飛翔編
リーラが立ち去った洞窟の中は物音一つせず、重苦しい静寂に満ちていた。
しばらくの間、リュウとサラはガネシュの皮の上で座り込んだまま、身じろぎもせずに押し黙っていた。
リュウは涙に濡れた瞳を手の甲で拭うと、ガネシュの皮に手を突いて立ち上がった。リュウの顔を見上げながら、サラは「リュウ……」とポツリと呟いた。
「アトゥルのところに……行ってくるよ……」
リュウは頬を強張らせながら、ぎこちない笑顔をサラに向けた。サラが、「うん……」と小さな声で頷いた。
それからリュウは洞窟の奥へと、トボトボと重い足取りで歩いていった。
洞窟の奥ではアトゥルが首を伸ばしたまま、グッタリとした様子で地面の上に寝転がっていた。昨日見た時とまったく同じ姿で左の瞼を固く閉じている。
リュウはアトゥルの顔の横で立ち止まると、フーッと大きく息を吐いた。そして、スッと手を伸ばすと、緑の角に掌で触れた。角の表面の滑らかな手触りがなぜか温かく感じられた。そのまま頭を垂れて瞼を閉じると、祈りを込めるように頭の中で『アトゥル……』と呟いた。
その瞬間、アトゥルがパッと左の瞼を開いた。目を閉じて頭を垂れながら角に触れているリュウを緑色の瞳で見つめた。
「リュウ、悲しいことがあったのかい?」
リュウは弾かれたように顔を上げた。咄嗟に角から手を離すと、自分をじっと見つめているアトゥルの瞳を見返した。
「なっ……なんで……そんなことが分かるの?……」
リュウの声は少し震えていた。
アトゥルはゆっくりと首を持ち上げると、正面にリュウを見据えながら緑色の瞳を潤ませていた。
「だってね、リュウの悲しい気持ちが伝わってきたんだよ。誰かがいなくなった。そうでしょう……」
アトゥルの優しげな言葉に、思わずリュウの瞳に涙が込み上げてきた。慌てて手の甲で瞼の縁を拭うと、涙が零れないように上を向いた。
「泣いてもいいんだよ、リュウ。誰かがいなくなるって、とってもつらいもんね。いいんだよ、我慢しなくても……」
リュウは上を向いたまま、零れ落ちる涙もそのままに、「あっ……ありがとう……アトゥル……」と唇を震わせた。
リュウが泣き続けている間、アトゥルは緑色の瞳を潤ませながら、静かにリュウを見つめていた。
ようやくリュウの涙が収まると、アトゥルは、「大丈夫かい、リュウ?」と、リュウのほうに顔を近づけた。リュウはコックリと大きく頷くと、「もう大丈夫だよ」と、アトゥルの鼻先に手を伸ばして撫でた。
くすぐったそうに首を引っ込めながら、アトゥルは「それなら、よかった」と微笑んだ。洞窟の暗がりのなかでアトゥルの鋭い牙がキラリと輝いた。
リュウがアトゥルのほうに一歩、足を踏み出した。
「ねぇ、アトゥル。聞いてほしいことがあるんだ」
「なんだい?」
アトゥルが少し首を傾げた。
「あのね、落ち着いて聞いてね。ユマと話をしたんだ」
「えっ!」
予想もしなかった言葉に驚いたアトゥルが長い首をグッと後ろに引いた。
「僕ね、この山のてっぺんにある黒い雷雲の中に行ったんだよ。あそこはね、黄泉の国の入口なんだ」
「ほっ、ほんとかい?」
「ほんとだよ。そこでね、ユマと会えたんだ」
「ユマは……ユマは、どうしてたの?……」
リュウは、アトゥルのほうに更に足を踏み出しながら、両手を左右に大きく広げた。
「ユマから頼まれたんだ。おにいちゃんを助けてほしいって」
アトゥルは訝しげに額に皺を寄せた。
「どういうこと?」
「ユマはね、アトゥルのことを優しいおにいちゃんだって言ってた。毎日、ハイデンジィアの花が咲く小道に散歩に連れていってくれてたって。ユマと同じきれいな水色なんだよね、ハイデンジィアの花は!」
リュウが大声を張り上げると、途端にアトゥルの左の瞳から大粒の涙がポロンと零れ落ちた。涙は次から次に溢れ出して、いつしか地面の上に小さな水溜りができていた。
「アトゥル、聞いて!ユマはね、自分が死んだのはアトゥルのせいだとは思ってないんだよ。だからね、やさしいおにいちゃんが死んでしまわないようにって、僕に頼んだんだ!」
泣いているアトゥルの心の内側へ届くようにと、リュウは声の限りに叫んだ。アトゥルは首を伸ばしながら上を向くと、「オゥオゥ」と咆えるように慟哭していた。洞窟の中でその咆哮はコダマのように反響していた。両手の鋭い鉤爪を地面に突き立てて、アトゥルは体を震わせていた。
リュウはアトゥルの左手に駆け寄ると、丸太のように太い手首に手をまわしてギュッと抱き締めた。
アトゥルが泣き続けている間、リュウはアトゥルの手首に額を押し付けるようにしながら、緑色のウロコを両手の掌で優しく撫でていた。
そんな二人の様子を、サラは洞窟の隅で静かに眺めながら、零れ落ちる涙を指先で拭っていた。
しばらくすると、アトゥルは泣き疲れた幼子のようにグッタリと眠り込んでしまった。アトゥルの安らかな寝息を確かめると、リュウがサラのところに戻ってきた。
サラは目尻を下げながら、「リュウ、えらいわ、あなた。きっと、もうアトゥルは大丈夫よ」と、潤んだ瞳で微笑みかけた。リュウは、「うん!」と晴れやかな笑顔を浮かべた。ふと洞窟の出口のほうに目をやると、差し込んだ夕日が灰色の砂地を赤く染めていた。
その頃、ナーガの城では城壁の内側に敷き詰められた灰色の石畳みが夕日を反射していた。
城の巨大なドームの中には天井から幾つもの幕が吊り下げられていた。そのうちの真っ白い幕に区切られた部屋の中で、アイラが玉座の肘掛にゆったりと肘をもたせかけながら座っていた。目の前にはバウルが苦虫を潰したような顔で突っ立っている。お互いにヒトの姿をとっていた。
「バウル、あなたは自分のやったことを分かっているんですか!」
アイラが鋭い眼差しをバウルに投げかけた。
「はい、分かっているつもりですが」
いっこうに悪びれない様子でバウルが顎を持ち上げた。
「いいえ、あなたはリュウがどれだけ大切な存在なのか、分かっていません!」
アイラはドンと玉座の肘掛を叩くと、バウルを睨みつけた。
バウルは軽く肩を竦めながら、「あやつがどういう存在かを分かっていないのは、母上のほうだと思いますが」と、アイラの眼差しから逃げるように視線を逸らした。
アイラは怒りに震えるように頬をピクピクと痙攣させた。そして、バウルを見据えながら、玉座からすっくと立ち上がった。
「もうこれ以上は我慢がなりません。バウル、あなたをこの城の中に幽閉します。一切、外出することは許しません。いいですね」
バウルは、アイラの怒りなどはどこ吹く風といった様子で、「どうぞご勝手に」と肩をそびやかした。
アイラが「衛兵!」と叫ぶと、玉座の周囲を囲んでいた白い幕が巻き上げられた。玉座に座ったアイラと、その前で仁王立ちをしているバウルを取り囲むように、長い首をもたげたナーガたちが姿を現わした。
アイラは右腕を伸ばして人差し指をバウルに向けた。
「この者を幽閉しなさい!決して城から外へ出してはなりません!」
周囲を取り囲んだナーガたちが、「かしこまりました」と声を揃えながら、一斉に頭を下げた。
衛兵のナーガたちに囲まれながら、バウルはドームの奥へ向かって歩き出した。その背中に目をやりながら、アイラはハーッと大きな溜め息を吐くと、崩れるように玉座の背もたれに体を預けた。
ドームの一番奥に辿り着くと、バウルはたちまち赤のナーガへと姿を変えた。衛兵を務めるナーガたちがその周りを取り囲んだ。その中の一匹のナーガがバウルの正面で翼を左右に広げながら、「バウル様、申し訳ございませんが、ここでお過ごしいただきます」と、丁寧に頭を下げた。いつの間にか天井から灰色の布が下りてきて四方を囲っていた。
バウルはフンと鼻を鳴らすと、「母上は間違っている。こんなことはわたしにとって無意味だ」と吐き捨てるように呟いた。
バウルの正面のナーガは頭を下げたまま、「バウル様、ジラント殿がお越しです。なにか話があるとのことでございますが……」と問いかけた。
「うむ、すぐに呼べ。わたしにとっては、ここにいても、外にいても同じことだということを母上に分からせる必要がある」
「かしこまりました」
それからすぐにバウルの前にジラントが現れた。全身を覆う濃紺のウロコが土埃にまみれている。
「バウル様」
ちょっとくぐもった重低音のダミ声を発しながら、ジラントがバウルの前で頭を垂れた。
「どうした、ジラント。なにか分かったか?」
「はい、あの小僧がいた村の住人が今どこにいるかが分かりました」
「ほう……」
バウルは長い首を持ち上げながら目を細めた。
「あの者どもは、今は別の集落に身を寄せております。私の配下の間者が探り当てました」
「気づかれてはおらんだろうな。無人の森を焼くような失態はもう許さんぞ、ジラント」
「このたびは万全を期しております」
ジラントが地面に這いつくばるように深く頭を下げた。
「そこに、あの小僧はおるのか?」
「それが……確認できておりません……」
「なんだと……」
「申し訳ございません」
バウルが目尻を吊り上げながらジラントを睨みつけた。手足を震わせながらジラントは身を縮めていた。
「うーむ、どうするか……」
天を仰ぐように首を伸ばしながら、バウルは思案を巡らせた。そして、フンと鼻を鳴らすと、ジラントに向き直った。
「その集落を焼き払え。遠巻きに炎で囲んで、決して誰も逃げられないようにしろ。いいな!今度しくじったら、ただでは済まんぞ!」
ジラントは顎を床にペタリと擦り付けながら、「かっ、かしこまりました」と平伏した。
バウルは眉間に深い皺を寄せながら、(どんなことをしてでも、あの不浄の者は消さねばならん……)と、仄かに光を発しているドームの天井を見上げた。
次の日の朝を迎えた。
朝日が昇ると同時に、洞窟の中でリュウとサラは目を覚ました。リュウはガネシュの皮の上に手を突きながら上半身を起こした。洞窟の奥に目をやると、アトゥルが大口を開けながら、「ふわぁー」とアクビをしていた。
リュウは思わず嬉しくなって立ち上がると、「アトゥル、おはよう!」と洞窟の奥に向かって大声で呼びかけた。
アトゥルは長い首を持ち上げながら、「おはよう、リュウ。それと……サラだったよね」と、ちょっと顔を傾げた。サラはガネシュの皮を手早く畳みながら、「おはよう、アトゥル。名前を覚えてくれて、ありがとう」と、アトゥルに向かって微笑みかけた。
アトゥルは二人に向かって口の両端を上げて微笑み返した。そして、洞窟の一番奥に向かって体を反転させると、首を伸ばして地下水脈から流れ出た水をゴクゴクと喉を鳴らして飲み始めた。一分ほどの間、そのままの姿勢で水を飲み続けたアトゥルは満足したように首を持ち上げると、「プファー」と大きなゲップをした。
「どうだい、美味しかったかい?」
アトゥルの背中に向かってリュウが声をかけた。
アトゥルが再び体を反転させて、リュウに顔を向けると、「こんなに美味しい水は飲んだことがないよ!」と声を上げた。リュウはにっこりと笑いながら何度も頷いていた。
すると、今度はアトゥルが洞窟の出口のほうに向かってノソノソと歩き出した。
リュウはアトゥルに近寄っていくと、「どこへ行くんだい?」と首を傾げた。
アトゥルはリュウに顔を向けると、「外に出て、狩りをするよ。お腹が空いたから」と、のん気な調子で答えた。
リュウはパンと手を叩き合わせながら、「それはいいね。僕もついていくよ」と、嬉しそうにアトゥルの顔を見上げた。今度はサラがちょっと心配そうに眉根を寄せた。
「リュウ、わたしも一緒に行くわ。あなた一人ではダメよ」
「大丈夫だよ、サラ。アトゥルと一緒なら心配ない。サラは朝食の準備をしていてよ。そんなに時間はかからないから。そうだろう、アトゥル!」
リュウがアトゥルのほうに顔を向けた。
「うん、そんなに遠くには行かないよ。おいらは鼻が利くから、獲物はすぐに見つかるし」
アトゥルがごく自然な調子で相槌を打った。
サラは首を左右に振りながら、「ダメよ。わたしも行くわ」と、リュウをたしなめた。
「うん、分かったよ。サラ」
リュウは少しだけ肩を竦めると、アトゥルの横に並んで歩き始めた。サラがその後ろに付いていった。
三人は連れ立って洞窟の外に出た。東の空に昇る朝日を浴びながら、アトゥルの全身が陽射しを反射してキラキラと緑色に輝いていた。
大きな体を揺らしながら、アトゥルは灰色の砂地の上で四肢を交互に踏み出していた。太い丸太のような手足で砂地を踏みつける度に周囲に砂埃が舞い散った。
その横に並んで歩いていたリュウは、ふと頭の中に疑問が湧き上がって、アトゥルの顔を見上げた。
「ねぇ、アトゥル、聞いてもいいかい?」
長い首を捻じるようにして、アトゥルがリュウのほうに顔を向けた。
「なんだい?」
ちょっとためらうように、リュウは頬を強張らせた。
「あのね、アトゥルは飛ばないのかい?」
途端にアトゥルは酸っぱいものでも食べているように口をすぼめながら、はぐらかすように上を向いた。リュウは思ってもみなかったアトゥルの反応にちょっと慌てた。
「いや、いいんだよ、答えなくて。ごめんね、アトゥル、変なこと聞いて」
リュウはごまかすように激しく手を振った。
アトゥルは上を向いたまま、照りつける陽射しが眩しそうに額に皺を寄せた。
「もう飛ぶのは怖いんだ……片目のおいらは半分しか見えない……この山に来てからは、ずっと歩いてる……」
リュウの頭の中で、ユマと一緒に空を飛んでいたアトゥルがナーガの兵士とぶつかり、地上へ真っ逆さまに落ちていく姿が浮かんできた。
「ごめんよ、アトゥル……さあ、歩こう!獲物が早く見つかるといいね!」
強いて明るい声を出しながら、前に向き直ったリュウは、グンと強く足を踏み出した。
それからしばらくの間、アトゥルとリュウとサラは燦々(さんさん)と降り注ぐ陽射しに照らされながら灰色の砂地の上を歩き続けた。リュウは額に噴き出る汗を手の甲で拭っていた。
ふいにアトゥルが足を止めた。首を上に伸ばして鼻先を左右に振りながらクンクンと匂いを嗅いでいる。
「どうしたんだい?」
リュウがアトゥルの顔を見上げた。
「近くに何かいる……」
「ホントかい?またバーグフ?」
バーグフという言葉に、サラがビクッと反応した。アトゥルは首を下ろして鼻先を地面に近づけながらクンクンと鳴らした。
「いや、バーグフの匂いとは違う。こいつはヴァラーハだ!」
「ヴァラーハ?」
「そう、普通は群れでいるんだけど、こいつは一匹だけみたいだ」
「そんなことまで分かるの!」
アトゥルはもう一度鼻をクンクンと鳴らすと、長い首を上へ持ち上げた。
「まあ、見てなって」
自信たっぷりな様子でアトゥルはプクッと頬を膨らませながら、スーッと息を吸い込んだ。そして、次の瞬間、上下に口を開くと、ゴゥという音を立てながら炎の玉を吐いた。炎の玉は風を切りながら一直線に飛んでいった。
数十メートル先のこんもりと盛り上がった砂地に炎の玉が命中した。パッと砂が舞い上がり、ブヒーッという獣の鳴き声が聞こえた。
「よし、やった!」
アトゥルは高らかに声を上げると、砂が吹き飛んだ場所に向かってノソノソと歩き出した。並走するようにリュウも歩き出した。その後ろにサラが続いた。
炎の玉が命中した場所まで辿り着くと、盛り上がっていた砂地が吹き飛ばされ、大きな穴が空いていた。
リュウが先頭に立って穴に近寄っていくと、背後からサラが、「リュウ、気をつけて!」と声をかけた。その声に右手を上げて応えながら、リュウは恐るおそる穴の中を覗き込んだ。その穴の真ん中に黒焦げになった大きなイノシシが横たわっていた。
(ヴァラーハって、イノシシのことだったんだ。それにしてもデカイなあ……)
そのイノシシは体長が二メートルぐらいで、口元から鼻先に向かって二本の鋭い牙が生えていた。リュウの背中越しに穴の中を覗き込んだサラが、「わっ!」と小さな悲鳴を漏らした。
穴に近寄ってきたアトゥルが首を曲げて穴の中に鼻先を突っ込んだ。それから口を大きく開きながら、そのイノシシをカプリと咥えた。
(どうするのかな?)
リュウは固唾を呑むように見守っていた。
アトゥルは黒焦げになったイノシシを丸ごと、ゴクンと一飲みにした。そのごく自然な様子に、リュウは、(やっぱりナーガってハンパない……)と、呆気に取られていた。
満足げにアトゥルは、フーッと大きな息を吐くと、傍らで口をポカンと開けて突っ立っているリュウとサラのほうに顔を向けた。
「今度は、リュウとサラのための獲物を見つけよう!」
リュウは、「あっ……ありがとう……」と頬を引きつらせた。
その時、リュウの頭の中でキンと甲高い音が響いた。まるで何かのスイッチが入ったように周囲の風景が凍りついたように固まった。
(まただ……なんで?……)
リーラの村では、バウルを導くヤブチメの声が聞こえた。今までも何か危険が迫る度に、リュウにこの現象が起こってきた。リュウは注意深く聞き耳を立てながら、辺りを見回していた。
すると、ゴウゴウという炎が猛り狂う音が遠くに聞こえ、息が詰まるほどの焼け焦げた樹木の匂いを鼻の奥に感じた。思わず目を閉じて耳に響いてくる音に全神経を集中すると、ゴウゴウと唸りを上げる炎の音に、絹を裂くような甲高い叫び声が微かに混じっているのに気づいた。
「リーラ?」
その悲鳴のような声に感応するように、なぜか頭の中にリーラの姿が浮かんでいた。
次の瞬間、再びキンという音が頭の中に響くと、周りの風景が元に戻った。東の空に高く昇った朝日は眩ゆいほどの陽射しを降り注いでいた。目の前の砂地の上にアトゥルが足を踏み出し、その足元からパッと砂埃が舞い上がった。
呆然とした表情でリュウは横にいるサラの顔に目をやった。何気なくリュウの顔を見返したサラが途端に目を見開いた。
「リュウ、いったいどうしたの!」
サラがリュウの両頬を挟むように左右の掌を当てた。リュウの顔は蒼白で、唇まで真っ青になっている。
「リュウ、しっかりして!どこか具合が悪いの?」
サラの声にアトゥルが足を止めると、二人のほうにグイッと首を曲げた。
「リーラ……」
唇を小刻みに震わせながらリュウが呟いた。サラは怪訝な表情で、「リーラ?どういうこと?」と、リュウの頬に触れていた手を引っ込めた。
リュウはフラフラと空中に視線を漂わせながら、「リーラが危ない……助けなくちゃ……」と、独り言のように小さな声で囁いた。サラはリュウの両肩を鷲掴みにして激しく揺さぶった。
「ちょっとしっかりして!リュウ!どうしちゃったの!」
その時、リュウはハッと我に返ると、訝しげに見つめているサラの瞳を見据えた。
「サラ!」
「なっ、なに?」
鬼気迫るようなリュウの顔つきに、サラは気圧されるように後退りをした。
「リーラに危険が迫っている。助けないと!」
「ちょっと待ってよ、リュウ。なにがなんだか、サッパリ分からないわ」
アトゥルが聞き耳を立てるように顔を少し傾けた。
「たった今、リーラの悲鳴が聞こえたんだ。それに、ゴウゴウと森が焼ける音と、焼け焦げた匂いもした」
「ほんとに……」
「ほんとだよ、サラ!」
サラは人差し指を立てて顎に当てると、「うーん」と俯いた。
「急がないと、さあ!」
リュウが駆け出そうとした時、サラが顔を上げた。サッと腕を伸ばすと、「どこへ行くの?」と、リュウの手を掴んだ。
「だから、リーラを助けに!」
「どこへ?」
「リーラのところにだよ!」
「それってどこ?」
「分からないけど……森のどこかだよ!」
「この山から森の端に辿り着くまで半日はかかるわ。そのうえ、あの広い森の中で、リーラが今どこにいるか分からないんでしょう?」
「でも、でも、このままじゃ、リーラが!」
リュウの手を強く握り締めたまま、サラはゆっくりと首を左右に振った。
「いい、リュウ、よく聞いて。あなたは不思議な力を持ってる。だから、リーラに危険が迫っているのは信じるわ」
リュウはしょんぼりと肩を落とした。
「でも、リーラをどうやって助けるの?あなたは、今、灰色の山の裾野にいて、リーラは遠く離れた森の中。それもどこにいるのかさえ分からない。今この瞬間、全力で駆け出しても、とうてい間に合わないわ」
リュウは俯きながら唇をギュッと噛み締めた。ふと横に目をやると、アトゥルが首を垂らして顎先を砂地に擦るようにしながら、心配そうにリュウの顔を覗き込んでいた。
「アトゥル……」
リュウが助けを求めるように、アトゥルの名を呼んだ。アトゥルは困惑したように、緑色の額に皺を寄せた。耳の後ろに生えている二本の角が朝日を反射してキラリと輝いた。
リュウはヨロヨロとふらつきながらアトゥルに歩き寄ると、その角にそっと右手を伸ばした。リュウのするがままに任せるように、アトゥルはじっとしていた。
リュウの掌がアトゥルの角に触れた瞬間、リュウは全身にビリッと電流が走ったような感覚を覚えて、思わずブルッと体が震えた。それと同時にアトゥルも大きな体をブルブルと震わせた。
次の瞬間には、その感覚は消えていた。リュウは、アトゥルの角に手を当てたまま、『なんだったんだろう、今のは……』と心の中で呟いた。
『リュウ、今、聞こえたのは君の声かい?』
突然、アトゥルの声がリュウの頭の中に直接響いてきた。驚いたリュウは、『僕の声が聞こえるのかい、アトゥル?』と心の中で問い返した。
『うん、聞こえる。不思議だね……なんか変な感じだ……』
アトゥルは、どこかくすぐったそうに顔をしかめながら、長い尻尾を持ち上げると、バンと砂地を叩いた。空高く砂埃が舞い上がった。
その瞬間、リュウは思いも寄らぬ感覚に包まれて、大きく瞳を見開いていた。
『ねぇ、アトゥル。今、尻尾の先がくすぐったかったんだよね』
『そうだけど……それがなんだい?』
『君の尻尾がくすぐったい感覚が僕にも分かったんだ……いったいどういうことだろう?』
緑の角に掌を当てたまま、リュウが途方に暮れたように空を見上げた。頭上にはムクムクと沸き立つような真っ白い入道雲が浮かんでいた。
『ねぇ、リュウ』
今度はアトゥルがリュウに頭の中に話しかけてきた。
『なんだい?』
リュウは空を見上げたまま、アトゥルに心の中で返事をした。
『あのね、今、白い雲が見えてるんだ、おいら。どういうことだろう?』
『えっ!』
リュウがアトゥルのほうに顔を向けると、アトゥルは不思議そうに緑色の左の瞳を大きく見開いていた。
『今、見えなくなった。なんだい、この緑色の大きな目玉は?』
『それって、今、僕が見てるアトゥルの瞳だよ!』
『どういうことだい?』
想像を超えた出来事にリュウはブルッと全身が震えた。
二人の傍らに立っているサラは、いったい何事かと訝しげに、リュウとアトゥルの様子を眺めていた。
『アトゥル!今、君と僕の感覚は繋がってるんだ!』
『感覚が繋がってる?ふーん、不思議なこともあるんだねぇ……』
『ちょっと君の頭の上に乗ってもいいかい?』
『別にかまわないけど……』
アトゥルが顎をペッタリと砂地につけた。リュウはアトゥルの耳の後ろに片足をかけながら、ヒョイとアトゥルの頭の上に跨った。
途端にサラが駆け寄ってくると、「ちょっとリュウ、なにやってるの?」と、詰問口調で声をかけた。
リュウは腕を伸ばして、アトゥルの二本の角に左右の掌を当てた。
「不思議なんだけど、アトゥルと僕の感覚が繋がってるんだよ」
「感覚が?……いったいどういうこと?」
サラは首を傾げながら、無茶な行動を止めようと、リュウのほうに手を伸ばしてきた。
(ここでサラに掴まるわけにはいかない!)
リュウがそう思った瞬間、サラの手がリュウに触れる寸前で、アトゥルがグイと頭を持ち上げた。その拍子にサラが後ろ向きにひっくり返って、ドスンと派手な音を立てながら砂地に尻餅をついた。
「ちょっとリュウ!アトゥル!」
砂地に座り込んだまま、サラが二人を見上げながら大声で怒鳴った。
リュウはアトゥルの頭の上に乗ったまま、サラを見下ろした。
「ごめん、サラ。でも、今はこうするしかないんだ!」
「ちょっといいかげんにしなさい!リュウ!降りてきなさい!」
サラが砂地に手を突いて立ち上がると、両手の拳をギュッと握り締めた。どうやら本気で怒っているようだった。
「ごめんよ、サラ……」
そう呟くと、リュウは前を向いた。アトゥルの頭の上から見る風景は、いつもより遥か先まで視界が開けていた。
『アトゥル、飛ぼう!』
リュウは心の中でアトゥルに呼びかけた。
『えっ、そんな……おいらには無理だよ……』
『だいじょうぶ。僕が君の目になるから!』
『おいらの目に……』
『だから、君は僕の翼になっておくれ!お願いだよ、アトゥル!』
『……』
リュウは祈りを込めるように、アトゥルの左右の角に触れた指先にギューッと力を込めた。目の前には灰色の砂地が広がっている。
『ねぇ、アトゥル。今、どんな景色が見えてるかい?』
『灰色の砂がどこまでも広がっているよ。いつもは半分だけしか見えないのに、今は左右どっちも見えてる……』
『それが、僕が今見ている景色なんだよ。さあ、翼を広げてみて』
リュウの言葉に導かれるように、アトゥルは背中の両脇に生えている翼を、ゆっくりと左右に拡げた。
傍らに立っていたサラの上にアトゥルの翼が影を落とした。すぐさま嫌な予感を覚えたサラは、「ちょっと……まさか……待ちなさい!リュウ!アトゥル!」と、慌てて大声を張り上げた。
『さあ、行こう、アトゥル!』
リュウはアトゥルの顎に両足を引っ掛けながら、頭を下げて前傾姿勢になった。
『分かった……やってみるよ……』
アトゥルが左右の翼を広げたまま垂直に持ち上げた。
次の瞬間、バンと空気を切り裂くような音を立てながら翼を振り下ろした。
途端にアトゥルの大きな体がふわりと浮き上がり、砂埃が舞い上がった。
すぐそばに立っていたサラは、翼が起こした突風に吹き飛ばされ、そのまま十メートルほど先の砂地の上に背中から落ちた。
アトゥルがバンバンと鋭い音を立てながら翼を羽ばたかせると、その度に、グングンと空中に昇っていった。
リュウがアトゥルの頭の上から身を乗り出して下を覗くと、サラが砂地の上に座り込んだまま、激しい突風に巻き上げられた砂埃を避けるように両手で顔を覆っていた。
「ごめんよ、サラ!洞窟で待っていて!リーラを助けて、きっと戻るから!」
リュウはサラに向かって、あらん限りの大声で叫んだ。
それからリュウは前に向き直った。空中に浮かんでいる入道雲が真横に見えるほど、既に空高く上昇していた。
リュウは緑色の角をギュッと力を込めて握った。
『さあ、リーラを助けに行こう、アトゥル!』
『うん、行こう、リュウ!』
アトゥルはグィッと首を前に伸ばすと、翼を左右に広げたまま滑空を始めた。たちまちスピードが上がり、リュウの正面から凄まじい風が吹きつけた。前屈みになってアトゥルの緑色の角を握る両手に力を込めながら、リュウは正面を見据えていた。
あっという間に灰色の砂漠の上空を通り過ぎると、鬱蒼とした森林が眼下に広がった。
『高く昇ろう、アトゥル。リーラを上から見つけるんだ!』
『分かった!』
アトゥルが頭を上に向けると、左右に大きく開いた翼をはためかせた。アトゥルが翼を動かす度に、ブン、ブンと風が唸りを上げる音が響いた。
いつしかリュウは風を捉える翼の感覚を、まるで自分自身の体のように共有していた。
たちまち空高く舞い上がって、森林の遥か彼方まで視界に入るようになった。濃緑の梢が見渡す限りどこまでも続いている。その一角の上空に、十匹ほどのナーガが輪になって空中に浮かんでいた。
『あっ!』
思わずリュウは頭の中で声を上げた。
ナーガたちは翼をゆっくりとはためかせながら、丸く円を描くように森林の一角に向かって炎を吐いている。激しく燃え上がる赤い炎が森林の中に丸い輪をつくっていた。
『リーラは、きっとあの輪の中にいる!あれじゃあ逃げようがない!』
『どうするんだい、リュウ?』
『太陽を背にして、あのナーガたちに近づくんだ。急ごう!』
『うん、分かった!』
ナーガたちの群れに向かって、アトゥルが再び滑空を始めた。そのままグングンとスピードを上げると、太陽の陽射しを反射してアトゥルの全身を覆う緑色のウロコがキラキラと輝いた。
昨日の夜遅くに、リーラは村人たちが避難している隣村に辿り着いていた。リュウたちと決別した寂しさと溜まっていた疲れのせいもあって、今朝は朝日が昇っても容易に目が覚めず、テントの中で眠りこけていた。
「リーラ様!」
突然、テントに飛び込んできたオムの声にリーラは跳ね起きた。
「いったいなんだい?」
「村の周りが炎で完全に囲まれています!」
「なんだって!」
茶色の髪を振り乱したまま、リーラは転がるようにテントの外に飛び出した。
上空を見上げると、村を中心にして丸く円を描くようにナーガたちが空中で翼を羽ばたかせていた。ナーガたちはそれぞれ真下に向かって間断なく炎を吐き続けている。
「どういうことだい、これは?」
リーラは栗色の真ん丸い瞳を大きく見開きながら、オムの顔に目をやった。
「どうやら村の位置がやつらに知られているようです。わざと遠巻きに炎を吐いています。もはや蟻の這い出る隙間もありません……」
悔しそうにオムが唇を噛み締めた。その真っ黒なアゴヒゲが小刻みに震えている。
「そう簡単に諦めるんじゃないよ!どこかに逃げ道が残っているかもしれない!」
すぐさまリーラはテントの中に戻ると、自分の後ろ髪をポニーテールに束ねて、カバンを背負った。そして再びテントの外に出ると、遠巻きに村を囲む炎に向かってオムとともに全力で駆け出した。
もはや村全体が大混乱に陥っていた。村人たちはあちこちで悲鳴を上げながら逃げ惑っている。その中には幼い子供の手を引いた年若い母親の姿もあった。
リーラとオムが炎に向かっている途中で、がっくりと肩を落としている隣村の長を見かけた。リーラは慌てて足を止めた。
「まだ諦めないでください。なんとか逃げ道を探しますから!」
隣村の長は力無く首を振った。
「もうだめじゃ。焼き殺されるぐらいなら、一思いに毒を呷ったほうがよい……これから村人たちを広場に集めるよ……」
既に死相を漂わせている隣村の長に向かって、リーラは地面に片膝を突いた。
「待ってください!早まらないで!きっと、きっと、みんなを助けます。だから、もう少し待ってください!」
悲痛な声で懇願するリーラを一瞥すると、隣村の長は額に深い皺を浮かべた。
「炎で焼かれるほど無残な死に方はない……リーラ、もう少しだけじゃぞ……」
「ありがとうございます!」
リーラは立ち上がると、そのまま全力で駆け出した。その背中にぴったりと張り付くようにオムが続いた。
すぐにリーラたちは村を囲む炎が目前に迫るところまで辿り着いた。猛り狂う炎の勢いは凄まじく、どこにも隙間が見えない。
「いつもなら炎で巻き起こされた風で、どこかに隙間ができるはずなのに……」
リーラは目を皿のようにして立ち塞がる赤い炎の壁を見つめた。
「上を見てください……」
オムの沈痛な声に促されるようにリーラが顔を上げた。
輪になったナーガたちが空中で漂いながら、ゆっくりと翼をはためかせている。炎が隙間なく円の中心に向かっていくように風を吹かせているのだった。
「真綿で締め付けるような……こんな酷いことを……」
思わず込み上げてくる怒りに、リーラは全身が震えた。赤い炎は徐々(じょじょ)に、だが確実にその輪を縮めていた。
リーラは万に一つの幸運を探すように、赤い炎の壁を見据えながら村の周囲を一回りした。だが、目の前に立ち塞がる赤い炎の壁にはわずかな隙間さえも見つからなかった。
元の場所に戻ってきたリーラは唇を噛み締めながら、空中で優雅に翼をはためかせているナーガを睨みつけた。
(ちきしょう!邪悪なケダモノめ……)
固く握り締めたリーラの両手の拳がブルブルと激しく震えていた。
リーラとオムの真正面の位置にはネズミ色のウロコで全身が覆われたナーガが空中に浮いていた。そのナーガの背後には突き抜けるような青い空が広がり、その背中越しに朝日が眩ゆいほどの陽射しを注いでいる。
その時、輝く朝日の中にキラリと緑色の閃光が瞬いた。
「なんだ?……」
リーラが眉をひそめながら、じっと見つめていると、その緑色の閃光はどんどん輝きを増していった。
「流れ星?……」
次の瞬間、優雅に翼をはためかせていたネズミ色のナーガの背中に、眩ゆいばかりの緑色の閃光が弾丸のような勢いでぶつかった。ズドンという猛烈な衝撃音とともに、ネズミ色のナーガが燃え盛る炎の中に叩きつけられた。そのままナーガの体が燃える木々を薙ぎ払い、衝撃で巻き起こった突風が周囲の炎を瞬時に消し去った。
突然巻き起こった凄まじい突風に、リーラとオムはクルクルと独楽のように回転しながら吹き飛ばされた。とっさに空中で体を丸めたリーラは、ドンと背中から草地の上に落ちると、そのままゴロゴロと転がった。
回転が止まると同時にリーラは立ち上がった。目の前には黒く焼け焦げた樹木の上でネズミ色のナーガが気を失ったまま、グッタリとのびていた。行く手を遮るように燃え盛っていた赤い炎の壁が跡形もなく消えている。
いつの間にか傍らに近寄っていたオムが、「ここらから脱出できる!すぐに村人たちを避難させます!」と、雄叫びのような声を張り上げると、村の中央に向かって駆け出した。
一人残されたリーラがふと空を見上げた。
朝日を反射して全身を緑色に輝かせた一匹のナーガが翼を激しく羽ばたかせながら、飛び去っていく。村を遠巻きに囲んでいたナーガたちがその後を追いかけていた。
「アトゥル……」
背中に三つ目の翼が生えている姿はアトゥルに違いなかった。その時、リーラはハッと気づいた。遠ざかっていくアトゥルの頭の上にヒトが乗っている。
「リュウ……」
リーラの瞳にどっと涙が溢れた。青い空に遠ざかっていく緑色の閃光を見つめながら、その頬に涙の雫が伝い落ちた。
村を遠巻きに囲んで翼をはためかせていたナーガたちは、突如現れた緑色の閃光が仲間の一匹に直撃したことで大混乱に陥っていた。地面に倒れ伏しているネズミ色のナーガは完全に気を失ってピクリとも動かない。
ナーガの兵士たちを率いていたジラントは周囲を見廻すと、見慣れない緑色のナーガが翼を羽ばたかせながら飛び去っていくのに気がついた。
(何者だ?……)
そのナーガに目を凝らすと、信じがたいことに頭の上にヒトを乗せていた。
(あれは……あの小僧だ!)
ジラントはナーガの兵士たちに向かって、「あいつだ!あいつを追え!」と怒鳴ると、バンと鋭い羽音を立てながら自分の翼を羽ばたかせた。
ジラントに続いて、ナーガの兵士たちは一斉にリュウとアトゥルを追いかけ始めた。
しかし、ナーガたちがどれほど懸命に翼を動かしても、視界の先にいる緑色のナーガとの距離は縮まらなかった。
業を煮やしたジラントは首を左右に振りながら、「炎で撃ち落とせ!」と、周りを飛ぶナーガの兵士たちに怒声を浴びせた。
ナーガたちは頬を膨らませて大きく息を吸い込むと、一斉に炎の玉を吐いた。青い空に紅蓮の光を放ちながら、幾つもの炎の玉がリュウたちに向かって進んでいく。
緑色の角を握り締めていたリュウは、ふと背後に殺気を感じて振り返った。幾つもの炎の玉が自分たちに向かって迫ってくるのが目に入った。
『危ない!』
心の中で叫んだ瞬間、アトゥルが背中に生えている第三の翼を素早くはためかせた。
バンという空気を切り裂く羽音を響かせながら、アトゥルの体が瞬間移動するように真横に位置を変えた。リュウは間一髪で傍らを通り過ぎていく炎の玉たちを見つめていた。
その光景を目の当たりにしたジラントは、(なっ……なんだ……今のは?)と、アングリと口を開けた。周りを飛んでいるナーガの兵士たちの間にも激しい動揺が走った。
「撃て!撃て!撃ち落とせ!」
慌ててジラントが怒鳴り声を上げると、ナーガの兵士たちは矢継ぎ早に炎の玉を吐いた。
アトゥルの角を握り締めながら、リュウは後方に目をやった。更に無数の炎の玉が襲いかかってくるのが瞳に映った。
たちまち先頭の炎の玉が迫ってきた。リュウが心の中で『こっちに!』と思った瞬間、アトゥルが体を傾けながら背中の翼をバンとはためかせた。アトゥルの体は瞬時に右斜め上に移動していた。それはリュウが思った方向と寸分の狂いもなかった。
霰のように次々と降り注いでくる紅蓮の玉を、リュウは必死の形相で見据えていた。リュウの視覚と呼応するように、アトゥルの背中の翼が縦横にはためいた。その度に、バンと空気を切り裂く羽音がリュウの鼓膜を叩き、すんでのところで火の玉を避けていった。
眩ゆい陽射しを反射して鮮やかな緑の光を放ちながら、リュウとアトゥルはまるで一つの生命体のように完全にシンクロしていた。
追いかけるジラントの目には、緑色に輝くエメラルドが縦横無尽に瞬間移動を繰り返しているようにしか見えなかった。
(信じられん……いったい……何者……)
翼を羽ばたかせながら無数の炎を吐き続けていたナーガの兵士たちも、いつしか力尽きた。得体の知れない緑のナーガは遙か遠くへと飛び去っていった。
ジラントは眉間に深い皺を寄せながら、周りを飛び続ける兵士たちに、「もうよい……帰るぞ……」と重苦しい声で命じた。ナーガたちは一斉に踵を返すと、グッタリと疲れ果てた様子でふらつきながらナーガの城へ翼を向けた。
ナーガの兵士たちの姿が視界から消えた。
リュウはフーッと大きく息を吐きながら前に向き直った。突き抜けるような青い空には、巨大な入道雲がいくつも浮かんでいた。
アトゥルは翼を左右に広げたまま、大きな綿菓子のような入道雲の間を滑るように飛び続けた。
『アトゥル、ありがとう』
リュウが緑色の角を掌でそっと撫でた。
『リーラを助けられてよかったね』
アトゥルの声がリュウの頭の中に直接響いてきた。
『うん、そうだね。サラは怒ってるだろうなあ……さあ、早く帰ろう!』
『分かった!』
アトゥルが翼をピンと張ったまま体を傾けると、大きな弧を描くように旋回した。天頂近くまで昇った太陽は眩ゆいばかりの陽射しを二人に降り注いでいた。
旋回を続けるアトゥルの首筋からリュウが身を乗り出すようにして地上を覗き込むと、鬱蒼とした森林が広がっていた。濃緑の梢が風に靡いてユラユラと揺れている。遙か彼方まで続く緑の絨毯のようにも思えた。
その濃緑の絨毯を切り裂くように、鮮やかな水色の線が一筋引かれていた。
『川だ!』
思わずリュウが心の中で呟いた。陽射しを反射して水面がキラキラと輝いている。
『リュウ、どうかしたかい?』
ピンと翼を張ったまま、体を傾けながらアトゥルが問いかけた。
『なんでもないよ。下に川が見えたから』
『そっか。灰色の山まで、もうちょっとだよ』
アトゥルが体の傾きを水平に戻した。
『アトゥルも疲れてるだろうから、無理しないでゆっくりでいいよ』
『心配いらないよ。サラのところに早く帰らないとね』
その時、ふいにリュウとアトゥルの上に影が差した。
『うん?変だな……』
リュウが上を見上げると、真上にあったはずの太陽が見えなかった。陽射しを遮るように、大きな白い雲が遥か上空に浮かんでいる。
『あんな高いところに雲があるなんて……』
リュウがポツリと呟くと、つられてアトゥルもグィッと頭を上に向けた。リュウは振り落とされないよう、慌ててアトゥルの角を握る手に力を込めた。
『たしかに変だねぇ……あんな雲、見たことないや……』
翼を広げて滑空を続けながら、アトゥルは不安げな様子で眉間に皺を寄せていた。上空を見上げていると、あちこちでキラキラと小さな光が瞬いているのに気づいた。
『雨粒かもしれないね、リュウ』
『雨粒?この世界でも雨が降るの?』
『もちろんだよ。もう雨季は終わったけど、それでも一月に二、三回は雨が降るんだよ』
『へえー、そうなんだ……』
上空に散りばめたように瞬いている、無数の小さな光を見つめていると、リュウは突然、頬にヒヤリとした感触を覚えた。思わず首を縮めながら指先で頬に触れると、しっとりと濡れている。
ハッとして顔を上げると、たくさんの細かな白い粒子が周囲に降り注いでいた。
『雪だ!』
リュウが声を上げると同時に、アトゥルがブルッと全身を震わせた。
『これって雪っていうのかい?おいら、初めて見たよ。ずいぶん冷たいんだねぇ……』
二人が心の中で会話を交わしている間にも雪は絶えることなく降り続き、いつしか周囲の視界が効かないほどになっていた。
『リュウ、なんだかあの雲、大きくなってないかい?』
嫌な予感がしてリュウは上空を見上げた。太陽の陽射しを遮っていた白い雲は、さっきと比べて明らかにひとまわり大きくなっていた。
『うん、大きくなってる……』
『そうだろう……なんだか形も変だし……まるで翼を広げた……』
『鳥だ!』
リュウとアトゥルの真上にいる白い雲は左右に翼を広げた鳥の形をしている。
『アトゥル、逃げて!』
『えっ!』
『いいから早く!全速力で!』
アトゥルが首を下に向けてバンと翼を羽ばたくと、周囲に舞っていた雪が飛び散った。そのまま急降下を始めたアトゥルとリュウの四方には真っ白い雪が隙間なく降り注いでいた。まるで猛り狂う吹雪の中にいるようだった。
どれほどアトゥルがスピードを上げても猛吹雪を脱することができない。むしろ降り注ぐ雪は激しさを増すばかりで、遂には真っ白い壁に四方を囲まれて全く方向が分からなくなった。
リュウは唇が真っ青に変わり、歯の根がガチガチと鳴るのを止められなかった。
『これがガルダ……氷の化身……』
緑色の角を握る指先も痺れたように感覚が無くなってきた。
アトゥルは歯を食いしばりながら、必死に翼を羽ばたかせていた。
リュウが顔を上に向けると、真っ白な雪の天井に押し包まれるように完全に視界が塞がれていた。
その時、ヒューッと鋭く風を切る音が真上から聞こえた。
『右に避けて!』
反射的にリュウが頭の中で叫んだ。
アトゥルが背中の第三の翼をバンと羽ばたかせると、瞬時に右へと移動した。その真横を、上空から振り下ろされた琥珀色の太い槍が掠めた。リュウの耳に、ビュンと空気を切り裂く鋭い音が響いた。
『ガルダの嘴!』
瞬く間に琥珀色の槍が上へと戻っていく。
すると今度は、息も凍るほどの強烈な冷気が真上から吹き降ろしてきた。リュウの掌が凍りついて、アトゥルの角にピタリと張り付いたまま動かなくなった。
『リュウ……翼が動かない……』
苦しげに呻いたアトゥルがピンと翼を広げたまま、真っ逆さまに落ち始めた。クルクルと錐揉みしながら速度を増していく。吹き荒ぶ真っ白い雪の結晶がリュウの顔に容赦なく叩きつけられた。
再びリュウの耳にヒューッと風を切る音が聞こえた。背後にガルダの鋭い嘴が近づいてくるのを感じて、背筋に寒気が走った。
『ガルダの嘴がきた!』
思わずリュウは頭の中で悲鳴のような声を上げていた。
次の瞬間、真下に青い壁が現れ、ドンと叩きつけられた。全身に強い衝撃を受けると同時に、周囲の音がかき消えた。
リュウとアトゥルは凄まじい水しぶきを上げながら、そのまま水中深く沈んでいた。
川の激しい水流にアトゥルと引き剥がされ、リュウの体はコマのようにクルクルと回転した。息が苦しくて、もがくように手足を伸ばしながら必死に水を掻くと、徐々(じょじょ)に水面に近づいた。
川の流れが緩やかになったところで水面に顔を出すと、リュウは立ち泳ぎをしながら、しばらくの間、ハアハアと荒い息を吐いていた。
水面の上には雪がパラパラと降り続いていたが、さっきよりも勢いは弱まっていた。リュウが空を見上げると、山のように巨大な白い鳥が、左右に広げた翼をスローモーションのようにゆっくりと動かしながら遠ざかっていくのが目に映った。その全身から滝のように真っ白い雪を地上に向けて降り注いでいる。
(あれがガルダ。なんてバカでかいんだ……)
その時、バシャンと派手な水しぶきを上げながら、アトゥルが水面に顔を出した。
「アトゥル!」
甲高い声を上げながらリュウは平泳ぎでアトゥルに近づいた。アトゥルは大きく口を開けて、ハアハアと苦しそうな呼吸を繰り返していた。
しばらくして、ようやく呼吸が戻ったアトゥルが、「リュウ……あれはなんだい?」と問いかけてきた。
「ガルダっていう鳥だよ」
「鳥?ホントに?」
「本当なんだ。信じられないけど、山のように大きい鳥だ」
アトゥルが遠ざかっていくガルダに目をやった。もはや一朶の雲にしか見えない。
「雪の中に突然現れた黄色い槍はなんだい?」
「ガルダの嘴だと思うよ」
「なんで襲ってきたの?」
ためらうようにリュウが一瞬黙り込んだ。そして、小首を傾げながらリュウの返事を待ち続けているアトゥルに向かって、「ガルダはナーガの心臓を食べるんだ……」と呟いた。
「えっ!」
動揺のあまり身悶えながら、アトゥルが水面にブクブクと沈んでいった。
「アトゥル!」
リュウが叫ぶや否や、バシャンという水音を立てながら水面からアトゥルが顔を出した。そのまましばらくの間、ハアハアと喘ぐような荒い息をしていた。
「アトゥル、大丈夫かい?」
「うん…だっ、大丈夫……」
無理に笑顔を浮かべるアトゥルの頬がピクピクと痙攣していた。
「ガルダもいなくなったみたいだ。さあ、岸に上がろう」
リュウが岸に向かって平泳ぎを始めると、左右を窺うように首を縮めながらアトゥルがその後に続いた。
ジラントたちはナーガの街の周りに広がる草原の上に差し掛かっていた。
力無く翼を動かしながら、ようやくナーガの街を囲む城壁が彼方に見えると、ジラントはフーッと大きな溜め息を吐いた。
(バウル様から、どんな叱責を喰らうことになるか……)
ジラントが周囲に目をやると、傍近くを飛ぶナーガの兵士たちも空中をフラフラとよろめきながら飛び続けていた。
その時、突然、空中を飛ぶジラントたちの上から影が差した。
「なんだ?……」
気だるそうに首を曲げて上空に目をやると、額に白い粒が当たった。
「冷たい!なんだ、これは?」
思わずジラントが叫ぶと、周りの兵士たちも「ヒャッ!」と悲鳴を上げながら、体に降りかかる冷たい粒に驚いていた。
ジラントと周りの兵士たちが当惑して顔を見合わせていると、見る見るうちに白い粒が滝のように降り注ぎ、周囲の視界が全く利かなくなった。同時に凄まじい冷気に包まれて、兵士たちの翼が凍りつき、次々に地面へ墜落していった。
最後の一匹となって空中を飛び続けていたジラントも四方を白い壁のように取り囲む猛吹雪に方向を見失っていた。そして、遂には力尽きて翼を動かせなくなり、真っ逆さまに落ちていった。
ドスンという音とともに、ジラントは草原の上に全身を叩きつけられた。「ううっー」と喉の奥から呻き声を漏らしたが、もはや全身が凍りついて身動きができなかった。
すると、それまで降り注いでいた白い粒が突然消えた。それでも凄まじい冷気は更に厳しさを増し、ジラントは全身に針を刺し込まれるような痛みを感じた。瞼も見開いたまま凍りついて、瞬きすることさえできなかった。
その瞳に、草原の上にそそり立つ巨大な白い物体が映った。
(なっ……なんだ……あれは……)
忽然と現れた白い物体は逆三角形の形をしている。その一番上には、琥珀色の長い槍のような嘴と、同じく琥珀色の二つの瞳が陽射しを反射して鈍い光を放っていた。その禍々(まがまが)しい輝きに、思わずジラントは全身に悪寒が走った。
(鳥?……)
二つの琥珀色の瞳がじっと自分を見据えていた。恐怖にかられたジラントが必死に体を動かそうとしても、凄まじい冷気で既に喉の奥まで凍りつき、声を出すことさえできない。
巨大な山のような白い鳥が体を曲げながら、琥珀色の嘴をジラントに向かって振り下ろした。ヒューという風を切る音が耳に響くと、次の瞬間、ジラントは、ズンという激しい衝撃を胸元に感じ、そのまま生き絶えた。
リーラは森の中にいた。
村を隙間なく取り囲んでいた炎の一角を、リュウとアトゥルが消してくれた。そこから無事に村人全員が脱出することができた。
リーラはフーッと大きく息を吐きながら、「ここまでくれば大丈夫だろう」と、隣に佇んでいるオムに向かって笑顔を見せた。
「そうですね、リーラ様。それにしても、なぜ突然ナーガが落ちてきたのでしょうか?おかげで火は消えましたが……」
真っ黒なアゴヒゲを指先で摘みながら、オムが小首を傾げた。
「リュウだよ」
「リュウ!……それはホントですか?」
オムは瞳を大きく見開いた。
「ああ、ホントだ。それにアトゥルというナーガもな」
「ナーガ?ナーガが我々を助けてくれたというんですか!」
オムは愕然とした表情で口をポカンと開けていた。
「二人が飛び去っていく姿を見た。間違いない」
「うーむ……」
オムがアゴヒケに手を当てながら、低い声を漏らした。
その時、フワフワと上空から舞い落ちてきた白い粒が、オムの真っ黒なアゴヒケに留まった。それを見たリーラが、「なんだい、それ?」と手を伸ばした瞬間、自分の頬にヒヤリとする感覚がした。慌てて頬を指先で触ると、水の雫がついていた。
「雨?」
空を見上げると、梢の間を埋め尽くすようにたくさんの白い粒が舞い落ちていた。
「なんだ、これ?」
眉根を寄せながら、リーラが上空に向かって目を凝らしていると、巨大な白い雲がスッと通り過ぎた。
反射的にリーラは、その白い雲が飛び去っていく方向へ駆け出した。
「リーラ様!」
リーラの背中に声を浴びせながら、慌ててオムがその後を追った。
夢中で樹々(きぎ)の間を駆け抜けると、リーラはいつのまにか森と草原の境に辿りついていた。
草原の遥か彼方にナーガの街を囲む城壁がボンヤリと見える。リーラは木の幹に隠れるようにしながら、目の前に広がる緑の草原に目をやった。
「なんだ?……あれは?……」
突如として草原に巨大な白い物体が出現していた。左右に広げた翼をゆっくりと動かしている。かなりの距離があるはずなのに、体が凍りつくような冷気に襲われた。
「鳥だ!」
凍えそうな両手の掌を擦り合わせながら、リーラが驚きの声を上げた。
山のように大きい白い鳥は草原の上を舐めまわすように見つめている。その琥珀色の二つの眼がギラリと輝いた瞬間、体をくの字に曲げながら、琥珀色の嘴を地面にズブリと突き刺した。
鋭く研ぎらせた長い槍のような嘴の先に目を凝らすと、草原の上に横たわっている一匹のナーガが胸元を貫かれていた。
白い鳥がクイッと顔を持ち上げると、その嘴の先端に赤い塊を咥えていた。ポタポタと赤い雫が滴り落ちている。
「ナーガの心臓!」
そのグロテスクな光景に背筋に悪寒が走り、リーラはブルッと体が震えた。
白い鳥は嘴を空に向かって持ち上げると、そのまま赤い塊をゴクリと飲み下した。
それから首を左右に振りながら草原の上に横たわっているナーガたちの胸元に、次々と槍のような琥珀色の嘴を突き刺した。真っ赤な血が滴り落ちる心臓を造作もなく飲み込んでいく。
「あっ……あれはいったい?……」
リーラの背後から恐るおそる覗き込んでいたオムが声を震わせた。
リーラは草原の上にそそり立っている白い鳥を見据えたまま、「こいつは、リュウが言ってたガルダに違いない……とんでもない化け物だ……」と呟いた。
その時、青い空の彼方に真っ黒い雨雲が湧き上がっているのが、リーラの瞳に映った。黒い雨雲の内側にピカッと光る稲妻が見えた。
「すごい雨雲が近づいている……どうして、こんな時期に……」
経験したことのないほどの冷気に気象まで狂い始めているようだった。
草原の上に横たわっていたナーガたちの心臓を全て食い尽くしたガルダが、おもむろに翼を羽ばたかせると、山のような巨体がフワリと空中に浮かび上がった。そのまま翼をゆっくりと動かしながら、近づいてくる雨雲とは反対の方向に飛び去っていった。
バウルは城のドームの一番奥の部屋に押し込められていた。
部屋は灰色のカーテンで仕切られ、赤いナーガの姿で首をもたげているバウルの真っ赤なウロコが天井の仄かな灯りを反射していた。
そこへ一匹の灰色のナーガが駆け込んできた。すぐさま部屋を囲んでいるナーガの兵士達が道を開けた。
灰色のナーガは、バウルの目の前にひれ伏すようにしながら、「バウル様、とっ、とんでもない事態です!」と声を震わせた。
バウルは淡い褐色の瞳を細めるようにしながら、目の前にうずくまっている灰色のナーガを見据えた。
「なにごとだ?」
「巨大な鳥が現れました」
「なに!」
バウルは首を高く持ち上げながら、左右に翼を広げた。
「どういうことだ。詳しく話せ」
灰色のナーガは、バウルの顔色を窺うようにしながら、恐れ慄いた様子で口を開いた。
「たった今、城壁の見張りの兵から報告がありました。山のように大きな白い鳥が草原に現れたとのことです」
「それで……」
「ナーガの城へ帰還中であったジラント殿の隊が全滅したとのことです」
「全滅……だと?……」
バウルはグィッと首を曲げると、額に皺を寄せながら床にひれ伏している灰色のナーガのほうに顔を近づけた。バウルの突き刺すような視線に堪え切れずに、灰色のナーガは目を伏せた。
「城壁の見張りの兵の証言に寄れば、白い鳥の出現とともに、凄まじい冷気が吹きつけてきたとのことです。白い鳥が飛び去った後に、草原に駆けつけると……」
「なんだ!」
「兵士達は体が凍りついて、まるで石像のように固まり……そのうえ全員が心臓を抉られ、絶命しておりました……」
「……」
「白い鳥が鋭い嘴で兵士達の心臓を啄ばむ姿が……遠目から確認できたとのことです」
バウルは長い尻尾を、バンと床の石畳の上に叩きつけた。
「見張りの兵士はなぜ助けに行かなかった!すぐここへ連れて来い!」
バウルの剣幕に、灰色のナーガは全身を床に擦りつけるようにひれ伏した。
「お待ちください。白い鳥が発する冷気は凄まじいもので、近づく者を凍りつかせるほどです。見張りの兵士を罰するのはどうかご勘弁を。全軍の士気にも関わります」
「うーむ……」
ギギギーッと歯軋りの音を立てながら、バウルが天井を見上げた。その顔を、灰色のナーガが怯えたような眼差しで見つめていた。
「バウル様、あれはいったい?」
バウルは視線を上げたまま、額の皺を更に深くした。
「ガルダだ!」
「ガッ、ガルダ……あれが伝説のガルダ……」
「そうだ」
「これからいったいどうすれば?……」
バウルが視線を下ろすと、周囲のナーガの兵士達が不安そうに顔を見合わせていた。
「ガルダが復活するのは分かっていた。そのために私は軍団を作り上げたのだ」
「分かっていたと……」
「その通りだ。なんのために今まで五千もの精鋭たちを練磨してきたと思っている。この日のためだ!」
「さすがはバウル様……」
「よいか、ただ今より臨戦態勢をとる。次にガルダが姿を現わした時こそ、全軍で総攻撃を行うのだ。必ずガルダを葬ってみせる!」
「ハッ!」
灰色のナーガをはじめ、バウルの周りを囲む兵士たちが声を揃えながら、一斉に頭を垂れた。
「これより私がこの国の全権を握る。この城に全てのナーガを収容し、全軍はドームの周りに待機するのだ!」
バウルの声に呼応するように、ドームの天井から吊り下げられていた幕が一斉に引き上げられた。
バンと鋭い音を立てながら、バウルが大きく広げた翼を羽ばたかせた。そのままドームの出入り口に向かってバウルが飛び立つと、その後ろに兵士達が続いた。
ドームの外には土砂降りの雨が降っていた。バウルたちは、そのままドームの外に出ると、猛烈な雨に抗うように翼を羽ばたかせながら空高く昇っていった。
リュウとアトゥルは灰色の山に戻ってくると、洞窟の入口で顔を並べながら奥を覗いていた。
「サラは怒ってるよねぇ……」
リュウが小さな声で呟くと、アトゥルが「そうだねぇ……」と答えた。
その時、二人の背後から、「リュウ!アトゥル!」と聞き慣れた声が響いた。
思わずリュウとアトゥルは、ビクッと体を仰け反らせた。振り返った瞬間、飛びかってきたサラにリュウはギューッと抱きすくめられた。サラの体から放たれる甘酸っぱい香りに包まれて、リュウはちょっと照れくさかった。
「サラ……ゴメンね……」
「もういいわよ。こうやって無事に帰ってきたんだから……」
サラがリュウの背中にまわした手に力を込めた。
リュウは息が詰まりそうになって、「くっ……苦しいよ、サラ」と体を捩った。慌てて腕を緩めたサラは、リュウの両肩に手を置くと、淡い褐色の瞳を覗き込んだ。
「それでリーラは?」
「うん、助けられたと思う。アトゥルのおかげだよ」
リュウがアトゥルのほうに顔を向けた。促されるようにサラもアトゥルに視線を向けると、「アトゥル、よくやったわね」と労をねぎらった。すると、アトゥルはくすぐったそうに緑色の体を揺らした。
「役に立てて良かったよ。でも、あの冷たい白い粒に囲まれた時は怖かったけどね」
途端にサラは眉を曇らせながら、「白い粒?なんなの、それ?」と、リュウの瞳を見据えた。
リュウは伏し目がちに俯きながら、「雪だよ」と、ボソッと呟くように答えた。
「ユキ?」
「そう、雪。雨が凍ったものさ」
「雨が凍る?どうしてそんなことが?」
リュウは顔を上げると、小首を傾げているサラの瞳を見つめ返した。
「ガルダだ……」
「ガルダって、あの……」
「そうだよ、あのガルダが現れたんだ。五千年前、ナーガを滅ぼした、あのガルダがね」
「そんな……」
「ガルダはまさに氷の化身だった。あまりの寒さで僕らは動けなくなって墜落したんだ」
「それでよく無事で……」
リュウがコックリと頷いた。
「たまたま落ちたところが川だった。もし地面の上だったら、どうなっていたか分からない。そうだよね、アトゥル?」
リュウがアトゥルの顔を見上げた。
「うんうん、おいらも驚いたよ。気がついたら水の中でさ。溺れそうになったよ」
二人の話にサラは顎に指先を当てながら、「うーん」と小さく唸っていた。
その時、リュウは得体の知れぬ胸騒ぎを覚えた。顔を上げて突き抜けるような青空に目をやると、遥か上空に真っ白い雲が浮かんでいた。その雲は滑るように動いている。
「アトゥル!洞窟の中に隠れて!早く!」
上空の白い雲を見つめながら、リュウが大声を上げた。面食らったアトゥルは転がるように洞窟の中に身を隠した。
「なんなの、リュウ?」
リュウは上空を流れる白い雲を指差した。
「ガルダだ……間違いない……」
サラが空を見上げると、青い空を切り裂くように白い雲が流れていた。あまりに遠すぎて輪郭はぼんやりと霞んでいるが、羽を広げた鳥のようにも見えた。
「あれがガルダなの?」
「そう……山のように大きい……もう少しでやられるところだった。本当に間一髪だった」
「やっぱりナーガを狙ってるんだ……」
「槍のように鋭い琥珀色の嘴が間近を掠めたんだ。アトゥルじゃなきゃ避けられなかったかもしれない……」
リュウとサラがじっと空を見上げていると、瞬く間に白い雲が遠ざかっていき、遂には視界から消えた。
「行ったみたいね……」
「うん……」
リュウは洞窟の中に目をやった。薄暗い洞窟の奥で背中を丸めているアトゥルの影が目に入ると、「アトゥル、もう大丈夫だよ!」と声を張り上げた。
その時、リュウの額にポツンと小さな雫が当たった。
(まさかガルダが引き返してきた?)
思わず顔を上げると、立て続けに雨粒が顔に降り注いだ。
「雨だ!」
いつの間にか上空を真っ黒な雨雲が覆っていた。その雨雲は、ガルダが飛び去っていった方角に向かって広がっていく。途端に、ザザザーっと凄まじい雨音を立てながら、スコールのような激しい雨が降り始めた。
リュウとサラは慌てて洞窟の中へと逃げ込んだ。
ナーガの城では叩きつけるような激しい雨音がドームの中で反響していた。
普段は天井から吊り下げられている幕も全て引き上げられ、石畳みの床を隙間なく埋めるように、それぞれの家から避難してきたナーガたちがひしめいていた。
その喧騒の中でドームの一番奥に据えられた玉座に、ヒトの姿をとったアイラが座っていた。その周りをグルリと囲むようにナーガの兵士たちが取り巻いている。
ドームの中で飛び交う怒号や悲鳴に、アイラは眉間に皺を寄せながら、じっと瞼を閉じていた。
(周りを囲む兵士たちも、もはやバウルの指示にしか従わない。私は本当に無力だ……あなた……どうか皆をお守りください……)
瞑目したまま祈りを込めるように、アイラは膝の上で組んだ両手の指先に力を込めた。
ドームの外では土砂降りの雨の中で、バウルが灰色の石畳みの上に整列した兵士たちの閲兵を行なっていた。全身を覆う真っ赤なウロコに容赦なく激しい雨が叩きつけている。
「ガルダが復活した!今こそ我々の力が五千年前とは違うことを見せてやるのだ!」
バウルの血を吐くような獅子吼は、石畳みを叩く雨音をものともせず、並んでいる五千の兵士たちの間に響き渡った。
粛然と整列している兵士たちを一瞥すると、バウルは天に向かってグッと首を伸ばして「ゴゴゴゥー」と猛るような咆哮を上げた。バウルに続いて、ナーガの兵士たちが一斉に天に向かって、「ゴゴゴゥー」と吠えると、城を囲む城壁がビリビリと震えた。
それから二日間、真っ黒な雨雲が空一面を覆い尽くし、激しい雨が間断なく降り続いた。
三日目の朝がきて、リュウは朝日が昇ると同時に洞窟の外に飛び出すと、空を見上げた。東の地平線には朝日が輝き、頭上には澄み切った青い空が広がっていた。
その時、竜介の頭の中でキンと甲高い音が響いた。
天空を睨みながら聞き耳を立てると、ブンと翼が羽ばたく音が聞こえ、凍りつくような冷気を全身に感じた。
(ガルダだ!ガルダがやってくる!)
そう心の中で叫んだ瞬間、再びキンという音が頭の中に響いた。東の地平線に輝く朝日は眩ゆいほどの陽射しを降り注いでいる。慌ててリュウは洞窟の中に引き返した。
寝床にしているガネシュの皮を手早く畳みながら、サラが洞窟の中に駆け込んできたリュウに目をやった。
「いったいどうしたの、リュウ?」
サラの目前でリュウが足を止めた。
「雨が止んでる。すごくいい天気だ」
「そう。それなら今日は外に出られるかしらね。アトゥルもお腹が空いたでしょう。やっと狩に出かけられるわね」
折り畳んだガネシュの皮をカバンに詰め込んでいるサラに向かって、リュウが一歩足を踏み出した。
「違うんだ、サラ……」
「何が違うの?」
「ガルダがくる……きっと……」
苦悶するような眼差しを浮かべているリュウを見つめながら、サラが眉をひそめた。
「ホントに?……分かるの、リュウ?」
リュウがコックリと頷いた。
「間違いない。アトゥルは洞窟を出ないほうがいいと思う」
「そうなの……仕方がないわね……」
サラが洞窟の奥で寝転がっているアトゥルのほうに目をやった。アトゥルは首を伸ばして地面の上に横たわったまま、じっと瞼を閉じていた。
その時、リュウは胸騒ぎを覚えて洞窟の外へ走り出た。
空を見上げると、突き抜けるような青い空が広がるなかに、たった一つ、白い雲が浮かんでいた。その雲は、まるで意思を持っているかのように、頭上に広がる青い空をスーッと一直線に横切っていく。
「ガルダ!」
思わずリュウが大声を上げると、サラが洞窟の外に転がるように飛び出てきた。
「どっ、どこ?」
目を泳がせているサラを横目で見ながら、リュウが天空を流れる白い雲を指差した。
「あの白い雲がそうなの?」
サラの目には単なる白い雲にしか見えない。
「そうだよ。あれほど高く昇っている雲が、あんなスピードで移動するはずがない」
リュウはキッパリと言い切った。みるみるうちに白い雲が遠ざかっていく。
「たしかにそうだわ……あの方向には、たしか……ナーガの街が!」
サラとリュウは互いに顔を見合わせると、再び遠ざかっていく白い雲に視線を向けた。
「どうしたんだい?」
声がしたほうにリュウとサラが振り向くと、アトゥルが洞窟の外に首だけ出して二人に顔を向けていた。
晴れ渡った青空に浮かんでいる、もはや小さな点になった白い雲をリュウが指差した。アトゥルは白い雲のほうに目をやると、額に深い皺を寄せた。
「あいつかい?……ガルダとかいう……」
アトゥルが怯えたような眼差しで空を見上げていた。
「そうだよ、アトゥル」
アトゥルがリュウに視線を向けた。
「どこへ向かってるの、あいつは?」
アトゥルの問いかけに、リュウは俯きながら黙り込んだ。
「ねぇ、どこ……あっ!」
ハッと何かに気づいたようにアトゥルは顔を上げると、空の一点をじっと見つめた。既に白い雲は見えなくなり、澄み切った青い空が広がっているだけだった。
「街だ……街に向かったんだ!」
アトゥルは悲鳴のような声を張り上げると、ドドドッと地響きを立てながら洞窟の外へ走り出た。そしてリュウとサラには目もくれずに、首を水平に伸ばして左右の翼を大きく広げながら走り続けた。
慌ててリュウは駆け出すと、アトゥルの首筋に飛びついた。
「リュウ!」
二人の後を追いかけるようにサラも走り出した。しかし、全力で走り続けるアトゥルとの距離はどんどん離れていった。
アトゥルが左右に広げた翼をバンと勢いよく羽ばたかせると、フワリとアトゥルの体が浮き上がった。
「アトゥル!いったいどうしたの!」
首筋に両手でしがみつきながら、リュウが大声を張り上げた。だが、そんなリュウの声も聞こえない様子で、アトゥルは左右に広げた翼を動かしながら高度を上げていった。
リュウは、アトゥルの長い首にまわした両手と両足を交互に動かしながら、アトゥルの顔の方へにじり寄った。
空高く昇ったアトゥルは頭をグッと下げると、大きく翼を広げたまま滑空を始めた。アトゥルの首にしがみついているリュウの耳に、ビューッと風を切る鋭い音が響いた。
アトゥルの後頭部のところまで辿り着いたリュウは、アトゥルの緑色の角に手を伸ばした。角の表面に掌を当てながら、『アトゥル、どうしたの?』と心の中で問いかけた。
『父さんと母さんが!』
アトゥルの悲痛な叫び声がリュウの頭の中に響き渡った。アトゥルの張り裂けそうな気持ちが伝わってきた。リュウは返す言葉も見つからず、緑色の角をギュッと握り締めた。
アトゥルが翼を勢いよく羽ばたかせると、更にスピードが上がった。朝日を全身に浴びながら、アトゥルの体が緑色の光を放っていた。
ナーガの城では、ガルダが街へ接近していることがバウルへ伝えられた。
「間違いないのか!」
ドームの外の石畳みの上で、赤いナーガの姿をとったバウルが首を高く持ち上げた。その目前でナーガの兵士がひれ伏すように頭を垂れていた。
「複数の偵察隊から同じ情報がもたらされています。間違いございません。ガルダは西の方角から近づいています」
バウルは深く頷くと、石畳みの上で整列しているナーガの兵士達のほうに顔を向けた。
「全軍、出撃!」
雷鳴のような声を張り上げると、バウルは真っ赤な翼を石畳みに叩きつけるように勢いよく羽ばたかせた。バンと鋭く風を切る音が響いて、バウルが空中へ舞い上がった。
バウルに続いて、五千匹のナーガの兵士たちが一斉に翼を羽ばたかせて飛び立った。
色とりどりのウロコに覆われたナーガの群れは空高く舞い上がると、西に向かって同時に滑空を始めた。
雲霞のようにナーガの兵士達が城から飛び去っていった。ヒトの姿をとったアイラがドームの出入口に立ったまま、祈るように両手の掌を合わせていた。
(バウル……)
あっという間にナーガ達の姿が空の彼方に消えた。アイラは、瞼を固く閉じると、(天よ……皆をお守りください……)と、掌を合わせたまま、深々と頭を垂れた。
バウルを先頭にして、ナーガの兵士達は草原の上空を瞬く間に通過し、鬱蒼とした森が眼下に広がったところで速度を緩めた。
「陣を組め!」
バウルが大声で命令すると、ナーガの兵士達は空中でバウルを中心にして、上下に散開しながら幾重にも重なる円陣を作った。
その中心で、バウルは前方を睨みながら、ゆっくりと翼を羽ばたかせて空中で静止していた。周りを囲むナーガの兵士達は誰一人として声を発することなく、その表情は一様に恐怖で引きつっていた。
ほどなくして青い空の一角に白い点が現れた。その白い点は見る見るうちに大きくなり、真っ直ぐにナーガ達のほうに向かってきた。
全身を真っ白い羽で覆われた、山のごとく巨大な鳥が左右に広げた翼をゆっくりと動かしている。琥珀色の両眼が、朝日を反射して鈍い光を放っていた。
ガルダの姿を目の当たりにしたナーガの兵士達の間に動揺が走った。
「まだだ!引きつけるんだ!」
恐怖に慄く兵士たちを鼓舞するかのように、バウルが轟くような大声で叫んだ。
正面の視界を覆い尽くすほどに巨大な白い鳥が更に接近してくると、円陣を構えるナーガたちに向かって、どっと冷気が押し寄せてきた。ナーガたちが羽ばたかす翼が小刻みに震え、吐く息さえ白く凍りついた。
幾重にも重なった円陣の中心で翼を動かしながら、バウルはガルダの琥珀色の瞳をじっと見据えていた。
ガルダの巨大な姿が眼前に迫ってきた。その時、それまで無機質な水晶玉のようだったガルダの琥珀色の瞳に、ギラリと獰猛な眼光が瞬いた。
「撃てぃ!」
バウルの咆哮が響き渡った。
兵士達は一斉に頬を膨らませながら大きく息を吸い込むと、次の瞬間、真っ赤な炎の玉を同時に吐き出した。
五千の炎の玉が一斉に放たれた。
炎の玉は進むにつれて、まるで燃え上がる巨大な隕石のごとく一つになった。ガルダに向かって、途方もなく大きな火の玉が突き進んでいく。。
ガルダは、間近に迫ってくる紅蓮の玉を避けようともせず、左右に大きく広げた白い翼を緩やかに動かしていた。
そのまま巨大な炎の塊がガルダの頭に直撃した。頭部が真っ赤な炎に包まれた瞬間、「グェィ!」という破れ鐘のような鳴き声が聞こえた。そして、ガルダが山のような体をよじると、クルクルと回転しながら地面に向かって落下し始めた。
ビュンビュンと翼を唸らせながら、アトゥルはナーガの街に向かって全速力で飛び続けていた。その角を両手で握り締めながら、リュウはどんなものも見逃すまいと必死に目を凝らしていた。
すると、突然、「グェィ!」という異様な鳴き声を耳にした。
『アトゥル、止まって!』
頭の中に響くリュウの声に、アトゥルが左右の翼を前に向かって羽ばたかせながら急ブレーキをかけた。そして、空中で静止したまま、ゆっくりと翼を動かした。
『リュウ、どうしたの?』
リュウが異様な鳴き声が聞こえた方角に目をやった。遥か遠方で、幾つもの円を重ねるようにナーガたちが空中に浮かんでいた。
そして、地面に向かってクルクルと回転しながら、途方もなく大きな白い鳥が真っ逆さまに落ちていくのが見えた。その頭の周りが真っ赤な炎に包まれていた。
『ガルダ!』
鬱蒼とした濃緑の森林の上にガルダが墜落した。その衝撃で凄まじい突風が巻き起こり、辺り一面の木々を一斉になぎ倒した。
リュウはゴクリと唾を飲み込むと、『見える?』と、頭の中でアトゥルに問いかけた。
『……うん……』
リュウの網膜に映る光景を、アトゥルはそのまま共有していた。いったい何が起こっているのか、二人ともすぐには理解できなかった。
地面に目を凝らすと、巨大なクレーターができていた。真っ黒な地面がむき出しになり、その真ん中に白い鳥が横たわっていた。
その時、リュウの耳に、「撃てぃ!」という雄叫びが聞こえた。聞き覚えのある声だった。
『バウルだ!』
リュウが頭の中で声を上げた。同時に、切株の年輪のような陣形で空中に浮いているナーガたちが一斉に炎の玉を吐いた。その光景は、まるで地面に向かって降り注ぐ真っ赤なスコールのようだった。
それらの無数の炎の玉が一つに合わさると、真っ赤に燃えたぎる巨大な火山弾のように、ゴゴゴーッと地鳴りのような唸りを上げながら、クレーターの中心で倒れているガルダに直撃した。
ガルダの全身が真っ赤な炎に包まれ、そこから大きなキノコ雲が立ち昇った。辺り一面の木々にまで炎が燃え広がり、見渡す限りの地面が真っ赤に染まっていた。
「撃てぃ!」
バウルの声が聞こえる度に、次々に巨大な炎の玉がガルダに向かって打ち込まれた。
かなり離れた上空にいるリュウとアトゥルのところまで、燃え滾った溶岩の間近にいるような熱気が感じられた。辺りの気流さえ乱れ始めている。
アトゥルは左右の翼だけでなく、背中の第三の翼まで羽ばたかせながら、前後左右から唐突に吹き付ける突風に抗うように、必死にバランスを取っていた。
『すごい熱だ……アトゥル、大丈夫かい?』
予測のつかない突風に振り落とされないように、リュウはアトゥルの角をギュッと握り締めた。
『うん。それにしても、これじゃあ森が全部焼けちゃうよ。リーラはどうしてるだろう』
『ここはリーラたちがいる場所からずいぶん離れている。だから、きっと大丈夫だと思う』
眼下の地面は、まるで灼熱地獄のように激しい業火が燃え広がっていた。
『ガルダは焼け死んだのかなあ?』
アトゥルがポツリと呟いた。
その瞬間、激しい横風に煽られてアトゥルがバランスを崩すと、空中でクルリと一回転した。リュウは二本の角を両手で握り締めながら、アトルの首筋に必死にしがみついていた。
バウルは辺り一面に燃え盛っている真っ赤な炎を見下ろしながら、満足そうに頷いた。
燃え盛る真っ赤な炎の中で、ガルダの体はピクリとも動かないようだった。
(あのバケモノも、もはや生きてはいまい……)
その時、急な横風に煽られて一匹のナーガの兵士がバウルにぶつかった。
「もっ、申し訳ございません!」
慌てて頭を下げる兵士を横目で見ながら、「構わん!これほどの炎だ。気流が乱れるのも致し方ないだろう」とバウルが笑いかけた。
それから一旦大きく息を吸い込むと、「よし、陣を解け!散開!」と、大声で号令をかけた。
たちまちナーガ達は、予測し難い方向から吹きつける突風に耐えかねたように、幾重にも重ねた円陣を解くと、お互いの距離を取るように大きく広がった。五千の兵士たちの誰の顔にもホッとしたような安堵の表情が浮かんでいた。
その時だった。
地上で燃え盛る真っ赤な炎の中から、巨大な真っ白い鳥が飛び出した。左右の翼を大きく羽ばたかせながら、凄まじい速さで舞い上がっていく。
そして、空中でピタリと静止した。
次の瞬間、ナーガたちに向けて右の翼を鋭くはためかせると、ビュッという金属を擦り合わせるような甲高い音が響いた。
すると翼の肩口から風切り羽の先端にかけて、透明な水色の薄い幕が放たれた。
その水色の幕は向こう側が透けて見えるほどに薄く、朝日を反射しながらキラキラと輝いている。まるで水色のオーロラのようだった。
ヒューと風を切る甲高い音を立てながら、水色の幕が空中に漂うナーガたちに迫った。
突然、炎の中から現れたガルダに不意をつかれて、ナーガの兵士達は呆然と空中に浮かんでいた。その中央を透明な水色の幕がスーッと横切った。
すると次の瞬間、ポタポタと地面に向けて何かが落ちていった。それは水色の幕が横切ったところにいたナーガの首や胴体だった。
ガルダが放った水色の幕によってバラバラに断ち切られた、それらの首や胴体は赤い血飛沫を撒き散らしながら、まだ空中に浮かんでいるナーガ達の目の前を落下していった。
その途端、ナーガの兵士達は大混乱に陥った。
ガルダは、今度は左の翼をナーガたちに向けて鋭くはためかせた。ビュッという甲高い金属音とともに、左の翼の肩口から風切り羽の先端にかけて透明な水色の幕が放たれた。
鋭い刃のような水色の幕が恐慌状態のナーガ達に襲いかかり、何十匹ものナーガ達が一斉に体を真っ二つにされた。
ガルダは左右の翼を交互に鋭くはためかせながら、ナーガ達に向かって次々と水色の幕を放ち続けた。
絶え間なく襲いかかる水色の幕の刃をよけることなど、ナーガ達には不可能だった。
あっという間にナーガの兵士達のほとんどが体を切り刻まれ、バラバラになった首や胴体が真っ赤な鮮血を撒き散らしながら地面へと降り注いでいった。
眼前で繰り広げられている、あまりに無惨な光景に、バウルは為す術もなく空中を漂っていた。
すると、一匹のナーガが体当たりするようにバウルに近づき、「バウル様、城へ退却ください!急いで!」と、強引にバウルの体を引っ張るようにして城に向かって引き返した。
わずかに生き残ったナーガ達がその後に続いた。
その光景を、リュウとアトゥルは息を呑むようにして見つめていた。
ナーガの兵士達は体をバラバラに切り刻まれ、突き抜けるような青い空に真っ赤な血飛沫を散らしていた。そして、一塊の肉片に変わったナーガ達が次々に地面に落ちていった。あまりにグロテスクで残酷な光景に、リュウはいつしか全身が激しく震えていた。
『ナーガの硬いウロコが……あんなふうに切り刻まれるなんて……あれが氷の化身……ガルダ……』
リュウが呻くように頭の中で呟いた。
『氷の刃だ……』
アトゥルの囁き声がリュウの頭の中に響いた。
『あれが氷の刃……おじいちゃん、いやジルニトラ王が言ってた…… ガルダの翼から放たれる氷の刃から逃れられる者はいないって……』
『おいらも聞いたことある……天空から氷の刃が降ってくる。それがこの世の終わり。ナーガは、みんなそう思ってる。ずっと昔から言い伝えられているから……』
燃え盛る炎の中から突如蘇ったガルダが放ち続ける氷の刃の前に、ナーガ達は為す術もないようだった。
生き残ったほんの僅かなナーガ達が街に向かって飛び去っていくと、ガルダはまだ炎がくすぶっている地面に舞い降りた。
地上には薙ぎ倒されて真っ黒に焼け焦げた樹木、そして、ナーガの真っ赤な鮮血と切り刻まれた首や胴体が入り乱れるように散らばっていた。地獄さながらの凄惨な光景だった。
ガルダは前屈みになって琥珀色の鋭い嘴を地面に向けると、バラバラになった肉片の中からナーガの真っ赤な心臓を咥えて、次々と呑み込んでいった。いつしかガルダの嘴が、トロリと艶を帯びながら赤黒く染まっていた。
あまりにグロテスクな光景を見るに堪えかねて、リュウは思わず上空に視線を向けた。遠い空に真っ黒な雨雲がムクムクと湧き上がっていた。
『まただ!ガルダが現れると、雨雲が発生する。ガルダは、きっと気象まで狂わせているのに違いない……この世の終わりをもたらすもの……』
リュウは眉根を寄せながらじっと雨雲を見つめていた。アトゥルはゆっくりと翼を動かしながら空中を漂っていた。
『アトゥル、森の中に身を隠そう』
リュウが緑色の角を両手で握り締めた。ガルダとの距離はかなり離れているものの、万が一にも狙われたら逃げ切れるかどうか分からない。
『うん……』
アトゥルが空中で体を反転させると、翼を羽ばたかせながら炎が延焼しなかった森林まで飛び続けた。
アトゥルの首筋に跨ったまま、リュウがふと後ろを振り返ると、ガルダが翼を羽ばたかせながら白い巨体をフワリと浮かせていた。
『アトゥル、急いで!』
リュウが心の中で叫ぶと、アトゥルは翼を鋭く羽ばたかせた。ビュッという風を切る音とともに、アトゥルが頭を真下に向けて急降下を始めた。あっという間に濃緑の樹々の梢の隙間に突っ込んだ。
リュウの顔に木の枝葉が容赦なく叩きつけてきた。アトゥルが傍にあった木の幹を手足で掴んだところでようやく落下が止まった。
リュウが上空に目を向けると、梢の間から青い空が見えた。すると、次の瞬間、真っ白い雲が梢の隙間をサッと横切った。
『アトゥル、木の天辺まで登って!』
ガサゴソと枝葉を押し退けながら、アトゥルが太い幹を左右の手足で交互に掴んで登り始めた。たちまち一番上に辿り着いたアトゥルが梢の先からヒョコッと顔を出すと、リュウの目の前に真っ青な空が広がった。遥か彼方には、左右の翼を優雅に動かしながら、白い鳥が遠ざかっていく姿が目に入った。
『ガルダが……飛び去っていく……』
ふと反対の方向に顔を向けると、空を覆い尽くすほどの真っ黒な雨雲が迫っていた。そして再びガルダが飛び去っていく方向に視線を向けると、その姿は、もはや空中に浮かぶ小さな白い点に変わっていた。
そのまま白い点を見つめていると、リュウの額にポツリと雨粒が落ちてきた。思わず指先で額を拭うと、みるみるうちにスコールのようなどしゃ降りの雨が降り始めた。
『アトゥル、山へ帰ろう』
『うん……』
バンと翼を鋭く羽ばたかせると、アトゥルが梢から飛び上がった。そのまま翼をバタバタとはためかせながら、叩きつけるような豪雨の中を灰色の山に向かって飛び続けた。
バウルは僅か数匹の兵士と共にナーガの城に戻った。
バウル達がヨロヨロとよろめきながらドームの中に入ると同時に、バケツをひっくり返したような激しい雨が降り始めた。
その姿を目にして、ドームの中にいたナーガたち、女や子供、老人達の間に重苦しい沈黙が広がった。ドームの屋根をスコールのような雨粒が叩く音だけが響き渡っていた。
絶望と軽侮が入り混じった視線に囲まれながら、赤いナーガが首を竦めるようにしてドームの奥へと向かった。
ドームの一番奥に据えられた玉座には、アイラが真っ白いローブをまとったヒトの姿で、瞼を固く閉じたまま泰然と座っていた。ドームの丸い天井が放つ光が銀色の髪に反射していた。
その玉座の前までくると、赤いナーガは力尽きたようにガックリと首を垂らし、顎の先を石畳みの床につけてひれ伏した。
そのまましばらくの間、二人とも重く押し黙っていた。
両手を玉座の肘掛けに置いたまま、アイラがゆっくりと瞼を開いた。
「バウル……」
アイラの淡い褐色の瞳が赤いナーガを見据えていた。
赤いナーガは目を伏せたまま、「母上……我が軍は全滅しました。かろうじて城まで帰還できた者は、私を含め、十人もおりません……」と野太い声を震わせた。
バウルの言葉に、アイラは天を仰いだ。
「なぜ……そのようなことに……」
「五千の兵士が放った炎の玉を浴びせても……ガルダを倒せませんでした。かえってガルダが放った氷の刃で、我が兵士たちは……バラバラに切り刻まれ、肉片と化しました……」
ギュッと瞼を閉じると、アイラはまるで自分の体に痛みを感じているかのように頬を引きつらせた。それからしばらくの間、玉座の周りは重苦しい沈黙に包まれた。そして、アイラが再び瞼を開いた。
「ガルダは、今?……」
「我が兵士たちの心臓を啄ばんだ後に飛び去りました……もはや希望は消えて……ナーガは……ナーガは滅びるしか……」
絶句しながら赤いナーガが天を仰いだ。
アイラは再び瞼を閉じると、透き通るような白い額に深い皺を寄せていた。
どしゃ降りの雨の中を飛び続け、リュウとアトゥルは灰色の山の麓に戻った。
二人の無事な姿を目にして、サラは思わず目頭を押さえていた。
「ずぶ濡れになったわね。さあ、焚き火を起こしておいたから体を温めなさい」
サラに先導されて洞窟の奥へ誘われ、リュウとアトゥルは冷えた体を焚き火で温めた。
「どうだったの、リュウ?」
サラの問いかけに、焚き火の前に座ったリュウがしょんぼりと俯いた。
「バウルが何千のナーガを引き連れて、巨大な炎の玉でガルダを焼こうとした……」
「それで……」
「でも、ガルダが炎から飛び出して、翼から氷の刃を次々に放ったんだ。きれいな水色の幕のように見えたけど……ナーガ達はみんな切り刻まれた……」
「切り刻まれた?……ナーガが?」
「そう……それから、ガルダはナーガ達の肉片の中から心臓を……嘴で摘まんで飲み込んでいた……」
「そんな……」
サラが眉根を寄せた。二人の会話に耳を傾けていたアトゥルは、「父さんや母さんは……どうなるんだろう?……」と長い首を竦めた。
焚き火の前に腰を下ろしたまま、リュウは両手で膝を抱えた。
「今日はガルダは飛び去っていった。でも、必ずまたやってくる」
「またやってくると、どうなるの?」
「ガルダは……ナーガたちの心臓を喰らい尽くすまで……何度もやってくると思う……」
「心臓を……喰らい尽くす……」
アトゥルがリュウの言葉を繰り返すと、左に一つしかない緑色の瞳を潤ませた。
「父さん……母さん……」
空ろな眼差しでアトゥルは、そのまま彫像のように固まってしまった。
そんなアトゥルの姿に居たたまれないように、サラは、「ねぇ、リュウ。ガルダを止めることはできないの?」と問いかけた。
「うーん……」
リュウは焚き火の前で膝を抱えたまま、瞼を閉じて考え込んだ。
(父さんはこうなることを分かっていて、僕をこの世界に導いたんだ……なにか方法があるんじゃないか……)
リュウの頭の中に、ガルダに追いかけられ、間一髪で逃れた場面が蘇ってきた。
(あの時、ガルダは、川に落ちた僕とアトゥルを追ってこなかった……)
リュウは顔を上げた。炎の揺らめきを反射して、その淡い褐色の瞳が輝いていた。
「水……」
「なんなの、リュウ?」
まったく意味不明なリュウの呟きに、サラは訝しげな眼差しを向けた。
「水だ……ガルダは水に近づかない……ガルダにも弱点がある……水だ、水だよ!」
「いったい、どうしたっていうのよ」
「聞いて、サラ。ガルダの全身に水を浴びせたらどうなると思う」
「うーん……すぐに凍っちゃうんじゃない」
「そうだよ。そうなんだよ。だから、ガルダは水には絶対に近づかない。だから雨を避けているんだ!」
リュウは両手の拳を握り締めながら、焚き火の前で立ち上がった。
「それで……どうするっていうの?」
「だからね、ガルダの全身に一挙に大量の水を浴びせれば、瞬時に凍りついて動けなくなるはずだよ!」
「そうかもしれないけれど、そんなことできるの?」
「僕とリーラで洞窟の奥にある岩のトンネルを通り抜けて、地下の水脈を見つけた」
「そのおかげで今も渇きが凌げてるわ」
「その水脈は山裾から遠くにある崖の傍を通っているんだ。僕とリーラはそこから外に出てきたから」
「私もそう聞いたわ。とても高い崖なんでしょう」
「その水脈を堰き止めて、ガルダを崖のところに誘い込めば、一度に大量の水を浴びせられるよ!」
リュウはサラに向かって大きく両手を広げていた。
「でもね、どうやって水を堰き止めるの。私達二人だけじゃ、とうてい無理だわ」
「水を堰き止めて、ガルダに水を浴びせるのは……リーラたちに頼むしかない」
「リーラにって……説得できるの、そんなこと?……だってリーラは、ガルダがナーガを滅ぼしてくれるって思ってるのよ」
「そうだけど……リーラしかいない……」
不安げに眉根を寄せているサラの瞳を、リュウは真っ直ぐに見つめ返した。
次の日も朝から雨は降り続き、夕方近くになってやっと止んだが、空は灰色の分厚い雲に覆われていた。
地平線に傾いた真っ赤な夕日を浴びながら、洞窟から緑色のナーガが飛び立った。その首筋にはリュウとサラが跨がっていた。
緑色の翼を羽ばたかせながら、アトゥルは灰色の砂漠を超えて森に向かった。
「リーラの居場所なんて分かるの?」
リュウのお腹に手を回したサラが向かい風の唸りにかき消されないよう、リュウの耳元で叫んだ。
「分かんない!分かんないけど、なんとか探してみる!」
リュウは大声で答えながら、目の前にある緑色の角を指先でギュッと握り締めた。
『アトゥル、まずはリーラたちが炎に囲まれた場所に向かって!』
『分かった!』
アトゥルが左右に大きく翼を広げながら、左に体を傾けて旋回を始めた。
ほどなくして鬱蒼とした森林のなかに、ミステリーサークルのような円形の焼け跡が見えてきた。
「あれは何?」
地上の焼け跡を指差しながら、サラがリュウの耳元で叫んだ。
「あすこにリーラたちがいたんだ!」
リュウが後ろに首をひねりながら大声で返事をした。
焼け跡の真上でアトゥルがゆっくりと翼を動かしながら空中で静止した。リュウが眼を皿のようにして真っ黒に焼け焦げた地面の周囲を見回した。だが、人影はおろか、動物の姿さえ見えない。
「誰もいないみたいね……どうするの?」
サラがリュウの耳元で問いかけた。
「うん……」
リュウが残念そうに唇を噛んだ。ここまで来たものの、リーラの居場所を探す方法などあるはずが無かった。既に真っ赤な夕日が地平線にかかっていた。
その時、リュウの耳にヒュルヒュルと風を切る甲高い音が微かに聞こえた。
「鈴の音!」
咄嗟にリュウはその音が聞こえた方向に顔を向けた。
どこまでも広がる緑の梢を突き抜けて、一本の矢が空に向かって真っ直ぐ昇っていくのが見えた。その矢尻の根本には、小さな鈴がクルクルと回転しながら、夕日を反射してキラキラと輝いていた。それはバウルに追われたリュウとサラが炎で行き場を失った時、二人を救うためにリーラが放った鈴の矢と同じものだった。
「リーラだ!」
リュウが声を上げると同時に、夕焼け空を貫くように昇っていく鈴の矢の方向に、アトゥルが体を捻った。そして、バンと鋭い音を立てながら翼を羽ばたかせると、その方角に向かった。
あっという間にその矢の真下に辿り着くと、そのまま梢の間に突っ込んだ。
アトゥルが周りに生えている木の幹を掴んで急ブレーキをかけると、枝がバキバキと音を立てて折れ、葉っぱが辺りに乱れ散った。
やっと落下が収まったところで、アトゥルの首筋に必死にしがみついていたリュウとサラが、フーッと大きく息を吐いた。
その時、下のほうから、「リュウ!サラ!アトゥル!」と呼びかける懐かしい声が聞こえた。
声がしたほうに顔を向けると、左手に弓を握ったリーラが草地の上に立っていた。茶色の毛皮を身につけて、背中に矢筒を背負った姿は相変わらずだ。ポニーテールに束ねた茶色の髪をそよ風に靡かせながら、栗色の大きな瞳が笑っていた。
アトゥルが手足を交互に動かしながら幹をつたい降りた。
地面に着くと同時に、リュウとサラはその首筋からピョンと飛び降りた。
「リーラ!」
二人が声を揃えて叫びながら、リーラに駆け寄った。リーラは両手を左右に広げながら二人を抱き留めた。しばらくの間、三人は固く抱き合っていた。一つの美しい彫刻のような三人の姿を、アトゥルは眼を細めながらじっと見つめていた。
それから互いに身を離すと、リーラがリュウの手を取った。
「夕焼け空に緑色の光が煌めくのが目に入ったんだ。もしかしてと思って、その光の方に駆け出したよ。遠目にアトゥルの姿を見つけた時は嬉しくて、思わず空に向けて鈴の矢を放ったんだ!」
リュウがリーラの手をギュッと握り返した。
「夕焼け空に昇る鈴の矢が見えた。すぐにリーラだって分かったよ!」
「リーラ、良かったわ。あなたが無事で」
サラがリーラに向かって晴れやかに笑った。
「ありがとう、サラ」
微笑みを返したリーラが、草地の上で長い首をもたげているアトゥルのほうに目をやった。
「アトゥル!炎に囲まれた私達を助けてくれてありがとう。この恩は忘れないよ!」
リーラの言葉に、アトゥルはくすぐったそうに緑色の体をよじっていた。
「実はリーラを探してたんだ、僕ら!」
あらたまった顔つきでリュウがリーラの瞳を見つめた。
「探す?私を?」
「そうなんだ」
思いも寄らないことにリーラは小首を傾げていた。
「実はリーラに手伝ってもらいたいことがあるんだ」
「なんだよ、それ?」
リュウは一瞬だけ呼吸を止めると、「ガルダを止める手助けをしてほしい」と、淡い褐色の瞳でリーラを見据えた。
「はーあ?」
リーラが素っ頓狂な声を上げた。そして、肩を竦めながら首を傾げると、「分かるように言ってくれよ、リュウ」と言いながら、カバンの中からタイマツの枝を取り出した。
既に夕日は地平線の下に沈み、薄赤い残照が西の空をぼんやりと照らしていた。リュウたちの周りには暗闇が立ち込めていた。
カンと金属音を立てながらリーラが銀色の鉄片を叩き合わせると、ポッとタイマツの先に炎が灯った。その灯りに照らされてリーラの丸い顔が浮き上がった。
「さあ、リュウ。続きを頼むよ」
リーラがタイマツの枝を地面に突き刺しながら、リュウに話の続きを促した。リュウは、リーラのほうに足を踏み出した。
「このままでは、ガルダは全てのナーガの心臓を食べ尽くしてしまう。アトゥルや、アトゥルのお父さん、お母さんもそうなる。僕はそれを止めたいんだ」
リーラは無言のまま、眉根を寄せながら頬を強張らせた。
「ガルダには弱点があるんだ」
リュウの言葉に、リーラがパッと眉根を開いた。
「なんだよ、弱点って。ナーガ達の炎の玉でさえ、ガルダには効かなかったんだぞ。あれはバウルが率いる五千の精鋭だったんだ」
リュウがコックリと頷いた。
「そうだよ、僕も見た。ガルダは炎じゃ倒せない。でもね、考えてみて。ガルダは雨の日はやってこない。それは水を嫌ってるからなんだ」
「水?……」
「そう、水だよ。ガルダは水に近づかない。きっと体が凍りつくんだよ」
リーラが腕組みをしながら首を傾げた。
「うーん……それで、どうするつもりだい?」
「いつか灰色の山の洞窟の奥で地下水脈を見つけたでしょう」
「ああ、リュウと私でな」
「その時、水脈が崖の傍を通る場所があって、そこから外に出たよね」
「そうだったな」
「だから一旦水を堰き止めて、ガルダを崖に誘い込むんだ。そして、一気に水を浴びせる」
「なるほどな……」
「それでね、水を堰き止めて、ガルダに水を浴びせるのを手伝ってほしいんだ、リーラたちに」
「……」
祈るような眼差しで、リュウはリーラの栗色の瞳を見上げていた。
「一つ聞きたい」
リーラがボソッと呟いた。
「なに?」
「ガルダをどうやって崖まで誘い込むつもりだ?」
「僕とアトゥルが囮になる」
呆れたようにリーラが天を仰いだ。
「ちょっと待てよ、リュウ。お前も見たんだろう。ナーガの兵士達がバラバラにされていくところを……ガルダの氷の刃で」
「うん。でも、僕とアトゥルなら避けることができる。きっとできるよ」
「お前には特別な力がある。それは知ってる。でも、いくらなんでも……」
「聞いて、リーラ。僕は父さんに導かれてここにいる。僕はサラと出会い、リーラと出会い、そして、アトゥルと出会った」
「……」
「きっとやれるよ。お願いだから協力して、リーラ」
縋りつくようなリュウの眼差しから逃れるように、リーラが傍に立っていたサラのほうに目をやった。すると今度はサラが大きく頷きながら、「ねぇ、リーラ。リュウならやれると思ってるわ」と、リーラに迫るように足を踏み出した。
「本気かよ……」
リュウとサラに挟まれて、リーラは困惑したように夜空を仰いだ。
するとリーラの真上から、首を伸ばしたアトゥルが左に一つだけの緑色の瞳で覗き込んでいた。地面に突き刺したタイマツの灯りを反射して、アトゥルの瞳はまるでエメラルドのように美しく輝いていた。
思わずギョッとして、リーラは体を仰け反らせた。そんなリーラの反応に構うことなく、アトゥルが真上から、「お願いだよ、リーラ」と懇願した。
リーラは、自分の周りを囲んでいるリュウ、サラ、アトゥルへ順番に視線を向けると、諦めたようにフーッと大きな溜め息を吐いた。そして、両手を腰に当てると、「分かったよ!」と、覚悟を決めたように大声を張り上げた。
「ホントに!」
「本当なの!」
「ありがとう、リーラ」
リュウとサラとアトゥルの声が重なった。
リーラはコックリと頷きながら、「リュウとアトゥルは燃え盛る炎から私達を救ってくれた。今度は私たちが助ける番だよ」と、栗色の瞳を輝かせた。
それからリーラに連れられて、リュウたちはリーラが暮らしている村に向かった。
ほどなくして村に着いたのはいいが、村人たちは緑色のナーガの姿を目にした途端、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
この前のナーガたちの襲撃から救ってくれたのがアトゥルだと、リーラが声高に言い聞かせて、やっと村人たちがアトゥルに近寄ってきた。
アトゥルは近づいた村人たち一人一人に向かって、「こんばんは」と丁寧に長い首を折り曲げるようにして頭を下げた。その無邪気でユーモラスな仕草に、村人たちはホッとしたように微笑みを返した。
その夜、リュウたちはリーラたちの村で一晩を過ごした。
次の日の朝になっても、空一面に灰色の雲が広がっていた。時折思い出したように、にわか雨がパラパラと降ってくるかと思うと、それもすぐに止んでしまうような、はっきりしない天気だった。
リーラと村人たちはナーガの墓場と呼ばれる灰色の山へと向かった。その列の先には、緑色のナーガがゆっくりと翼を羽ばたかせながら空中に浮かんでいた。ナーガの頭に生えている二本の角を両手で掴みながらその首筋に男の子が座っていた。
それは、もちろんアトゥルとリュウだった。
道しるべのように空中に浮かぶ緑色のナーガの後に、リーラとサラ、そして大勢の村人たちが続いた。
森を抜けて灰色の砂漠を歩き続けた村人たちは、太陽が傾きかけた頃、ようやく切り立った崖のところに辿り着いた。
依然として上空は灰色の雲で覆われていた。
アトゥルが翼を羽ばたかせながら、絶壁を見下ろすように空中に浮いていた。アトゥルの首筋に跨ったまま、リュウは身を乗り出しながら下を覗き込んだ。
茶色の岩肌が百メートルほど垂直に切り立っている。その断崖の遥か下に灰色の地面が霞んでいた。
『やっぱりすごい崖だなあ……』
リュウが頭の中で呟くと、『そうだねぇ……』と、アトゥルの返事が響いてきた。
崖の天辺から十メートルほど下がったところに、茶色の岩肌に大きな穴が空いていた。
『あそこだ!』
リュウが声を上げると、アトゥルはゆっくりと翼を羽ばたかせながら、その絶壁の穴に近寄った。穴の中を覗き込むようにアトゥルが顔を寄せると、リュウの耳にサラサラという水のせせらぎの音が聞こえた。
崖の上で心配そうに眺めているサラやリーラたちに向かって、リュウが片手を上げた。
「ここだ!ここだよ!」
リュウの声に応えるようにリーラが片手を高く掲げると、ピョンと崖から飛び降りた。
その姿に、リュウは、『わっ!』と心の中で驚きの声を上げたが、よく目を凝らすと、リーラの腰には命綱のロープが巻かれていた。
絶壁に接するほどのギリギリの距離を保ちながら、リーラの体が垂直に落下していった。そのロープがピンと張ったところでクルリと体を反転させると、茶色の岩肌に両手の指先を引っ掛けて絶壁に取り付いた。そして指先で岩肌を掴んだまま、両手を伸ばした姿勢で、両足をブラブラと揺らしていた。
ブンとその両足を振り子のように大きく揺らすと、パッと岩肌から手を離して、一メートルほど横に飛んだ。そして茶色の岩肌を指先で掴むと、再び両足をブラブラと揺らした。
そんなアクロバティックな動作を繰り返しながら、見る見るうちにリーラは絶壁の一角に空いている穴のところに辿り着いた。
そして、一旦穴の中に姿を消すと、しばらくして穴の外にヒョイと顔を出した。そして崖の上から眺めている村人たちに向かって、「縄を伝って、ここまで降りてきてくれ!」と、大声で呼びかけた。
すると村人たちが、ロープを手足に絡ませながら滑るように降りてきた。
(まるでプロの消防士みたい……すごい……)
リュウは村人たちの様子を目を丸くして眺めていた。するとリーラが穴から顔をのぞかせた。
「おい、リュウ!ここは私達でやるから、周囲を偵察しておいてくれ!絶対に見逃すんじゃないぞ!」
リュウたちへの協力を快く引き受けてくれた村人たちを、万が一にも危険な目に合わせるわけにはいかない。ヒトにとって最も恐ろしいのはナーガや猛獣なのだ。リーラの声には、そんな悲痛な思いが込められていた。
片手を上げながら、リュウは、「分かった!任せといて!」と大声で返事をした。たちまちアトゥルがバンと鋭く翼を羽ばたかせると、灰色の雲が覆う上空へ舞い上がった。
空一面に蓋をしたような灰色の雲に近づくと、上空は風が強く、細かい雨粒が横殴りに降り注いできた。眼下を見渡すと、灰色の山の頂は相変わらず真っ黒な雲に覆われている。その裾野から広がる灰色の砂漠の先に鬱蒼とした森林が続いていた。そして、遥か彼方に、山頂に白銀の万年雪を戴いた山脈が霞んでいた。
『あそこにガルダがいる……この雲が晴れた時、再びガルダがやってくる……』
思わずリュウの体がブルッと震えた。
ドームの出入口に立ち尽くしたまま、アイラは空一面を覆う灰色の雲を見上げていた。
肩にかかっている銀髪の髪が吹き通るそよ風に靡いていた。空を見上げる淡い褐色の瞳が悲しげに潤んでいる。
(この雲が晴れ渡り、再び青空が広がった時が、我々、ナーガの最期……)
アイラはギュッと瞼を閉じると、薄い桜色の唇を小刻みに震わせていた。それからしばらくの間、祈りを込めるようにじっと瞑目し続けた。
そして再びゆっくりと瞼を開くと、ドームの外に敷き詰められている灰色の石畳みの上に目をやった。その視線の先には、にわか雨に打たれるのも構わず、石畳みの上に力無く横たわっている赤いナーガがいた。
一方でドームの内側に耳を澄ませば、数え切れないほどのすすり泣く声が混じり合いながら反響していた。五千の若い兵士たちが死んだのだ。息子や夫、さらには父を失った家族たちの悲痛な慟哭がドームの中に満ちていた。
ガルダとの戦いで辛うじて生き残ったバウルは、そんなドームの中に居た堪れず、外の石畳みの上で自らを罰するように雨に打たれているのだった。
残されたナーガたちの間には重苦しい絶望感が漂っていた。むしろ先に死んでいった者たちの後を追いたい、とまで考えているナーガさえいるようだった。
(もはやどうすることもできない……私達には希望のカケラさえも残っていない……)
アイラはもう一度灰色の雲に覆われた空を見上げると、フーッと大きな溜め息を吐いた。
それから二日後の朝、それまで空を隙間なく埋めていた雲が嘘のように消えていた。
東の空に輝く朝日に目をやりながら、リュウは足下に広がる灰色の砂地を踏み締めた。辺りを見渡すと、砂地の上に設営された幾つものテントが朝日を浴びていた。
二日というこの短い間に、リーラと村人たちは懸命に働き、全ての準備を整えてくれた。
ふと顔を上げると、突き抜けるような青い空に白い入道雲が浮かんでいた。
リュウは強く息を吐き出すと、両手を広げながらスーッと大きく息を吸い込んだ。そして軽く瞼を閉じながら朝日に向かって頭を垂れると、(父さん、どうか導いてください……)と祈りを込めた。
再び瞼を開いた時、いつのまにか近寄っていたアトゥルが長い首を伸ばしながら、リュウの顔をじっと覗き込んでいた。
ギョッとしたリュウはちょっと体を仰け反らせながら、「アトゥル、おはよう」と強張った笑顔を見せた。アトゥルは無邪気そうに笑いながら、「驚かせて、ゴメンよ」と、緑色のウロコに覆われた顔を近づけた。
リュウは手を伸ばすと、アトゥルの鼻先を掌で触れた。アトゥルはちょっとくすぐったそうに鼻筋に皺を寄せながら、「いい天気だね……」と呟いた。アトゥルの鼻先を撫でながら、リュウが空を見上げた。
「そうだね……」
「リュウ……ガルダは来るのかなあ?……」
「きっと……来るよ……」
「そっか……」
それからしばらくの間、リュウとアトゥルは真っ青な空を見上げていた。灰色の砂漠の上を吹き通るそよ風が、リュウの頬を撫でながら茶色がかった髪を微かに揺らしていた。
「リュウ!」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、サラとリーラが並んで立っていた。二人とも正面から差し込む朝日の陽射しが眩しそうに顔をしかめていた。
「とうとう晴れたな……」
険しい眼差しでリーラが空を仰いだ。
「リーラ、ありがとう」
リュウはリーラに向かって軽く頭を下げた。リーラは片手を上げながら、「礼を言うのは早いよ、リュウ。これからだろ」と、ニッコリと微笑んだ。
「そうだね、これからだ」
リュウが穏やかな笑みを返した。二人のやり取りを見ていたサラがリュウのほうに近寄った。
「これからどうするつもりなの、リュウ?」
「すぐにアトゥルと一緒に出発するよ。ガルダがナーガの街に着く前に、こっちへ誘い込まないといけないからね」
リュウはサラとリーラに向かって柔らかな笑顔を浮かべた。そしておもむろに、ちょっと首を傾げているアトゥルの顔を見上げた。
「さあ行こう、アトゥル。僕ら二人なら大丈夫だよ。そうだろう!」
「うん、そうだね、リュウ」
アトゥルが首を垂れて顎を地面につけた。その首筋にヒラリと飛び乗ると、リュウはアトゥルの二本の角を左右の掌で掴んだ。
アトゥルが首を上へ持ち上げながら翼を大きく広げた。
「行ってくるよ!」
リュウが、灰色の砂地の上で並んで見上げている、サラとリーラに向かって叫んだ。
「あとは任せろ!」
リーラが伸び上がるように片手を高く掲げた。
「気をつけて!」
サラが祈るように胸元で両手の指を組み合わせていた。
リュウが大きく頷くと、次の瞬間、アトゥルがバンと鋭く翼を羽ばたかせた。フワリとアトゥルの体が浮き上がると、続けざまに翼を羽ばたかせながら、たちまち空高く昇っていった。それから翼を左右にピンと張ったまま、スーッと流れるように滑空を始めた。
朝日を反射して緑色に輝くアトゥルの姿は、真っ青な空を走る一筋の流星のようだった。
ナーガの城では、ドームの外の石畳の上に赤いナーガが横たわっていた。その傍らでヒトの姿をとったアイラが突き抜けるような青空を見上げて瞳を潤ませていた。
「今日がナーガの最期……」
そこへ一匹の灰色のナーガが空中から舞い降りた。
灰色のナーガはアイラの前に駆け寄ると、恭しく頭を下げた。ハアハアと荒い呼吸のまま、苦しげに肩が上下している。
「いったいどうしたのです?」
アイラが気遣うように灰色のナーガに向かって声をかけた。
「アイラ女王陛下。先ほど、ガルダの接近を見張っている偵察隊から報告がありました」
「そうですか……ガルダが近づいているのですね……」
俯いたアイラの眉間に暗い影が差した。
「いえ、そうではございません。まだガルダの姿は確認できません……ですが……」
アイラは顔を上げると、「なんです?」と、訝しげに眉根を寄せた。
「山脈に向かって飛ぶ緑色のナーガがいたとのことです」
「緑色のナーガ?」
「はい、緑色のナーガはガルダが身を潜めている山脈へ向かっており……そのナーガにはヒトの子供が乗っていると……」
アイラは弾かれたようにドンと石畳みを踏むと、「何ですって!」と大声を張り上げた。その声に、赤いナーガがユラリと首をもたげると、淡い褐色の瞳を宙空に漂わせた。
アイラは赤いナーガのほうに向き直った。
「バウル、聞きましたか!リュウを助けに行きなさい。あの子は私たちのためにガルダに立ち向かおうとしているのです」
アイラは頬を紅潮させながら、鋭い視線でバウルを見据えた。
バウルは放心したように視線を漂わせたまま、ヨロヨロと体を持ち上げると、アイラに背を向けてゆっくりと歩き出した。
遠ざかっていく赤いナーガの背中をアイラが睨みつけた。
「待ちなさい、バウル!あの子はあなたの甥ですよ。リュウが、私達のために戦おうとしているのに、あなたは何もしないのですか!」
そんな激しい叱責の声も耳に入らないようで、赤いナーガはヨロヨロと体を揺らしながら遠ざかっていった。
アイラは落胆のあまりガックリと肩を落としながら、ハーッと大きな溜め息を吐いた。
城壁の手前まで歩き続けると、バウルは、ドスンと大きな音を立てながら、石畳みの上に身体を横たえた。周囲には誰もいない。
ボンヤリと空を見上げると、突き抜けるような青い空に、真っ白い入道雲が一つだけ浮かんでいた。
(俺は間違っていたのか……)
そんな後悔の念が、ふっと心に過ぎった。
その瞬間、目に映っていた入道雲が形を変え始めた。それは、まるで粘土細工を捏ねるような不自然な動きだった。
(なんだ……あれは……)
そのまま入道雲を見つめていると、いつしか真っ白いナーガの姿になった。左右にピンと翼を広げている。
(いったい、どういうことだ……)
白いナーガは、ゆっくりと翼を羽ばたかせながら、青い空を進んでいく。バウルがその姿を目で追っていると、白いナーガは遙か彼方へと遠ざかり、いつしか視界から消えた。
(あの方向には……灰色の山がある……)
バウルは、グイッと首を持ち上げながら、白いナーガが消え去った空を鋭い眼差しで見つめていた。
真っ青な空には雲一つ無かった。
万年雪を戴く山脈が遥か彼方に聳えていた。その白銀の頂きが朝日を反射してキラキラと輝いている。
リュウとアトゥルは東の空に昇る朝日を背に浴びながら、眩ゆいほどの光を放っている白銀の頂きに向かって滑空を続けていた。
アトゥルの角を握り締めながら、リュウは周囲の僅かな異変も見逃さないよう、瞬きする間も惜しむかのように眼を見開いていた。
『いい朝だねぇ……』
いたって呑気そうなアトゥルの呟きがリュウの頭の中に響いてきた。
『そうだね、アトゥル……』
こんな爽やかな朝にアトゥルと一緒にノンビリと空中を飛んでいるだけなら、どんなに心地良いだろう。だが、現実には命を懸けてガルダと渡り合う運命が、これから待ち受けているのだ。それでも、リュウとアトゥルの心は凪いだ湖面のように静まり返っていた。
その時、遥か彼方の白銀の頂きの一角が白い閃光を放つように激しく瞬いた。
『なっ……なんだ……』
リュウが目を凝らしていると、その白い閃光はグングンと空高く昇っていった。飛び立ったガルダの体が陽射しを反射しているのに違いない。
『ガルダだ……動き始めた……』
リュウは、『アトゥル、あの光に向かおう!』と、鋭い視線で白い閃光を見据えた。
『うん!』
風を捉えながらアトゥルの翼が膨らんだ。そして、バンと鋭く音を立てながら翼を振り下ろすと、グンとアトゥルの体が上昇した。
『アトゥル、近づき過ぎないで!』
『分かった!』
アトゥルは、バンバンと立て続けに翼を羽ばたかせながら更に空高く昇っていった。
周囲の空が濃い藍色に変わった。酸素が薄くなったようで呼吸まで苦しくなってきた。
リュウはスーッと大きく息を吸い込むと、フーッとゆっくりと吐き出した。しばらくそんな呼吸を続けていると、ようやく息苦しさも治まってきた。
藍色の天空の一点で瞬いている白い閃光が徐々(じょじょ)にリュウたちのほうに近づいてきた。
『ガルダがやってくる!アトゥル、追いつかれたらおしまいだ。反転して距離を取ろう!』
『うん、分かった!』
アトゥルは背中の真ん中に生えている第三の翼を捻るように羽ばたかせると、クルリと体を回転させた。そのまま左右の翼をピンと張りながら水平飛行を始めると、東の空に昇る太陽が真正面に見えた。
リュウは首を捻って後ろを振り返ると、背後に迫る白い閃光のほうに目をやった。
『うん?』
眼に映る光景に違和感を覚えた。西の空が異様なほど、キラキラと輝いている。
『これって……ダイヤモンドダスト?……』
いつのまにか周りの大気に肌寒い冷気が混じっているのを感じて、思わずブルッと体が震えた。リュウは正面に向き直ると、『アトゥル!速度を上げて!』と頭の中で叫んだ。
『今でも精一杯だよ!』
アトゥルの翼が力強く羽ばたいていた。それでもリュウとアトゥルの周囲にまでキラキラと光るダイヤモンドダストが現れ始めた。
『まずい!アトゥル、急降下して!』
『分かった!』
ダイブするように長い首をグィッと下に曲げて、アトゥルが左右の両翼と背中の第三の翼を同時に羽ばたかせると、ブンと鋭く空気を切る音がした。そのままクルクルと錐揉みしながら真下に向かって速度を上げていく。リュウの耳元に、ゴゴゴーっという地響きのような風音を轟いていた。
地上に鬱蒼と生い茂る森の梢が目の前に迫ってきたところで、ようやく視界を遮るように立ち込めていたダイヤモンドダストを抜け出した。アトゥルが素早く翼を捻ると、濃緑の木々の梢を掠めるようにして水平飛行に戻った。
思わずリュウがフーッと息を吐くと、アトゥルが『良かったね』と、ホッとしたように呟いた。
すかさずリュウは、『油断しちゃダメだよ、アトゥル。ガルダは、もう既に僕らを狙っているはずだから』と、緑色の角を握る指先にギュッと力を込めた。
森の梢に触れんばかりの低空飛行を続けながら、アトゥルはリーラたちが待つ絶壁のほうへ針路を向けた。
リュウが顔を上げると、陽射しを反射してキラキラと輝くダイヤモンドダストが上空一面に広がっていた。今、ガルダがどこにいるのか、見当もつかなかった。
『やっ、ヤバイかも……』
上空に漂う白銀の瞬きに押し潰されそうな感覚がして、思わず背筋が寒くなった。
次の瞬間、キンという甲高い音がリュウの頭の中で響いた。周囲の風景が凍りついたように固まり、真空の中に放り出されたように全ての音が消えた。
上空を仰ぎ見ながら眼を見開いていると、天空を埋め尽くす光の粒の中に一筋の水色のか細い線が見えた。その水色の線は、アトゥルの頭から尻尾を真っ二つにするように、リュウたちに向かって真上から近づいてきた。
『氷の刃!』
リュウが頭の中で叫んだ。
それと同時に、アトゥルの背中の第三の翼が鋭く羽ばたいた。瞬時にアトゥルの体が真横へ移動した。そのままアトゥルが全身を捻って横向きになると、その傍らを掠めるように水色の透明な幕が通り過ぎていった。
水色の幕は眼下に生い茂る木々の間を、まるで緞帳を下ろすように音もなくスーッと通り抜けた。すると次の瞬間、スパッとなで斬りにされたように木々の幹や枝が断ち切られた。あまりの斬れ味の鋭さに、リュウは口の中に溜まった唾をゴクリと呑み込んだ。
慌てて上空に顔を向けると、ダイヤモンドダストが舞い散る中を再び水色の幕が迫ってくるのが目に映った。
瞬時にアトゥルが背中の第三の翼と、左右の翼を同時に羽ばたかせて、クルリと回転しながら真横に移動した。再び水色の幕が傍を掠めていった。
『ガルダ!どこから狙ってるんだ!』
上空に舞い乱れるダイヤモンドダストの白銀の光を見上げながら眼を凝らした。ガルダが狙いを定めながら、リュウたちに向けて氷の刃を放っているのは間違いなかった。
『どこだ……どこにいる?……』
燦々(さんさん)と輝く氷の粒に視界を阻まれ、ガルダの姿は全く見えない。
アトゥルは必死に左右の翼を羽ばたかせながら、森の梢を掠めるようにして飛び続けていた。リュウとアトゥルは完全にシンクロして、まるで一つの生命体のようだった。
遂に森を抜けて灰色の砂漠の上空に差しかかった。
『もう少しだ!』
頭上には燦々(さんさん)と光を放つ氷の粒が宙を舞っている。リュウは全身の感覚を研ぎ澄ませながら、その光の乱舞を凝視していた。
すると突然、真上から凍りつくような突風が吹き付けた。バランスを崩しそうになったアトゥルが咄嗟に左右の翼を羽ばたかせながら体を回転させて姿勢を保った。
森を抜けてから急激に周囲の温度が下がっていた。砂漠は寒さが厳しいと聞いたことがあったが、まさにその通りだった。
いつの間にか周囲がダイヤモンドダストに囲まれていた。そのうえ凄まじい突風の勢いで、地面を覆っている灰色の砂が舞い上がり、前後左右も分からないほど視界が効かなくなっていた。
『まずい!』
上空にいるガルダが巨大な翼をはためかせて、リュウたちに向かって突風を吹き降ろしているのだろう。
ダイヤモンドダストの白銀の光と灰色の砂が混じり合いながら眼前に舞い散っていた。
リュウとアトゥルは完全に方向を見失っていた。それでもアトゥルは左右の翼を懸命に羽ばたかせていた。リュウは周囲に眼を凝らしながら脱出できる方向を探ろうとしたが、瞼が凍りついて視界まで霞んできた。
その時、再び真上から凍りつくような突風が吹き下ろしてきた。叩きつけるような風の勢いに再びアトゥルがバランスを崩した。
『翼が……動かない……』
アトゥルの翼に空中を漂う氷の粒が貼り付いて固まっていた。翼を広げたまま、糸の切れたタコのようにクルクルと回転しながらアトゥルは落下していった。
『アトゥル!』
リュウが心の中で叫んだ瞬間、アトゥルが灰色の砂地の上へ横倒しに突っ込んだ。リュウは反動で体ごと投げ出されそうになったが、アトゥルの角を握る掌が凍りつき、ペタリと貼り付いたままだったので、辛うじて持ちこたえた。
既に二人とも全身が凍りついていた。リュウは瞼を動かすことさえできない。
身体中を突き刺すような激しい寒さに呼吸まで苦しくなった。リュウが頭の中で『アトゥル……』と呟いた。
『リュウ……ごめん……』
朦朧とする意識の中でアトゥルの声が響いた。リュウとアトゥルは全身を氷の膜に覆われて全く身動きができなくなった。
その時、ヒューッと風を切る甲高い音が微かに聞こえてきた。ガルダの嘴が近づいてくる音に違いない。
『もう、ダメだ……』
観念して瞳を閉じようとしても、凍りついた瞼はピクリとも動かせなかった。
上空に舞い乱れるダイヤモンドダストが白銀の光を放っていた。その光を真上から突き通すように、鋭い槍のような琥珀色の嘴が迫ってくるのがおぼろげに見えた。
ヒューッと風を切る音が鼓膜を揺らし、琥珀色の嘴の尖った先端がリュウの頭の真上に近づいた。
その瞬間、灰色の砂地の上を掠めるようにして、リュウたちの真横に真っ赤な炎の塊が現れた。その大きな火の玉は、リュウとアトゥルに直撃し、真横に押しやった。
ガルダの嘴が空を切り、灰色の砂地にズブリと突き刺さった。
「リュウ!兄上なら決して諦めることはしない!」
野太い声がリュウの耳に響いた。
目の前に赤いナーガがいた。リュウをじっと見つめている。その口から吐き出された炎で、リュウとアトゥルの体中を覆っていた氷が一瞬のうちに溶けていた。
「バウル!」
「すぐにガルダが嘴で狙ってくるぞ。飛べ!」
バウルが前へ向かって炎を吐きながら、翼を鋭くはためかせた。炎は前方に浮かぶダイヤモンドダストを押し退けるように丸く円形に広がっていた。先ほど炎の玉に見えたのは、バウルが凍りつくような冷気の中をこうやって進んでいたからに違いない。
ヒューという風を切る甲高い音が再び近づいてきた。
バウルが空中へ飛び立つと、アトゥルがその後に続いた。アトゥルの尻尾を掠めるようにして、琥珀色の嘴がまた灰色の砂地に突き刺さった。
バウルは息継ぎをすることもなく炎を吐き続けながら、ダイヤモンドダストを搔き分けるように進んだ。アトゥルはその真後ろにピッタリと貼り付くように必死に翼を動かしていた。リュウはしがみつくように緑色の角を両手で掴んでいた。
すると、キンという甲高い音が再びリュウの頭の中で響いた。
顔を上げると、上空に舞い散るダイヤモンドダストの中に水色の細い線が現れた。縦一列に並んで飛ぶバウルとアトゥルの真上に迫ってくる。
「バウル!避けて!」
咄嗟にリュウが叫んだが、ゴウゴウと唸りを上げる向かい風にその声がかき消された。するとアトゥルが翼を羽ばたかせながら懸命に首を伸ばすと、バウルの尻尾の先端をパクリと咥えた。途端にバウルは炎を吐くのを止めて、何事かと首を曲げて振り返った。
次の瞬間、アトゥルが背中の第三の翼をバンとはためかせると、バウルを引きずるようにしながら瞬時に真横へと移動した。
その傍らを掠めるようにして、薄い水色の透明な幕が音もなく通り過ぎていった。
ギリギリで遣り過ごした氷の刃にバウルは目を剥いていた。
いまだに周囲はダイヤモンドダストが舞い乱れている。バウルが翼を羽ばたかせながら態勢を立て直すと、乱舞する光の粒を押し退けるように再び前方に向かって炎を吐いた。
すぐさまアトゥルがバウルの横に並ぶと、バウルと同じように炎を吐いた。リュウは上空を見上げながら、全身の感覚を研ぎ澄ませた。舞い乱れるダイヤモンドダストに目を凝らすと、その輝きが徐々に淡くなっていく気がした。
それから見る見るうちにダイヤモンドダストが薄くなり、いつしか突き抜けるような青空が頭上に広がった。天頂近くまで昇った太陽の陽射しを浴びながら、赤いナーガと緑のナーガが並んで翼を羽ばたかせていた。
リュウが真っ青な天空を仰ぐように見廻すと、二匹のナーガを見下ろすように、後方で巨大な白い鳥が翼を広げていた。獲物を見据える獣のように、琥珀色の瞳がじっとこちらを見つめている。
その時、琥珀色の瞳がギラリと瞬き、ガルダが右の翼を鋭くはためかせた。金属を擦り合わせるようなビュッという甲高い音が響くと、翼の肩口から風切り羽の先端にかけて、透明な水色の薄い幕が飛び出した。
反射的にリュウは、「氷の刃!」と叫んだ。
水色の幕は一直線にリュウたちのほうへ迫ってきた。
その間にもガルダは続けざまに左右の翼をはためかせて、次々と氷の刃を放っていた。ダイヤモンドダストを消したのは、確実にリュウたちを狙い撃つために違いなかった。
「バウル、逃げて!」
緑色の角を握る指先に力を込めながら、リュウが真横に並んで飛ぶ赤いナーガに向かって叫んだ。アトゥルが体を捻って急下降すると、バウルも合わせ鏡のように真似をした。
二匹のナーガは最初の水色の幕をかわした。
すぐに次の水色の幕が近づいてきた。
アトゥルが左右の翼をバンと鋭く羽ばたかせると、クルリと体を回転させながら急旋回をした。再びバウルがそっくりそのまま同じ動作をした。二匹のナーガを掠めるように水色の幕が通り過ぎた。
息つく間もなく三つ目の水色の幕が間近に迫ってきた。
アトゥルが背中の第三の翼を羽ばたかせると、スッと流れるように真横に移動した。バウルは左右の翼を捻りながら羽ばたかせたが、アトゥルのようにはいかずに、小さく旋回しただけだった。
「危ない!」
リュウが叫んだ瞬間、水色の幕がバウルの右の翼を通り抜けた。
バウルの右の翼が真ん中から断ち切られた。片方の翼を失った赤いナーガは錐揉み状態で真っ逆さまに落ちていく。
「バウル!」
リュウが悲鳴のような声を上げた。
「リュウ!あとを頼む!」
辺りの空気を震わせるような野太い声で叫ぶと、バウルは地面に激突した。
『バウル……』
灰色の砂地に倒れ伏した赤いナーガの姿に、思わずリュウの瞳が滲んだ。だが今は泣いている時ではない。手の甲で左右の瞼を擦ると、すぐさま後方に目をやった。
すると空中に残っている緑のナーガに向かって、矢継ぎ早に水色の幕が襲いかかってきた。
アトゥルは背中の第三の翼を立て続けに羽ばたかせながら、上下左右に瞬間移動のような動きを繰り返した。そうやって、間断なく迫ってくる水色の幕をギリギリで避け続けた。
『アトゥル、もう少しだ!』
遠くに灰色の砂地が切れているのが目に映った。あそこに崖がある。
リーラとサラは並んで崖の先端に立っていた。
白い鳥が左右の翼をはためかせながら、こっちに向かってくるのが見えた。翼の先端から水色の幕が次々に放たれていた。
途切れることなく襲いかかる水色の幕の隙間をかい潜るように、緑のナーガが瞬間移動しているようにしか見えなかった。
(氷の刃を避けている……信じられない……そんなことができるなんて……)
リーラはまるでサーカスの曲芸のようなアトゥルの動きに息を呑んだ。
その横でサラが祈るように胸元で、ギュッと両手の指を組み合わせていた。
アトゥルとリュウが目の前に近づいてきたのを見て、リーラが崖下を覗き込んだ。
「来たよ!準備はいいかい!」
茶色の岩肌の途中にある穴から、オムが顔を出した。
「大丈夫です!あとはリーラ様の合図でやるだけですよ!」
オムの返事に、リーラは大きく頷いた。
「リュウとアトゥルは、あたしたちを信じて、ここに突っ込んでくるんだ。絶対にやり損なうんじゃないよ!」
「はい!」
オムと同時に、穴の中から村人達が一斉に上げた声が辺りに響き渡った。
茶色の岩肌は垂直に切り立ち、遥か下の灰色の地面が霞んでいた。地面までの距離は目が眩むほどの高低差で百メートルはある。
リーラは顔を上げると、こちらに近づいてくる緑のナーガと巨大な白い鳥のほうに目をやった。緑のナーガは、曲芸のようにクルクルと回転しながら上下左右へ瞬間移動して、水色の幕を避け続けていた。
「頑張れ、アトゥル……頑張れ、リュウ……」
リーラが小さな声で呟いた。その隣に立っているサラが空を見上げると、いつの間にか崖の真上にひときわ大きな真っ白い入道雲が湧き上がっていた。
「ジューイ様、リュウを守って……」
サラが祈りを込めるように瞼を閉じた。
どれほど氷の刃を放っても、緑のナーガはまるで曲芸のような動きでことごとく避けていく。それに苛立ったようにガルダが嘴を開くと、「ゴゴゴッー」と割れ鐘のような咆哮を上げた。周囲の空気が轟くように振動して、リュウは全身にビリビリと電気が走ったかのような感覚を覚えた。
『あとちょっとだ!』
自分自身を励ますように、リュウは心の中で叫んだ。
アトゥルが真っ直ぐに伸ばした首を軸にしてクルリと回転しながら水色の幕をギリギリでかわした。
遂に眼下に続いていた灰色の砂地が途切れた。その瞬間、崖の端に並んで佇む人影の上を通り過ぎた。
そのうちの一人は両手を天に突き上げるようにしながら、リュウたちを鼓舞するようにピョンビョンと飛び跳ねている。ポニーテールに束ねた茶色の髪が揺れていた。リーラだ。
「行け!リュウ!アトゥル!」
甲高い雄叫びが耳に聞こえた。
その横で両手を合わせながら、祈るような瞳でこちらを見つめているのがサラだ。
崖のちょうど真上に、とても大きな白い入道雲が浮いているのが一瞬目に映った。
アトゥルがバンと翼で空気を叩くようにしながら体を真下に向けると、垂直に急降下した。茶色の岩肌に接するほどの距離で、絶壁を真っ逆さまに降下しながら、グングンとスピードを上げていく。
突然、目の前の視界から消えた緑のナーガを探すように、ガルダが首を曲げて辺りを見回していた。そして真下に顔を向けると、遠ざかっていく緑のナーガの姿を捉えて、再び「ゴゴゴッー」と割れ鐘のような咆哮を上げた。緑のナーガの後を追って、ガルダが真っ白い巨体を翻しながら翼をはためかせると、急降下を始めた。
リュウはアトゥルの角をギュッと握り締めながら、前方から吹き付ける凄まじい突風に耐えていた。後ろを振り返ると、真下に向かってガルダが左右に大きく広げた白い翼を羽ばたかせていた。その度に、ブン、ブンと空気が唸りを上げている。凄まじいスピードでリュウたちに迫ってきた。
『きた!』
アトゥルがバンと翼を羽ばたかせて、更にスピードを上げた。見る見るうちに灰色の地面までの距離が縮まった。
背後に琥珀色の嘴が近づいてきた。嘴の先がアトゥルの尻尾に触れようとする瞬間、
『アトゥル!』
と、リュウが頭の中で叫んだ。
アトゥルがビュッと鋭い音を立てながら背中の翼を鞭のようにしならせた。そのまま体を捻りながら左右の翼を羽ばたかせると、水平に体勢を変えて灰色の地面を掠めるように飛び続けた。
ガルダは巨大な体を止める術も無く、そのまま灰色の砂地に頭から激突した。まるで巨大な隕石がぶつかったように灰色の砂が高く舞い上がった。
崖の天辺からその様子を見たリーラが、
「今だ!」
と崖下に向かって叫んだ。
その声に呼応するように茶色の岩肌の一角がボンと弾け飛ぶと、猛烈な勢いで水が噴き出した。その時、灰色の砂が舞い散るなかを、白い怪鳥がその巨体を揺らしながら起き上がった。大量の水がその頭上に向かって滝のように降り注いだ。
ガルダは、「ゴゴゴッー」と割れ鐘のような咆哮を上げながら、身悶えするように真っ白い巨体をよじらせた。降りかかる水から逃れようと、天に向かって琥珀色の嘴を突き上げながら翼を左右に大きく広げた。
その瞬間、ガルダの動きが固まった。
灰色の砂煙が治まると、天頂を指し示すように嘴を上へ向けたまま、大きく翼を広げている巨大な氷の彫像ができていた。茶色の岩肌の一角から噴き出した水流は止まることなく、その氷の像に向かって注がれていた。
とてつもなく大きな氷の像は太陽の陽射しを反射しながら、眩ゆいばかりに青く輝いている。
地面を掠めるように飛んでいたアトゥルが翼をはためかせながら上空に舞い上がった。
『やった!やったよ、アトゥル!』
『そうだね、リュウ』
リュウが拳を握った右手を空に向かって突き上げた。
その時だった。
バリバリという音とともに、ガルダの氷像のあちこちにヒビが入った。次の瞬間、バンという音とともに、ガルダの全身を覆っていた氷が粉々に砕け、青い氷の粒が辺り一面に飛び散った。
リュウは片手で顔を覆って飛び交う氷の粒を防ぎながら、『そっ、そんな!』と叫んだ。
上から降り注ぐ水流をもろともせず、ガルダが翼を羽ばたかせると、フワリとその巨体が浮き上がった。
『山のような巨体を凍りつかせるには、あの水流じゃ足りないんだ!せっかくみんなの力でここまできたのに!』
再び舞い上がったガルダがアトゥルとリュウのほうに顔を向けた。その琥珀色の瞳がギラリと禍々しい光を放った。
『アトゥル、逃げて!』
悲鳴のようなリュウの声に、アトゥルが必死に翼を羽ばたかせながら上空へ舞い上がった。それでも執拗に追いかけてくるガルダは距離をグングン詰めてくる。もはやどこにも逃げるところは無い。
『父さん!』
思わずリュウが心の中で叫んだ。
その時、崖の上に浮かんでいた大きな入道雲が、まるで意思を持ったかのように形を変え始めた。そして瞬く間に、左右に翼を広げた真っ白なナーガの姿となった。
『えっ!』
その途方もなく大きな白いナーガの姿に、リュウは瞳を大きく見開いた。
次の瞬間、「ゴウ」と雷鳴のような雄叫びを上げながら、白いナーガが翼を振り下ろした。
その翼から、滝のような雨粒がガルダに向かって降り注いでいく。その雫は、まるで弾丸のような勢いで、次々とガルダの全身に食い込んだ。
「グェッ」という鳴き声を上げながら、ガルダが真っ逆さまに墜落していく。
白いナーガが続けざまに翼を羽ばたかせると、猛烈なスコールのような雨粒をガルダの全身に叩きつけた。
右の翼を失ったバウルは、灰色の砂地の上に横たわっていた。
途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、リュウたちが飛び去っていった方角に目を凝らしていた。
リュウと緑色のナーガはダイブするように崖下へ飛び込み、その後をガルダが追っていった。今はもはや誰の姿も見えず、崖の上に大きな入道雲が浮かんでいるのが目に映るだけだった。
すると、突如として入道雲が形を変えて、巨大な白いナーガとなった。激しく翼を羽ばたかせながら、スコールのような激しい雨粒を崖下に向かって降り注いでいる。
「あっ……兄上……」
バウルの瞳から止めどなく大粒の涙が零れ落ち、その頬をつたっていた。
ガルダが地面に叩きつけられた瞬間、水飛沫が空高く舞い上がった。
白いナーガが翼を止めた。
そして、ロウソクの炎が吹き消されるように、スーッとその巨大な姿が掻き消えた。その跡には突き抜けるような真っ青な空が広がっていた。
アトゥルは空中でゆっくりと翼をはためかせていた。
アトゥルの角を握り締めながらリュウが地面を見下ろすと、大きな湖が出来ていた。
その表面は分厚い氷で覆われて、太陽の光を反射しながらキラキラと輝いている。まるで巨大な鏡のように真っ青な空を映していた。
『初めて父さんの鏡を覗き込んだ時に……見えた風景だ……』
リュウの淡い褐色の瞳に涙が滲んだ。
それから一週間が過ぎた。
リュウはナーガの神殿にいた。元の世界で身につけていた上着とズボンに着替えを済ませている。
目の前には左右の翼を天に向かって突き上げているナーガの白亜の像が聳えていた。そして、リュウの周りを囲むように、サラ、リーラ、アトゥル、アイラ、そして、バウルがいた。
ヒトの姿をとっているバウルは、肘から先を失った右腕に白い包帯を巻いていた。
バウルがリュウに歩み寄った。リュウは同じ淡い褐色の瞳でバウルの顔を見上げた。
「リュウ、お前はナーガを救い、ヒトとナーガを繋いだ。お前こそ、この世界で最も偉大な者だ」
「バウル様、それは違います」
リュウの言葉に、バウルは眉根に皺を寄せた。リュウは、バウルの瞳を見据えながら、
「最も偉大なのは父さんです」
と、揺るぎ無い口調で断言した。
バウルはリュウの肩にそっと左の掌を置くと、深々と頷いた。
「その通り……その通りだ、リュウ。お前の父……私の兄……ナーガ・ラジャ・ジューイこそ……」
バウルの瞳から涙が溢れ、両頬をつたった。
「まさしく……神の如き……偉大な方であった……」
頬をつたい落ちる涙もそのままに、バウルが声を詰まらせながらリュウに背中を向けた。その両肩はいつまでも小刻みに震えていた。
続いてサラがリュウに近寄った。感極まった様子で唇を真一文字に結んでいる。サラの顔を見上げながらリュウは優しげに微笑んだ。
「ありがとう、サラ。ずっと僕のことを守ってくれて。ずっと信じてくれて」
リュウの言葉に唇を噛み締めると、サラは瞳に涙を浮かべながら、リュウの体に覆い被さるようにしてギュッと抱き締めた。
「ありがとう……リュウ……あなたのことは……決して……決して忘れないわ……」
サラの胸元でリュウが顔を上げると、零れ落ちるサラの涙が次々と降り注いできた。
「僕も絶対忘れない……サラのこと……」
サラは、リュウの体に廻した腕にギュッと力を込めて自分の体に押しつけた。リュウは、サラの甘い香りを肺いっぱいに吸い込みながら、その背中を両手の掌で優しく撫でた。
やっとサラが体を離すと、今度はアイラとリーラが並んでリュウの目の前に立った。
アイラの銀髪が神殿を吹き通るそよ風に靡いていた。
「ありがとう、リュウ。私たちはナーガとヒトが共に生きていく世界を、これから創っていくわ」
アイラが瞳を潤ませた。そんなアイラの横顔にチラリと目をやりながら、リーラが、
「リュウ、お前のおかげだよ、全部。ありがとう」
と、照れ隠しのようにリュウの頬を指で優しく摘んだ。ポニーテールに束ねた、茶色の後ろ髪が軽やかに揺れていた。
それから今度は、アトゥルが緑の体を揺らしながら、リュウの正面に回った。長い首をしょんぼりと垂らして、一つしか無い左の瞳を悲しげに潤ませている。
「リュウ、君がいないと……おいらは……おいらは……」
緑色の瞳から涙が零れ落ちた。
「大丈夫だよ、アトゥル。君はもう一人で飛べるじゃないか」
「だけど……君がいないと……さびしいよ……」
アトゥルが首を伸ばして、顔をリュウに近づけた。リュウは緑色のウロコに覆われた鼻先を両手の掌で包むように撫でた。
「アトゥル、本当にありがとう。僕も前へ進んでいくよ。だから、君もそうして……だって、君と僕は一つだから……」
「……分かった……」
アトゥルは長い首を空に向かってスッと伸ばすと、天を貫き通すように、
「ゴゴゴゥ!」
と、野太い咆哮を放った。
リュウは周りを囲むそれぞれの顔に目をやりながら、
「みんな、ありがとう」
と、穏やかな笑みを浮かべた。
それからナーガの像のほうに向き直ると、その真下に据えられている台座の前に歩み寄った。
台座の上には縦に長い楕円形の鏡が置かれている。その鏡面を縁取っているのは翼を広げた白亜色のナーガだ。
リュウはその鏡の両端を左右の手で掴むと、自分の顔の前に掲げた。
白い竜の翼に縁取られた鏡面に透き通るような白い肌の少年が淡い褐色の瞳で真っ直ぐにリュウを見つめている。まさしくそれはリュウ自身だ。
その時、リュウの頭の中でキンと甲高い音が響いた。その途端、まるで真空の空間に投げ出されたように周囲の音が掻き消えた。
そのまま意識が朦朧としてきて、鏡に映る自分の顔がぼやけてきた。
ハッと気がつくと、竜介は母の病室にいた。
母のベッドの傍らに立って、両手を掲げながら鏡を握り締めている。鏡面には淡い褐色の瞳で見つめている自分の顔が映っていた。
「いったいどうしたの、竜介?……なんでここに……」
毛布を跳ね除けながら、母がベッドから上半身を起こした。訝しげに眉根を寄せながら竜介が握っている鏡に視線を移した。すると途端に目を大きく見開きながら、「それって……父さんの鏡……」と声を震わせた。
竜介はナーガが縁取られた鏡を病室のテーブルの上に置くと、不安な様子の母の顔を穏やかな表情で見つめた。
「母さん、父さんの本当の名前は、ナーガ・ラジャ・ジューイなんだね」
「なんで……知ってるの……」
母は唇を小刻みに震わせていた。
「やっぱり知ってたんだね」
竜介は優しく包み込むような微笑みを浮かべた。すると、母はベッドの毛布を両手でギュッと掴むと瞼に押し当てた。
「ごめんなさい、竜介……わたし、ずっと不安だった……いつか父さんがどこかに行っちゃうような気がして……」
竜介は母をじっと見つめていた。
「怖かったのよ、わたし……だから、あなたが生まれた時、本当のことを話してって頼んだの……」
母は背中を丸めてベッドの上に突っ伏した。ウッウッと苦しげに嗚咽を漏らしている。
竜介はベッドに近づいて右手を伸ばすと、そっと母の黒髪に触れた。その瞬間、激しく嗚咽していた母が怯えたように、ビクッと体を縮めた。そんな反応に構うことなく、竜介は柔らかな黒髪を優しく撫で続けた。
「母さん、聞いて。父さんはね、母さんのことを心から愛してたんだ。ずっとそばにいるって約束するために、母さんに本当のことを教えたんだよ」
母がふっと顔を上げた。その瞳は涙に濡れて真っ赤だった。
「竜介……」
「父さんは、自分が死んだことを母さんのせいだとは思ってないよ。僕には分かる。父さんはずっと見守ってくれてるんだ」
母はベッドの上でにじり寄るようにして、竜介をギュッと両腕で抱き締めた。思い切り強く抱きすくめられて、息が苦しいほどだったが、竜介は母のするがままに任せた。
「竜介……ありがとう……」
苦しげに息を絞り出すようにしながら、母が涙声で呟いた。
抱き締められたまま、竜介は手を伸ばして母の背中を優しく撫でた。
(母さんの心の奥底には、ずっと鋭い棘が刺さったままだったんだ。もしかしたら父さんは、そんな母さんの傷を癒すために、僕をあっちの世界に送ったのかもしれない)
そんな思いがよぎった瞬間、テーブルの上に置いていた竜の縁取りの鏡が眩ゆいばかりの白い閃光を天井に向けて放った。それと同時に、
『竜介、ありがとう』
という男の人の声が心の中に響いた。穏やかで優しげな声だった。
眩ゆいほどの白い光はほんの一瞬でかき消えた。
(父さん……)
母に抱きすくめられたまま、竜介は空中に視線を漂わせた。しかし、その声はもはや聞こえてくることはなかった。
父さんと母さんの子供で良かった。竜介は心の底からそう思えた。
テーブルの上に置かれている竜の縁取りの鏡に視線を向けると、
(ありがとう……父さん……)
と、心の中で呟いた。
母は竜介にもたれかかるようにしながら、竜介の体を両手で抱き締めていた。
竜介は、鼻の奥をくすぐる母の甘い香りにちょっと照れながら、母の背中にまわした手にギュッと力を込めた。