出会い編
二人を囲む炎の熱から庇うように、サラがリュウの体を抱き寄せた。
「ごめんなさい、リュウ。こんなことになって」
サラの瞳には涙が浮かんでいた。
周囲を取り巻く激しい炎が更に二人に迫ってきた。ゴーッ、ゴーッという、炎が巻き起こす激しい轟音が辺りに響き渡っていた。
リュウは感覚を研ぎ澄ませるように一旦瞼を閉じると、フーッと息を吐いた。
その時、ヒュルヒュルと空気を切り裂く甲高い音が耳に聞こえた。反射的にパッと目を開くと、リュウたちの真横の樹木の幹に一本の矢が突き刺さった。その矢尻の根本には鈴がついている。その鈴がクルクルと回転しながら、リンリンと音を立てていた。
「鈴の矢!誰が?」
それを目にしたサラが、思わず大声を上げた。
矢が飛んできたと思しき方向にリュウが目を凝らした。すると、まだ炎がまわっていない木々の間に、一人の若い女性が立っていた。全身に茶色の毛皮を身につけて、手には弓を持ち、背中には矢筒を背負っていた。茶色の髪をポニーテールに束ねて、剥き出しになった大きなおでこが炎の照り返しで赤く染まっていた。
次の瞬間、その女性が、
「こっちだ!」
と、甲高い声で叫びながら右手を高く上げた。
ふとリュウが横を見ると、サラは茫然自失の面持ちを浮かべ、瞳の焦点も合っていない。炎が立てる轟音にかき消されて、サラには女性の声が聞こえないらしい。
リュウはサラの手をギュッと握り締めると、その女性のほうに走り出した。サラはリュウに引き摺られるようにして、よろめきながら駆け出した。
樹木が焼け焦げる匂いにむせながら、なんとかその女性の目の前まで辿り着いた。すると、その女性が獣の毛皮でできたマントを取り出すと、問答無用で二人に羽織らせた。
「これはガーエの毛皮だ。これを身に着けておかないと、ヒトの匂いが消えない。ナーガはヒトの匂いを嗅ぎ分けるんだ」
その女性は、栗色の大きな瞳でリュウを見つめながら、「付いておいで!」と声を上げた。そのままパッと背中を向けると、木々の間を飛ぶように駆け始めた。
リュウとサラは、その背中を懸命に追いかけた。
その女性はまるで野を駆ける鹿のように、ピョンピョンと木々の間を走り抜けていく。ジャンプする度にポニーテールに束ねた茶色の後ろ髪が軽やかに揺れていた。
そのまま走り続けていると、ゴーッという轟音が徐々に遠くなっていった。そしていつしか轟音が全く聞こえなくなり、周囲は暗闇に包まれていた。
サラとリュウは先導する女性の背中を暗闇の中で見失って、とうとう立ち止まってしまった。
すると真っ暗闇の中に、ポッと小さな光が灯った。その灯りに照らされて女性の顔が闇の中に浮き上がった。細い棒の先に布切れを巻いたタイマツが、大きな炎で辺りを赤々と照らしている。棒の先端の布切れには油を染み込ませているようだった。
「もう大丈夫だよ、バウルは諦めて街に帰った」
その言葉にホッとしたように、サラはドスンと音を立てながら地面に腰を下ろした。リュウは両手を膝に突きながら荒い息を吐いていた。
「わたしはリーラ。あんたたちは?」
「わっ……わたしはサラです……」
「ぼっ……僕はリュウです」
息も絶え絶えといった様子で二人が名乗った。
「なんでバウルに追われることになったんだい?」
タイマツの灯りを映して、リーラのまん丸い栗色の瞳が輝いていた。
「そっ、それは……」
サラが言い澱んでいると、リーラがフッと小さく笑った。
「まぁ、いいや。バウルが敵というのなら、わたしは味方だ」
「どういうことですか?」
地面の上で片膝立ちになりながら、サラが小首を傾げた。
「バウルは、わたしの両親の仇なんだよ」
膝に手を突いたまま、『仇』という言葉に反応してリュウが顔を上げた。
「わたしの両親はバウルに焼き殺されたんだ……」
「そう……だったんですか……」
俯きながらサラが目を伏せた。
「どうせ行くところはないんだろう。ついておいでよ。村に連れていくから」
タイマツを持つ手を高く掲げながら、リーラが背中を向けた。リュウとサラは目配せを交わすと、同時にコックリと頷き合った。
ゆっくりと歩き始めたリーラの後に二人が続いた。すると突然、リーラが二人のほうに振り返った。
「心配することはないよ。自分たちの村は絶対にナーガに見つかることはない。それに、みんな歓迎してくれるはずだから」
リーラが弾けるような笑顔を浮かべた。タイマツの炎で額の広い丸顔が照らされ、栗色の丸い瞳が笑っていた。
リーラの後に続いて一時間ほど歩き続けたところで、突然、リーラが足を止めた。タイマツを高く掲げながら、太い樹木の幹に挟まれた暗闇に顔を向けた。
「わたしだ!狩りの途中でバウルに襲われていた女と子供を助けた!」
すると地面から幕が上がるように光が漏れて、そのまま上に広がり、内側からヒトが現れた。
「リーラ様でしたか。ずいぶんお帰りが遅いので心配していました」
真っ黒なアゴヒゲを生やした男性がしゃがれ声で話しながら、片手で幕の裾をたくし上げていた。どうやら森の中の空間を何かの幕で仕切ってあるようだった。
「悪かったな、オム。この二人と一緒だったから、全力で走るわけにもいかなかったんだ」
リーラが幕の内側に足を踏み入れた。そして、リュウたちのほうに振り返ると、「さあ、入って。遠慮は要らないから」と目尻を下げた。天性の人懐っこさがその笑顔に滲み出していた。
サラが先に進み、リュウはその後に続いて幕をくぐった。
幕の内側にはあちこちで篝火が焚かれ、モンゴルの高原にあるような布製の大きなテントが幾つも並んでいた。村全体を囲むように、樹木の間に隙間なく茶色の毛皮が張られている。ふと上を見上げると、梢の間を埋めるように巨大な天幕まで張られていた。
「この村はガーエの毛皮で隙間なく包まれている。だから、ナーガに見つかることは絶対にない。さあ、今晩は客人用のテントで寝ればいい」
先導するようにリーラが歩き出した。その後にサラ、リュウが続いた。
毛皮の天幕はどこまでも続いており、昼間に見たナーガの城のドームよりも広いようだった。道の両側には等間隔で篝火が焚かれ、毛皮を着た村人たちが行き交っていた。小さな子供の手を引く母親の姿もあり、ナーガの街にいた時よりも人心地がついた。
通りすがりの人は皆、リーラに軽く頭を下げながら、「リーラ様、こんばんは」と声をかけた。その度にリーラは、「こんばんは、大事は無いかい?」と気遣うような言葉を返していた。屈託のない無邪気な笑顔を浮かべながら、ポニーテールに束ねた後ろ髪が篝火に映えて艶やかに輝いていた。
きっとリーラは村のリーダーに違いない。村人達に話しかける横顔を見ていると、リーラの栗色の瞳のなかに、何者にも屈しない強靭な意志が宿されているように思えた。
さして遠くもない距離に大きなテントが張られていた。屋根がなだらかな円錐形で、その軒先から幕が下りて円形の壁になっていた。
リーラがそのテントを指差しながら、「あれだよ、客人用のテントは。二人では広すぎるかもしれないが、まあ我慢しておくれ」と振り返った。
リーラに案内されながら、二人はテントの中に入った。リーラが天井から吊り下げられたランプに火をつけた。中央に据えられた太い木の柱が屋根を支え、内部は円形の空間になっていた。床には一面に毛皮が敷き詰められ、サラとリュウはサンダルを脱いで毛皮の上に座った。素足に触れるフワフワとした毛皮の感触が心地良かった。
「すぐに食べ物を持ってくるよ」
リーラがテントの壁面の幕をめくりあげて出て行った。
天井のランプの灯りが揺らめくなかで、リュウはサラと顔を見合わせた。
「ここっていったい?……」
リュウが声を落としながら尋ねた。
「きっと……反乱者たちの集落だと……思います……」
ためらいがちにサラがリュウの耳元で囁いた。リュウは静かに頷き返した。
その時、テントの幕がめくられ、リーラが姿を見せた。片手に大きな皿を持ちながらテントの中に入ってくると、サラとリュウの目の前にその皿を置いた。
皿の上にはまるでスペアリブのような骨付き肉が山のように盛られていた。こんがりとキツネ色に焼かれていて、リュウはその匂いを嗅いだだけで口の中に唾が溢れてきた。皿を挟んで二人の真向かいにリーラが胡座をかいて座った。
「さあ、遠慮なく食べな!」
リーラの声を合図に、リュウは肉の付いた骨の一つにサッと手を伸ばした。そのまま口元へ近づけると、ガブリと肉に噛りついた。咀嚼すると少し固かったが、口の中に甘い肉汁が滲み出てきた。
(うまっ!)
最初の一口を吞み下すと、続けざまに肉に噛りついて、あっという間に一本目を食べ終えた。そして、目の前に山盛りになっている骨付き肉に再び手を伸ばしながら、横目でサラのほうを見た。
サラは愕然とした表情で目の前に盛られた骨付き肉をボンヤリと見つめていた。真っ青な顔で手先をワナワナと震わせながら今にも卒倒しそうな様子だった。
ギョッとしたリュウは骨付き肉を掴もうとした手を引っ込めた。
「どっ、どうしたの、サラ?」
心配になったリュウが問いかけると、思い詰めたようにサラは、無言のままゴクリと喉を鳴らした。
「ハハッ、案ずることはないよ。街に住んでたヒトは肉を食べたことが無いんだ。それにしても、いい食べっぷりだね、リュウ。あんたは街のヒトじゃないんだね」
リーラは、腕組みをしながら愉快そうに笑っていた。そして、骨付き肉の一つを手に取ると、サラのほうに差し出した。
「生きていくためには、これを食べるしかない。肉を食べると穢れると言い聞かされているんだろう。だがね、それはナーガがヒトを支配するための嘘っぱちさ。さあ、食べな!」
リーラが骨付き肉をサラの手に無理やり握らせた。サラは手を震わせながら、口元に肉を近づけた。今にも気絶しそうなサラの様子に、リュウは、「大丈夫だよ、美味しいから。一口食べてみて」と諭すように語りかけた。リュウの言葉にコックリと頷くと、サラは目をつぶってカプリと肉に噛りついた。そのまま肉の一切れを頬張ると、ゆっくりと咀嚼した。リーラとリュウはその様子をじっと見つめていた。
意を決したように口の中の肉をグッと吞み下すと、サラがパッと瞼を開いた。
「美味しい……」
驚きを隠せないサラの様子に、すぐさまリーラは、「そうだろう。美味しいんだよ、ガーエの肉はね。さあ、どんどん食べよう!」と、皿に盛られた骨付き肉の一本を取った。リーラに促されるように、サラとリュウもそれぞれ肉を手にすると、三人同時に噛り付いた。
山盛りだった骨付き肉だったが、三人できれいに食べ尽くすまで、さほど時間はかからなかった。お腹がいっぱいになったリュウは、途端に軽い眠気に襲われて、大きなアクビをした。それを見たリーラは、「落ち着いたかい。疲れたろう。それにしても、あんたはたいした子だね。バウルの炎に囲まれた時も落ち着き払っていたし。さあ、もう横になったほうがいいよ」と、穏やかな笑顔を浮かべた。そして、テントの隅に畳んであった毛皮の毛布を取り出すと、サラとリュウにそれぞれ手渡した。
「部屋の隅に着替えもあるから好きにしな。明日の朝、村を案内してあげるよ。じゃあ、お休み」
二人に背中を向けると、そのままリーラはテントの幕をめくって外に出た。テントの中にはサラとリュウだけが残された。
サラが「不思議なヒトね……」と独り言のように呟くと、すぐさまリュウは「そうだねえ……」と呟き返した。
グワーンというけたたましい銅鑼の音に、リュウは毛皮の毛布を跳ね除けながら飛び起きた。寝ぼけ眼を擦りながら周りを見渡したが、いったい自分がどこにいるのか、すぐには分からなかった。
「リュウ、おはよう。さすがにあの銅鑼の音では目を覚ますのね」
声がしたほうに顔を向けると、サラが微笑んでいた。既に茶色の毛皮を身につけて、腰には植物の蔓のベルトを巻いていた。
「さあ、これに着替えるといいわ」
サラはリュウの目の前に膝を突くと、毛皮を置いた。リュウは肩口のブローチを外して白い服を脱いだ。毛皮で自分の体を包むと、肩口のところでブローチで止めた。そして最後に蔓のベルトでギュッと腰を締めた。
着替え終わったリュウの正面に、サラが立っていた。
「自分で着替えもできるようになりましたね」
サラは満足そうにリュウの肩をポンポンと軽く叩いた。
その時、テントの外から、「おい、起きてるかい」と、呼びかけるリーラの声が聞こえた。
「ええ、起きてます」
サラが返事をするや否や、テントの幕をめくってリーラが入ってきた。
「ほら、朝ご飯だよ」
リーラが床に敷かれた毛皮の上に盆を置いた。盆の上には茶碗が三つ載っていた。
「野菜のスープだよ。ガーエの骨を煮込んでダシにしてるから美味しいよ」
リーラが腰を下ろしてアグラをかくと、盆を囲むようにサラとリュウも腰を下ろした。
リーラの言う通り、野菜スープはとても美味かった。最後の一口を飲み上げた時には、頭もすっきりして体もポカポカと温もっていた。
それからリーラの案内で村を見回った。
村全体が毛皮の天幕で覆われているため、昼間でも直接、日光が差し込むことはない。そのため一日中、道に沿って篝火が焚かれていた。村の端から端まであちこちにテントを見かけた。ここには百人を超える村人たちが暮らしているようだった。彼らの表情は皆一様に明るかった。ナーガの街では白い着物を着て、人々は忙しそうに行き交っていたが、瞳の奥がどこか虚ろであることを、リュウは感じていた。
その時、村の入り口から数十人の男たちが入ってきた。皆それぞれ、狩りの獲物を携えていた。なかには数人がかりで大きなガーエを運んでいる者たちもいた。
「朝の狩りを終えたんだ。ちょっと出迎えてくるよ」
リーラが男たちのほうへ近づいた。その背中に隠れるようにして、サラとリュウもついていった。
「みんな、ご苦労様。今朝はずいぶん収穫が多かったね」
「たまたまガーエの群れに出くわしたんです。いやあ、運が良かった」
先頭にいた背の高い痩せた男が頭を掻きながら返事をした。すると、すぐさま丸々と太った恰幅のいい男が前に出てきて、「たまたまじゃねぇだろう。ゴビンが教えてくれたんだ」と、背の高い男の肩を小突いた。
「ゴビンも一緒なのかい?」
リーラの問いかけに、男たちの最後尾から背の低い猫背の男性が現れた。毛皮のフードを被ったまま下から窺うように、リーラの顔を見上げている。
「リーラ様、行商に向かう途中で皆さんと出くわしまして。まあ、良い偶然でした」
軽く頭を下げると、ゴビンは目を細めながらニコニコと笑った。だが、リュウにはその切れ長の瞳が異様に鋭く感じられた。
「こちらこそ礼を言わせてもらうよ。おかげでしばらくは食料に困らないで済む」
リーラは腕を伸ばすと、ゴビンの肩に掌を置いた。それからおもむろに村の男たちのほうに向き直った。
「さあ、これだけの獲物だ。皮を剥ぐにも村のみんな総出でやらないと今日中には終わらないよ!」
男たちは、「オオゥ!」と威勢の良い声を上げると、すぐに獲物を村の中央の広場に運び始めた。
「この村はいつ来ても活気があっていいですなあ」
獲物を運ぶ男たちを眺めながら、ゴビンが呟いた。
「それはそれとして、今日は何か掘り出し物でもあるかい?」
リーラの問いに、ゴビンは手に握っていた手綱を引っ張った。すると、ゴビンの背後から全身灰色の毛で覆われたロバのような動物が姿を現した。その動物の背中には山のように荷物が載せてあった。
「以前に注文いただいた鋼鉄製の矢尻を持ってきました。ずいぶんお待たせしましたが」
「それはありがたい。鋼鉄製の矢尻は街でしか手に入らないからね。その他には?」
リーラが口にした『街』という言葉に、サラが眉根を寄せていた。そんなサラの表情を目にして、リュウは、(もしかすると、このゴビンというヒトはナーガへの反乱者たちに武器を売る闇商人じゃないか……)と考えを巡らせていた。
「リーラ様、今日はちょうど珍しいものを持参しているんですよ」
ゴビンがロバのような動物の背中から、網目の荒い大きなカゴを一つ取り出した。そのカゴを地面に置いた。
「さあ、ご覧下さい」
リーラは膝に手を突きながら屈み込んだ。
「鳥じゃないか?これがなんだい?」
傍にいたサラとリュウもカゴに近寄って覗き込んだ。
カゴの中には三羽の鳥がいた。ハトと同じぐらいの大きさで全身が赤みがかかった灰色の羽毛で覆われている。黄色いクチバシとギョロリとした黒い瞳が印象的で、「ケッケッケッケッ」と甲高い声で互いに鳴き交わしていた。
「この鳥はヤブチメです。初めてご覧になるのではないですか?」
勿体ぶった口調でゴビンが説明した。
「ほう……これがヤブチメ……」
リーラが大きく目を見開いた。リュウは興味をそそられて、「何ですか、ヤブチメって?」と、リーラのほうに顔を向けた。
「ヤブチメは帰巣本能が強くて、自分の仲間たちのところに帰る習性があるんだ。だから、ヤブチメを使って遠いところにも通信ができるんだよ」
リーラの答えに、リュウはゆっくりと頷き返した。三人の注意を引くように、ゴビンがコホンと軽く咳払いをした。
「このヤブチメはナーガの街に群れの巣箱がありますから、どこからでもナーガの街へ戻るのです。そのうえこの三羽は兄弟なので、この鳥カゴに一羽でも残っていれば再びカゴの場所へ帰ってきます」
リーラはアゴに手を当てながら首を傾げていた。ゴビンの説明は続いた。
「村に巣箱を作って飼い慣らせば、狩に出かけた時でもヤブチメを使って村に知らせを送ることができます」
ゴビンの話にリーラは軽く頷いた。ここぞとばかりにゴビンの口調が熱を帯びた。
「さらにはヤブチメには、もう一つ特徴があります。ヤブチメは、死ぬとその場所に一週間、魂が留まり続けるのです。そして、仲間の魂が漂う場所にヤブチメは戻るという習性があるのです」
「じゃあ狩りの途中で猛獣に襲われて命を落としたとしても、ヤブチメを連れていれば、その魂が留まってるから、すぐに死んだ場所が分かって葬式もできるというわけだ」
皮肉たっぷりな口調で、リーラは苦笑いをしていた。
ゴビンは、慌てて手を振りながら、「いやいや、そういうことではなくて……まあ、そういう使い方もできはしますが……他にも色々と……」と、懸命に言葉を継ごうとしていた。
それを遮るように、リーラが掌をゴビンに向けた。
「分かった。今回は矢尻だけにしておこう。ヤブチメについてはまたの機会に考えておくよ」
ゴビンは、一瞬、口惜しそうに額に皺を寄せたが、すぐに元通りの笑顔に戻った。
「では矢尻を納めさせていただきます。昼前には次の村に出立しないといけませんので」
「よろしく頼むよ。矢尻は倉庫に置いておくれ。オムが立ち合うはずだ」
リーラは、ゴビンにクルリと背中を向けて歩き出した。サラとリュウはゴビンに軽く頭を下げると、慌ててリーラの背中を追いかけた。数歩進んだところで、リュウはなぜか背中に突き刺さるような視線を感じて、思わず後ろを振り返った。すると切れ長の瞳で睨んでいるゴビンの視線とぶつかった。その瞬間、リュウの背筋に冷たいものが走った。ごまかすようにゴビンはプイと横を向いた。リュウはちょっと小首を傾げると、再びリーラの後を追った。
リーラに追いついたところで、リュウはしばらく横に並んで歩き続けた。そして、ゴビンの姿が完全に見えなくなると、「リーラ、さっきのヒトは?」と、リーラの顔を見上げた。
「さっきのヒト?ああ、ゴビンのことだね。ナーガの街の商人さ。貴重な品を売ってくれるから、今のところ付き合いは続けてるけどね。でも、実は信頼はしていない」
リーラが悪戯っぽく口角を上げながら微笑んだ。
そのままリーラに連れられて村の中央の広場のところに辿り着いた。そこには村中の人々が集まっているようで、白いアゴヒゲを伸ばしたおじいさんから、おさげ髪の小さな女の子までいた。
リーラは村人たちのほうに近寄っていくと、獲物の解体を手際良く手伝っていた。
そんな様子を遠目から眺めていたサラが、「素敵な村ね……」と呟いた。リュウは目を細めているサラの横顔にチラリと目をやると、「そうだね……」と呟き返した。
その時だった。
突然、頭の中にキンという甲高い音が響いた。途端に周囲の風景が凍りついたように動きを止めた。
(なんで急に……)
今まで何か危険が迫る度に、この現象が起こってきた。リュウが注意深く辺りを見回していると、「ケッケッケッ」という鳴き声が幽かに耳に響いた。
次の瞬間、再びキンという音が聞こえて周りの風景が元に戻った。村人たちが高らかな笑い声を上げている。
(今のはたしかヤブチメの声……どういうことだ……)
リュウは、弾かれたように駆け出した。その背中に向かって、「リュウ!どうしたの?」と、サラが声をかけた。その声に構うことなく、リュウはヤブチメの声がした方角に向かって全速力で走り続けた。すると、ほどなくして村の入り口に辿り着いた。
村の入り口には相変わらず毛皮の幕が下されており、その手前に立ち塞がるように、オムが立っていた。
「そんなに息を切らせてどうした、リュウ?」
「ゴッ、ゴビンさんは?」
「もう村を出て行ったよ。隣の村に向かうと言っていたが。まあ、どの道を通るかは分からんので追いかけようもない……」
「オムさん、すぐに村の外に出たいんです」
困惑して眉根を寄せながら、オムは真っ黒なアゴヒゲに手を当てて黙り込んだ。その時、リュウの背後から、「いっ、いったいどうしたって言うんだい?」と、全速力で追いかけてきたリーラが喘ぎながら問いかけた。
「リーラ様、リュウがすぐに村の外に出たいと言うんですよ」
再びオムがアゴヒゲに手を当てた。
その時、ゼイゼイと荒い息を吐きながらサラが村の入り口に辿り着いた。リーラは、サラのほうにちょっと目をやると、リュウに向き直った。
「理由を言いな、リュウ。そうでなければ村の外に出してやることはできない。ここはあんたが考えているよりも、ずっと危険なところなんだよ」
リュウは、リーラの栗色の瞳を見つめながら、「ヤブチメの声が聞こえたんだ。もしかしたら危険が迫っているのかもしれない」と訴えた。
「ヤブチメだって……」
リーラがオデコに皺を寄せた。ようやく息を整えたサラが、「リュウには不思議な力があります。本当に何か危険を察知したのかもしれません」と、リュウの言葉を後押しした。
途端に、リーラは、近くに置いてあった狩用の荷物を背負った。
「分かった。リュウ、村の外に出てみよう。私たちも一緒にいく。オム、ついてきてくれ」
すぐさまオムが入り口の幕をめくり上げた。
「さあ、通って!」
オムのしゃがれ声に従って、リーラを先頭に、リュウ、サラが村の外に出ると、最後にオムが続いた。
村の外は鬱蒼とした森林が広がり、辺りは静まり返っていた。
リュウがユブチメの声がした方角に向かって歩き出した。その後に三人が続いた。昼なお暗い森の中には、下草を踏み締めるリュウたちの足音だけが聞こえた。
村を出て数分経ったところで、リュウは、「ケッケッ」という幽かな鳴き声を感じて、立ち止まった。そんなリュウの周りを囲むように三人も足を止めた。
リーラが怪訝そうに眉根を寄せながら、「どうだ?」と、リュウの顔を覗き込んだ。
リュウは意識を集中させながら周囲に聞き耳を立てた。
「ケッケッケッ」
たしかにヤブチメの鳴き声が聞こえた。
「ヤブチメだ!」
リュウが声を上げると、リーラが頷いた。
「わたしにも聞こえた」
一番後ろを進んでいたオムが、「どこか上の方から聞こえてきた気がする」と、周りの木々の梢を見上げた。一斉に他の三人も顔を上げた。
すると急にサラが、「あっ、あれ!鳥カゴじゃない!」と、枝の一つを指差した。リュウがそちらに視線を向けると、枝の先に鳥カゴが紐でくくり付けてあった。
「オム、頼む!」
リーラが声を上げると、すぐさまオムが木を登り始めた。オムはまるで猿のような身のこなしで、あっという間に鳥カゴを掴んで下りてきた。
三人の前に鳥カゴを置くと、オムは顔を紅潮させながら、「これはゴビンの鳥カゴに違いない。中を見てください。一匹は首を捻られて死んでます」と吐き捨てるように言った。
「なんでこんなことを……」
サラが地面に膝を突きながら鳥カゴの中に目をやった。リュウはその背後から恐る恐る覗き込んだ。鳥カゴの中には一羽のヤブチメがケッケッと悲しそうに鳴いていた。カゴの真ん中で、もう一羽が黄色いクチバシを開いたままで横たわっていた。
「もう一羽はどこ?たしか三羽いたはず」
リュウは顔を上げると、リーラのほうに目をやった。リーラは、オムと同じように顔を真っ赤にして唇を震わせていた。
「バウルが……くる……」
苦々しげな口調で、リーラが声を絞り出した。固く握られた両手の拳が怒りでプルプルと震えていた。
「えっ、そんな……」
地面に膝を突いたまま、愕然とした表情でサラがリーラの顔を見上げた。
「ヤブチメには仲間の魂のところに戻ってくる本能があるとゴビンが言っていた。一羽をナーガの街に向かわせた後で、この一羽を殺したんだ。このヤブチメの魂は、今この辺りを漂ってるはずだ。ゴビンが裏切ったんだ」
リーラの言葉に、思わずオムが、「あのやろう。ただでは済まさん!」と声を荒げた。歯ぎしりをしながら悔しがるオムの肩にリーラが手を置いた。
「落ち着け、オム。もう時間がないんだ。すぐにみんなを連れて隣村へ行ってくれ」
「分かりました。でもリーラ様は?」
その時、リーラがフッと小さく笑った。
「隣村の長は素性の知れぬ者は決して村に入れないはずだ。サラとリュウを見捨てるわけにはいかない。わたしは二人を山に連れていく」
オムはガックリとうなだれながら、無念そうに唇を噛んだ。
「さあ、もう時間がない。オム、みんなのことを頼んだぞ。またいつかきっと一緒に暮らせる時がくる。その時までの辛抱だ。さあ!」
オムを励ますように、リーラがオムの肩をポンポンと軽く叩いた。意を決したようにオムが顔を上げた。
「分かりました。リーラ様、どうかご無事で!」
オムはリーラに向かって深々と頭を下げると、クルリと背を向けて走り出した。森の木々の間に小さくなっていくその背中を、リーラたちは言葉もなく見つめていた。
リーラは鳥カゴの扉を開けると、中にいるヤブチメに向かって、「さあ、好きなところに飛んでいくがいい」と語りかけた。生き残った一羽のヤブチメは、「ケッケッ」と鳴きながらピョンとカゴから飛び出すと、たちまち翼を羽ばたかせながら飛び去った。
ヤブチメの姿が梢の枝葉の間に見えなくなると、リーラがリュウのほうに顔を向けた。
「リュウのおかげで皆の命が助かった。礼を言うよ」
リュウは肩を落としながら、「僕たちが来なければ、村が狙われることもなかったかもしれない」と俯いた。
リーラは、リュウの間近まで近寄ると、リュウの両肩を掴んだ。思わずリュウはビクッと顔を上げた。
「リュウ、そんなことは言うものではない。わたしはね、ナーガに虐げられるヒトは皆、仲間だと思っている。だから、あんたたちを村に連れてきたんだ。村のヒトたちも同じ気持ちだよ。分かったかい」
リュウの両肩を掴む指先に力を込めながら、リーラがリュウの瞳を見据えた。
「もう時間が無い。すぐにここを離れるんだ。ついておいで!」
リーラを先頭にして三人は走り出した。リーラは木々の間を飛ぶように駆け抜けた。ポニーテールに束ねた茶色の後ろ髪がピョンピョンと跳びはねていた。薄暗い森の中でその姿を見失わないように、リュウは懸命に走り続けた。
ものの数分も経たないうちに、突然、後方にドンという爆発音が響いた。
(バウルだ!)
思わず足を止めて振り返ると、ドドドンと立て続けに爆発音が炸裂し、たちまち火の手があちこちで上がった。炎が巻き起こす突風がゴウゴウと唸りを上げている。
「リュウ!」
リーラが呼びかける声に、リュウは我に返った。声がしたほうに視線を向けると、リーラが遠くの木々の間に立っている。こっちに向かって上下に激しく手を振りながら手招きをしていた。
慌ててリュウが走り出すと、気づかないうちにサラが真横で並走していた。あっという間にリーラのところまでたどり着いた。
「絶対にわたしから離れるんじゃないよ。命がけでついておいで!」
リーラは、パッと背を向けると、そのまま駆け出した。その背中にリュウとサラが続いた。
リーラはまだ火の手が回っていない場所を的確に見定めながら、迷うことなく前へと進んでいった。風に煽られた火の粉が舞い散るなかを、無我夢中で三人は走り続けた。その間もずっと途切れることなく、ドンドンという爆発音が森の中に響き渡っていた。
それから、どれほど走り続けたのだろう。
前を走るリーラが突然足を止めると、膝に両手を突きながら屈み込んだ。その姿を見て、リュウは足を止めると、そのままドッと前に倒れ込んだ。真横でドスンと大きな音を立てながら、サラが地面に倒れ込んでいた。
「ふっ……二人とも……大丈夫かい?……」
荒い息をしながら、リーラが声をかけた。地面にうつ伏せに横たわったまま、リュウは返事をしようと口を開いたが、ハァハァと苦しげな息が漏れるだけだった。サラも同じように呼吸するのに精一杯で容易に声が出ない様子だった。
そんな二人の様子に目をやると、リーラは激しく息を切らせながら、「とっ、とにかく……ここまでくればもう……しっ、心配はない」と声を絞り出した。
リュウは乱れた呼吸のままで、地面の上で仰向けに寝転がった。突き抜けるような青空が広がっていて、太陽はいくらか西に傾いてはいるが、まだ高い位置にあった。
横になったまま左右に首を捻ると、いつのまにか鬱蒼とした深い森を抜けて、辺りには背丈の低い青草が一面に茂っていた。ハッとして地面に両手の掌を突きながら上体を起こした。
「ここって?」
「山の裾野だよ。ほら!」
リーラが手を伸ばしながら指差した。その方向に顔を向けると、灰色の山が聳えていた。
その裾野は大きく広がっていて、山頂までの緩やかな傾斜からすると、さほど高くはないように思えた。特徴的なのはその山頂だけが真っ黒な雲に覆われていることだった。まるでカリフラワーのような形の雲で、その内側が時々ピカッと光っていた。これほどの晴天であの山頂にだけ雷雲があることに、とても違和感を覚えた。
リュウはリーラのほうに顔を向けると、「こんな見晴らしのいいところで、バウルに見つからないの?」と首を傾げた。いつの間にか呼吸は元に戻っていた。
「大丈夫、ここにはナーガは近寄らないんだ」
「どういうこと?」
リーラは躊躇するようにほんの一瞬だけ目を伏せた。それから顔を上げると、リュウの瞳を見据えた。
「あの山はナーガの墓場なんだよ」
「えっ!」
思わずリュウは調子外れの声を上げていた。
「ナーガは自分の死期が分かるらしい。だから、あの山に近づくのは死ぬ直前のナーガだけなんだよ。あの山はナーガの生命を吸い取るって言われてるからね。だから生きてるナーガは絶対に近寄らないんだよ」
緑の草の上に腰を下ろしたまま、リュウはゴクリと喉を鳴らしながら生唾を飲み込んだ。
「あれがナーガの墓場……」
サラがよろけながら立ち上がると、灰色の山を見つめた。草木が一本も生えていないその姿はとても不気味で、まさしく死の山といった感じだった。
「ヒトが立ち入って、なんともないんですか?」
サラの問いかけに、リーラは苦笑いしながら、「わたしの一族は元々あそこで暮らしていた。だけど食料と安全を求めて森に移住したんだ」と頭を掻いた。
「すいません。そうだったんですね」
サラがリーラに向かって頭を下げた。
「謝ることはないよ。ナーガが近寄らないからといって安全とは限らない。獰猛な野獣たちはたくさんいるからね」
リーラが灰色の山のほうへ険しい眼差しを向けた。
それからリュウたちは灰色の山を目指して歩き始めた。山に近づくにつれて、だんだん草が疎らになった。その代わりに岩や砂地が増えて、少しずつ爪先上がりの傾斜に変わっていった。
そして、いつしか辺り一面が岩と砂だけの砂漠のような光景になると、先頭を進んでいたリーラが急に立ち止まって振り返った。
「リュウ、サラ。ここからはわたしのすぐ後ろを付いてくるんだ」
リュウは眉根を寄せながら、「どうして?」と尋ねた。
「この山にはナーガに追い立てられたヒトが大勢逃げ込んでくる。それをエサにして食らう野獣がいるんだよ、ここには」
リーラは背負っていた荷物を地面に置くと、中から小振りな弓と短い矢を取り出した。弓の具合を確かめるように、ピンと張られた弦を爪弾くと、ビュンと鋭い音色が辺りに響き渡った。そして赤く染まりかけた西の空に目をやりながら、「日が落ちるまで、そんなに時間がない。できるだけ安全な寝床を探さないと……」と呟いた。
その姿を見つめながら、リュウは、(ヒトを食らう野獣……)と、頭の中でリーラの言葉を繰り返した。
それからしばらくの間、リーラを先頭にして周辺を歩き回った。そして、とりわけ大きな岩を見つけると、 リーラがその傍に立ち止まって背中の荷物を下ろした。
「今日はここで寝ることにしよう」
「ここで……ですか?」
サラが目を丸くした。地面は灰色の細かい砂地で、このまま横になったら目を覚ます頃には全身真っ黒になっているだろう。
「何も地面の上に直接寝ろって言ってるわけじゃないよ」
リーラは、荷物の中から折り畳んだ布地を取り出した。その端を摘んで立ち上がると、パンと乾いた音を立てながら空中で広げた。そのまま腰を屈めながら地面に敷くと、その布地は縦横五メートルほどの大きさになった。
「さあ、今日の寝床ができたよ」
ニッコリと微笑むと、リーラはサンダルを脱いで布地の上に腰を下ろした。リュウは片膝を突いて手を伸ばすと、指先でそっと布地の表面に触れた。その表面はこげ茶色で、手触りはまるでビニールのようにツルツルしていた。その端を指で摘み上げると、驚くほど薄くて厚さは一ミリもなかった。
「これはね、ガネシュという動物の皮だよ。ナーガと同じくらいの大きな動物だ」
「そんなに大きいの?」
「ああ、だけど四本足で歩いて草木を食物にしている。口元から伸びた二本の大きな牙と長い鼻が特徴だけどね。とにかく大人しい動物だよ」
リュウは、長い鼻と聞いてピンときた。
(きっとゾウみたいな動物に違いない!)
頭の中でガネシュの姿を思い浮かべながら、独りでウンウンと頷いていた。その様子を見てとったリーラが、「何やってんだい、リュウ?」と半ば呆れていた。ハッと我に返ると、リュウは頬を染めながら頭をかいていた。
「まあ、いいよ。ガネシュの皮は薄くて丈夫なうえに水も通さないんだよ」
リーラが荷物を詰めたカバンの中から、分厚いせんべいのような茶色の物体を取り出すと、リュウとサラに差し出した。
「ほら、今晩の夕食だよ。固いからよく噛んで食べな」
リュウは茶色のせんべいを受け取ると、「何ですか、これ?」と鼻に近づけた。香ばしい匂いがして、思わず口の中に唾が溜まった。
「ガーエの肉をスモークして乾燥させたものだよ。美味しいのは保証するから」
カリッと乾いた音を立てながら、リーラがせんべいのような肉片を齧った。リーラの真似をして、リュウも肉片に前歯で噛りついた。
(固っ!)
カチカチに固まった肉片は容易に噛み切れない。悪戦苦闘をしているリュウの様子に、「リュウ、奥歯を使って噛みな。そんなふうじゃ前歯が折れるよ」と、リーラが愉快そうに笑った。
リーラの言う通りに口の中に肉片を突っ込んで奥歯で噛み締めると、カリッと音を立てて肉片が割れた。そのまま奥歯で何度も咀嚼していると、徐々に柔らかくなっていった。甘い肉汁の味を口の中で感じるぐらいになったところで、やっと肉片を飲み込んだ。一切れ吞み下すだけでアゴの筋肉が強張っていた。
リュウは、手に握っている残りの肉片に目をやりながら、(これを食べ上げる頃には……アゴが外れてるかも……)という不安が過ぎり、フゥと小さな溜め息を漏らした。
その溜め息を聞き逃さなかったサラが、「どうしましたか、リュウ」と、すかさず問いかけた。
「いや、なんでもないよ……」
ごまかすように肉片を口の中に突っ込むと奥歯でカリッと噛み砕いた。サラは、この固い肉片をなんの支障もなく噛み砕いて吞み下していた。その手には既に二つ目の肉片を握っている。
二人のやり取りを遠目から眺めていたリーラは、プッと小さく噴き出した。
「リュウ、あんたにも苦手なことはあるんだね。でも今はこれしかないんだから我慢しな」
リーラの言葉に、リュウはコックリと頷くと、口の中でカリカリと音を立てながら懸命に肉片を噛み砕いた。
なんとか食事を終えた頃には、辺りがすっかり薄暗くなっていた。
リーラが、リュウとサラに交互に目をやった。
「今日はここで寝ることになる。でも、三人のうち、一人が見張りで起きてなきゃいけない。四時間毎に交替だ。それなら三人で一晩を越せる。いいね」
すると、サラが眉根を寄せた。
「わたしとリーラの二人で交替するのはどうですか?」
即座にリーラが首を振った。
「どれだけ長くここで暮らしていくことになるか分からない。ここで生き残るためには三人が力を合わせないとダメなんだよ」
リーラの言葉に、サラはがっくりと肩を落とした。
「僕なら大丈夫だよ、サラ」
リュウがサラに笑いかけた。リーラが満足そうに頷いた。
「二人とも聞いておくれ。ここの野獣は夜目がきく。だから獲物を狙うのはいつも真夜中なんだ」
思わずリュウは頬を強張らせた。
「だから、日が沈んでから次の太陽が昇るまで、野獣が嫌がる香木を燃やし続けなければならない。その炎の番をするんだ」
リーラの話に、リュウは思わず背筋が寒くなった。
リーラは、カバンの中から一本の細い木の枝と、小さな靴ベラのような銀色の鉄片を二つ取り出した。そして枝を大きな岩の根本に突き刺すと、その枝の先端部分で銀色の鉄片を叩き合わせた。カンカンと鋭い金属音が辺りに響き渡ると、木の枝の先端に火がついて白い煙が昇り始めた。
リーラは、リュウとサラのほうに振り返った。
「さあ、これでいい。この香木の火を絶やさぬようにすれば大丈夫だよ。まずはわたしが見張りをする。次がサラで、その次がリュウだ。それでいいね」
「はい……」
「はっ、はい」
ちょっと戸惑い気味に、サラとリュウが返事をした。
それから、リュウは縦横五メートルほどのガネシュの皮の上で、サラと並んで横になった。リーラはか細い煙を昇らせている香木のそばに腰を下ろしていた。
リュウは横になったまま、満天に散りばめたような星空を見上げた。この世のものとは思えぬほど、あまりにも美しい輝きに、かえって不安を募らせた。しばらく悶々(もんもん)として寝返りを打っていると、いつのまにかサラの安らかな寝息が聞こえてきた。すぅー、はぁーという微かな息づかいに耳を澄ませていると、いつしかリュウも眠りに落ちていた。
それから、どれくらい経ったのだろう。
「リュウ、起きて」
体を揺さぶるサラの声に、リュウは目を覚ました。
「見張りの時間よ」
寝ぼけ眼で上体を起こすと、あいかわらず夜空にはたくさんの星々が瞬いていた。ふと横を見ると、リーラが手枕をしながら眠っていた。
「大丈夫、リュウ?」
「ああ、サラ、大丈夫だよ」
リュウが立ち上がった。
「何かあれば、すぐに起こしてね」
「うん、ありがとう」
満天に散りばめられた星明かりのもとで、リュウが煙を昇らせている香木に近寄った。香木が突き立っている地面の傍らには、銀色の鉄片が二つ置かれていた。
(これって、きっと火打ち石みたいなものなんだろうな……)
リュウは、岩に背をもたせかけながら腰を下ろした。ヒューと風が吹き通る音が聞こえる以外、周囲は深い静寂に満ちていた。
リュウは夜空を見上げると、星たちの中に見覚えのある星座を探しながら、時間が経つのを待ち続けた。その間も香木の枝の先から一筋のか細い煙が立ち昇っていた。
ずっと上を向き続けていたために、そのうち首筋が痛くなってきた。首筋に掌を当てて軽く揉みほぐしていると、ふと正面の闇の中に二つの青い光が浮かんでいるのに気づいた。
(なんだ、あれ?)
目を凝らしていると、二つの青い光はゆっくりと横に動いていた。それはこちらの様子を窺っている二つの眼に違いなかった。思わず背筋に、ゾクッと冷たいものが走った。
リュウは弾かれたように立ち上がると、ガネシュの皮の上で横になっているリーラとサラに駆け寄った。
「リーラ!サラ!起きて!」
耳元で叫ぶリュウの声に、リーラとサラが跳ね起きた。反射的に、リーラは矢を手に取って、そのまま弓につがえた。
「どうした、リュウ!」
周囲に矢の先端を向けながら リーラが問いかけた。
「あれを!」
リュウが暗闇の中に浮かぶ二つの青い光を指差した。不気味なその光を目にして、サラは怯えたように口元を掌で覆った。リーラは青い光を見据えながら、「バーグフだ」と低い声で呟いた。
その青い光は、こちらを窺うように一定の距離を保ったまま、ゆっくりと旋回するように動き続けていた。
「何ですか、バーグフって?」
「大きな鋭い牙……刃物のような爪……真っ白な体に黒い縞模様……鼻も利くうえに視力もいい……跳ぶように駆ける手足……あいつに勝てるのはナーガだけだ……」
リーラが矢の先端を青い光に向けた。
「サラ!香木を見ておくれ!煙は上がってるかい?」
サラは岩に駆け寄ると、「大丈夫よ!まだ半分以上残ってるわ!」と、リーラの背中に声をかけた。
「絶対に香木の煙を絶やさないで!頼んだよ!」
「わっ、分かったわ」
サラは、か細い煙を昇らせている香木の枝を凝視した。再びリーラが口を開いた。
「バーグフは香木を嫌がって近づかない。香木の煙は野獣たちの三半規管を狂わせて気絶させるんだ。このまま朝を迎えれば、きっと諦めて姿を消すはずだ。だから、もう少しの辛抱だよ」
「うん、分かった!」
リュウは、弓を引き絞っているリーラの背中に向かって返事をした。
まんじりともせず三人は朝を待ち続けた。
そのうちに東の空が徐々に乳白色に変わり始めた。同時に、それまで夜空に瞬いていた星々が次々と姿を消していった。そして、東の空が透き通るような白になった瞬間、オレンジ色の朝日が地平線から顔を出した。
地上に差し込んだ陽射しが、見渡す限り一面に広がる灰色の岩と砂を浮かび上がらせた。リュウたちから五十メートルほどの距離を置いて、巨大なホワイトタイガーが青い瞳でリュウたちを見据えていた。頭を低くしながら円を描くように移動している。その口元から伸びた長い牙が朝日を反射して鈍い光を放っていた。
その姿を目の当たりにして、リュウは、(トラだ……それも、まるでカバのようにでかい……)と、思わず生唾を呑み込んだ。
リーラが弓矢を向け続ける理由が分かる気がした。油断した姿をわずかでも見せれば、あの巨大なホワイトタイガーなら香木の煙に構う(かまう)ことなく、こっちに襲いかかることだって十分にありそうだ。
「日が昇った。もうすぐあのバーグフも寝ぐらに帰るはずだ」
リーラの言葉に頷きながら、リュウとサラは、こちらを窺っている巨大なトラのほうに目をやった。
だがいつまで経っても、バーグフは立ち去る気配を見せなかった。いつしか太陽は地平線を離れ、地上に向かって眩いばかりの陽射しを注いでいた。
「ねえ、リーラ。いつになったら、あのバーグフは居なくなるの?」
待ち続けることにしびれを切らしたように、サラが問いかけた。バーグフから瞬時も目を離さないようにしながら、リーラが首を捻った。
「なにかおかしい……あいつはなにを待ってるんだ……」
リュウが東の地平線に昇る朝日を見上げた。空にはムクムクと大きな入道雲が湧き上がって刻々と姿を変えていた。いつしか東から風が吹き始めていた。
ふと東の地平線に目をやると、青い空と灰色の地面の間がぼんやりと霞んでいるのに気がついた。
(なんだ……あれ……)
じっと目を凝らしていると、東から吹きつける風が徐々に強くなってきた。地平線の向こうから灰色の壁が近づいていた。
「リーラ!あれ!」
灰色の壁を指差しながら、思わずリュウは大声を上げた。
リーラとサラが同時に東の地平線のほうに顔を向けた。ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる灰色の壁を目にして、リーラの顔色が真っ青になった。
「リュウ!サラ!すぐにガネシュの皮をしまって荷物を体に括りつけておくんだ!」
「あれはいったい?」
「砂嵐だよ。ここでは時々起こるんだ。砂嵐で香木は効かなくなる。あいつはこれを待ってたんだ」
サラとリュウは慌ててガネシュの皮を片付けた。それからサラが荷物を背負うと、幾重にも紐で体に括りつけた。その間にも、吹きつける風の勢いは増していった。
バーグフのほうに目を向けると、ペタリと耳を伏せたまま、顎先を地面に触れるほどに頭を下げていた。じっとこちらを窺っている。いつの間にか、少し距離が縮まっていた。
「リュウ、サラ。三人の体をそれぞれ紐で縛って繋いでおくれ!一旦、砂嵐の中に入れば全く視界が利かなくなるよ!それから急いで顔を布で覆うんだ!」
徐々(じょじょ)に距離を詰めてくるバーグフを見据えながら、リーラが怒鳴るように大声を上げた。弓を引き絞る手が微かに震えていた。
大急ぎで、サラとリュウが三人の体を紐で繋ぎ合わせた。それからリュウは、自分の顔を布でグルグル巻きにすると、布の間に隙間を作って視界を確保した。そして、リーラの背中に向かって、「あいつは、どうするつもりだろう?」と問いかけた。既にリーラも鼻と口を布で覆っていた。
「砂嵐の中ではバーグフでも視界は利かない。だから、砂嵐に入る直前を狙って襲いかかるに違いない」
「リーラの矢で倒せるの?」
「眉間の真ん中に矢を打ち込めば倒せる……絶対に外すわけにはいかない……」
リュウはバーグフのほうに目をやった。既にその距離は三十メートルほどに縮まっている。
(こんなに風が強いのに。眉間の真ん中に命中させるなんて……いくらリーラでも……)
そんな不安が湧き上がるのを止められず、思わずリュウはブルッと体を震わせた。
砂嵐の灰色の壁が容赦なく迫ってきた。どんどん距離を詰めてくるバーグフから庇うように、サラはリュウの前に出ると、両手の拳を握り締めた。ショートヘアの黒髪が横殴りの強風に煽られて千々(ちぢ)に乱れている。剥き出しになった、か細いうなじが小刻みに震えていた。リュウの背後には大きな岩があるだけで、その根本に差している香木の枝が、激しい風に左右に揺れていた。
砂嵐の灰色の壁が二十メートルほどの距離まで近づいた瞬間、バーグフが四肢をしならせながら、リュウたちに向かって走り始めた。
(来た!)
激しい風に抗うように、リュウは両足を踏ん張っていた。そのまま腰を落として姿勢を低くしながら身構えた。
ビュンという鋭い音を立てて、リーラが引き絞った弓を放った。矢は一直線にバーグフへ向かって飛んでいく。
矢はバーグフの首筋に突き刺さった。
(外れた……)
その瞬間、バーグフが高く跳び上がった。大きく口を開けながら、一番先頭に立つリーラに向かってバーグフの鋭い牙が迫った。
その時、リュウの頭の中でキンと甲高い音が響いた。
空中でバーグフがピタリと動きを止めた。
すぐさまリュウは、瞳を大きく見開いているサラの横をすり抜けるように前へ跳び出した。先頭のリーラは、絶望的な表情で顔を引きつらせていた。空中で固まっているバーグフは、コマ送りのような動きでリーラの前に近づいていた。
リュウはリーラの横に回ると、その体を両手で抱えるようにしながらバーグフの正面から五メートルほど横へ押しやった。そして、そのすぐ後ろで両手の拳を握り締めながら硬直しているサラに近づくと、同じように移動させた。
再び、キンと甲高い音が響いた。
目の前の獲物に襲いかかろうとしていたバーグフの牙が空を切った。そのままゴンと大きな音を立てながら、脳天から岩に激突した。
リーラとサラは、なにが起こったのか分からずに呆然と立ち尽くしていた。
次の瞬間、砂嵐に飲み込まれた。
全く視界が利かなくなり、ゴーッという砂嵐の轟音だけが鼓膜に響いていた。
リュウは、自分の体に結びつけられた紐を手繰るようにしてサラの体にしがみついた。そして、サラの体に括りつけてある紐の一方を手繰りながら、リーラの体を探し当てた。そのまま三人は身を寄せ合いながら地面に膝を突いた。
体じゅうに砂の粒が叩きつけられ、身動き一つできなかった。砂嵐が巻き起こす轟音のなかで、リュウは固く瞼を閉じたまま身を縮めていた。
十分ほど経ったところで、唐突に砂嵐が止んだ。まるで別世界に放り出されたように、辺りは物音一つしない静寂に包まれていた。
リュウはゆっくりと瞼を開いた。真横には、全身が砂まみれになったサラとリーラが蹲っていた。すると顔の周りの布を外しながら、まずリーラが立ち上がった。それに続いてリュウも立ち上がると、うずくまったまま身を固くしているサラの肩に手を置いた。
サラはビクッと身震いをすると、慌てて顔の布を外しながら身を起こした。
「砂嵐は?」
サラの問いかけにリーラが、「治まったみたい……」と答えた。
リュウが周囲を見渡すと、地面の起伏が一変していた。岩があったところは、こんもりと小さな砂山ができている。真っ平らだった灰色の砂地は、あちこちが抉られて激しく波打っていた。
リュウが目を凝らすと、砂嵐に削られた窪みの一つに、緑色をした二本の柱が突き出ていた。その太さは大人の腰回りほどもあり、先端が尖っていた。
(なんだろう……あれ?……)
横にいたサラが、「あっ、見て!」と声を上げながら、砂山の一つに向かって指を差した。その方向に目をやると、砂山の斜面が雪崩を起こすように崩れ始めていた。その斜面から、白い毛並みの腕が見えて、指先の鋭い爪が朝日を反射して輝いていた。
「バーグフ!」
悲鳴のような声を上げながら、リーラが弓に矢をつがえると、その砂山に向かって狙いをつけた。リュウは反射的に駆け出しながら、「サラ、リーラ!こっちに!」と緑色の柱がある窪みに飛び込んだ。リュウの声に引っ張られるように、サラとリーラが後に続いた。
三人は砂地の窪みに腹這いなると、息を潜めた。その間も、ザーッという砂山の斜面が崩れる音は続き、そのうちにブホッ、ブホッという咳き込んだ息遣いが聞こえてきた。砂に埋もれていたバーグフが砂山から抜け出したのに違いなかった。
それからしばらくの間、ブホッ、ブホッという咳き込む音が続いた。どうやら鼻や口に入り込んだ砂を必死に吐き出しているようだった。窪んだ砂地の上に張りつくようにしながら、リュウはその呼吸音に耳をそばだてていた。
すると唐突に、グルルッと喉を鳴らすような低い唸り声が聞こえた。リュウがふと横を見ると、リーラがクルッと体を横向きにした。その姿勢のまま胸元で矢をつがえると、弓を引き絞った。もしもバーグフが近づいてきたら、すぐさま矢を放つつもりなのだろう。
リュウは、自分にできることはないかと周囲を窺った。すると、自分の足先の砂地から突き立っている二本の緑色の柱が目に入った。
(なんとかあれを使えないだろうか?)
そう思ったリュウは、身を伏せたまま、手足を動かして後退った。そうしている間にもグルルッという威圧するような唸り声が窪みのほうに近づいてくるのが分かった。
身を伏せたまま音を立てないように、リュウは二本の緑色の柱の間に体を横たえた。その柱の先端は鋭く尖っている。リュウは柱の片方に手を伸ばすと、指先でその緑色の表面に触れてみた。
その表面はツルツルで、まるで丁寧に磨かれた象牙のように滑らかだった。
(なんだろう……これ?……)
その不思議な感触に、今度は掌を当ててみた。
その瞬間、リュウの頭の中に小さなナーガの姿が浮かんだ。きっと子供のナーガに違いない。その全身は水色のウロコで覆われている。つぶらな瞳も澄んだ水色だ。背中から生えた二つの翼をバタバタと動かして、空を飛ぶ練習でもしているみたいだった。まだ翼を動かすのに慣れていない様子が、かえって可愛らしい。
突然、窪んだ砂地が、グラリと大きく揺れた。
「わっ!」
リュウは思わず声を上げた。砂地の表面のあちこちに割れ目が入り、どんどん広がっていく。目の前にある二本の緑色の柱が左右に揺れていた。それから柱の周りの地面が大きく割れて盛り上がりながら、空に向かって二本の柱が昇り始めた。
ザーッという音を立てながら流れ落ちる砂に巻き込まれて、リュウは転がり落ちていった。そのままドスンとお尻を地面に打ちつけると、その真横にサラとリーラが転がり落ちてきた。
上から降ってくる大量の砂を避けるように、リュウは顔の前に両手をかざしながら後退った。どんどん空高く昇っていく緑色の二本の柱を見上げると、流れ落ちる砂の間に、朝日を反射して輝く緑色のウロコが目に入った。
(なっ……なんだ!)
眉根を寄せながら、リュウは、空中に浮かぶ緑色の柱を呆然と見上げていた。
ようやく上から降り注いでいた砂が止んだ。
目の前には全身が緑色のウロコに覆われた巨大なナーガがいた。バウルよりもひと回り大きい体で、二本の柱と思ったのはその頭に生えている角だった。朝日を浴びながらキラキラと緑色の閃光を全身から放っている姿は、まるで巨大なガラス細工のようで、息を呑むほどに美しかった。
「リュウ!走れ!」
背中に呼びかけるリーラの声にハッと我に返ると、リュウはクルリと反転して駆け出した。だが、これほどの至近距離に突然現れた巨大なナーガから逃げ切れるとは、とても思えなかった。それでも、リュウは必死に走り続けた。
すると後方から、「バウッ、バウッ」という少しくぐもった咆哮が聞こえた。
リュウが立ち止まって振り返ると、先ほどのバーグフが緑色のナーガの正面で吠えていた。もうちょっとのところで獲物を捕らえることができたのに、突然現れた巨大なナーガに邪魔をされて、バーグフは怒っているようだった。だが、天に向かってそそり立つように首を伸ばしているナーガの前では、バーグフは小さなネコのぬいぐるみのように見えた。
バーグフが吠え続けても、緑色のナーガはいっこうに気にする様子はなく、朝日を浴びながら静かに佇んでいた。その姿に、どこか違和感を覚えて、リュウは朝日の陽射しを遮るように掌をかざしながら、じっと見つめていた。
(あれっ?)
その緑色のナーガは左眼しかなく、右眼のところがノッペリと緑色のウロコで覆われていた。さらに肩口から背中にかけて左右に翼を広げているが、首の根っこから尻尾の付け根にかけて背中の真ん中に三つ目の翼が生えていた。
(これってホントにナーガ?……)
リュウが首を傾げていると、緑色のナーガがゆっくりと口先を上げて天を仰いだ。次の瞬間、首を振り下ろしながら、「ドゥ」という太い声を轟かせてクシャミをした。
ちょうどナーガの正面にいたバーグフはクシャミに吹き飛ばされた。そのまま砂地の上をコロコロと転がっていく。かなりの距離を転がり続けてようやく回転が止まった。そして、バーグフはよろけながら立ち上がると、地平線の向こうへ一目散に走り去った。
「リュウ、こっちだ!」
呆然と立ち尽くしていたリュウの背中に向かってリーラが呼びかけた。リュウが振り向くと、こんもりと盛り上がった砂地の小山の陰から、リーラが掌を上下に振っていた。
慌ててリュウは駆け出すと、リーラとサラが身を隠している小山の陰に滑り込んだ。そして、動きを止めたまま、微動だにしない緑色のナーガのほうに目をやった。
「なんでここに生きてるナーガがいるの?あれってもうすぐ死ぬナーガなの?」
「そんなはずはない。この山の地面に降り立った途端、ナーガはそのまま死んでいくと言われている。ここで動き回るやつなんて見たことがないよ」
まるで訳が分からないといったように、リーラは肩を竦めていた。
「でも、街の中で不慮の死を遂げたナーガはどうするの?ジルニトラ王みたいに?誰かが遺体をここまで運ぶ必要があるでしょ。それじゃないの?」
「違う。不慮の死を遂げたナーガの体は、数匹のナーガたちが空中を飛んで運んでくる。そしてこの山の上に差しかかったところで、空から遺体を落とすんだ。ナーガの命を吸い取ると言われているこの地に降り立つやつなんているはずがない」
リュウは緑色のナーガのほうを指差しながら、「ちょっと、よく見て。あれって本当にナーガなの?」と、目の前にいるリーラとサラに目をやった。二人がナーガのほうに顔を向けながら眉根を寄せた。
「ほら、右眼がないし……背中には三つめの翼がある」
リーラが瞳を大きく見開きながら、「はぐれナーガだ……」と呟いた。
「なに?はぐれナーガって」
「ごくまれに生まれる奇形のナーガだよ。わたしもこの目で実際に見るのは初めてだ」
「ふーん……そうなんだ……」
リーラに軽く頷き返すと、リュウは緑色のナーガに目をやった。リーラが口にした『奇形』という言葉が心に引っかかった。
(ヒトとナーガの合いの子……きっと僕も奇形なんだろうな……)
不意にそんな思いが心の内に湧いた。瞳に映る緑色のナーガは朝日を全身に浴びながら彫刻のように固まったままで身動き一つしない。
(あいつも友達が一人もいなくて……独りぼっちなんだろうか?……)
その瞬間、母から父の鏡を貰った時の記憶が蘇った。
あの時、鏡面の中に緑色のナーガの姿が見えた。大きな翼を左右に広げながら滑空するように白い雲の間を飛んでいた。そして、そのナーガの背中には三つ目の翼が生えていた。
(あの時見えたのは……このナーガに間違いない……)
リュウは半ば無意識のまま、 砂地の小山の陰でゆっくりと立ち上がった。それから何かに突き動かされるように、突然、緑色のナーガに向かって走り始めた。
「待て、リュウ!相手はナーガだぞ!」
背中に浴びせられたリーラの怒声に構うことなく、リュウは夢中で走り続けた。
緑色のナーガの正面に回ると、立ち止まってナーガの顔を見上げた。緑色のナーガはスローモーションのような動作でゆっくりと、リュウのほうに顔を向けた。左側だけしかない瞳は緑色で、まるでエメラルドのように鮮やかな光を放っていた。
リュウは、一度大きく息を吸い込むと、
「ねぇ、君はなんて名前なの?」
と声を張り上げた。緑色のナーガは、驚いたように片目しかない瞼を瞬かさせた。
そして、わずかに口を開くと、
「アトゥル……」
と小さな声で呟いた。
その声は透き通ったボーイソプラノだった。体は大きいものの、もしかすると年齢はリュウと同じくらいかもしれない。 リュウは、アトゥルの宝石のような瞳を見つめた。
「アトゥル……いい名前だね。僕はリュウっていうんだ!」
すると、突然、アトゥルがリュウに背中を向けると、ノロノロと歩き出した。太い手足をドンと地面に下ろす度に、砂埃が舞い上がった。リュウは慌てて追いかけた。
「ちょっと待って。さっきは僕たちを助けてくれて、ありがとう」
アトゥルは真っ直ぐに前を向いたまま、返事もせずに悠然と手足を前に運んでいた。リュウが走りながら後ろを振り返ると、砂地の小山の陰から飛び出したリーラとサラが追いかけてきた。
「ねぇ、アトゥル!」
リュウが声を張り上げると、アトゥルは足も止めずに長い首を捻ってリュウのほうに顔を向けた。
「おいらは一人がいい……どっかへ行ってくれ……」
アトゥルが再び前を向いた。リーラとサラは、リュウの後方を走りながら、近づきも遠ざかりもせずに一定の距離を取っていた。
「聞いてもいいかい、アトゥル?君の角に触れた時、子供のナーガの姿が見えたんだ。全身が水色の……あれは誰なの?」
リュウの言葉に、突然、アトゥルは凍りついたように動きを止めた。朝日を浴びて全身から緑色の閃光を放ちながら硬直している。
思いも寄らない反応にリュウは驚いた。
(いったいどうしたんだろう?……)
固まったまま、ピクリとも動かないアトゥルを目の前にして、リュウはなすすべも無く呆然と立ち尽くしていた。
いつの間にか、リーラとサラが背後に立っていた。小首を傾げながら、サラが、「リュウ、いったいどうしたの?」と、リュウの肩に手を置いた。
リュウが振り返ると、サラの後方では、リーラが矢でアトゥルに狙いを定めていた。
リュウは、「大丈夫だよ。このナーガは僕たちに危害は与えないから。だから弓矢をしまって」と、リーラを宥めた。リーラは渋々(しぶしぶ)といった様子で、弓矢をカバンの中に収めた。
「ねぇ、リュウ。このナーガって、いったい?」
リュウはサラに視線を向けた。
「アトゥルって言うんだ。さっきは助けてくれてありがとうってお礼を言ったんだけど……その後、僕が変なこと、言っちゃって……それでこんなふうに固まったんだ……」
「なあに、変なことって?」
「それは……また後でね」
ちょっと当惑したように、サラがぎこちなく頷き返した。
「おい、今のうちに逃げたほうがいいんじゃないのか?」
リーラが遠巻きに距離を取りながらリュウに呼びかけた。
「リーラ、聞いて。アトゥルは大丈夫だよ。さっきもバーグフを追っ払ってくれたじゃないか」
サラがリーラのほうに振り返った。
「そうよ。むしろこのナーガ……アトゥルと一緒にいたほうが安全だわ」
サラの言葉にリーラが目を剥いた。
「一緒にだって!ナーガだよ、こいつは!冗談じゃないよ。わたしはまっぴらだね」
サラがリーラのほうに足を一歩踏み出した。
「リーラ、落ち着いて。私だって、自分で口にするまではガーエの肉があんなに美味しいなんて思わなかった」
「それがなんの関係があるんだい!」
「頭で思い込んでることが真実じゃない時もあるってこと」
「ふん!」
ちょっと拗ねたようにリーラがソッポを向いた。
「それだけじゃないわ。さっきバーグフに飛びかかられた時、なぜ助かったと思う?」
ソッポを向いたまま、リーラがアゴに手を当てながら首を傾げた。サラがリーラのほうにもう一歩近づいた。
「よく思い出してみて。バーグフが嚙みつこうとした瞬間、あなたは別の場所に移動したでしょう」
「そうだ……なんで?……」
「あれはリュウがやったんだと思うわ。そうでしょう、リュウ」
サラが振り向きざま、誤魔化しを許さないような強い眼差しでリュウを見据えた。その眼差しにちょっとたじろぎながら、リュウは、「うっ、うん。そうだけど……」と呟いた。
その答えに満足げに頷きながら、サラは、リーラのほうに向き直った。リーラは眉根を寄せたまま、リュウの顔を眺めていた。
「いったいどういうこと?」
「前にも言ったでしょう。リュウには不思議な力があるって。でも、だからこそバウルが執拗に追ってくるのよ」
「そうなのか……」
「だから、リュウがアトゥルのことを信じられるって言うなら、私も信じる」
「……」
腕組みをしながら、リーラは押し黙っていた。
「あなたのご両親がバウルのせいで命を落としたことは知ってる。でも、そのことはアトゥルには関係ないでしょう」
リーラは腕組みをしたまま俯いていた。そんなリーラに近寄っていくと、サラが話を続けた。
「ごめんなさい。リーラ。この死の山で生き残ることは簡単じゃない。あなたの言う通りだったわ。いつなんどき野獣に襲われるかもしれない。だからこそ今は、リュウを信じましょう」
腕組みをしたまま固まっているリーラの腕に、サラが掌をそっと乗せた。
「分かった……」
リーラがコックリと頷いた。それから硬直したまま動かないアトゥルのほうを見上げると、「ところで、こいつはいつになったら動き出すんだい?」とアゴをしゃくった。
リュウがアトゥルの正面に回り込んだ。そして、アトゥルの顔を見上げながら目を凝らした。アトゥルは、緑色の瞳孔が大きく開いたまま、光を失っていた。空に向かって長い首を垂直に伸ばしたまま、どうやら気を失っているようだった。
(水色の子供のナーガのことを言われたのがよっぽどショックだったんだな……悪いことをしたなあ……でも、いつまでもこのままっていうわけにもいかないし……)
リュウは、掌を口元に当ててメガホンのようにすると、「アトゥル!アトゥル!」と大声で呼びかけた。
その途端、ブルッブルッと全身を震わせながら、アトゥルの瞳に光が戻った。そしてアトゥルは、目の前に立っているリュウをボンヤリと見下ろした。リュウは緑色の瞳を見つめながら、「アトゥル、大丈夫かい?」と声をかけた。
「ああ、なんでもない。もう寝ぐらに帰るよ。そこを退いてくれ、リュウ」
「分かった!」
ごく自然な調子でアトゥルに名前を呼ばれて、思わずリュウは声を弾ませた。サッと身を翻すように走り出すと、サラとリーラのところに戻った。アトゥルはゆっくりと手足を動かしながら前へと進み始めた。手足を動かす度に地面から砂埃が舞い上がり、リュウたちは、口元を掌で覆いながら、アトゥルの横を並走した。
進むにつれて爪先上がりの勾配がどんどん急になってきた。リュウたち三人は、ハアハアと息を切らせながら、悠々(ゆうゆう)とした足取りで進むアトゥルの横を必死に走り続けた。
遠くに見える灰色の山の山頂は、相変わらず真っ黒な雷雲に覆われていた。時折、雲の中で稲光が走っていた。
一時間ほどで灰色の山の裾野にある切り立った崖にたどり着いた。崖の根本には大きな洞窟があり、アトゥルはその中に足を踏み入れると、躊躇なく奥へと進んでいった。
リュウたちは洞窟の入り口で足を止めた。洞窟の中は陽の光も射さず薄暗い。リュウは洞窟の奥に目を凝らした。入り口から三十メートルほど入ったところで、アトゥルがドスンと大きな音を立てながら巨大な体を地面に横たえていた。
「おい、どうするんだよ、リュウ」
途方に暮れたように、リーラは腰に両手を当てていた。
「うん、中に入ろうと思うんだけど……」
リュウは洞窟の中に目をやった。
「本気かよ……相手はナーガだぞ」
「大丈夫だよ、アトゥルなら。ここにいれば絶対に野獣は襲ってこないし」
「そりゃあ、そうだろうけど……」
不安げな表情でリーラが首を傾げた。そんなリーラの様子を見て、サラは、「行きましょう、リーラ。それしか道はないわ」と、半ば強引にリーラの手を握った。
サラは、もう一方の手をリュウのほうに伸ばすと、「さあ、リュウ。あなたが先導して」と軽く顎をしゃくった。リュウはサラの手をギュッと握ると、洞窟に中へ一歩足を踏み入れた。手を繋いだまま、サラとリーラが後に続いた。
リュウは一旦立ち止まると、薄闇の中でじっと目を凝らした。周りの暗闇に徐々(じょじょ)に目が慣れてくると、この洞窟は入口よりも中のほうが大きく広がっていることに気づいた。これならアトゥルの大きな体でも十分に動き回ることができるだろう。
洞窟の奥に目をやると、アトゥルが首を伸ばしたまま、疲れ果てたようにグッタリと地面に体を横たえていた。
(まさか具合でも悪いんじゃないかな……)
そう思ってしまうほど、アトゥルの姿には生命力が感じられなかった。リュウはその姿を見つめながら立ち竦んでいた。
「リュウ、どうするの?」
手を繋いだまま、サラが声をかけた。リュウは振り返ると、「やっと目が慣れたよ。さあ、奥へ進もう」と足を踏み出した。リュウの手に引き摺られるようにして、サラとリーラも再び歩き出した。
洞窟の一番奥までくると、アトゥルが伸ばした首を地面の上に放り出すように横たわっていた。まるで彫像のようにピクリとも動かない。その手前でリュウが足を止めると、サラが手を離した。みんな暗闇に目が慣れてきたようで、リーラがアトゥルのほうを指差すと、「リュウ……こいつ、大丈夫かい?……」と眉根を寄せた。
「うーん、寝てるだけだと思うんだけど……」
「だって、こんな姿で寝てるナーガなんて見たことがないぞ。普通、ナーガは首を曲げて胸に頭をくっつけたまま、自分の心臓の鼓動を聴きながら眠るんだから……」
リュウは返す言葉が見つからなかった。サラが腰を曲げて、アトゥルのほうをしげしげと眺めまわした。
「リーラの言う通りだわ……こんな姿は見たことがない……ひょっとして病気なのかしら?」
リーラが腰に手を当てると、「それとも、こいつがはぐれナーガで普通じゃないから?」と呆れ(あきれ)たように声を上げた。反射的にリュウはリーラに詰め寄った。
「そんな言い方はないよ、リーラ。普通じゃないって言うのなら、僕だってそうだよ!」
思いも寄らぬリュウの剣幕に、リーラは、ホールドアップするように掌をリュウのほうに向けた。
「ごめん、ごめん、リュウ。そんなに怒らないでよ。今のはちょっと言い過ぎた。謝るよ」
リーラが頭を下げた。
そんなやり取りを見かねたように、サラが、「とにかく今はここで暮らしていくことを考えましょう、ねっ、リーラ、リュウ」と二人の間に割って入った。二人を落ち着かせるように、サラは洞窟の地面に腰を下ろすと、「まず食料はどれくらい残ってるの?」と、リーラの顔を見上げた。
背中の荷物を下ろしながらリーラが座った。そしてカバンの中から香木の枝と火打ち用の銀色の鉄片を取り出して、手早く枝の先に火をつけた。それから枝の先の炎を掲げるようにしながら、カバンの中身をチェックし始めた。その様子を見て、リュウもサラの横に並ぶように腰を下ろした。
「食料なら、二、三日は大丈夫。スモークしたガーエの肉が十分に残ってる。だけど……」
「だけど何?」
「もう水が無い。水筒はからっぽだよ」
「そう……それは困ったわね……」
サラが顎に手を当てながら俯いた。リュウは、リーラのほうに顔を向けると、「ねぇ、リーラ。このあたりに川とか無いの?あれば、僕が汲んでくるよ」と問いかけた。
リーラは首を左右に振りながら、「こんなところまで来たことはないんだ。この山の裾野に、まさかこんな洞窟があるなんて、ぜんぜん知らなかったし……」とうなだれた。
「やみくもに水源を探して歩き回っても見つかるとは限らないわね……ハーッ」
サラが大きな溜め息を吐いた。その時、リュウは地面にぐったりと横たわっているアトゥルのほうに目をやった。
「そうだ!」
大声を上げながらリュウが立ち上がった。その声が洞窟の中でコダマのように反響した。
サラとリーラは仰け反るようにしながら、「いったい、なに?」、「驚かすなよ、リュウ?」と、同時に声を張り上げた。
「アトゥルに聞けばいいんだよ。ねっ!」
リュウが地面に座っている二人へ交互に目をやると、サラとリーラは顔を見合わせた。
「うーん、まあ、やってみる価値はあるかもしれないけど……」
サラが不安げに首を傾げた。リーラは、「はあ……あんたに任せるよ、リュウ……」と、半ば呆れたようにリュウの顔を見上げた。
「じゃあ、聞いてくるよ!」
リュウは二人に背を向けると、首を伸ばしたまま地面に顎をつけて眠っているアトゥルに駆け寄った。そして腰を曲げながら、アトゥルの耳元に口を近づけると、「ねぇ、アトゥル……アトゥルってば……」と呼びかけた。
アトゥルは固く瞼を閉じたまま、全く目を覚ます気配がない。
意を決してフーッと大きく深呼吸をすると、「アトゥル!起きて!」と声を張り上げた。リュウの声が洞窟の中でコダマしたが、それでもアトゥルは微動だにしなかった。
(だめだ……これじゃあ起きない……)
途方に暮れたように腰を伸ばすと、リュウはアトゥルの頭に手を伸ばした。そして緑色の角の根元に掌でそっと触れてみた。
すると、アトゥルの角に初めて触れた時と同じように、リュウの頭の中に、小さな子供のナーガの姿が浮かんだ。全身が水色で、真ん丸な水色の瞳が凪いだ湖面のように澄み切っている。背中から生えた二つの翼を、バタバタと不器用に動かしている姿がなんとも言えず可愛らしかった。
途端にアトゥルがカッと瞼を開いた。そしてブルブルと顔を揺らしながら首をもたげた。何が起こったのか理解できない様子で呆然としている。
リュウは、そんなアトゥルの顔を見上げながら、「ゴメンよ、アトゥル!起こしちゃって!」と大声で謝った。
アトゥルは、ボンヤリと焦点の定まらない瞳のまま、リュウのほうを見下ろすと、「なんだ……リュウか……」と、ガッカリしたように小さく呟いた。
「どうかしたかい?」
「いや、なんでもない……」
アトゥルはゆっくりと首を振った。リュウは一度大きく深呼吸をすると、「あのね、アトゥル。この近くで水を飲める場所はないかい?」と両手を広げた。
アトゥルは、「水が飲みたいのかい?」と、鮮やかな緑色の瞳でリュウの顔を見つめた。
「そうなんだよ!」
リュウは、ビョンと軽くジャンプするように、アトゥルのほうへ近寄った。
「ふーん……そうかい……」
首を伸ばして鎌首をもたげたまま、アトゥルは頷いた。
「たぶんだけど……」
「うん、なんだい?」
急かすように、リュウが一段と声を張り上げた。
「この洞窟の奥に水が流れてると思うよ」
「ほっ、ほんとかい、アトゥル?」
リュウは、真っ暗な洞窟の奥に目をやった。
「だって、水の匂いがするから……」
「水の匂い?」
リュウが小首を傾げた。
「うまくは言えないんだけど……おいらは水の匂いが分かるんだ……おかしいかい?」
アトゥルが長い首を縮めるようにして俯いた。リュウは首を振りながら、「ちっともおかしくなんてないよ!すごいじゃないか、アトゥル!」と微笑んだ。
「おいらはこれ以上、洞窟の奥には行けないけど、リュウなら行けると思うんだ」
「分かった!ありがとう、アトゥル!」
リュウの弾んだ声が洞窟の壁に反響した。アトゥルはノロノロとした動作で再び首を伸ばして地面の上に横たわった。
リュウは、遠目から眺めていたサラとリーラに駆け寄った。
「聞いてたかい?」
リュウが弾んだ声で問いかけると、サラとリーラは顔を見合わせた。そして、サラが、眉根を寄せながらリュウのほうへ顔を向けた。
「聞いてたわ、リュウ。この洞窟の奥に水があるってことよね」
「そうだよ」
「ねぇ、どうやってこの先を進むつもり?」
「香木の灯りで足元を照らしながら進むよ」
サラが顎に手を当てて俯きながら、「うーん」と唸った。リーラは呆れたようにフッと小さく息を吐いていた。
「なあ、リュウ。この先を進むって言ったって、ヒトが通れるだけの隙間があるか分からないし、途中で岩が崩れることだって考えられるだろう」
「そうだけど、このままじゃ絶対に水は手に入らないよ」
「そう、そこなんだよ……」
リーラがサラと目配せを交わした。今度はサラがおもむろに、「アトゥルの言葉を信じて、ホントにこの先に進むの?」と問いかけた。
「うん」
リュウが大きく頷き返した。リーラは肩を竦めると、「水の匂いがするって、それだけだろう。本気かよ、リュウ」と、リュウの瞳を覗き込んだ。
「僕が一人で行くよ」
リュウがリーラの瞳を見返すと、サラが間に割って入った。
「それはダメよ、リュウ。何かあったらどうするの。私が一緒に行くわ」
サラの言葉に、リーラがフーッと大きな溜め息を吐いた。
「いや、私が行く。サラはここに残っていて」
「でも、そんな……」
「こうなると、私の方が身軽だし。いざという時には何かの道具も使える。万が一のことを考えれば、誰か一人は残っておかないと」
「だって……」
「頼むよ、サラ。ナーガと二人っきりで残されるなんて。お願いだから勘弁して」
そう言うと、リーラはイタズラっぽく笑った。思わずリュウはリーラに飛びつくように駆け寄って、その手を握った。
「ありがとう、リーラ!」
「勘違いするんじゃないぞ、リュウ。わたしは、まだあのナーガの言ったことは信じちゃいない。あんたが心配だから行くだけだ」
「それでもいいよ。ありがとう!」
リュウがリーラの手を握る指先に力を込めると、リーラが強く握り返した。今度は、サラがフッと小さく息を吐いた。
「分かったわ。でも何かあったら、すぐに引き返してね。絶対に無理はしないでよ」
「ああ、そうするよ。その時は、リュウを引き摺ってでも戻ってくるから」
冗談めかすように、リーラがリュウを睨みつけた。
「うん、分かった」
首を縮めるようにして、リュウがぎこちなく頷いた。
リーラが二本の香木をカバンから取り出して、それぞれに火を灯すと、一本をリュウに渡した。
リーラとリュウは洞窟の奥を照らすように灯りを掲げた。そのまま二人は洞窟の奥に向かって歩き出した。遠ざかっていく二人の背中を、サラは祈りを込めるように見つめていた。
それからほどなく洞窟の奥に突き当たった。一見すると、壁面は全て岩で塞がれている。
「なんだよ、もう終わりかよ」
リーラが肩を竦めた。
「待ってよ、リーラ。アトゥルは水の匂いを感じたんだ。どこかに穴があるはずだよ」
リュウは、前に立ち塞がる岩の表面を舐めるように香木の灯りで照らした。すぐにヒトが腰を屈めて通れるほどの穴を見つけた。
「ほら、あったよ!」
穴を指差しながら、リュウが弾んだ声を上げた。
「そんな小さな穴を……本気かよ……」
リーラが天を仰いだ。そんなリーラにお構い無しに、リュウは腰を屈めながら、「僕が先を進むから。リーラは後ろをお願い」と、穴の中に足を踏み入れた。
「まったく……もう……」
リーラのぼやき声を背中で聞き流しながら、リュウは、腰を曲げた姿勢のままで小刻みに足を踏み出した。片手に握った香木の枝を掲げると、丸い形をした穴の高さは一メートルもない。その四方は洞窟の壁面と同じく固い岩でできていた。
(これなら崩れる心配はまずないな……)
香木の枝の先端で揺らめく灯りの先には漆黒の闇が満ちていた。岩のトンネルは、どこまでも続いているようで、まったく先が見通せない。
三十分ほど前屈みの姿勢のままで歩き続けると、いつの間にか頭を天井に擦っていた。どうやら徐々(じょじょ)にトンネルが小さくなっているようだった。しかたなく香木の枝を口に咥えると、四つん這いの姿勢になって前に進んだ。時折、振り返って後ろの様子を窺うと、まったく同じ格好でリーラが進んでいた。
二人は、墨を塗り込めたような暗闇に包まれながら、狭苦しいトンネルを這うように進んだ。リュウは額に吹き出た汗を、何度も手の甲で拭った。知らぬ間にハアハアと荒い息遣いになっていて、どうやら空気も薄くなっているようだった。
「リュウ……ちょっと……待って……」
リーラの苦しげな声を耳にして、リュウは四つん這いの姿勢のままで頭を下げると、自分の股の間から後ろに目をやった。リーラがガックリと頭を垂らしながら、激しく肩を上下させていた。炎が灯ったままの香木の枝が地面に落ちている。
「リーラ!」
リュウの叫び声が岩のトンネルの中でコダマした。リーラがゆっくりと顔を上げた。ほのかな香木の灯りに照らされたその顔は、血の気を失って真っ青になっていた。
リーラは肩を激しく上下させながら、コックリと頷いた。
リュウは心の中で、(ここまでが限界かもしれない……残念だけど、諦めて引き返すしかない……)と思った。その時、サラサラという音が微かに聞こえた気がした。
(うん?なんだろう?……)
リュウが耳を澄ませると、たしかにサラサラという音が岩のトンネルの先から聞こえてくる。
「みっ、水の音だ!」
思わずリュウが声を張り上げると、リーラがハッと顔を上げた。そのまま身動きもせずにじっと聞き耳を立てている。
「きっ……聞こえる……」
リーラが声を絞り出すようにして呟いた。
「ねっ、そうでしょう!」
リュウが弾んだ声を上げると、リーラは、うんうんと何度も頷いた。
「もうちょっとだよ、リーラ!」
リーラはリュウに顔を向けると、「さあ……行こう……リュウ」と、強張った笑顔を見せた。
「頑張って、もう少しだから!」
リュウは香木の枝を口で咥えると、前に向かって四つん這いの姿勢で小刻みに手足を動かした。
進むにつれて、サラサラという水のせせらぎの音がはっきりと聞こえるようになった。その音が大きくなるにつれて、息苦しさも和らいでいった。
出し抜けに岩のトンネルを抜けた。
リュウが四つん這いの姿勢のままで左右を見渡すと、暗闇がどこまでも広がり、サラサラという水のせせらぎの音が反響していた。
リュウはゆっくりと立ち上がった。
手足を伸ばしながら、「フーッ」と大きく息を吐き出した。後ろを振り返ると、リーラが腰を叩きながら背中を反らしていた。
「やったな、リュウ」
「うん、ありがとう、リーラ」
リュウとリーラは満面の笑みを交わした。
右手で香木の枝を掲げながら暗闇を照らすと、地下鉄の駅ほどのだだっ広い空間になっていた。その大きなトンネルのような空間はどこまでも続いているようで先は見通せない。その中央に小川が流れていて、その幅は二メートルほどしかなかった
リュウは腰を屈めながら、小川のせせらぎの中へ人差し指を入れてみた。
「冷たい!」
思わず声を上げながら、パッと指を水中から抜き出した。
「ははっ。そんなに冷たいのかい?」
リーラが笑い声を上げながら、リュウの真似をして指先を水中に差し入れた。すると、ブルッと体を震わせながら、「こりゃあ、たしかに冷たい。でも、それだけ綺麗な水ってことだろうよ」と微笑んだ。
その様子を見て、再びリュウは人差し指を水の中に入れた。冷たさを我慢しながら、そのまま水に沈めると、手首まで入ったところで川底に触れた。そのまま指先で川底をかき回すと、小さな石コロが一面に転がっていた。
サラはさっそくカバンの中から水筒を取り出すと、手で握ったまま水中に沈めた。
その様子を横目で見ながら、リュウはサンダルを脱いで毛皮の服の裾をたくし上げると足先から水中に入った。足首の上ほどの水深だったが、痺れるほど水は冷たい。
「何やってんだよ、リュウ?」
水の中から水筒を持ち上げながら、リーラが不審げに問いかけた。
「水筒が空っぽになるたびに、ここまで来るのは非効率だよ。だから、ダムを作るんだ」
「なんだよ、ダムって?」
「えっとー、そうだね。小川を堰き止めて、さっきのトンネルの中に水を通すんだよ」
リーラが大きく頷きながら、「なるほどな。分かった!」と、たちまちサンダルを脱ぎ捨てると、リュウと同じように水中に入った。
「ひーい!冷たい!」
思わずリーラが悲鳴を上げた。そんなリーラの様子に笑みを零しながら、リュウは腰を曲げて両手を水に突っ込んだ。川底の石コロを掴んで持ち上げると、洞窟へ続くトンネルの出入口の位置を確かめながら、その少し下流に投げ込んだ。その意図を理解したリーラも川底の石を積み上げるのを手伝った。
しかし、ものの十分ほどすると、リュウもリーラも唇が血の気を失い、ガチガチと歯が鳴り始めた。堪らず小川の岸に上がったが、二人とも全身の震えは容易に止まらなかった。
「こりゃあ……思ったより……ことだぞ……」
「うっ……うん……」
歯の根が合わず、二人ともうまく喋ることさえできない。
「みっ……水が……あるんだったら……植物が……あるはずだ……」
「そっ……それで?……」
「それを……集めて……焚き火を……」
「わっ……分かった……」
川岸に置いていた香木の枝をそれぞれ手に取ると、リーラが上流側に、リュウが下流側に向かってヨロヨロと歩き出した。
「おっ、おい、リュウ。そんなに遠くまで行くんじゃないよ!」
リーラの声に振り返ると、リュウは、返事をする代わりに、香木を握った右手を高く差し上げた。
リュウが前に進もうとすると、膝がガクガクと震えて体がふらついた。濡れた手足が痺れたようにうまく動かない。
「さむっ……」
そんな呟きが勝手に口をついて出た。濡れた手足に、どこからともなく吹いてくる微風を感じた。容易に体が温もらないのは、きっとこの風のせいに違いない。
(なんだよ、この風……勘弁してくれよ……)
香木の枝を右手から左手に持ち替えると、リュウは右の掌で左腕をさすった。
(……風……待てよ……なんで風が吹いてるんだ?……)
地下水脈が流れる地中のトンネル内に風が吹き込んでいることに、ふと違和感を覚えた。
(どこかで外と繋がっているんだ……そうに違いない!)
急に体中に力が漲ってきて、ズンと足を大きく踏み出した。濡れた手足から体温を奪う微風も、もはや気にならなかった。
しばらく進んでいくと、遠目にトンネルの壁から差し込む光が見えた。
「でっ、出口だ……」
声を上擦らせながら、リュウは駆け出した。
トンネルの外から差し込む光のところにたどり着くと、岩の壁がひび割れて、大人が通り抜けられるほどの穴が空いていた。地下水脈はサラサラとせせらぎの音を響かせながら、トンネルの中央部分を先へ向かって流れ続けている。穴の外には入道雲が浮かんだ真っ青な空が覗いていた。
(よし、ここから外に出れる!)
思わず拳を握ってガッツポーズをした。いつしか体の震えも止まっていた。
(いったい、ここはどこら辺なんだろう?)
外を見たいという衝動にかられて、リュウは穴から顔を外に出してみた。
「げっ!」
視界に飛び込んできたのは垂直に切り立った茶色の岩肌だった。遥か下には灰色の地面が霞んでいる。地面までの距離は目が眩むほどの高低差があった。顔を上げて左右に目をやると、茶色の岩肌がそそり立ち、崖の一番上までは穴の位置から十メートルほどの高さがあった。
(とんでもない絶壁だ。下まで百メートルはある。こんなところに穴が通じているなんて……)
リュウが穴から顔を引っ込めると、トンネルの中で反響するように、遥か彼方から「おーい、リュウ」と呼ぶ声が聞こえた。
すかさず口元に掌を添えてメガホンのようにしながら、「リーラ!」と答えると、上流に向かって駆け出した。そのまま走り続けると、トンネルの暗闇の中にポッと光が見えた。リーラが手に掲げる香木の枝の灯りに違いない。
その灯りに近寄っていくと、リーラが右手で香木の枝を掲げながら、左手を腰に当てていた。
「リュウ!どこまで行ってたんだよ!」
リュウは頭を掻きながら、「ごめん、ごめん」と軽く頭を下げた。
「まったく心配かけんなよ。それにしても、焚き火ができそうな植物は見つかったのかよ」
「あっ!」
リュウは、ポカンと大口を開けた。植物を探すのをすっかり忘れていた。
「あっ、じゃねぇだろう。もういいよ。少し上流側の岸辺に雑草がたっぷり生えてたから、もう十分に集めたよ」
「あっ、ありがとう、リーラ」
「でも、なんだってこんなに遅かったんだよ」
リュウは、リーラのほうに足を踏み出すと、「実はね、出口を見つけたんだ!」と、興奮気味にまくし立てた。
「なんだって、出口?」
「そう、そうなんだよ。すっごい崖の途中に出るんだけどね」
リーラが掌を叩きつけるように、リュウの両肩を掴んだ。そのあまりの勢いに、リュウは思わず体がふらついた。
「でかしたぞ、リュウ。これで躊躇なく水を堰き止めることができる」
それから、リーラとリュウは、アトゥルの洞窟に繋がる穴の場所まで戻った。
川岸に積み上げた雑草に火をつけると、サンダルを脱いで二人同時に小川に入った。川底の小石を集めて水を堰き止めながら、時々、岸辺に上がって雑草の炎で体を温めた。その作業を小一時間ほど続けたところで、穴に向かって水が流れ始めた。
その瞬間、リュウとリーラは水中に足を浸したまま、「やったあ!」と、バンザイするように両手を高く掲げた。
二人揃って岸辺に上がると、雑草の炎に水をかけて消した。再びサンダルを履いて身支度を整えると、リーラがリュウの肩に手を置いた。
「さあ、出口まで案内してくれ、リュウ」
リュウは、ちょっと眉根を寄せた。
「でもね、とんでもない絶壁なんだよ、出口の外は……」
リーラは、リュウの肩に置いた掌にギュッと力を込めながら、「まあ、心配いらないよ。任せとけって」と、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、こっちだよ」
コックリと頷くと、リュウは下流側に向かって歩きだした。そのすぐ後ろにリーラが続いた。右手に香木の枝を掲げながら歩いていくと、ほどなくして地下水脈のトンネルの壁から差し込む仄かな光が見えてきた。
リュウがその光を指差しながら、「ほら、あれだよ!」と、興奮気味に捲し立てた。
「よし!」
リーラが駆け出した。リュウは、慌ててその背中を追いかけた。
光が差し込む場所でリーラが立ち止まった。壁の岩がひび割れて、大人の背丈ほどの穴が空いている。
「ここか……」
「そうだよ」
リュウがリーラの横に並ぶと、突き抜けるような真っ青な空が覗いていた。サラサラという地下水脈の水のせせらぎの音を背中で聞きながら、リーラが穴から顔を出した。
「これゃあ、なかなかだな……」
「でしょう……」
リーラはカバンの中に手を突っ込んで、ゴソゴソと中を引っ掻き回した。
「あった!」
リーラの手にはロープが握られていた。それを自分のお腹に巻きつけると、その端を固く結びつけた。それから今度は、ロープの反対側の端を手に取ると、無言のままリュウに近寄った。
「なっ、なに?」
思いも寄らないリーラの行動に、リュウが仰け反るように距離をとった。
「これをあんたに結びつけるんだよ」
有無を言わさぬ口調で、リーラが答えた。
「それで……どうするの?」
「わたしが先に登る。頂上に着いたら、あんたを引っ張り上げる。簡単だろう」
平然と答えるリーラに、リュウは、「こんな絶壁を登るって!それは、いくらなんでも無理じゃない?」と目を丸くした。
「そんなに驚くなよ。これぐらいの崖はなんでもないって。頂上まで距離も無いしな」
リーラの話が到底信じられず、リュウは黙り込んだ。ほぼ垂直な絶壁は穴の位置から頂上まで十メートル近くはある。命綱を着けているとはいえ、ロッククライミングのプロでもない限り不可能だろう。
不安そうなリュウの様子を見てとったリーラは、「まあ、見てろって」と高らかに言い放つと、リュウの腰にロープを回した。
それからリーラは穴のほうに向き直ると、左手で穴の側面の岩肌を掴んだ。そして右手を穴の外に伸ばすと、絶壁の岩肌に指先を引っ掛けた。次の瞬間、リーラが穴の外にサッと飛び出した。
「えっ!」
驚いてリュウが穴の外に顔を出すと、リーラが絶壁の赤茶けた岩肌に両手の指先を引っ掛けながら両足をブラブラと揺らしていた。そして、膝を曲げて足先で絶壁をピョンと蹴り上げると、サッと右手を伸ばして三十センチほど上の岩肌を掴んだ。
(すっ……すごい……)
とても人間業とは思えないアクロバティックな岩登りだった。リーラはごく自然な動作で左右の手を交互に伸ばしながら軽々と岩肌を上へと登っていった。
リュウが息を呑むようにして見つめていると、ほどなくしてリーラが絶壁の頂上に辿り着いた。そして崖の頂上で立ち上がると、両手を伸ばして背中を反らしながら、フーッと大きく深呼吸をした。それから、おもむろに腰を屈めると、「おーい!リュウ!聞こえるかい!」と、ポカンと見上げているリュウに視線を向けた。
「聞こえるよ!」
リーラの呼びかけに応えるように、リュウが片手を上げた。
「じゃあ、今から引っ張るぞ。できるだけ自分の手足で岩肌を登るようにするんだ!」
「分かった!」
「まず穴の外に出ろ!」
リーラの指示に従って、リュウは外側に背中を向けると、穴の両端を左右の手で掴みながら、恐るおそる後退りをした。そして、両足の爪先を穴の口に引っ掛けるようにして穴の外へ体を出した。
「いいぞ、そのままで!引っ張るぞ!」
腰に巻かれたロープがグイッとお腹に食い込んだ。同時に両足が空中に浮いて、クルリと体が一回転しそうになり、リュウは、慌てて絶壁の岩肌に指先を引っ掛けてバランスを取った。そのままお腹に食い込んだロープがリュウの体を上へと引き上げていく。その間、リュウは垂直な絶壁の岩肌に沿って手足を動かした。無我夢中で手足を動かしていると、いつのまにか額から汗がポタポタと滴り落ちていた。
ふと気がつくと、いつの間にかリュウは絶壁の頂きに手を掛けていた。グイッと手に力を込めると、体が頂上の岩場の上に踊り上がった。そして、ゴロリと仰向けになると、そのまま大の字に手足を広げた。思わずフーッと大きく息を吐くと、目の前には突き抜けるような青い空が広がっていた。その視界の中にリーラが顔を覗かせた。
「大丈夫かい、リュウ?」
リュウは横になったまま、「うん。ちょっと手足が強張ってるけど」と頷いた。
「よく頑張ったな、リュウ」
「リーラのおかげだよ。ありがとう」
リーラが手を伸ばし、リュウはその掌を強く握った。リーラに引っ張られるようにして、リュウが立ち上がった。
「ここはどこら辺かな?」
リュウが周囲を見回していると、リーラは、「ほら、あれをご覧」と顎をしゃくった。リュウがそちらに目をやると、遠くに灰色の山が霞んでいた。突き抜けるような青い空を背景にして、その山頂は真っ黒な雷雲に覆われていた。
「たぶん私の村があった森から、灰色の山を挟んで反対側にいる。サラとアトゥルがいる洞窟はあっちだろう」
リーラが山裾の一角を指差した。
それから、一時間ほど歩き続けて、リーラとリュウは洞窟にたどり着いた。二人の姿を目にしたサラは、「リュウ!リーラ!」と、悲鳴のような大声を上げながら駆け寄った。
「いったい何があったの?心配したんだから!」
サラは二人に詰め寄った。
「ごめんよ、サラ」
リュウが申しなさげに頭を下げると、サラは、リュウの掌を取ってギュッと握り締めた。そんな二人の様子に優しげな眼差しを送りながら、リーラは、「それはそうと、水は流れてきてるかい?」とサラに問いかけた。
サラは何度も頷きながら、「驚いたわ。突然、水が流れてきて」と、リュウの手を握ったまま、リーラに顔を向けた。
「洞窟の奥は地下水脈に繋がっていた。リュウのアイデアで、水を堰き止めて穴の中に水が流れるようにしたんだ」
「そうだったの……」
サラがやっとリュウの手を離した。すると、今度はリュウが口を開いた。
「それで、地下水脈のトンネルを進んで、途中にある横穴から外に出たんだ。リーラが絶壁を登ってくれたんだよ。ホントにすごかった!」
興奮気味に捲し立てるリュウに、リーラは、ちょっと照れくさそうに頭を掻いていた。
「まあ、そんなこんなで遅くなったんだよ。水は確保できたから、とりあえずはいいだろう。でも、とにかくお腹が減ったよ」
リーラの言葉に合わせて、リュウのお腹がグウと鳴った。サラがフフッと小さく笑った。
「そういえば、朝から何も食べてないわね。水もたっぷりとあるし、食事にしましょう」
リーラとリュウを誘なうように、サラが洞窟の奥へ向かって歩き出した。
それから、リーラがカバンからガーエのスモーク肉を取り出し、サラが洞窟の一番奥から流れ出る地下水脈の水を汲んでくると、三人は腰を下ろして食事を始めた。
リュウは、スモークされたガーエの小さな肉片を指で摘まんで口に放り込むと、ガリッガリッと甲高い音を立てながら奥歯で噛み砕いていた。
食事を済ませた時には、もはや外が薄暗くなっていた。知らぬ間に日が暮れていたことに、リュウは驚いた。リーラはガネシュの皮の布地を広げて寝床の支度をしていた。サラとリュウは香木の枝の先に火を灯しながら周囲を照らしていた。
リュウがふと洞窟の奥に目をやると、朝からまったく同じ格好のまま、アトゥルがダラリと首を伸ばして地面の上に横たわっていた。身動き一つせず、目を覚ます気配もない。
(やっぱり具合でも悪いんじゃないのかな……)
ふと心配になって、リュウは足音を忍ばせながらアトゥルに近寄った。緑色のウロコが香木の枝の灯りを反射してぼんやりと輝いていた。
リュウはアトゥルの耳元で腰を屈めると、「アトゥル……大丈夫かい?」と、小さな声で囁いた。しかし、アトゥルは瞼を閉じたまま、ピクリとも動かなかった。
(やっぱり、こうするしかないのか……)
リュウはアトゥルの頭から生えている緑色の角の根元に手を伸ばし、そっと掌で触れた。
するとリュウの頭の中に、水色のウロコで全身が覆われている子供のナーガの姿が浮かんだ。
その途端、アトゥルがカッと瞼を開いた。緑色の瞳がちょっと潤んでいた。
「アトゥル、起きたかい?」
リュウが香木の枝を手に掲げながら優しく呼びかけると、アトゥルは長い首を持ち上げた。
「ああ……リュウか……何か用かい?」
眠気を振り払うように、アトゥルがプルプルッと首を振った。
「あのね、アトゥルの言った通りだったよ。洞窟の奥に小さなトンネルがあって、地下水脈に繋がっていた。おかげでここまで水が流れてくるようになったんだ。ありがとうね」
アトゥルの顔を見上げながら、リュウは、満面の笑みを浮かべた。アトゥルは、興味もないといった感じで、左の瞼を瞬きさせた。
「アトゥル、君はずっと寝てるけど、具合でも悪いのかい?」
「別になんでもないよ」
気だるそうなアトゥルが背中の真ん中から生えている第三の翼をパタパタと動かした。
「せっかくこの洞窟まで水が流れてくるようになったんだがら、飲んでみてよ。すっごく冷たくておいしい水なんだよ」
アトゥルは、「いらないよ……おいらには……」と、捨てばちな調子で再び地面に首を下ろした。そんなアトゥルの様子に、リュウは不安を覚えた。
「あのね……聞いてもいいかい?」
「なんだい?……ふあぁ」
顎を地面にくっつけたまま、アトゥルが大口を開けてアクビをした。
「君の角に触る度にね、僕の頭の中に水色のナーガの姿が浮かんでくるんだ……小さな子供のようだけど……あれはいったい誰だい?」
リュウの言葉に、アトゥルは凍りついたように全身が硬直した。カッと左の瞼を見開いたまま瞬きもせず、目の焦点も失っている。
(パニックを起こした時の母さんと……まるで同じだ……)
間近で見ていると、アトゥルの全身は小刻みに痙攣しているようだった。
「アトゥル!アトゥル!」
必死に呼びかけたが、まったく反応がない。異変に気づいたサラとリーラが、何事かと視線を向けた。
リュウは意を決して、地面に横たわったまま瞼を見開いているアトゥルの顔に近寄った。そして腕を伸ばすと、緑の角の根元にそっと指先で触れた。
『おいらには妹がいた。名前はユマ』
突然、リュウの頭の中にアトゥルの声が響いた。リュウは指先をアトゥルの角に当てたまま、思わず身を固くした。そして瞼を閉じると、『そのユマが、僕が見た水色のナーガなんだね』と、頭の中でアトゥルに話しかけた。
『そうだよ』
アトゥルの返事が、リュウの頭の中に響いた。
『ユマは今どうしてるの?』
『…………』
リュウの問いに、アトゥルは沈黙を返した。
リュウの頭の中に、全身を鮮やかな水色のウロコで覆われたナーガの姿が浮かんだ。その背丈はヒトと同じぐらいで、肩口から背中の側面にかけて生えている小さな翼を、ピョコピョコと拙い仕草で動かしていた。
瞼を固く閉じたまま、リュウは祈るように頭を垂れると、ギュッと両手の掌をアトゥルの角に押し当てた。角の表面は、まるで丁寧に磨かれた象牙のように滑らかな感触がした。
『リュウ……』
ふいにアトゥルの声が頭の中に響いた。
『なんだい?』
『今までリュウがおいらの角を触る度に、頭の中で『お兄ちゃん』と呼びかけるユマの声が聞こえたんだよ。ユマが生き返ったんじゃないかと思って心臓が止まるほど驚いたんだ』
目を閉じたまま、『生き返った』という言葉にリュウは頬を強張らせた。
『綺麗だね、ユマって……』
『そう……ユマは、おいらと違っていた。とっても可愛らしい子だったよ』
『そっか……』
『ユマは生まれた時からとても美しい子だった。透き通るような水色のナーガさ。父さんも母さんもとても喜んでいた。おいらも、とても嬉しかった。ユマが赤ん坊の頃から、おいらはずっとそばに居たよ』
アトゥルの体が痙攣するようにブルッと震えた。リュウは、アトゥルの角に両手の掌をギュッと押し当てた。
『そのうえユマはとても利口で優しい子だった。こんなおいらを、『お兄ちゃん』と呼んで、とても懐いてくれていた。おいらにとってユマはかけがえのない妹だった』
リュウは息を凝らすようにして、頭の中に響くアトゥルの声を聞いていた。
『ちょうど、ひと月前になる。ユマがやっと空を飛べるようになったんだ』
リュウは、両手でアトゥルの角を抱きかかえるようにしながら、自分の額を角の表面に当てた。
『ユマを連れて空を飛んだんだ。ユマに街の景色を見せたくて。ユマは小さな翼を一生懸命動かしながら、おいらの背中の翼を両手で掴んでいた。空から街を見下ろしながら、ユマは『わあー!すごい』って、とても喜んでくれた。おいらは嬉しかったよ』
また、アトゥルの体がブルッと震えた。リュウの頭の中で、突き抜けるような青空が広がり、ムクムクと湧き上がった白い入道雲の間を飛ぶ、緑色と水色の二匹のナーガの姿が浮かび上がった。
『おいらには左目しかない。雲を抜けて右側から急降下してきたナーガの軍隊の兵士達に気づかなかった。ちょうど調練の最中で、ものすごいスピードだった。気づいた時には、おいらは先頭を進む兵士とぶつかっていた』
巨大な砲弾とぶつかったような凄まじい衝撃がリュウの全身に伝わった。思わずアトゥルの角に両手でしがみついていた。
『そのまま、おいらはクルクルと錐揉みをしながら落ちていった。どうすることもできず、背中から地面に叩きつけられた。息ができなくなって、しばらく呻いていたよ』
『ユマは?……』
『やっと息ができるようになって、体を動かそうとしたら、全身に痛みが走った。それでも首を左右に振ってユマを探したんだ。おいらは街の城壁の真下の草むらにいた。嫌な予感がして城壁を見上げると……』
リュウは、口の中に溜まった唾をゴクリと呑み込んだ。
『ユマが城壁の上にいた……城壁の先端の尖った銛がユマの心臓を貫いていた……』
リュウの頭の中に、アトゥルの悲痛な声が響いた。
『ユマは死んでしまった。それを知った父さんと母さんは、悲しみのあまり気を失った。それからずっと倒れ伏したまま、起き上がれなくなった』
苦悶するようにアトゥルの全身が痙攣していた。
『おいらはユマの亡き骸を運ぶ葬儀の列についていった。ユマの体は、この山の上で投げ落とされた。おいらは葬儀の列からこっそりと離れ、この山に降り立ったんだ。それからずっとユマの亡き骸を探してるんだけど……見つからないんだ……』
『そう……だったの……』
『見つからないんだ……どうしても……』
アトゥルの体はプルプルと痙攣を続けていた。リュウはアトゥルの角に額を押し当てながら、両手で角を強く抱き締めた。
『リュウ、君と初めて会った時、おいらは土の中に潜っていた』
『そうだったね……』
『この山の土はナーガの命を吸い取るって言われてるから……』
『アトゥル、君はまさか……』
思わずリュウはアトゥルの角に触れている指先に力を込めた。
『でも、死ねなかった……ずっと飲まず食わずでいるのに……きっとおいらは……ナーガじゃないんだろう……』
『アトゥル……』
両手でアトゥルの角を掴んだまま、リュウは額を離して瞼を開いた。
カッと見開いたままのアトゥルの左目が涙で滲んでいた。そして、ポロンと涙の粒が零れ落ちた。
『おいらは……こんなだから……ナーガじゃないんだ……こんなおいらのせいでユマは……』
リュウの頭の中でアトゥルは、『オゥオゥ』と激しい泣き声を上げていた。指先の鋭い鉤爪を地面に突き立てながら、苦しげに体を震わせている。
リュウは、アトゥルの角を両手で抱き締めた。アトゥルは、身悶えするように長いシッポを震わせながら、リュウの頭の中で泣き続けた。
緑の角にしがみつくようにして、リュウは唇を噛み締めながら額を押し付けていた。
(アトゥルは、母さんと同じだ……大切な人が死んだのは自分のせいだと思い悩んで……)
しばらくしてアトゥルの体の痙攣が止まった。同時に、リュウの頭の中に響くアトゥルの声が止んだ。リュウがアトゥルの角から顔を上げると、アトゥルは瞼を閉じてグッタリと眠り込んでいた。リュウは足音を忍ばせるようにして、そっとアトゥルから離れた。
リュウがサラとリーラのところに戻っていくと、途端にリーラが、「おい、何があったんだよ!」と詰め寄ってきた。
「アトゥルのことが分かった……」
ポツリと呟くリュウに向かって、今度はサラが、「どういうこと?」と首を傾げた。リュウは、二人の顔を見上げながら頬を強張らせた。
「アトゥルにはユマという妹がいた。アトゥルはユマが死んだことを自分のせいだと思ってる……」
「妹が死んだ?……」
リーラが訝しげに首を傾げた。
それからリュウは、アトゥルがなぜここにいるのかを二人に話した。
全てを話し終えたリュウが二人の顔に目をやると、サラとリーラは黙り込んだまま、眉間に皺を寄せていた。
「そうだったの……」
サラが暗然とした表情で呟いた。リーラは黙り込んだまま、顎に手を当てていた。
「このままじゃ、アトゥルが死んじゃう。僕、助けたいんだ、アトゥルを!」
リュウが二人の顔を交互に見上げた。リーラが顎に手を当てたまま、「そうは言っても……なあ……」と眉を曇らせた。
「そうよ、リュウ。いったいどうやって助けるって言うの?」
サラが途方に暮れたように肩を竦めた。
「ユマの本当の気持ちをアトゥルに伝えるんだ」
リュウがサラのほうに一歩、足を踏み出した。
「ユマの気持ち?どういうこと?」
「ユマは絶対にアトゥルを責めてはいないはず。きっとそうだよ!」
「そうかもしれないけど、いったいどうやって?」
「それは……そのう……」
言葉に詰まったリュウは空中に視線を漂わせた。
「なあ、リュウ。お前の気持ちは分かる。分かるけどな、いくらなんでも無理だよ。だって、ユマってナーガはもう死んでるんだろう」
リーラがリュウの肩に手を置いた。
「うん……そうだけど……」
リュウはガックリと肩を落とした。その肩をポンポンと叩きながら、リーラは、「ナーガの死体が見つからないのは当たり前だよ。ナーガはね、この山の地面に触れた途端、灰色の砂に変わるんだ」と、リュウの瞳を覗き込んだ。
「なにそれ……」
思わずリュウは大きく瞳を見開いた。
「前にも言ったろう。私の一族は元々(もともと)この山で暮らしていたって。この山はね、死んだナーガたちの灰色の砂で覆われてるんだよ。だから、どこもかしこも灰色なんだ」
「そうだったんだ……」
「まあ、絶対にナーガたちはここに近づかないから、アトゥルが知らないのもしょうがないけどね」
リーラの話はあまりに衝撃的で、思わずリュウは瞼を閉じた。その時、ふとリュウの頭の中に灰色の山の山頂を覆う黒い雷雲の姿が過ぎった。リュウは目を開くと、リーラの顔に視線を向けた。
「ねぇ、リーラ……」
「なんだい?」
「なんで、この山の頂には黒い雲があるの?」
「それは……」
「こんなに天気がいいのに、あそこだけ真っ黒な雷雲があるのは、なんか変だよ」
「うーん……」
リーラが顎に手を当てながら、ごまかすようにリュウから視線を外した。
「なにか知ってるんじゃない?お願い、教えてよ」
リュウはリーラの手を掴むと、ギュッと握り締めた。
「イタッ。そんなに強く握るなよ」
慌ててリュウは手を離した。それでも食い入るように見つめ続けるリュウの視線に、リーラはフーッと大きな溜め息を吐いた。
「まあ、言い伝えでしかないんだけど……」
「うん、うん」
「ナーガの魂はあの雷雲に吸い込まれるらしい。だからどんなに晴天でも、山の頂には、いつも雷雲があるって聞いたことがある」
「そうか……あれがナーガにとって天国への門みたいなもの……」
「おい、おい、ちょっと待てよ、リュウ。先走るなよ。あくまで言い伝えでしかないんだからな。あんな雲に近づいたら、それこそ雷に打たれて死んじまうぞ」
「でも……それしかないよ」
「冗談だろ、おい。サラ、黙ってないで、リュウを止めてくれよ」
リーラが助けを求めるように、サラのほうに目をやった。
「リーラの言う通りだわ。あそこに行けたとしても、どうやってユマの魂を呼び出すの?」
「でも、このままじゃ、アトゥルが……」
サラの指摘はもっともで、リュウは言葉に詰まった。
「待てよ、リュウ。ナーガがそんなに簡単に死ぬもんかよ。ナーガって飲まず食わずでも、二、三ヶ月ぐらいは死なないんだぜ。それぐらい生命力が強いんだよ」
「でも……」
「ほっとけよ。わたしたちじゃ、どうにもできないんだからよ」
結局、三人はそのまま夜を迎えた。リュウは、胸の内にモヤモヤとする思いを抱えたまま、ガネシュの皮の上で横になった。
洞窟の奥の暗がりに目をやると、横たわっているアトゥルの影がぼんやりと見えた。その大きな影を目にした途端、リュウは無性に悲しくなった。
(アトゥルは母さんと同じなんだ……)
リュウはギュッと唇を噛み締めると、無理やり瞼を閉じた。すると、昼間の疲れがどっと押し寄せてきて、いつの間にか眠りに落ちていた。
それからどれくらい時間が経ったのだろう。
『リュウ……』
聞きなれない野太い声に名前を呼ばれた気がして、リュウは目を覚ました。両手をガネシュの皮の上に突いて上半身を起こすと、寝ぼけ眼で周りを見廻した。
ガネシュの皮の上で横になっているサラとリーラが微かに寝息を立てていた。周囲の地面に挿した香木の枝の先には炎が灯っていた。
(気のせいかな……)
再び横になって瞼を閉じるや否や、吸い込まれるように眠り込んでいた。
夢のなかで、リュウは灰色の山の麓から山頂を見上げていた。その頂に、いつもあるはずの黒い雷雲がない。その代わりに、頂には左右に大きく翼を広げている一匹の黒いナーガがいた。リュウのほうをじっと見つめている。
『リュウ……』
また野太い声が聞こえた。
ハッとして目を覚ますと、リュウはゆっくりと体を起こした。横に目をやると、サラとリーラはぐっすりと眠り込んだままだった。
リュウは息を殺しながらサンダルを履くと、地面に突き立ててある香木の枝の一本を手に取った。その灯りを掲げながら、音を立てぬように抜き足差し足で洞窟の出口に向かった。
洞窟の外はまだ真っ暗で、夜空には満天に散りばめられた星々がキラキラと輝いていた。
山頂のほうを見上げると、暗闇の中にピカッと閃光が瞬いた。山頂を覆う雷雲の内側で稲妻が走ったのだろう。
リュウはその光を見つめながら足を踏み出すと、爪先上がりの斜面を登り始めた。
一時間ほど斜面を登り続けたところで、東の空が薄っすらと白み始めた。それまで真っ黒に見えていた地面が途端に灰色に変わった。足を止めて顔を上げると、山頂を覆う雷雲の中で眩いばかりの稲妻が瞬いた。その真っ黒な雷雲を見据えながら、リュウは再び足を踏み出した。
夜明けとともに、洞窟の中ではリーラが目を覚ましていた。こげ茶色をしたガネシュの皮の上で上半身を起こすと、瞼を擦りながら横に目をやった。
「あっ!」
リーラは驚きの声を上げると、横に寝ているサラの体を激しく揺さぶった。
「サラ、起きて!たいへん!」
「うーん……なに?……」
リーラはサラの手を掴んで無理やり引き起こした。
「ちょっと、リーラ、いったいどうしたの?」
「見て!ほら!」
リーラがガネシュの皮の上を指差すと、眠っていたはずのリュウの姿がどこにもない。
「リュウ?どこに?」
寝ぼけ眼のまま、サラは周囲を見廻した。
「あいつ、山頂に向かったんだ!間違いないよ!」
怒気を含んだリーラの言葉に、サラが瞳を見開いた。
「山頂って、あの雷雲の中へ?」
「そうだよ、あのバカ。なんてことを……」
サラは慌ててサンダルを履いた。
「おい、サラ。どうするつもり?」
「連れ戻すわ!」
そう告げるや否や、サラが洞窟の出口に向かって駆け出した。
「おい、ちょっと待てよ、サラ!」
サラの背中に大声を浴びせながら、リーラもサンダルを履いて立ち上がった。
「まったくもう……リュウもリュウだけど、サラもサラだよ……少しは後先考えろよ……」
口を尖らせながら、リーラはガネシュの皮を畳んでカバンに詰め込んだ。それからカバンを背負うと、洞窟の出口に向かって走り出した。
リュウは既に山の中腹まで達していた。まるで絶壁のような斜面の傾斜に、手足を灰色の岩肌に引っ掛けるようにして進んでいた。いつしか空気も薄くなり、ハアハアと荒い息を吐いていた。
(だいぶ登ったよな……)
ふと天を仰ぐと、突き抜けるような青い空がどこまでも広がっていた。太陽は東の地平線からずいぶん離れている。
(この調子だと昼には辿り着けるはず……)
山頂のほうに目をやると、相変わらず真っ黒い雷雲が覆っていた。時折、雲の中で稲妻が走り、バリバリという轟音が響き渡った。その度にリュウはビクッと首を縮めた。
リュウは、「行くしかないんだ……」と、自分自身に言い聞かせるようにしながら登り続けた。
リーラは、すぐにサラに追いついた。二人は聳え立つような山の斜面を見上げていた。
「これじゃあリュウに追いつくのは無理かもな……」
リーラがポツリと呟くと、サラが、「そっ……そんな……」と山腹を見上げた。すると、眉根を寄せながら山の中腹を指差した。
「ねぇ、あれ。リュウじゃない?」
サラの指差す方向にリーラが目をやると、灰色の山肌の上に小さな人影が見えた。
「そうだ。リュウだ。あのやろう。もうあんなとこまで……」
その時、山裾から風が吹き上げてきた。風はリーラとサラの髪を緩やかに靡かせた。
「とにかく進みましょう、リーラ」
サラが急斜面に手を突きながら、四つん這いで前へ進み始めた。リーラはチッと小さく舌打ちすると、その後に続いた。
山裾から吹き上げる風が徐々に強くなり、いつしか突風に変わった。二人は、斜面にしがみつくように両手で灰色の岩肌を掴んだまま、前にも後ろにも進めなくなった。
「おい、サラ。これはおかしいぞ!」
砂埃が舞い上がるなかで、リーラが叫んだ。
「おかしいって何が?」
激しい風音に抗うように、サラが大声で尋ねた。
「山の風ってのは、上から下に吹き降ろすんだよ!それが普通だよ!」
「だから、なに!」
「この風は下から上に吹き上げてる!こんな風は有り得ない!それもこんなに強く!」
「そんな!なんで!」
リーラが山頂を覆う雷雲のほうに顎をしゃくった。
「あの雷雲が風を起こしてるんだ!これはヤバイよ!」
「どうすればいいの!」
「どうにもできない!へたに動けば、風に煽られて飛ばされるぞ!」
「だって、リュウは!」
「もしこの突風に飛ばされたら、そのまま雷雲に飲み込まれる!」
「そんな!」
下から吹き上げる風が更に勢いを増した。
「ダメだ!ますます風が強くなってきた。サラ、そのままじっとして!二人の体をロープで結ぼう!」
リーラが斜面にしがみつくようにしながら、サラの真横に近づいた。器用に背中のカバンの中に手をまわしてロープを取り出すと、自分のお腹に巻いて、反対側をサラの体に括り付けた。
「とにかく風が治まるまで待とう!」
「分かったわ!」
台風のような凄まじい突風が下から吹きつけていた。二人は灰色の斜面にしがみついていた。
山の中腹にいるリュウは更に悪い状況にあった。
山頂に近いほど、突風の勢いは激しく、リュウは、風に煽られながらゴロゴロと斜面を転がり上がっていた。
(まずい!)
焦って岩肌を掴もうと手を伸ばすが、突風に煽られて、体が上へ引き摺られていく。その時、ゴウという轟音とともに凄まじい突風が下から吹きつけた。
「あっ!」
風の勢いに煽られて斜面から体が離れた。空中に放り出されたリュウの体は、そのままクルクルと回転しながら、山頂を包む真っ黒な雷雲に向かって一直線に浮き上がっていった。
山腹の途中でサラとリーラは身を縮めていた。灰色の斜面にペタリと体を押し付けるようにしながら突風に耐え続けていた。
その時、山頂のほうに目を凝らしていたサラが、「あっ、リュウが!」と指を差した。リーラが顔を上げると、空中を回転しながら浮き上がっていく小さな人影が目に入った。あっという間に、その人影が真っ黒な雷雲の中へ吸い込まれた。
「リュウ!」
サラが悲鳴のような甲高い声を上げた。
(間に合わなかった!)
舞い上がる砂埃に顔をしかめながら、リーラがギュッと唇を噛んだ。
気がつくと、リュウは真っ暗闇の中にいた。まるで重力を感じず、手足を大の字に伸ばしたまま、フワフワと浮かんでいるような感覚だった。
(死んじゃった……のかな?……)
左右に顔を向けても漆黒の暗闇が満ちているだけだった。物音一つせず、真空の空間に漂っているようだった。
その時、目の前に大きな稲妻が走ると同時に、バリバリと地を割くような轟音が鼓膜に響いた。咄嗟に、リュウはビクッと首を縮めながら瞼を閉じた。
それからしばらくの間、固く瞼を閉じたまま、身を固くしていた。
すると、突然、「リュウ……」と呼びかける野太い声が聞こえた。夢の中で耳にした声に違いなかった。
リュウはゆっくりと瞼を開いた。
目の前には全身が真っ黒なウロコで覆われたナーガがいた。左右に翼を広げながら、首をもたげてリュウを見つめている。真っ黒な瞳が穏やかな輝きを放っていた。
「あっ……あなたは……だれ?」
リュウの声は震えていた。目の前にいる黒のナーガは静かに佇んでいるが、その姿は神々(こうごう)しく、圧するような威厳を感じた。
「リュウ、わしはお前の祖父じゃ……」
黒のナーガが柔らかな微笑みを浮かべた。
「ジルニトラ王!」
リュウは驚きの声を上げた。
「そうじゃ。わしはナーガ・ラジャ・ジルニトラ。お前の父、ナーガ・ラジャ・ジューイの父親であり、お前の祖父じゃよ」
「なっ、なんで……」
思いも寄らぬことにリュウは唇を震わせた。
「そんなに驚くとはのう……むしろ驚いているのは、わしのほうじゃ。よくぞここまで辿り着いた。さすがはジューイの息子だわい」
ジルニトラ王が愛おしそうに目を細めながら、リュウを見つめた。リュウは小首を傾げながら、「辿り着いたって、どういうことですか?」と問いかけた。
「この雲はの、ナーガの黄泉の国への入口じゃ。普通はな、ナーガであろうと、ヒトであろうと、生きている者は、この雲の中に入ることはおろか、近づくことさえできん。じゃが、お前はここまで辿り着いた。きっとお導きがあったのに違いない」
「導き?」
「わしは、お前にどうしても伝えておかねばならないことがあるのじゃ」
「伝えておかねばならないことって……」
「それはお前がこの世界に遣わされた理由でもある」
「遣わされた理由?」
「うむ」
ジルニトラ王が長い首をスーッと上に伸ばすと、ゆっくりと頭を上下させた。二本の黒い角がキラリと輝いた。
「ガルダが復活する。それは明日かもしれんし、二、三日後かもしれん。ひょっとすると、一ヶ月後かもしれん。じゃが、もはや復活するのは間違いないのじゃ」
「父さんが残した記録にも、ガルダが復活するって書いてありました。ナーガ族が炎の化身で、ガルダは氷の化身だって。でも、ガルダっていったい何なんですか?」
ジルニトラ王の漆黒の瞳が、リュウの淡い褐色の瞳を見据えた。
「よく聞くがよい、リュウよ。ガルダはとほうもなく巨大な鳥じゃ。全身が真っ白で、その嘴は槍のように鋭い」
「はっ、はい」
「ガルダは、遥か彼方の万年雪を戴く山脈で眠っておる。だがな、五千年に一度、目を覚ますのじゃ」
「五千年に一度……」
リュウは口の中に溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
「ここ百年、地上は夏が続いた。作物は豊かで生物たちも繁栄しておる。だがな、夏が続くことで遂には万年雪が溶け出し、ガルダが眠りから覚めるのじゃ」
リュウは黙り込んだまま、ジルニトラ王の瞳を見つめていた。
「ガルダは生けるものの中で最強の存在じゃ。この世の支配者とも言える。その翼から放たれる氷の刃から逃れられる者はおらん。そして、ガルダはのう、ナーガの心臓を食らうのじゃ」
「えっ!」
「地上にいるナーガたちの心臓を食らい尽くすと、再びガルダは眠りにつく……五千年前のアーシャ姫のことは聞いたかのう?」
「はい、父さんが残した記録にありました」
「うむ。真実はこうじゃ。五千年前、ナーガ族は滅びたのじゃ」
「滅びた?」
「そうじゃ。今、地上にいるナーガたちも、そして、このわしも真のナーガではない。ナーガとヒトの混血に過ぎないのじゃ。ナーガでありながら、ヒトの姿に変われた唯一無二の存在であるアーシャ姫とヒトの子孫じゃて」
「ナーガとヒトの混血……」
「天は時に不思議なことをなされる……ナーガ族の傲慢を打ち砕くおつもりで、ガルダをこの世に遣わしたのかもしれんのう……」
ジルニトラ王は、顔をゆっくりと持ち上げて、遥か彼方を仰ぎ見るような眼差しを浮かべた。
「じゃあ、僕はいったいどうすれば?……」
食い入るように見つめるリュウのほうにジルニトラ王が顔を向けた。
「それはわしにも分からん。お前がどうするかは、お前次第じゃ」
「そっ、そんなあ!」
リュウは途方に暮れたように両手を広げた。
「すまんのう、リュウ。わしに分かるのは過去のことだけじゃ。なにせ既に死んだ身じゃからのう」
「そんな無責任な……いきなりこの世界に連れてこられて、散々苦労したんです……そのうえガルダが復活するって言われても……」
「まあ不安じゃろうなあ。同情に堪えんよ、孫殿。だがのう、お前さんはここまで辿り着いた。これは奇跡じゃよ。リュウ、まさしくお前さんは奇跡の存在なのじゃ」
「そんなことを言われても……」
「お前さんは単なる混血ではない。ナーガの魂を宿すヒト。そんな稀有な存在じゃ。ジューイは、いつもこう言っておった。ナーガとヒトとが等しく繁栄する世界を創りたいとな」
「ナーガとヒトとが……」
「わが息子ながらすごいやつよ、ジューイは。そして、お前はその息子じゃ。ジューイがお前に託した思いを決して忘れるでないぞ」
その時、リュウはあることを思いついた。
「おじいちゃん、いやジルニトラ王、教えてください」
「おじいちゃんでもかまわんぞ。なんじゃ?」
「ここはナーガにとって天国の門みたいなところでしょう?」
「そのとおりじゃ」
「なら、父さんと会うことができるのでは?」
リュウの問いかけに、ジルニトラ王が悲しげに首を振った。
「それは無理じゃ……」
「なっ、なんでですか!」
「ナーガの黄泉の世界にジューイはおらんのじゃ……」
「父さんがいない?どういうことですか?」
「ジューイの魂はのう。異世界か、この世界か、どこかにまだ留まっておるということじゃよ」
リュウはガックリと肩を落とした。
「残念じゃが、こればかりはあきらめるしかない。だが、こう考えてはどうじゃ。ジューイの魂はお前の傍にいるのかもしれん。片時も離れずにずっと見守っておる。どうじゃな」
「父さんが傍に……」
「お前さんの運命はおまえ自身で切り開くのじゃよ、リュウ」
その時、リュウはユマのことを思い出した。
「そうだ!もう一つ教えてください」
「いいとも。なんじゃ?」
「ユマという水色のナーガと話がしたいんです。今から一ヶ月ほど前に亡くなったはず」
今度はジルニトラ王が大きく頷いた。
「そんなことなら、いともたやすい。さっそく呼び出そう」
ジルニトラ王が言い終わるや否や、目の前に稲妻が走った。あまりの眩しさにリュウは思わず瞼を閉じた。
「あなたは……だあれ?」
舌足らずの幼い女の子の声が耳に聞こえて、リュウは目を開いた。
目の前には水色の可愛らしいナーガがいた。大人の背丈ほどの大きさで、左右の小さな翼を楽しそうにパタパタと羽ばたかせている。リュウは、「僕はリュウ。君はユマだね」と満面の笑みを浮かべた。
「うん」
ユマがコックリと頷いた。二つの小さな水色の角が輝いている。
「あのね、ユマ。聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
「君のおにいちゃん、アトゥルのことなんだけど……」
アトゥルの名前を聞いた途端、ユマがリュウに飛びついた。
「おにいちゃんのこと、知ってるの!」
ユマは翼をバタバタと羽ばたかせながら、リュウの胸元にしがみついた。リュウは、ユマの勢いにのけ反りながら、「知ってる。友達なんだ」と答えた。
「おにいちゃん、どうしてるの?」
「実はね、ユマが黄泉の国へ行ってから、アトゥルはずっとナーガの死の山でね、たった一人で彷徨ってるんだ。このままじゃアトゥルは死んでしまう」
「そんな!そんな!」
ユマは、イヤイヤをするように激しく首を振った。
「ユマはアトゥルのことをどう思ってる?」
「やさしいおにいちゃんだよ。なんで死んじゃうの?どうして?」
リュウの顔を下から覗き込むようにしながら、ユマがリュウの胸元に爪を立てた。
「イタッ!」
リュウが顔を歪めると、慌ててユマがリュウから体を離した。
「ごめんなさい、リュウ」
「いいよ。大丈夫だから。あのね、よく聞いて、ユマ。アトゥルはね、ユマが死んだのは自分のせいだって思い込んでるんだ」
「そんな……」
悲しそうに、ユマが伏し目がちに俯いた。
「アトゥルはもう生きていく気力を失ってる。もう死んでしまいたい、とさえ思ってるんだ」
「なんでそうなっちゃうの……」
思わずユマの瞳が潤んだ。
「だから、教えてほしいんだ、ユマの本当の気持ちを。君は、自分が死んだのはアトゥルのせいだと思っているかい?」
ユマはポロンと大粒の涙を零した。
「そんなこと思ってない……ぜんぜん思ってないよ、ほんとだよ!」
「分かった。よく分かったよ、ユマ。ありがとう。君の気持ちをアトゥルに伝えるよ」
「お願い、リュウ。おにいちゃんを助けて」
激しく翼をはためかせると、ユマはリュウに抱きつきながら、顔をリュウの胸元に押しつけた。リュウの胸元がユマの涙で濡れた。
リュウは、ユマの頭を優しく撫でながら、「絶対に助けるよ。約束する。だから安心して!」と断言した。
「ほんと?」
ユマが顔を上げた。リュウはコックリと頷き返した。
「でもね、僕の話をアトゥルに信じてもらわなきゃいけない。だから、君とアトゥルだけしか知らないことを教えてほしいんだ」
「うーん……」
首を左右へと交互に傾けながら、ユマは思案を重ねていた。
「どうだい?……」
リュウがユマの顔を覗き込むと、ユマがパンと小さな掌を叩き合わせた。
「あのね、リュウ。おにいちゃんは毎日お散歩に連れていってくれたの。わたしがまだ飛べなかった頃ね」
「うん、うん」
「それでね、いつも二人で水色の花が咲いているところに行ったの。わたしと同じ色だからって」
「それはなんていう花なの?」
「うーんとねぇ……たしか……ハイデンジィアって、お兄ちゃんが教えてくれた」
「ハイデンジィア?」
リュウは首を傾げた。そんな名前の花は聞いたことが無い。
「えっとねぇ、木の高さはわたしの体ぐらいで、小さな水色のお花がいっぱい集まって咲いてるの。分かんない?」
リュウは顎に手を当てながら、「うーん」と唸った。困ったように、ユマは小首を傾げていた。
その時、ふとリュウは思いついた。
「ねぇ、ユマ。君の角を触らせてくれないかい?」
「いいけど、なんで?」
「君は、その水色の花を思い浮かべてほしいんだ。いいかい?」
「うん、分かった!」
ユマがコックリと頷くと、瞼を閉じた。リュウはユマの水色の角に掌を当てた。
途端にリュウの頭の中に木々の間を通る小道が浮かんだ。小道に沿って一メートルほどの高さの木々が生い茂り、卵型の葉っぱが朝露に濡れてキラキラと輝いている。木々の枝先には、小さな水色の花が群がるように咲き誇っていた。
「アジサイだ!」
思わず、リュウは大声を上げていた。
ユマは、リュウの声に驚いて、パッと瞼を開いた。
「アジサイってなあに、リュウ?」
リュウは水色の角から手を離すと、ユマの小さな手を握った。
「僕がいた世界ではアジサイって呼んでたんだ。これがハイデンジィアなんだね。よく分かったよ。それにしてもきれいな花だね」
「わたしの体とおんなじ色だから、おにいちゃんが毎日連れていってくれたんだ。うれしかったな」
「そっか。優しいおにいちゃんだね」
「うん。リュウ、おにいちゃんをきっと助けてあげてね」
「分かったよ、ユマ」
リュウは水色のウロコで覆われたユマの手をギュッと握り締めた。ユマも同じように強く握り返した。
次の瞬間、眩ゆいばかりの稲妻が走った。反射的にリュウは瞼を閉じた。ゆっくりと目を開けると、物音一つしない真っ暗闇の空間が広がっていた。
「リュウ」
野太い声が暗闇の中に響いた。ジルニトラ王の声に間違いなかった。
「さあ、もう戻りなさい。お友達も心配しているよ」
「はい。ありがとう、おじいちゃん」
リュウが目の前に満ちている暗闇に向かって声を張り上げた。
すると正面からゴウと突風が吹きつけ、リュウは体ごと真後ろに吹き飛ばされた。突風は、そのまま竜巻となって、グルグルとリュウの体を回しながら雷雲の外に飛び出した。
まるで脱水モードの洗濯機の中に入っているようで、リュウは目が回っていたが、周囲が明るくなったのは、かろうじて分かった。
そのままグルグルと回転しながら、リュウは竜巻に運ばれた。気がついた時には、山の麓の砂地の上に大の字になって寝転がっていた。すっかり目が回ってしまい、体を起こすことさえできなかった。
サラとリーラは山の斜面にしがみついたまま、下から容赦なく吹き上げる突風のせいでまったく動けずにいた。風の勢いは増すばかりで、ゴウゴウと唸るような風音に身を縮めていた。
(ちきしょう……どうにもできない……)
リーラは、砂埃が激しく舞い上げるなかで、唇を噛み締めていた。ロープで互いの体を結びつけたまま、真横にいるサラも同じように固まっていた。
すると突然、ピタリと風が止んだ。風音も消え、辺りがしんと静まり返った。
「おい、風が止んだぞ!」
リーラが声を上げると、横にいるサラが頷き返した。
リーラが山頂を見上げると、真っ黒な雷雲から小さな竜巻が飛び出した。
目を凝らすと、それは白い渦を巻きながら、ゆっくりと下に向かって降りてきた。ふと横を見ると、サラも訝しげに眉根を寄せながら、その竜巻をじっと見据えていた。
その竜巻が下降しながら二人の真横を通り過ぎた瞬間、リーラが目を見開いた。
「おい、サラ。あの竜巻の中に何かいる。グルグルと回ってるのは人影みたいだぞ!」
「まさか、リュウ?」
サラが慌てて斜面を駆け下り始めた。ロープで体を結び付けているリーラもサラに引き摺られるようにして斜面を転げ落ちた。
小さな竜巻は山裾の地面まで達すると、ロウソクの炎を吹き消すように、パッと掻き消えた。竜巻が消えた跡には、リュウが地面に横たわっていた。
その姿を目にした途端、サラとリーラは、「リュウ!」と声を揃えて叫んだ。斜面を転がり落ちるようにして、サラとリーラは山裾の地面に辿り着いた。
灰色の砂地の上で、リュウは、手足を大の字に伸ばしたまま、青い空をポカンと見つめていた。サラとリーラが顔を並べて、上からリュウの顔を覗き込んだ。
「リュウ!大丈夫なの?」
サラが声をかけると、リュウは焦点の合わない瞳のまま、ゆっくりと頷いた。
リーラは屈み込むと、「心配かけやがって!このやろう!」と、リュウの両肩を鷲摑みにして激しく揺さぶった。ようやく瞳の焦点が定まったリュウが砂地に両手を突きながら立ち上がった。
「勝手なことをして、ほんとにごめんなさい……」
リュウは、目の前で仁王立ちをしているサラとリーラに向かって深々と頭を下げた。
「リュウ、無茶するにもほどがあるぞ。お前が突風に吹き上げられて雷雲の中に入った時には、もうダメだと思ったんだからな!」
「そうよ、リュウ。これから一人で行動するなんてことは絶対にしないで。約束して!」
本気で怒っているリーラとサラに、リュウは項垂れながら、「ごめん……もう一人では行動しないよ……」と肩を落とした。
三人の真上から、太陽が眩いほどの陽光を注いでいた。
「もう昼じゃねぇかよ。あーあ、腹減った。食事にしよう!」
リーラが手をかざして空を見上げながら、洞窟に向かって歩き出した。
洞窟に戻った三人はガネシュの皮の上で腰を下ろすと、車座になって食事を始めた。
リーラがスモークしたガーエの肉をカリッと噛み切りながら、「それで何か分かったのかよ、リュウ」と問いかけた。
リュウは口に含んだ小さな肉片を呑み下すと、「うん……分かった」と短く答えた。
サラがフッと小さな溜め息を吐いた。
「そもそもなんで山頂に行こうなんて思ったの、リュウ?」
「実は……昨日の夜……夢の中で僕の名前を呼ぶ声が聞こえたんだ……」
サラは訝しげに眉根を寄せながら、「どういうこと?」と聞き返した。
一瞬、リュウは躊躇するように黙り込んだ。そして意を決したように、サラとリーラの瞳を交互に見据えた。
「黒いナーガ、ジルニトラ王に呼ばれたんだ」
「ジルニトラ王って……ヒトに殺された……」
思わずサラが眉を曇らせた。
「おい、ちょっと待て!詳しく話せ、リュウ!」
リーラが厳しい口調で詰め寄ってきた。困惑したように、リュウはサラに目配せを送った。するとリュウの視線にサラがコックリと頷いた。
それから、リュウは昨日の夜から今日の昼までに自分が体験したこと語り始めた。話しの途中でリュウがナーガの血を引いていることに触れると、リーラは愕然としたように両目を大きく見開いていた。
リュウが全てを話し終わった時、サラは心配そうにリーラのほうへ目をやった。リーラは俯きながら、足元のガネシュの皮の上に空ろな視線を落としていた。
「リーラ……どうしたの?……」
サラが声をかけると、リーラがゆっくりと顔を上げた。その唇が少し震えていた。
「じゃあ、つまり……リュウは、ナーガとヒトの合いの子ということか……」
「そうよ」
サラがきっぱりと言い切った。
「しかもナーガの王族の血を引いている……」
「そう、リュウは特別な存在なの。だから不思議な力も持っている。あなたには本当のことを知っておいてほしいの、リーラ」
「……」
黙り込んだまま、リーラは天を仰ぐように顔を上げると、ギュッと瞼を瞑った。
洞窟の中は昼間であっても薄暗い。傍らの地面には香木の枝が突き立ててあり、その先には炎が灯っていた。その灯りの揺らめきのなかで、仄かに浮かび上がったリーラの横顔を、サラとリュウは息を凝らして見つめていた。
仰向けていた顔をゆっくりと下ろすと、リーラは鋭い視線でリュウを見据えた。
「リュウ、どうするつもりだ、お前?」
「どうするって、何が?」
「ガルダとやらが復活するんだろう。どうするんだよ」
いい加減な返事は決して許さない。そんな鬼気迫るようなリーラの表情に、リュウはゴクリと口の中に溜まった唾を飲み込んだ。
「僕は……僕はガルダを止めたい……」
「それは、ナーガを助けるという意味か?」
「このままじゃナーガが死んでいく。僕はナーガを助けたい。そして、父さんが望んだように、ナーガとヒトを繋ぎたい。等しく繁栄できる世界に変えたい……そう思ってる……」
リーラがすっくと立ち上がった。両手の拳を握り締めながら、仁王立ちでリュウを睨むように見下ろしている。
「おい……リュウ……」
リーラが押し殺したような声で凄んだ。リュウは思わずブルッと体が震えた。
「わたしの父さんと母さんはナーガに焼き殺されたんだ。そのことは言ったよな……」
リーラの顔を見上げながら、リュウがぎこちなく頷いた。
「ナーガはわたしの仇だ。そのナーガを助けるって言うなら、もうお前の力にはなれない」
リーラがサラとリュウに背を向けると、洞窟の出口に向かって足を踏み出した。その瞬間、サラがリーラのほうへにじり寄りながら、「待って、リーラ!」と悲鳴のような声を上げた。
足を止めたリーラが振り向くと、ポニーテールに束ねた茶色の後ろ髪がフワリと揺れた。栗色の大きな瞳が潤んでいた。
「荷物は全て置いていく。あとは好きにしな。わたしは森に帰る」
吐き捨てるように言い放つと、リーラはそのまま駆け出した。
「リーラ!」
遠ざかっていくリーラの背中に向かって、サラが絹を引き裂くような甲高い声を上げた。
リュウは唇をギュッと噛み締めると、小さくなっていくリーラの背中を見つめながら、左右の瞳からポロポロと涙を零していた。