて、灰色に染まった暗い空を眺める。
確か、明日の降水確率は百パーセントに近い予報だっけ。
「それって、蜘蛛の糸ですか?」
作者はド忘れてしまったけど、かなりの有名人だった気がする。
内容は、命綱的な糸に罪人が縋る話だっけ。
それで、結局、糸は切れて落ちたんじゃなかったっけ。
国語のプリントに載っていたけど、真面目に読んでないので、すかすかのうろ覚えだ。
どちらにしろ、あんまり良い印象がない糸だった気がする。
「ふふふ、僕は蜘蛛なんて助けた覚えはないけど、上にするすると登っていったら夢から醒めるかもね」
「そうだと良いですね」
夢から醒めて、うつうつおばけから解放される。良いこと尽くめだ。
「そうだ、これを預かってくれる?」
先輩はブレザーのポケットから、折り畳まれた一枚の紙を取り出して、大事そうに手渡す。
「必ず就寝時に枕へ敷いていた、僕の大切なものなんだ。あれと関わらないと決断したのならば、これを夜に使うわけにはいかない。だから、君に持っていて欲しい」
なるほど、△△先輩が肌身離さず持っていた御守りのようなものってことね。
コピー用紙に似た手触りと薄さを持つ紙をまじまじと見ると、絵が描かれているのに気付く。
「何の紙か広げてもいいですか?」
「どうぞ」
紙を広げてみると見覚えのある絵が表れる。
絵というより、これは……
「美術部の勧誘のポスター?」
先輩が手を合わせていたポスターだ。
画鋲で四方の隅をぴーんと留めた状態よりも、少しくしゃくしゃになっているけど見覚えがある。
「うん、そう。これはね、僕にとって大切な人が描いたポスターなんだ」
「それなら、厳重に預かりましょう」
破損・染み・汚れの付着、その他諸々に気を付けねばならない。
どうせ預かるなら、綺麗な状態で丁寧にお返したい。
先輩が私を信頼して預けたものなら、尚更だ。
「大切だけど、吹っ切れたから、そこまで……いや、うん、うつうつおばけのことが終わったら僕に返してくれるかい?」
「はい!」
ファイルに入れて、大切に保管しよう。
少し明るい雰囲気になった先輩と学校で別れて、自宅に向かう。
そういえば、ゴールデンウィークが近い。楽しいことをいっぱいしよう。
次の日、△△先輩は死んだ。
ヘッドフォンの紐が複雑に首へ絡まり、首が締まって呼吸が出来なくなったみたいだ、△△先輩は死んだ。
就寝時、誰も居なくて独りきりだったらしい、△△先輩は死んだ。
深夜から、ぽつぽつと雨が降ってきたようだ、△△先輩は死んだ。
私 は 先 輩 に 返 せ な か っ た
私が流す涙のように、雲が悲しく辛く泣く。
私の制服と靴と鞄を冷たい涙が濡らしていく。