旅立ち編
突き抜けるように高い空には雲一つなかった。
西に傾いた初夏の太陽が眩しいほどの陽射しを注いでいた。
小学校からの帰り道、竜介は交差点で立ち止まっていた。目の前の歩行者信号は赤だった。目の前を猛スピードで走り抜ける自動車に、竜介は目をやった。
(このままでも渡れるんだけどな……)
小学四年生の竜介の目には、自動車のタイヤのホイールが回る様子まで見てとれた。
常人離れした動体視力を持つ竜介にとっては、猛スピードで行き交う自動車の間を縫って向かい側の歩道まで辿り着くのは造作もないことだった。
(まあ、ドライバーが驚いて事故にでもなったらダメだし……)
竜介は、なかなか変わらない歩行者信号を見つめた。
やっと信号が青に変わり、竜介は歩き出した。
自分が周りの人間と違っていることに気づいたのは、小学校に入ってからだった。
入学してまもなく、クラスメイトの誠が六年生に小突かれているのを見かけた。
どうやら誠が蛇口を上向きにしたまま水道の栓をひねって、近くを通りかかった大柄な六年生の男子たちに水をかけたようだった。
五人の六年生の男子に囲まれて、誠は泣きべそをかいていた。
咄嗟に竜介は六年生たちの間に体を滑り込ませると、誠の手を取った。そのまま駆け出して、一瞬のうちに六年生の輪の外に誠を引っ張り出した。
突然、誠が目の前から姿を消したことに、六年生たちは呆気にとられていた。そして周囲を見回すと、少し離れたところにいる竜介と誠を見つけた。とたんに六年生たちは二人を追いかけてきた。
竜介は、向かってくる六年生たちの方へ駆け出した。大柄な男子たちの間をすり抜けながら、その服の裾を引っ張って結び合わせると、そのまま六年生たちの後ろに回った。
瞬時に背後に現れた竜介に、六年生たちは目を剥きながら、バランスを崩して折り重なるように倒れた。
起き上がろうとしても、服の裾が固く結び合わされていて、六年生たちは廊下に転がったまま動けなかった。
誠は口をあんぐりと開けたまま、その様子を眺めていた。そんな誠の手を取ると、竜介は六年生たちの悪態を背中で聞き流しながら悠然と歩き出した。誠の指先は小刻みに震えていた。
二人で教室に戻ると、竜介は誠の手を離した。誠は、竜介の視線を避けるように目を伏せたまま、「あっ……ありがとう……」と小さな声で囁くと、逃げるように自分の席に戻っていった。
その時、竜介は、自分が他人と違っていること。そして、それが恐怖まで与えかねないことを生まれて初めて知った。
自分の席に座って顔を俯かせたまま、誠は身を固くしていた。そんな誠の姿をぼんやりと眺めながら、竜介は、教室の戸口で立ち尽くしていた。
それ以降、竜介は自分の能力をセーブしながら使うことを心がけた。更にはクラスメイトをはじめ、人との関わりをできるだけ避けるようにした。だから仲の良い友達が一人もおらず、いつしかクラスでも浮いた存在になっていた。
自宅に帰り着くと、玄関のチャイムを押した。ピンポンという音が響くと同時に、ガチャッと玄関のドアが開いた。
「おかえり、竜介」
玄関のドアノブを握ったまま、祖母が穏やかな笑顔を浮かべていた。すっかり白髪になった髪を頭の後ろで束ねている。きっと晩御飯の支度でもしていたのだろう。
「ただいま、おばあちゃん」
ぎこちない笑顔を浮かべながら、竜介は玄関の中に入った。
「竜介が帰ってきましたよ!」
祖母が家の中に向かって高らかに声を上げると、「おお、竜介、おかえり」と、リビングから祖父が顔を出した。ピカピカに禿げ上がった頭が部屋の照明を反射していた。
「ただいま、おじいちゃん」
竜介が自分の部屋がある二階への階段を上ろうとすると、祖母が、「すぐに晩御飯にするからね」と声をかけて、キッチンのほうに姿を消した。
「うん、分かった」
竜介は、自分の部屋に入ると、カバンを机の上に置いた。そして、ベッドの上に背中から倒れこむと、そのまま天井の白いクロスをぼんやりと眺めていた。
しばらくすると、「竜介、ご飯よ!」と、階下から呼びかける祖母の声が聞こえた。竜介はベッドの上で上半身を起こすと、「うん、すぐ行く」と、返事をした。
階段を下りてリビングに入ると、食卓のテーブルの上にはカレーライスが用意されていた。祖母の作るカレーライスは超甘口で、祖父はちょっと苦手みたいだった。それでも祖母は、日々の料理を小学生の竜介に合わせた献立にするのが常だった。
祖父と祖母と竜介の三人が、テーブルを囲むイスに腰を下ろした。
「いただきます」
三人は声を揃えて食事を始めた。
「今日は学校はどうだったかい?」
「うん、いつもどおりだったよ」
祖父と祖母に心配をかけないように、竜介は強いて笑顔を見せ続けた。
三人がカレーライスを食べ終えたところで、祖母がキッチンから大きなバースディケーキを持ってきた。ホワイトクリームの上に真っ赤なイチゴが載っていた。定番のバースディケーキだ。
「今日は竜介の十歳の誕生日だからね」
ケーキの上には、『竜介くん、誕生日おめでとう』と書かれたチョコレートのメッセージプレートが載っていた。
「ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん」
祖父がケーキのホワイトクリームの上に十本のロウソクを立てると、ライターで火を点けた。
「さあ、吹き消して、竜介」
祖母に促されて、竜介は大きく息を吸い込むと、フーッと一息でロウソクを吹き消した。
祖母がナイフでケーキを切り分け、一番大きくカットしたものを竜介の前に置いた。いつものことだったが、祖母と祖父は小さな切れ端を食べるだけで充分らしかった。
竜介はフォークでイチゴを突き刺すと、口の中に放り込んだ。甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。
「ねぇ、竜介?」
祖母が竜介の顔を覗き込んだ。慌てて竜介は口の中に頬張ったイチゴを噛み砕いて、ゴクリと呑み込んだ。
「なあに」
「今度の週末には紗也花のお見舞いに行くんだけど、一緒にどう?」
「いいよ、久しぶりに母さんにも会いたい」
「良かった、ありがとう」
祖母は、ホッとしたように頬を緩めると、ケーキのホワイトクリームをフォークですくって口に入れた。祖父はケーキを一口食べる度に緑茶を口に含んでは、苦しそうに吞み下していた。竜介は、そんな二人の様子を横目で眺めながら、(そんなに無理してケーキを食べることなんて、ないのにな……)と思ったが、決して口には出さなかった。
土曜日になると、竜介は、祖母が運転する車で、母が入院している病院へ向かった。
母は、竜介がまだ生まれて間もない赤ん坊の頃、高速道路で酷い事故に巻き込まれて以来、ずっと精神科の病院に入院していた。その事故で父が命を失い、母と竜介だけが助かったと聞かされていた。
竜介がボンヤリと車窓を眺めていると、不意に祖母が話しかけてきた。
「あのね、最近は紗也花もだいぶ調子がいいみたいなのよ。もしかしたら退院できるかもしれないって、お医者さまが言ってたの」
「ふーん、そうなんだ」
竜介は車窓を眺めながら気の無い返事をした。
「今まで何度も退院寸前までいって、ダメだったじゃない。だから今度こそは、焦らずにじっくりと治せばいいって思ってるのよ」
竜介はハンドルを握り締めている祖母の横顔に目をやった。祖母の瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。
「だからね、竜介。紗也花と、ちゃんと話してみて」
「でも、母さんのほうが……」
竜介が言いよどむと、祖母は、ゆっくりと頷きながら、「そう、今まではそうだったわ。あなたの姿を見ると、その度に紗也花は取り乱してしまって……でもね、今度は違うの。紗也花がどうしても竜介に会いたいって言うのよ」と言葉を継いだ。
「分かったよ……おばあちゃん」
竜介は、頬を強張らせている祖母の横顔に向かって呟いた。
ほどなくして病院に着くと、祖母が病院の受付で手続きを済ませて母の病室へ向かった。そんな祖母の背中に目をやりながら、竜介は病院の廊下を重い足取りで進んだ。母の病室の前までくると、コンコンと、祖母がドアをノックした。
「はい、どうぞ」
鈴を鳴らすような涼やかな声が部屋の中から聞こえた。祖母が横開きのドアを開けると、真っ白い部屋の真ん中にベッドが据えられていた。母の病室は一人部屋で、南側の壁の高い位置に窓が見えた。
「紗也花、具合はどうだい?」
母がベッドの上で上半身を起こした。
「とってもいいわ」
母が目を細めながら軽く頷いた。
「それなら良かったわ。今日は竜介も一緒よ」
祖母がベッドの脇に歩み寄った。竜介は、祖母の背中に隠れるようにベッドに近づいた。
「竜介、来てくれて嬉しいわ」
母はぎこちない微笑みを浮かべた。
「うん……」
床に視線を向けたまま、竜介がポツリと呟いた。
それから祖母は、しばらくの間、母の着替えを新しいものに取り替えたり、荷物の整理をしていた。竜介が手持ち無沙汰でボーッと突っ立っていると、母が、「学校はどう?」と取り繕うように喋りかけてきた。
「うん、まあ普通かな……」
「そっか……」
久しぶりの母と息子の会話なのに、お互いに気まずさは増すばかりだった。そんな空気を察したかのように、突然、祖母が、「今度、サッカーのクラスマッチがあるんでしょう、竜介。あなたはスポーツ万能だから活躍が楽しみね」と合いの手を入れた。思わず竜介は眉根を寄せながら、「選手に選ばれるかは、まだ分からないよ……」と俯き加減で答えた。
三人の間に流れる空気が更に重苦しくなった。
「ああ、そうなの……ちょっとわたし、花瓶の水を替えてくるわね」
そのまま祖母が逃げるように病室を後にした。病室に残された母と竜介は、お互いに目を合わすこともできずに空中に視線を漂わせていた。まるで苦役のような時間が流れるのに耐えきれず、竜介が口を開いた。
「母さん。父さんって、どんな人だったの?」
竜介は、自分が口走った言葉に我ながら驚いた。祖父や祖母は、竜介の父親のことを詳しく話して聞かせてくれたことがなかった。むしろその話題を避けるようにしていた。ずっと竜介の心の中にわだかまっていたのが、父のことだった。
思いもかけない問いかけに、母は、顔色を失って体を固くしていた。その様子を目にして、竜介は、「いや、別にいいんだけど……あの……ほら……」と、話題を変えようと必死に頭を巡らせながら、空中に視線を漂わせた。
「優しい人だったよ……」
「えっ……」
竜介は母のほうに目をやった。母は、遥か彼方を見るような遠い目をしていた。
「ホントに優しい人だった……」
まるで独り言のように母が小さな声で呟いた。
竜介は母のベッドの脇に近づくと、「ねぇ、母さん。父さんとは、どんなふうに出会ったの?」と、母の顔を覗き込んだ。
母は竜介のほうに顔を向けると、フッと小さく笑みを零した。
「なんでそんなこと知りたいの?」
「だって……父さんのことは何も知らないから……」
母の視線から逃げるように竜介が俯いた。その姿に優しげな眼差しを向けながら、母がゆっくりと頷いた。
「そう、私が就職した年でね。ちょうど今頃と同じ初夏の季節だったわ。私ね、自転車で買い物に出かけたんだけど、交差点で車が突っ込んできたの。もうダメだって思って目を瞑ったわ」
遠い過去を懐かしむような眼差しで、母は話を続けた。
「でもね、目を開けたら、父さんにお姫様抱っこされてた。驚いたわよ。だって、自転車はグシャグシャなのに、自分は父さんに抱っこされて歩道にいたんだから。それが父さんとの出会いよ。最初はね、同じ歳なのにずいぶん大人びた人だなぁって思ったわ。それから一年後にお父さんと結婚して、その一年後に竜介が生まれたの」
「ふーん……そうなんだ……」
竜介は、気のなさそうな返事をしたが、実は、心の中で父が何をしたのかは想像がついていた。父は、自分と同じ能力を持っていたに違いない。
「せっかく話したのに、たいしたリアクションもないのねぇ」
「ううん、話してくれて、ありがとう」
母に向かって竜介は軽く頭を下げた。
「あのね、竜介。竜介の名前はね、父さんが考えたんだよ」
「そう……だったの……」
初めて耳にする話に、思わず竜介は瞳を大きく見開いた。
「実は竜介に渡したいものがあるんだ」
「何?渡したいものって?」
母はベッドから身を乗り出すと、傍らのテーブルの上に置いてあった白い箱を手に取った。そして、白い箱をベッドの端に置くと、そっと箱の蓋を持ち上げて、その中から葉書サイズの写真立てを取り出した。
「竜介、これを」
その写真立てを竜介に向かって差し出した。竜介は、右手を伸ばして受け取った。
それは肩を寄せ合いながら幸せそうに笑っている、年若いカップルの写真だった。女性は白い布に包まれた赤ん坊を胸に抱いていた。写真立ての縁には、那賀純平、紗也花、竜介と、ふりがな付きで名前が刻まれていた。この写真は、竜介が生まれた頃の三人を撮影したものに違いない。
父は、母の肩に腕をまわしながら、母の方に首を傾けていた。赤ん坊はぐっすり眠っているようで目を瞑っている。父と母は、額を寄せ合うようにして赤ん坊の寝顔を覗き込みながら微笑んでいた。
写真の中にいる父は、透き通るような白い肌で、瞳の色は竜介と同じく淡い褐色だった。少し茶色がかった髪には柔らかなウェーブがかかっている。高い鼻筋がスーッと通っていて、頬には小さなエクボを寄せていた。
「父さんを初めて見た時はね、ハーフかクォーターに違いないって思ったのよ。だって、顔とか、ちょっと日本人離れしてるじゃない」
母は照れくさそうに笑っていた。
「あのね、竜介。あなたはお父さんにそっくりなの。まるで生き写しみたいで怖いぐらいだわ。白い肌も髪の色も、笑った時のエクボの位置まで、まったく同じなんだもの。だから竜介を目にする度に、お父さんの姿が重なって見えちゃうのよ。おかしいでしょう」
冗談めかすように笑いながら、母が竜介の顔を覗き込んだ。その遠慮のない視線に耐え切れずに、思わず竜介は俯いた。父に似ていると言われたことは正直嬉しかったが、この日本人離れした異質な容姿が、更に学校で竜介を浮いた存在にしている一因にもなっていた。
(今まで母さんが、僕を見ると取り乱していたのは、きっと父さんのことが心の中に蘇ってくるからなんだ……)
自分の姿が母の苦しみのもとになっていることが、とても悲しかった。
「それから、もう一つあるんだ。竜介に渡したいものが」
母の言葉に竜介が顔を上げると、母が両手を伸ばしながら楕円形の鏡を差し出していた。竜介は、恐るおそる手を伸ばすと、その鏡を受け取った。
壁掛け用と思しき、その鏡は縦に長い楕円の形をしていた。幅は十五センチ、上下の長さが三十センチほどの鏡面が、部屋に差し込む陽射しを反射して輝いていた。その楕円形の鏡面の周りには白亜色の縁取りがされている。その縁取りの一番下の部分には、正面を向いた竜の顔が彫られていた。その竜が両翼を掲げている姿が左右の縁取りに描かれ、頂点の位置で両側の翼が触れ合っていた。
その鏡は不自然なほど軽かった。そのうえ指先に触れた縁取りの感触は、まるで象牙のように滑らかだった。
竜介は、鏡の縁を両手で掴んで顔の正面まで持ち上げた。そして鏡面を覗き込んだ。
白亜色の竜の翼の間に、透き通るような白い肌の少年の顔が見えた。少し茶色がかった髪は緩やかにウェーブしている。スーッと通った鼻筋は高く、淡い褐色の瞳で真っ直ぐにこちらを見つめていた。
その姿は、まさしく竜介だった。まるで生き写しのように写真の中の父と似ている。
その時、竜介の頭の中で、キンと甲高い音が響いた。
まるで何かのスイッチが入ったように周囲の風景が凍りついたように固まり、真空の空間にいるような深い静寂に包まれた。
次の瞬間、目の前に掲げた鏡面の中に、緑色のドラゴンの姿が見えた。大きな翼を左右に広げながら滑空するように白い雲の間を飛んでいる。そのドラゴンの背中には三つ目の翼が生えていた。
(えっ!)
すると突然、場面が変わり、鏡面の中に大きな湖が現れた。その表面は氷で覆われている。太陽の光を反射してキラキラと輝きながら、まるで巨大な鏡のように、真っ青な空を映していた。
(なっ……なんだ、これ……)
次の瞬間、再びキンという音が頭の中に響くと、周りの風景が元に戻った。
鏡面には自分の顔が映っていた。淡い褐色の瞳を大きく見開きながら、口をポカンと開けている。
「どうしたの、竜介?」
怪訝な表情で母が眉根を寄せていた。目の前に掲げていた鏡を下ろすと、竜介は母に顔を向けた。
「ううん、なんでもないよ。この鏡って、なに?」
「父さんが持ってた鏡なの。あなたが生まれた時、父さんはね、十歳になったら、この鏡を竜介にプレゼントするって言ってたのよ」
まるで食い入るように、竜介は、じっと鏡を見つめた。
(父さんの……鏡……)
その鏡面には、今、竜介の顔が映し出されている。
「父さんはね、なぜだかわからないけど、その鏡だけは、いつもカバンに入れて持ち歩いていたの。あの時もそうだったわ」
「あの時って?……」
竜介が母の方に目をやると、母は、まるで体のどこかに痛みでも感じているかのように、額に皺を寄せながら固く瞼を閉じていた。
「父さんが……死んだ時よ……」
目を閉じたまま、母がポツリと呟いた。思わず竜介はゴクリと唾を呑み込んだ。
「ちょうど今頃と同じ初夏の季節だったわ。父さんが運転する車に、わたしが竜介を抱いて一緒に乗っていたの。高速道路を走っていたら、前を走るタンクローリーが横倒しになって道を塞いだ……」
ぎゅっと目を閉じたまま話し続ける母を、竜介は凝視していた。
「父さんがブレーキを踏んで、タンクローリーにぶつかる寸前で車は止まったんだけど、後ろから大型トラックが追突してきた……」
母がブルッと身を震わせた。
「ドンという、もの凄い衝撃を感じて、思わず目を閉じたわ。でもね、次の瞬間、目を開けたら、わたしは道路の端にいたの。竜介を胸に抱いたままでね」
竜介は、まじろぎもせず母の顔を見つめていた。
「顔を上げると、両手の拳を握り締めて仁王立ちしている父さんの背中が見えた。私たちの車はタンクローリーと大型トラックに挟まれてペシャンコになってた。次の瞬間、ドンという大きな音を立ててタンクローリーが爆発したの。巨大な赤い炎が空高く昇ったわ」
閉じたままの母の瞼が痙攣するように小刻みに震えていた。
「空に昇った炎が、突然、姿を変えた。首が伸び、左右に大きな翼を広げて、まるで巨大なドラゴンのようだったわ。その真っ赤なドラゴンが私たちに向かって襲ってきた。大きな口を開けて、鋭い牙が剥き出しになってた。父さんは私と竜介を庇うように、両手を広げて立ち塞がっていた」
身悶えするように、母は自分の胸元をギュッと両手で抱いていた。
「真っ赤なドラゴンが父さんを一飲みにした……それから、もの凄い突風が吹きつけて、わたしは竜介を胸に抱いたまま、十メートル近く吹き飛ばされたの。背中をアスファルトに打ちつけて、そのまま気を失った。気がついた時には病院のベッドの中だったわ」
母の瞼から涙が溢れ出すと、頬を伝って流れ落ちた。
「事故現場は全てが焼き尽くされ、真っ黒な灰だけしか残っていなかった……父さんの遺体もまったく分からなかったほど……それでも唯一残っていたのが……その鏡なの……」
思わず竜介は鏡の縁取りを握る指先に力を込めていた。
「ごめんね、竜介……私が……あのことを聞かなければ……こんなことには……」
母はベッドに突っ伏すと、全身を激しく震わせた。鏡を握り締めたまま、竜介は身を固くしていた。
その時、ガタンとドアを慌ただしく開ける音が響くと、「紗也花!」と、竜介の背後から悲鳴のような祖母の声が響いた。ベッドに駆け寄った祖母は、痙攣を続ける母の背中に覆い被さるようにしながら、慌ててナースコールのボタンを押した。不意に痙攣が止まると、母は凍りついたように全身が硬直した。カッと瞼を見開いたままで瞬きもせず、瞳孔も開いて目の焦点を失っていた。
すぐに看護師たちが駆けつけて、母の腕を取ると、鎮静剤の注射を立て続けに何本も打った。そのまま母は眠り込んだ。
嵐のような騒ぎの病室の中で、竜介はただ呆然と立ち尽くしていた。
病院からの帰り道、祖母は車のハンドルを固く握り締めながら、重苦しく黙り込んでいた。その横顔は、今にも気を失うんじゃないかと思うほど、真っ青になっていた。
「ねぇ、おばあちゃん。父さんが死んだ事故って……」
竜介の問いかけに、祖母は唇をギュッと噛み締めた。
「あれはタンクローリーがバランスを崩したのが原因なんだよ……絶対に……絶対に紗也花のせいなんかじゃない……」
ハンドルを握ったまま、祖母は激しくかぶりを振った。
「純平さんの葬式は、私たちだけでやったんだよ。純平さんは孤児院の出身だったから……竜介、お前のお父さんが死んだのは誰のせいでもない……運命だったんだよ……」
竜介は、コックリと大きく頷きながら、「うん、分かった……」と呟いた。再び祖母は沈鬱な表情で黙り込んだ。
(母さんは、『自分が聞かなければ、こんなことにならなかった』って言ってた……いったい、なんのことだろう……)
竜介の胸の内に、そんな疑問が湧き上がっていた。そして、母の存在を、これまでにないほど遠く感じて、無性に悲しくなった。
ふと窓の外に目をやると、眩ゆいほどの初夏の日差しが沿道の街並みに降り注いでいた。
それから一週間ほど経った、学校からの帰り道のことだった。
自宅が同じ方向の誠と連れ立って、竜介は小学校を後にした。初夏の日差しが眩しくて掌を額に掲げながら、竜介は誠と肩を並べて歩いていた。道路のアスファルトからはムッとするような熱気が立ち昇っていた。
茹で上がるような蒸し暑さに二人とも黙り込んだまま、住宅街の小さな公園に差し掛かった。
ふと公園の隅のベンチに目をやると、男子中学生の三人組が肩を寄せ合いながら談笑していた。竜介の目には、三人の口元に咥えられたタバコが、はっきりと映った。そして、その中の一人の顔に見覚えがあった。
(この顔はどこかで……あっ!一年生の時、誠が水をかけた六年生だ)
あれからまる三年経っているので、中学三年になっているはずだ。
公園の横の細道を俯き加減で肩を寄せ合うように二人が歩き続けていると、「おい!」という怒鳴り声が聞こえた。
顔を上げると、見覚えのある中学生が道の真ん中で仁王立ちをしていた。いつのまにか背後には残りの二人が逃げ道を塞ぐように立っていた。
「お前ら、見ただろう」
怯えた眼差しで、誠は激しく首を振っていた。
「あれっ、お前らどこかで……あっ、あの時の……」
どうやら相手も竜介たちのことを思い出したようだった。
「今度は、前みたいにはいかねぇぞ。覚悟しろよ」
目尻を吊り上げながら、目の前の中学生が低い声で凄んだ。そして、次の瞬間、右手を伸ばして誠の胸ぐらをグイッと掴んだ。左手にはポケットから取り出したナイフを握っていた。
背後からの気配を感じて、竜介は身を縮めるように前屈みになった。竜介の肩を掴もうと、背後にいた中学生が伸ばした腕が空を切った。
竜介の頭の中でキンと甲高い音が響いた。まるで何かのスイッチが入ったように周囲の風景が凍りついたように固まった。
竜介は、恐怖で顔を歪めている誠に近づくと、その胸元を掴んでいる中学生の右手の指を一本ずつ開くようにして、関節とは逆方向に大きく捻じ曲げた。そして、左手に握られているナイフを抜き取った。
そして、背後に立っている二人に近づくと、空を掴むように伸ばしている掌の真ん中に、ナイフで浅い切れ目を入れた。
固まったまま動かない中学生たちを一瞥すると、竜介は、ナイフをそっとアスファルトの上に置いた。
その瞬間、再び頭の中にキンという甲高い音が響き、途端に周囲の風景が動き始めた。
「あーっ!」
目の前の中学生がねじ曲がった右手の指を左手で抑えながらアスファルトに膝を突いた。
「わっ、わっ」
背後にいた二人は、突然、掌から噴き出した血を見て慌てふためきながら、逃げるように走り出した。
何が起こったのか分からずに呆然と立ち尽くしている誠の手を取ると、竜介は、「行こう、誠」と歩き出した。
そのまま誠の手を引きずるようにして、無言のまま、竜介は歩き続けた。
自分の能力を使って、人を傷つけたことは初めてだった。それまで自分の中で眠っていた野獣が突然目覚めたような気がした。今までなんとか抑えつけていたはずなのに、とうとう恐れていたことが起きた。竜介は、そんな後悔に苛まれていた。
「竜介……お前って……なんなんだよ……」
不意に問いかけてきた誠の声は震えていた。
「自分でも……分からない……」
掠れたような声で竜介が囁くと、誠は竜介が握った手を振り払うようにして後ずさった。
「さよなら、竜介」
「ああ…じゃあな……誠、さよ……」
さよならと竜介が言い終わらないうちに、誠はクルリと背中を向けると、そのまま走り出した。小さくなっていく誠の背中をじっと見つめながら、「誠、さよなら」と、竜介は独り言のように小さく呟いた。
自宅に帰り着くと、祖母たちの出迎えにも「ただいま」と虚ろな返事をしただけで、竜介は二階の自分の部屋に駆け上がった。学校のカバンを机の上に放り出すと、背中からベッドに倒れ込んだ。ベッドの上で手足を伸ばして大の字になると、天井の白いクロスをボンヤリと眺めていた。
心の中は捨て鉢な思いでいっぱいで、何もやる気が起きなかった。フーッと大きな溜め息を吐くと、ゆっくりと瞼を閉じた。どこか心のタガが外れてしまったようで、まるで抜け殻のように頭の中が真っ白で何も考えられなかった。
すると、突然、パンと少しくぐもったような甲高い音が耳に響いた。その音を気にかけることもなく、魂の抜けたようにベッドの上で横になっていると、再びパンという音が微かに聞こえた。まるで遥か遠くで拍手を打っているような音色だった。
(一階で、おじいちゃんが何かやってるのかな?)
そんな取り留めのない思いが、竜介の胸の内を過ぎった。
聴覚を研ぎ澄ませれば、竜介は、隣の家で人が身動きする時の微かな衣擦れの音さえ聴き取ることができた。
(空耳だったのかな……)
するとまた、パンという音が聞こえた。どうやら部屋の中から響いてきたように思えた。
竜介は、ベッドの上に手を突きながら上半身を起こした。そのまま耳を澄ませていると、またパンという音がした。さっきよりも音がはっきり聞こえた。
竜介はベッドから立ち上がった。そのままじっとしていると、またパンという音がした。
音のした方に目をやると、机の下に置かれている白い箱があった。
(あれは母さんから貰った写真と鏡を入れている箱だ……)
竜介はゴクリと喉を鳴らしながら、口の中に溜まった唾を飲み込んだ。それから床に敷かれているカーペットに膝を突いた。両腕を伸ばして机の下の白い箱を掴むと、そのまま引っ張りだした。
(思い過ごしかな……)
首を傾げながら、カーペットの上に置いた白い箱の蓋をそっと持ち上げた。
箱の中には、母から貰った小さな写真立てと、鏡が入っていた。
写真立てを手に取ると、竜介は、父と母と赤ん坊の自分が写っている写真に目を凝らした。写真の中の父は、外人かと見紛うほどに透き通るような白い肌をしている。無邪気に笑っている父の頬には小さなエクボが浮かんでいた。
不意に、『竜介を見るたびに、お父さんの姿が重なって見える』という、母の言葉を思い出した。これまで母は、どんな気持ちだったのだろうと考えると、ズキンと胸の奥に痛みが走った。竜介は、写真立てを白い箱の中に戻した。
箱の中には写真立ての他には鏡しか入っていない。
鏡は縦に長い楕円の形で、その鏡面を白亜色の飾り枠が縁取っていた。一番下の部分に、正面を向いた竜の顔が彫られ、その竜が翼を上に掲げている姿が左右の縁取りに描かれている。
竜介は、飾り枠の左右の縁を両手で掴むと、ゆっくりと持ち上げた。その鏡は不自然なほど軽いうえに、指先に触れた縁取りの感触はとても滑らかだった。
不意に、母の病室で初めて鏡面を覗き込んだ時、緑色のドラゴンと氷に覆われた湖が見えたことを思い出した。
(あれは何だったのだろう……)
両腕を伸ばしたまま、顔の正面まで持ち上げると、鏡面を覗き込んだ。
白い竜の翼の間に、透き通るような白い肌の少年が、淡い褐色の瞳で、こっちを見つめていた。
まさしくその姿は竜介で、まるで生き写しのように写真の父と似ていた。
(あれっ……そういえば音が……)
いつのまにか、パンという音が聞こえなくなっていた。
(あれは……いったい……なんだったのだろう……)
鏡の中に映った自分の顔から視線を外そうとした瞬間、竜介の頭の中でキンと甲高い音が響いた。昼間に中学生たちに絡まれた時とまったく同じだった。
周囲から一切の音が消えた。まるで真空の空間に投げ出されたような感覚だった。
鏡の中の自分の瞳に捉えられたように、体が動かなくなった。まるで全身が金縛りにあったようで、呼吸さえもできない。
(なんで……こんな……)
意識が朦朧として、目の前の鏡に映る自分の顔がぼやけてきた。
そのまま、スーッと気が遠くなった瞬間、
「あなたは誰?」
という声に、意識を呼び戻された。
ハッとして、声がした方に顔を向けると、年若い女の人が立っていた。
その女性は、白い布を身にまとい、腰に紺色の帯を巻いていた。布を両肩で止めている銀色のブローチが陽射しを反射してキラキラと輝いている。昔、映画で見た古代ギリシャの服装に似ていた。足にはバレエのトウシューズのような白い靴を履いていて、小さなリボンが付いていた。
ショートヘアの黒髪を風に靡かせながら、黒い瞳を大きく見開いていた。どことなく写真で見た若い頃の母に似ている気がした。
(なんでここに女の人が……)
わけが分からずに混乱して黙り込んでいると、視界に入る風景に違和感を覚えた。
竜が描かれた鏡を両手で目の前に掲げた、竜介は石畳の上に座っていた。服は学校から帰った時のままで、足には白い靴下を履いていた。
その石畳は四方に広がっていて、広さは小学校の運動場ぐらいだった。周りを高い木立ちがぐるりと囲んでいる。
竜介は鏡を石畳の上に置いた。
正面に視線を戻すと、白亜の大理石で造られた大きな竜の像があった。鏡と同じように、左右の大きな翼を空に突き上げるように高く掲げていた。翼の先端を仰ぎ見ると、百メートルはあろうかと思われるほどだった。その背後には、突き抜けるような青い空がどこまでも広がっていた。
「あなた……似ている……」
呟き声が聞こえた方に目をやると、女性の唇が小刻みに震えていた。
女性に向かって、竜介は、「ここは……どこですか?」と、恐るおそる問いかけた。
その女性は竜介の瞳を見据えながら、「ここは神殿です。勝手に入ることは許されていません」と、窘めるように返事をした。
「神殿?……神殿って……」
竜介は正面に向き直ると、竜の立像に目をやった。長い首を真っ直ぐに伸ばしたまま、顔を正面に向けている。日光を反射して、二つの眼が淡い褐色の光を放っているように見えた。口元には大きくて鋭い牙が等間隔に並んでいる。頭頂部には二本の角が後ろに向かって反り返るように生えていた。
巨大な胴体を支える太い丸太のような四本の足が石畳に鋭い爪を突き立てていた。そして、肩口から背中にかけて生えた左右の翼が、天空を支える二本の柱のように空に向かって聳え立っていた。途方なく大きい白亜の像で、こんなものを目にしたのは初めてだった。
「あなたが手にしていた鏡はナーガの像に供えられているものです。勝手に触れることは禁じられています」
竜介は石畳に手を突いて立ち上がると、ちょっとだけ首を傾げながら、「ナーガって何ですか?」と尋ねた。
竜介の問いかけに、その女性は仰け反るようにして驚いた。
「ナーガを知らないのですか?今、あなたの前にあるでしょう!」
竜介は、目の前に聳え立っている竜の像に目をやった。
「あれが……ナーガ……これって竜じゃ……」
「ナーガを知らないなんて、いったい、あなたはどこから来たの?」
竜介は肩を落としながら首を振った。
「よく分かりません……部屋の中で鏡を見ていたら……いつのまにか……ここに……」
その女性が一歩足を踏み出して、竜介の方に近寄った。
「私はサラ。あなたは?」
竜介は、サラの顔を見上げた。その黒い瞳が、竜介の淡い褐色の瞳を真っ直ぐに見据えていた。
「ぼっ……僕は…竜……」
竜介と名乗ろうとした瞬間、サラが掌を向けながら、「待ちなさい!」と、一喝するように制した。
慌てて、竜介は、後に続く言葉を飲み込んだ。
サラがもう一歩踏み出すと、腰を屈めながら竜介と目線の高さを合わせた。そして、ゆっくりと首を左右に振りながら、「答えなくていいわ。あなたは、この世界で決して本当の名前を名乗ってはいけない。帰れなくなるから」と、諭すような口調で語りかけた。
その言葉の意味が理解できず、竜介はポカンと口を開けていた。
サラは、右手の人差し指を顎に当てると、小首を傾げた。
「そうね……リュウ……あなたはリュウ。そう名乗りなさい」
竜介の瞳を覗き込みながら、サラが微笑んだ。
「はっ、はい……わかりました……」
何が何だかよく分からなかったが、とりあえず竜介は大きく頷いた。
この時から竜介はリュウとなった。
サラは満足そうに頷き返すと、石畳の上に膝を突いた。先ほどリュウが置いた鏡を両手で掴むと、まるでスローモーションのように、そろそろと持ち上げた。そして、胸に押し抱くようにしながら立ち上がると、リュウのほうに向き直った。
「私についてきなさい、リュウ」
サラの黒い瞳は、凪いだ湖面のように澄み渡っていて、まるでリュウの心の奥まで見通すかのように感じられた。
そんな瞳に見据えられて、「はっ……はい……」と、リュウは声を絞り出した。
サラは、ナーガの像の真下まで進むと、そこに据えられている台座の上に鏡を置いた。そして、クルリと振り返ると、古代ギリシャのような白い服の裾野がパッと広がった。
「この鏡は、ナーガの像に祀られているものです。決して勝手に触れてはなりません」
「はい……」
リュウは神妙な表情で返事をしたが、心の中では、(いったい……なにがどうなってるんだ……)と、激しく動揺していた。
「では、こちらへ。私の後についてきなさい」
サラは、リュウに背を向けると、背筋をピンと伸ばしたまま、ゆっくりと歩き出した。
その背中を見据えながら、リュウは石畳の上に足を踏み出した。足先には靴下しか履いていなかった。
周囲を見渡すと、石畳にはホコリ一つ落ちていなかった。きっと入念に掃除してあるのだろう。
神殿には、そよ風が吹き抜けていた。優しく頬を撫でる風の感触が心地よい。ふと、熟した桃のような甘い香りが、風の中に微かに混じっているのに気づいた。
(これって、もしかしてサラの髪の匂い?)
颯爽と前を進むサラのショートヘアの黒髪がそよ風に柔らかく靡いていた。陽射しを浴びて、その黒髪が艶やかに輝いている。
サラの後ろをついていくと、神殿の周りを囲む木立ちの間に石畳の一本道が伸びていた。その幅は一メートルもなく、ヒトが肩を並べて通ることもできそうになかった。
その道の入口で一度立ち止まると、サラは、両手を左右に広げて力強く拍手を打った。静寂に満ちた神殿の中に、パンという甲高い音が響き渡った。
(さっきまで部屋で聞こえていた音だ!間違いない!)
驚きのあまり、リュウは大きく瞳を見開いていた。
サラが石畳の一本道に踏み出すと、そのままスタスタと歩き続けた。その背中に遅れないように、リュウが後に続いた。両側を高い木立ちに囲まれた一本道はとても薄暗かった。
やっと一本道を抜けると、突然、真上から強烈な陽射しが降り注いだ。思わずリュウは目が眩んだ。
しばらくして目が慣れてくると、すぐ目の前にサラが立っていた。サラは、リュウの様子を窺うように、穏やかな眼差しでリュウの顔を見つめていた。
「大丈夫ですか、リュウ?」
「はい……」
リュウは、コックリと頷いた。
地面には青々とした芝生が広がっていた。神殿の高い木立ちの外側は、広大な草原が見渡す限りどこまでも続いていた。地平線の彼方に目をやると、黒い塀が霞んでいた。
(いったいあれはなんだろう……)
額に手をかざして漆黒の塀に目を凝らしていると、突然、リュウの周りの地面に大きな影が差して、次の瞬間には消えていた。
反射的に空を見上げると、雲の間を、長い首を伸ばして大きな翼を左右に広げているシルエットが目に映った。以前、映画で見たことのある、空を飛ぶ恐竜の姿に似ていた。
リュウは、人差し指を伸ばして空を指しながら、「あっ……あれは……いったい……」 と呟いた。
「ナーガです」
「ナーガ……あれが……」
「そうです。私たちヒト族は、ナーガ族に仕えているのです」
「仕えている?どういうことですか?」
「言葉の通りです。ナーガ族はこの地上の支配者なのです」
サラの話がすぐには理解できず、しばらくの間、リュウは、ポカンと口を開けていた。
(ナーガって……竜の……ドラゴンのことに違いない……この世界にはドラゴンが実在するんだ……そのうえ地上を支配してる……)
もう一度、空を見上げると、雲の切れ間の至る所で、翼を広げているナーガの姿が目に入った。長い首を伸ばしながら悠々と飛び交っている姿は、まさに地上の王者にふさわしいと思えた。
一頭だけで気ままに飛んでいるナーガもいれば、二頭で左右に並んで滑空しているナーガもいた。なかには、クルクルと旋回して、お互いに左右の位置を入れ替わりながら飛んでいるナーガたちもいた。
数え切れないほど、たくさんの竜、いや、ナーガたちが大空を飛び交っていた。
リュウは、とても現実のこととは思えず、ただ呆然と空を見上げていた。
「リュウ」
不意にサラがリュウに呼びかけた。その声に我に返ると、リュウは、サラのほうに顔を向けた。
「あなたは別の世界から来たのでしょう。あの神殿は封印されていて、誰も入ることはできません。神殿に入れるのは、その方法を知っている巫女の私だけなのですから」
サラは鋭い視線でリュウの瞳を見据えた。その視線に捉えられ、リュウは目を逸らすことができなかった。
「そっ、そうです……」
リュウがなんとか声を絞り出すと、サラは静かに頷き返した。
「分かりました。まずは、私の小屋においでなさい。そのままの格好では、不審者と思われて、すぐに捕まってしまいます」
「はあ……お願いします……」
リュウは、ぎこちなく頭を下げた。突然、異世界に放り出された自分には、目の前にいるサラの他に頼れる人はいなかった。
「ではこちらへ」
背筋をピンと伸ばしたまま、サラはクルリと背を向けた。その後に続いて、リュウは歩き出した。靴下の繊維の間から芝の葉っぱがチクチクと足の裏に当たって、くすぐったかったが、なんとか我慢して歩き続けた。
神殿を囲む木立ちに沿ってサラは先を進んでいった。先ほどの話では、サラは神殿に仕える巫女らしい。たしかに近寄り難いほどの神々(こうごう)しい雰囲気を纏っている。
しばらくすると、小さな木造の小屋が見えてきた。木立ちの陰に隠れるようにしてひっそりと建っている、三角の屋根と壁が少しくすんだ灰色をしていた。
(サラは、あんなところにたった一人で住んでいるんだろうか?)
そんな疑問が湧くほど、その小屋は粗末に見えた。
そんなリュウの疑問に気づいたように、サラが足を止めて振り向いた。
「あれは、巫女が身支度をする小屋です。月に一度、神殿のお清めの際に使うだけです。誰も立ち寄ることはありません」
「そう……なんですね……」
「だから、案ずることは何もありませんよ」
サラが柔らかな微笑みを浮かべた。
小屋にたどり着くと、サラが入口の引き戸を開けた。サラの後ろに続いて、リュウは狭い入口をくぐった。小屋の中は自宅のリビングと同じぐらいの広さしかなかったが、整然と片付けられていた。
サラは戸棚からシーツのような白い布を取り出し、リュウを着替えさせた。最後に肩口の布を銀色のブローチで止めると、リュウはまるで古代ギリシャにタイムスリップしたような姿になった。それからサラが戸棚からサンダルを取り出して、「では、これを履いてみて」と差し出した。
リュウがそのサンダルを履くと、靴底は薄い板製で、足の甲を締める布製のベルトの感触が柔らかだった。サイズもピッタリなうえ、とても軽くて歩きやすい。
「どうですか?」
「いいみたいです」
サラは、リュウが着ていた服を手早く畳んだ。そして戸棚の一角に置くと、上から白い布で覆った。万が一にも人目につかないように、というサラの心遣いが感じられた。
「これは置いていきなさい」
「はい、分かりました」
リュウは、コックリと頷いた。
(サラは何かを知っているに違いない。そうでなければ、ここまでしてくれる理由がない)
何かを懐かしむような瞳で、サラは、白い布を纏ったリュウの姿を見つめていた。
「あの、サラ」
「はい?」
「ちょっと聞きたいことがあります」
「なんですか?」
サラの瞳は崇高な輝きを宿していた。その眼差しに、リュウは口の中に溜まった唾をゴクリと飲み込んだ。
「神殿で、あなたは僕を見て、『似ている』と言いましたよね。誰に似ていると思ったんですか?」
リュウの問いかけに、サラは、どこか遠くを見るように空中に視線を漂わせた。しばらくの間、時間が止まったように静寂に包まれた。リュウは息を凝らして、サラの様子をじっと見つめていた。
フッと小さく息を吐くと、サラがリュウの顔に視線を戻した。
「私が知っているお方に似ている。そう思ったのです」
「それは誰なんですか?」
「今はまだ話さないほうがいい。そう思います」
凪いだ湖面のように穏やかな瞳でリュウを見つめながら、サラが柔らかな微笑みを浮かべた。それでも、リュウは、「でも……」と口を開こうとした。
すると、サラは、リュウを制するように掌を向けた。
「今はまだ、その時ではありません。しかし、私は、命をかけてあなたを助けます。それが約束ですから」
サラは唇を一文字に結んで押し黙った。
(約束?……誰との?……)
サラの返事に、更に疑問が湧き上がってきたが、今は諦めるしかなかった。サラは、穏やかだが揺るぎのない眼差しをしていた。
リュウは頷き返しながら、「分かりました。でも、いつかきっと教えてください」と、頭を下げた。
「はい……いつか……きっと……」
一言ひとことを刻み込むように、サラが答えた。
それから、サラは小屋の中の後片付けを済ますと、小屋の隅に置いてあった白い布製の肩掛けカバンを手に取った。サラの身の周りのものは全て白一色だ。
(それって、サラが巫女だから……かな……)
そんな、他愛もない疑問が、リュウの心に過ぎった。
サラは、肩掛けカバンのベルトを右肩から斜めに掛けた。
「さあ、行きましょう」
左腰のカバンを、サラがポンと軽く叩いた。
「これからどこへ行くんですか?」
「ナーガの街です」
「ナーガって……あの……空を飛んでた……」
「そうです。私たちヒト族は、ナーガ族のために働いているのですよ。私の家も街にあり、普段はそこで暮らしているのです」
「そう……なんですね……」
竜に人間が仕えている世界なんて、リュウには想像もつかなかった。
「リュウ、しばらくの間、あなたは私の家で暮らすのですよ」
「お世話に……なります……」
とんでもないことになってきた。右も左も分からない、この世界で暮らしていくなんて、自分にできるのだろうか。もう元の世界には戻れないのだろうか。リュウは、そんな不安でいっぱいだった。
二人は小屋を後にした。リュウは、サラの横に並んで歩いた。草原の彼方に真っ黒な塀が聳え立っている。どうやらあの塀は街を囲む城壁らしい。
太陽は真上から少し傾いた位置にあった。草原を吹き抜けるそよ風が、心地よく頬を撫でていった。
「街に着くまで、どれくらいかかるんですか?」
サラの横顔を見上げながら尋ねると、サラがリュウの顔を見返した。
「日が沈む前には着けると思いますよ」
それからしばらくの間、黙ってリュウは歩き続けた。時々、盗み見るように、横を歩くサラの顔を見上げていた。
すると、突然、ドドドッという幽かな音を耳にした。注意深く耳を澄ませると、その音は、まるで地響きのようで、徐々(じょじょ)に近づいてくるように感じた。
「サラ、なにか聞こえませんか?」
サラは足を止めると、「いえ、私には何も……リュウ、どんな音が聞こえるのですか?」と、リュウの方に体を向けた。リュウも立ち止った。
「地響きのような、ドドドッって感じで、こっちに近づいているみたい」
「右、左、どちらから聞こえるんですか?」
「えっと、うーん……右と思います」
耳を澄ませながら、リュウは右の方向を指差した。
「分かりました。きっとガーエの群れがこちらに近づいているのに違いありません。すぐに準備しましょう」
「ガーエってなんですか?」
「説明は後で。今は急いで準備をしないと」
サラは肩掛けカバンを地面に下ろすと、一本の小さな瓶をカバンの中から取り出した。
「リュウ、そこから動かないで」
「はい……」
呆気に取られてリュウが立ち竦んでいると、サラは二人の周りをグルリと囲むように瓶の中身を芝生の上に振り掛けた。その間にも、ドドドッという地響きのような音は徐々に大きくなってきた。
「この薬は、ガーエが嫌がる匂いを発しています。この中にいれば大丈夫です」
「それで、ガーエってなんですか?」
「ナーガ族の主食となる家畜です。ガーエを養うために、これだけの広い草原が必要なのです。ガーエを放牧する役割もヒト族が担っているのですよ」
「そう……なんですね……」
リュウは、足元の地面が少しずつ振動し始めたのに気づいた。もはやサラの耳にも地響きの音が聞こえるようで、音が近づいてくる草原の彼方をじっと見つめていた。
地平線に土埃が上がった。足を踏ん張らないと立っていられないほど、地面が激しく揺れている。ドドドッという轟音が辺りに響き渡って、ちょっと鼓膜が痛いほどだった。
「来ますよ。気をつけて」
「はっ、はい」
リュウは、ギュッと両手の拳を握り締めていた。
地平線に見えた土煙は空高く舞い上がりながら、もの凄い速度で近づいてくる。まるで巨大な砂嵐のようだった。見る見るうちに土煙が間近まで迫り、次の瞬間、わずか数メートル離れたところを巨大な獣が通り過ぎた。
目の前を横切ったのは、頭に二本の短い角を生やした獣だった。頭と肩と前足が真っ黒な体毛で覆われていて、昔、動物図鑑で目にしたバッファローに外観が似ていた。だが、その背丈は三メートルほどで、体長も五メートルを超えているようだった。まるでダンプカーがすぐ真横を猛スピードで走り抜けていくように感じた。
その巨大なバッファローの群れは、見渡す限りの草原を埋め尽くすほどの数だ。
凄い勢いで、自分達の左右を駆け抜けていく。地面が激しく上下していた。耳をつんざくような轟音に、三半規管まで麻痺しそうになって、リュウは頭がクラクラしてきた。
ガーエの大群の疾走は、それからしばらくの間、途切れることなく続いた。ガーエたちが蹴り上げる土埃に息苦しくなって、リュウは口元を掌で覆っていた。二人の周囲は咽るほどの草いきれの匂いが充満していた。
それから次第にガーエの群れの間に隙間が生まれ、いつしか最後尾の一頭が通り過ぎていった。
ガーエの群れの最後尾から数十メートルほどの間隔を空けて、ポニーぐらいの小柄な馬に跨った数十人の男たちが現れた。その男達は、ガーエの群れを追い立てるように、それぞれの手に持った鞭を空中でクルクルと回しながら雄叫びをあげていた。
ガーエを追い立てる男達が走り去り、静寂は戻ったものの、土煙は空中に漂ったままで周囲は薄暗かった。
「大丈夫でしたか、リュウ?」
いつの間にかサラは口元を布で覆っていた。口元に掌を当てながら、リュウはコホンと小さく咳をすると、サラに向かって頷いた。
「リュウのおかげで助かりました。気づくのが遅ければ、ガーエたちの疾走に巻き込まれていたでしょう。そうなれば、ただでは済みませんからね」
サラはまだ口元に布を当てていた。
「あの男の人達は、何をやってたんですか?」
「ガーエたちを次の牧草地へ連れていくのです。なにせ、あれだけの大きさで、あの数ですから、数日で周囲の草が食い尽くされてしまうのです」
リュウは足元に目をやった。自分たちが立っていた足元以外は見渡す限り、ナーガが芝を踏み荒らして黒い地面が剥き出しになっていた。足元に残っている芝が、これほどきれいに短く丈が揃っているのは、ガーエたちが一斉に食べてしまうからに違いない。
「さあ、行きましょう」
再びサラが歩き始めた。慌てて横に並ぶようにリュウは足を踏み出した。
一時間ほど歩き続けると、街を囲む城壁が遠目からも見てとれるようになってきた。聳え立っている真っ黒な塀は左右にどこまでも続いていて、近寄ろうとする者を寄せ付けないような威圧感があった。その城壁の向こうに、石造りと思しき灰色の三本の塔が天空を支える柱のように屹立していた。
リュウは指差しながら、「あの塔はなんですか?」と尋ねた。
「ナーガの王族たちの城です。ヒト族はもちろん、ナーガ族でもあの城へ勝手に入ることは許されていません」
その時、二人の上に大きな黒い影が差した。何事かと空を見上げると、自分たちに向かって三頭のナーガがもの凄いスピードで急降下してくる。三頭のナーガは地面に降り立つ直前に翼を羽ばたかせると、柔らかい羽毛が地に触れるように、音もなく降り立った。
目の前にいるナーガは、頭から尻尾の先まで三十メートルほどもあった。肩口から背中にかけて生えている翼を左右に伸ばすと、ちょうど体長と同じぐらいの長さだ。とてつもなく巨大な姿を目の当たりにして、リュウは、体が小刻みに震えるのを止められなかった。これなら、あの大きなガーエでもペロリと食べてしまうだろう。
突然、目の前に姿を現したナーガのうち、二頭は焦げ茶色のウロコで覆われていた。一頭だけは真っ白なウロコで全身が覆われていて、日の光を反射しながら、眩しいほどの輝きを放っていた。神殿にあったナーガの像と姿形がとてもよく似ているように思えた。淡い褐色の瞳も神殿の像と同じだった。口元から伸びる大きな鋭い牙と、両耳の上に生えている二本の角まで、瓜二つと思えるほどだった。
白いナーガを目にした途端、サラは腰を下ろして片膝立ちになると、そのまま深く頭を垂れた。
「リュウ、私の真似をして。早く!」
声を押し殺すようにしながら、サラが呟いた。事態がよく飲み込めないまま、リュウは慌てて片膝立ちの姿勢を取った。
すると、目の前にいる白いナーガの放つ光が急激に強さを増した。まるで小さな太陽が忽然と現れたようで、リュウは目が眩んで反射的に顔を伏せた。
そのまま体を固くしていると、サクサクと地面を軽く踏み締める足音が近づいてきた。
「やはりサラだったのですね。あなたの匂いがしたものですから、ちょっと寄ったのですよ。驚かせてごめんなさいね。サラ、顔を上げて」
耳に聞こえてきたのは、女性の優しげな声だった。
リュウは顔を伏せたまま、(いったい……どういうことだろう……)と混乱していた。上目遣いで声のした方に視線をやると、か細い女性の足首が目に入った。サラと同じような白い着物の裾と、足の甲を覆うサンダルのベルトも見えた。
「女王陛下、お気遣いは無用にございます。今日は神殿のお清めの日で、無事に務めも果たせました」
「そうですか。それは良かった。あなたを巫女に選んだ、私の目に狂いは無かったと、今でも確信しておりますよ」
「過分なお言葉、誠にありがとうございます」
リュウの横で片膝立ちをしているサラが、深く頭を下げた。
(女王だって……今、目の前にいるこの女性が……)
思わずリュウは、顔を上げて目の前の女性を見てみたい、という衝動に駆られた。
「ところで、サラ、この少年は?」
「はい。私の遠い縁戚に当たり、両親を亡くして孤児となっておりまして、この度、引き取ったのでございます」
まるで最初からセリフを用意していたように、サラは澱みなく答えた。
「あなたの縁戚……そうなのですね……」
「何か?」
「私がナーガのうちでも、香りを嗅ぎ分ける能力に恵まれていることは知っていますね」
「はっ、はい……」
ほんの一瞬、サラが口ごもった。
「現に先ほども、空を飛びながらあなたの匂いに気づいたのです。でも、こうしてあなたの目の前に突然、姿を現したのは理由があります。あなたの匂いに混じっている不思議な香りに気づいたからです」
サラは押し黙っていた。
「それがこの少年の香りでした。不思議なことに、この者はナーガの香りを放っています」
「さようで……ございましたか……」
「少年よ、顔を上げなさい」
「アイラ女王陛下、この者は卑しい身分でご尊顔を拝することは……」
その言葉を断ち切るように、「あなたが私に抗うなど、珍しいこともあるものですね」と、サラに鋭い視線を向けた。恐縮したように、サラは更に深く頭を垂れた。
「少年よ、顔を上げなさい」
いつのまにかリュウは、自分の指先が小刻みに震えているのに気づいた。抗うことを許さないほどの威厳をアイラの声に感じていた。意を決して、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には銀髪の女性が立っていた。真っ白なローブを身にまとい、こちらをじっと見つめている。肩まで伸びている銀髪が陽射しを反射してキラキラと輝きながら、そよ風に靡いていた。年齢はよく分からなかったが、スッと通った鼻筋と透き通るような白い肌が印象的で、気品のある美しい女性だった。強い光を宿している淡い褐色の瞳に、どこか懐かしいような感じがした。
アイラは瞳を大きく見開きながら、「あっ……あなたは……」と、わななくように桜色の唇を震わせていた。思いもよらない反応に、リュウはちょっと小首を傾げた。アイラの背後には二頭のこげ茶色のナーガが、かしずくように頭を垂れている。
アイラはサラの方に向き直ると、「サラ!どういうことですか、これは!この少年は幼い頃のジューイにそっくりではありませんか!」と、勢いよく足を踏み出した。
サラは激しく首を左右に振った。
「何のことか分かりません。ジューイ王子の幼い頃など、私が知るはずもないではありませんか。私が巫女となった十五年前、ジューイ様は既に成人していらっしゃいました」
アイラは、ほんの一瞬、押し黙った。それから一転して穏やかな調子で、「たしかにあなたの言う通りです。取り乱してごめんなさい、サラ」と優しく微笑んだ。
「いいえ、そんな……」
サラは恐縮したように軽く頭を下げた。
アイラは、腰を曲げてリュウの方に顔を近づけた。そのまま穴の開くほどにリュウの顔を見つめていた。その遠慮のない視線に耐えられずに、リュウは思わず顔を伏せた。
「顔の造りはもちろん、目の色まで同じとは……あなた、名前は?」
アイラの視線から逃れるように目を伏せたまま、リュウは、「リュウ……です」と小さな声で呟いた。
「リュウ……そうですか。では、ご両親の名は?」
畳み掛けるように、アイラが問いかけた。思わず視線を泳がせながら、リュウは、「ジュ、ジュンペイと、サッ、サヤカ……です」と、ちょっと吃りながら声を絞り出した。咄嗟のことで、つい両親の本当の名前を告げてしまった。横で片膝立ちをしているサラが、その名を耳にしてなぜか体を固くしていた。
「ジュンペイとサヤカ……分かりました。ありがとう、リュウ」
伸びをするように体を起こすと、アイラは淡い褐色の瞳でリュウを見つめながら、穏やかな微笑みを浮かべた。そして、頭を下げたまま身を縮めているサラに目をやった。
「サラ、明日、リュウを城に連れてきなさい。いいですね」
そのままクルリと背を向けたサラの言葉には、抗うことを決して許さないほどの威厳が込められていた。サラはブルッと身震いをすると、低頭したまま、「はい。分かりました」と短く返事をした。
歩き去っていくアイラの背中が眩いほどの光に包まれると、次の瞬間、白いナーガが空に向かって飛び立っていった。その後を追うようにこげ茶色のナーガが大きな翼を羽ばたかせて空中に舞い上がった。リュウは立ち上がると、またたく間に空の彼方に小さくなっていく三頭のナーガの姿を、淡い褐色の瞳で追い続けた。
ガックリと首を傾げたまま、サラは片膝立ちの姿勢で硬直していた。そんなサラの横顔を見つめながら、リュウは、「いったいどういうことなんですか、サラ?」と問いかけた。
ハッと我に返ったようにサラが立ち上がった。
「思いも寄らぬことでした……こんなにも早くあなたが見つかってしまうなんて……」
思わずリュウは眉根を寄せた。
「見つかる?見つかるって、どういうことです?」
「もはや……黙っておくことできませんね……リュウ、あなたのお父さんの本当の名前は、ナーガ・ラジャ・ジューイ」
「えっ……」
「ナーガ・ラジャとは、ナーガの王族という意味です。ジューイ様は、先ほどのアイラ女王陛下のご長男、王位継承第一位の王子だったのです」
「……だった……って……」
「ジューイ様は、あの神殿で姿を消されたのです。あの神殿に入る直前、私がお見送りをしました。ちょうど十二年前のことです」
俯きながらリュウが顎に手を当てた。
(ナーガ・ラジャ・ジューイ……ナーガ・ジューイ……那賀純平……似てる……それに、母さんが父さんに会ったのは、僕が生まれる二年前……十二年前だ……)
サラは遠くを見るような眼差しで空を見上げた。
「その時、ジューイ様はこう申されたのです。『運命を変えるためには、こうするしかない。いつか私に代わって、この世界を訪れる者がくるかもしれない。その時は、その者を守り抜いてほしい』と……」
自分の心を落ち着かせるように、フーッと、サラが大きく深呼吸をした。
「私は、ジューイ様に、命を懸けてお守りすると約束しました。そして、今日、神殿にあなたが現れたのです」
「僕が……現れた……」
サラがコックリと頷いた。
「そうです。あなたを一目見て私は確信しました。ジューイ様のご子息に違いないと」
リュウは父の生き写しだと、母が言っていたことが心に過ぎった。
「運命を変えるって、どういうことなんですか?」
サラは首を左右に振った。
「私には分かりません。ジューイ様は、それ以上は何もおっしゃいませんでした」
「でも、なんで……」
「ごめんなさい、リュウ。でも、ジューイ様は何かを知っておられたようでした」
「サラ、あなたの言うことが本当だとしたら、父さんは、ナーガだったということです。でも、僕の父さんは間違いなくヒトでした。その証拠に父さんは死にました。とても酷い事故が原因だと聞いています。もし父さんがナーガだったら生き延びているはずです」
『死』という言葉に打ち砕かれたように、サラがヘナヘナと地面に腰を下ろした。そのまま地面に両手を突きながら背中を丸めて深くうなだれた。その両肩が細かく震えていた。
しばらくの間、サラは込み上げる涙を拭うこともせず、苦しそうに嗚咽していた。リュウは、そんなサラにかける言葉もなく呆然と立ち尽くしていた。
地平線に傾いた夕日が辺りを赤く染め始めていた。ようやく心を落ち着かせたように、サラがヨロヨロと立ち上がった。その瞳は真っ赤だった。
「すいませんでした、リュウ。取り乱してしまって。もうすぐ日が落ちます。歩きながら話しましょう」
街に向かって、サラが急ぎ足で歩き始めた。リュウは少し小走りになって横に並んだ。
「実はですね。ナーガの中でも王族の方々(かたがた)だけはヒトの姿に変わる能力を持っておられます。先ほど、アイラ女王陛下がヒトの姿に変わったのを、あなたも目にしたでしょう」
「そうなんですか……」
太陽のような眩しい光を放ちながら、アイラが姿を変えたことをリュウは思い出した。
「それから、ナーガの神殿には古い言い伝えがあります。それは神殿が異世界への入口になっているというものです。ただし、異世界に旅立った後、そちらの世界で本当の名前を誰かに教えてしまうと、元の世界に戻ってこれなくなるとも言われています」
「本当の名前……」
「ジューイ様は、きっと誰かに本当の名を告げてしまったのだと思います。だから、そちらの世界で命を落とすことになったのに違いありません。いいですか、リュウ。あなたは、この世界で決して本当の名前を言ってはなりません」
「分かり……ました……」
無意識のうちに歩く速度を緩めながら、リュウは小さく呟くように返事をした。
十歳の誕生日に母が父のことを話してくれた。あの時、母は、『私があの事を聞かなければ、こんなことには……』と漏らしていた。
(あの事って、もしかして……父さんの本当の名前……)
その時の母の沈痛な面持ちが胸のうちに蘇ってきた。
太陽が地平線に沈む直前、街を囲む城壁に辿り着いた。既に空には星が瞬き始めていた。
城壁の高さは三十メートルほどで、その一角に門が設けられ、両開きの大きな扉が内側に向かって開いていた。城壁の天辺には鋭い銛が空に向かって等間隔で突き立っていて、夕日を反射して鈍い光を放っていた。
サラはその前で立ち止まると、「神殿の巫女のサラです!通して下さい!」と大きな声で叫んだ。
「もう日没だ。日が沈んでからは誰も入れることはできん」
ちょっとくぐもった重低音のダミ声が辺りに響き渡ると、扉の向こうに濃紺色のウロコで全身が覆われたナーガが顔を出した。
「ジラント様。お言葉ですが、まだ夕日は沈みきってはおりません」
ジラントは長い首を城壁の外に伸ばすと、地平線の方に目をやった。夕日はまだ半分ほど地平線の上に残っている。
「ふん!入れ!」
サラが足早に城壁の門をくぐった。その背中にぴったりと張り付くように、リュウが続いた。
「待て!」
耳をつんざくような怒声に、リュウは背筋が震えた。
「そいつは何者だ?素性の知れん者を入れることはできんぞ」
サラが軽く頭を下げながら、「この者は私の遠い親戚です。アイラ女王陛下から、明日、この者を城へお連れするように命ぜられております」と、よどみなく答えた。
「うーむ……」
ギリギリと歯ぎしりをしながら、ジラントが呻き声を漏らした。
「通れ!」
怒鳴り声を上げると、ジラントは背中を向けた。そのままドンドンと尻尾で地面を叩きながら、口惜しげに歩き去っていった。
(さっきのアイラとは全然違う……まさに地上で最強のケダモノといった感じだ……これがナーガ……)
ジラントの迫力に圧倒され、リュウは首を縮めた。
「さあ、行きましょう、リュウ」
「はっ、はい……」
サラに促されて、リュウは城壁の門をくぐった。
城壁の内側には、既に姿の見えないジラントの他に、二匹のナーガが大きな両開き扉の横にいて、サラとリュウを鋭い眼光で睨んでいた。
そんなナーガの視線を全く意に介さないように、サラはピンと背筋を張りながら、前を向いて歩き続けた。リュウはサラの背中に隠れるようにして俯いていた。
街の中心には三つの灰色の塔が聳えていた。城壁の門から、そこに向かって道幅の広い通りが一直線に伸びていた。いわば街の大通りといったところだろう。
通りを埋め尽くすように大勢の人々が足早に行き交っていた。日没を迎えて家路を急いでいるようだった。みんな、サラと同じように古代ローマ時代のような白い布を身にまとっていた。
(みんな同じ白だなんて……なんか怖いな……)
通りに面して木造の建物が肩を寄せ合うように立ち並んでいた。整然と屋根が連なっているが、それほど高くはない。どうやら全て平屋建てらしい。まるで江戸時代の長屋といった感じだった。
「ここはヒトが暮らす居住区です」
「ずいぶん大勢のヒトがいるんですね」
「それはそうですよ。この街にはこんな居住区がいくつもあるんです」
「そうなんですね……」
自分たちの居住区を決められていることが、リュウにとっては驚きだった。街を囲む城壁も外的から守るためではなく、むしろヒトが勝手に逃げ出すことを防ぐものではないか、とまで思えてきた。
それでも通りを歩くヒトたちの表情は決して暗いわけではない。家路への道を急ぎながら、肩を並べて愉快そうに笑い合っている年配の男たちもいた。
しばらく大通りを進むと、サラは十字路を曲がって小さな路地に入った。
「もうすぐですからね」
「はい」
更に路地を進んでいくと、人通りがほとんど無くなった。ふと空を見上げると、満天に散りばめたように星々が明るく輝いていた。これだけ星空が明るければ、夜道でも歩くのに不便はない。
「さあ、着きましたよ」
小さな長屋の戸口の前で、サラが立ち止まった。そのまま引き戸の取っ手を握ると、スーッと滑らせるように扉を開けた。
(カギもかけてないんだろうか?)
そんな素朴な疑問が湧いたが、リュウは黙っていた。この世界は自分がいた世界とはまるで違っているのだ。
「さあ、中に入って」
サラに促されて、リュウは戸口をくぐった。真っ暗で何も見えず、戸口で佇んでいると、サラが部屋の四隅に置いてある行燈に灯をつけた。
家の中は手前に土間があり、奥は段上がりの板敷きになっていた。部屋全体が祖母たちと暮らしていた家のリビングぐらいの広さしかない。
「サンダルを脱いで、上がって」
「はっ、はい」
ちょっと戸惑いながらも、リュウは板敷きに腰掛けてサンダルを脱いだ。素足になって板敷きに上がると、サンダルを摘み上げて土間の隅っこに置いた。
サラは土間の一角に設けられている煉瓦造りのカマドに火を起こしていた。カマドの横には大きな甕があり、薄い板で蓋がされている。
サラはカマドに鍋を据えると、甕の蓋を外して柄杓を差し入れた。それから柄杓を取り出すと、鍋の上でひっくり返した。柄杓から鍋の中に水が零れ落ちていく。サラは、その動作を二、三度繰り返した。
(あれって水甕なんだ。この世界には水道もないのか……)
この世界の人々の暮らしは、自分がいた世界で例えれば、二百年ほど前の江戸時代のようなものかもしれない。
サラは戸棚から野菜を取り出すと、カマドの横に置いてある小さな木のテーブルに向かった。トントンと軽やかな音を立てながら、包丁で野菜を刻んでいた。
壁際の戸棚には整然と服や道具が並べてられていて、几帳面なサラの性格を映し出しているようだった。板敷きの隅には薄い毛布が畳まれていた。
(あの毛布を掛けて眠るのか?たしかに昼は汗ばむほどだったし、夜になっても気温が下がる気配はない。この世界で、今の季節は夏なんだろうか?)
少し首を傾げながらアゴに手を当てた。
「リュウ、夕食ができましたよ」
小さな丸いお盆の上に二つのお椀を載せながら、サラが板敷きの上に立っていた。
サラは板敷きの真ん中にお盆を置くと、「さあ、どうぞ」と腰を下ろしながら、にっこりと微笑んだ。
リュウはお盆を挟んでサラの真向かいに座ると、お椀の一つを両手で包み込むようにしながら持ち上げた。お椀から立ち昇る湯気を嗅いでみると、ほんのり甘い香りがした。熟したリンゴの匂いに似ている。お椀の中を覗くと、テカテカと光るスープに刻んだ野菜がたっぷり入っていた。
「リュウ、これを使って」
サラが木製のスプーンを差し出した。
「はい」
お椀を片手に持ちながらスプーンを受け取ると、リュウはスープをすくって口に含んだ。不思議なコクがあって甘い香りが口の中に広がった。
「おいしい……」
今度は、スプーンで野菜をすくい上げて、パクッと頬張った。食感はトロトロに煮込んだキャベツに似ている。それに小さな豆も混じっていた。どれも、とても柔らかくて甘い。ちょっと咀嚼するだけで口の中で溶けていくようだった。ゴクリと飲み下すと、途端に体の内側からポカポカと温められているような感じがした。
「良かった。気に入ってもらえたみたいですね」
目の前に座っているサラが、うれしそうに笑っていた。
「とってもおいしいです」
もう一口、スプーンですくって口に入れると、リュウは、野菜を頬張りながらサラに微笑んだ。サラは安心したようにコックリと頷くと、スプーンを口に含んだ。
夕食を終えると、サラは土間に下りて食器を手早く片づけた。それからふたたび板敷きに上がると、リュウの真正面に腰を下ろした。
「リュウ、この世界はどうですか?」
リュウは首を傾げながら、「ええっと……驚くことばっかりです」と、ちょっと口ごもりながら答えた。
「そうでしょうね。あなたの世界のことを聞きたい気もするけど、今は、あまり時間がありません」
「どういうことですか?」
「明日、あなたはナーガの城に私と一緒に出向くことになります」
「今日出会った、アイラ女王のところに行くんですよね」
サラは大きく頷いた。
「そうです」
「あのアイラ女王って、どんな方なんですか?」
「いいですか、リュウ。アイラ女王陛下とお呼びしなくていけません」
サラは顎を引きながら、ちょっときつい眼差しでリュウを見据えた。
「あっ、はい」
「あのお方は、既に教えたようにジューイ様の母上です。とてもお優しい方で、ヒトを慈しもうとしておられます。ジューイ様もそうでした。ジューイ様は、アイラ女王陛下と同じ白のナーガだったのです」
「白のナーガ……」
昼間、目にしたアイラの姿を頭に浮かべた。真っ白なウロコで全身が覆われたナーガ。その姿は日の光を反射しながら、眩いほどの輝きを放っていた。
「アイラ女王陛下とジューイ様は瞳の色も同じでした……あなたの瞳も同じです」
リュウの淡い褐色の瞳を、サラが顔を近づけながら覗き込んだ。遠慮のないその視線に、リュウはちょっとドギマギした。
「女王陛下は、既にあなたがジューイ様のお子だと感づいておられます」
「そうなんですか?……」
「きっとそうです。ですが、あなたはヒトです。それは恐るべきことなんです」
「どういうことですか?」
サラが悲しそうに瞳を伏せた。
「ジューイ様には、バウル様という弟がおられます。ジューイ様とバウル様は二人っきりの兄弟でした。ですが……」
なぜかサラが言いよどんだ。身を固くしながら、リュウはゴクッと唾を飲み込んだ。
「バウル様は赤のナーガです。とても大きな炎を吐くことができます。あの方はヒトを深く憎んでおられます」
「それは、どうして?」
「父であるジルニトラ王をヒトに殺されたからです……」
「殺された?ナーガがヒトに?」
思わずリュウはサラの方へにじり寄った。
「ジルニトラ王がヒトの姿に変わられている時に、突然、その心臓を槍で突いた者がいたのです」
「そんな!いったい、なんで!」
思わずリュウは声を荒げていた。
(僕にとって……ジルニトラ王は……おじいちゃんだ……)
サラは無念そうに首を左右に振った。
「この世界は混乱しつつあるのです。長い間、ヒトはナーガに仕えてきました。ですが、ナーガに反乱し、ナーガを滅ぼそうとするヒト族の者たちが現れたのです」
「ナーガを……滅ぼす……」
「その者たちは、城壁の外、遥か遠くの森の中に集落を作っているそうです。その一味が街に紛れ込んでいるという噂がずいぶん前からありました」
悲しげな面持ちで、リュウは黙り込んでいた。
「十二年前に事件は起こったのです。ジルニトラ王は、その時、傍におられたジューイ様の腕の中で息を引き取られました。そして数日後に、怒り狂ったバウル様が森の中の反乱者たちの集落を炎で焼き尽くされたそうです」
燃え盛る炎にまかれて焼け死んでいく人々の姿が、フッと頭に浮かんで、リュウは思わず固く瞼を閉じた。
「ジルニトラ王の葬儀の後、アイラ様が女王となられました。その即位式の数日後にジューイ様が神殿で姿を消されたのです」
「そうだったんですか……」
サラは顔を上げると、リュウの瞳を見据えた。
「ジルニトラ王は黒のナーガでした。黒のナーガは未来を見通す力があると言われています。ジューイ様は、死ぬ間際のジルニトラ王から何かを告げられたに違いありません」
「何かを?」
「そう、何かを。だからこそ運命を変えるために、ジューイ様は異世界へと旅立たれたのだと思います」
そう強く断言すると、サラが視線を上に向けた。そのまま何かを懐かしむように、遠くを眺めるような眼差しを浮かべた。
リュウは、そんなサラの表情を目にしながら、(父さんが僕達の世界にやってきた理由……運命を変えるため……それはいったいどんな運命なんだろう……)と、想いを巡らせていた。
それからサラはリュウの顔に視線を移すと、ちょっと怖いぐらい真剣な眼差しを向けた。
「あなたのことをバウル様が知ったら、決して許さないでしょう。ナーガの血を引いているヒト。それはありえない存在。バウル様はきっと、あなたをこの世から消し去ろうとするでしょう」
鬼気迫るようなサラの表情に、リュウは頬を強張らせた。
「いいですか、リュウ。隠し通さなければなりません。あなたの父親がジューイ様であるということは、絶対に」
「わっ、分かりました……」
ちょっと視線を游がせながら、リュウは大きく頷いた。
次の日、サラは夜明け前に目を覚ました。そして、横で毛布にくるまっているリュウに、「起きて、リュウ」と、声をかけた。
リュウは寝ぼけ眼を擦りながら、ぼんやりと周りを見渡した。
サラは右手を伸ばすと、リュウの頭を優しく撫でた。柔らかな微笑みを浮かべながら、しげしげとリュウの顔を覗き込んだ。
「それにしても、同年代の子供と違って、あなたはずいぶん大人びていますね。ジューイ様も小さい頃からとても利発だったそうです。あなたは、本当にジューイ様の性質を全て受け継いでいるのですね……」
リュウは寝癖のついた髪の毛をかき上げながら、照れ臭そうに笑った。
(父さんって、そんなだったんだ……)
初めて聞かされる父の幼い頃の話に、ちょっと胸が熱くなった。
(この世界は父さんの故郷なんだ……そして、お城は父さんが生まれた場所……)
不意にリュウは呼吸している空気にさえ、ギュッと胸が締めつけられるような愛おしさを感じた。
「サラ、今は夏なんですか?夜も毛布一枚で十分だったし。ずいぶん暖かいんですね」
ふと頭に浮かんだ素朴な疑問をリュウが投げかけた。
「なつ?なつって……なんのことです?」
サラの返事にちょっと面食らいながら、リュウは、「ええっと、一年のうちで暑い季節のことです。寒くて雪が降ったりするのが冬だし……」と言い淀んだ。
「寒い季節……ああ、そういうことですか」
サラは、やっと合点がいったようだった。
「百年ほど前までは、一年のうちで寒い時期があったと聞いたことがあります。でも、今は一年を通して、ずっとこのように暖かいんですよ」
「そうなんですね……」
「昔は寒い時期に病気で倒れるヒトも多かったそうです。今はそんなことはありません」
「そうですか……」
たわいも無い会話を交わしながら、サラが身支度を始めた。
それから朝日が昇ると同時に家を出た。突き抜けるような青い空には、大きな入道雲がいくつも浮かんでいた。
サラの横に並んで通りを歩いていると、三本の灰色の塔が遠目からもはっきりと見えた。朝日を反射しながら鈍い光を放っている。
周囲の通りには、忙しなく歩いているヒトたちが大勢行き交っていた。
木造の長屋が建ち並ぶ通りを歩いて一時間ほど経ったところで、急に沿道の風景が変わった。学校の体育館ほどの大きさで、石造りの建物が等間隔に並んでいる。まるで教会の聖堂といった感じだった。
「この建物は?」
リュウが並んで歩くサラの顔を見上げた。
「ここはナーガ族の居住区です。気を抜かないでね」
ちょっと頬を強張らせながら、サラがリュウの顔に目をやった。この居住区に入った途端、パタリと人通りも絶えている。もしも城壁の門番のジラントのようなナーガに出くわしたら、面倒なことになるのだろう。
更に一時間ほど歩き続けると、お城の城壁の前に差し掛かった。その城壁は灰色の石を積み重ねて造られており、見るからに強固なものだった。そのうえ街全体を囲む城壁と同じように三十メートルほどの高さがあった。
「ここからは城壁づたいに進んでいきましょう。入口の門までは、もうすぐですから」
そう言うサラに頷き返すと、リュウは城壁を横目に見ながら歩き続けた。ピンと背筋を張ったまま、サラは緊張したような面持ちをしていた。ふと、サラの横顔に目をやると、リュウは、「サラ、城壁の中にある三つの塔は何ですか?」と尋ねた。
「あれは、ナーガの王族を象徴する塔です。王の一族には代々(だいだい)、黒のナーガ、白のナーガ、赤のナーガしか生まれないのです。一方で、他のナーガたちは、茶色や緑、紫や青など、様々な色のウロコをしています」
「王族の象徴……」
「そうです。言い伝えでは、黒のナーガは予言を司り、白のナーガは智慧を、赤のナーガは力を司るとされています」
「神殿のナーガは白だったような……」
「そうです。なかでも白のナーガが最も高貴だとされています。ですが、男性では最も生まれる確率が低いのです。ですから、ジューイ様がお生まれになった時には国中が沸いたと聞いています」
「そうだったんですか……」
自分達の真横にそそり立っている灰色の城壁に、再びリュウは目をやった。今はこの城壁に視界を塞がれて、三つの塔は見えない。
ほどなくして城の入口の門に着いた。頑丈そうな城壁が馬の蹄のような形でくり抜かれている。その空間は分厚い木製の両開き扉で閉じられていた。
サラは、扉の手前で立ち止まると、「神殿の巫女のサラでございます。アイラ女王陛下のご下命により、参上いたしました」と、大きな声を張り上げた。
ギギッーと威圧するような重低音を響かせながら、両開き扉が内側に向かって開いた。
サラはピンと背筋を伸ばしたまま、横に立っているリュウの顔を見下ろした。
「さあ、行きましょう、リュウ」
ちょっと頬を強張らせながら、リュウがコックリと頷き返した。
サラとリュウは横に並んで足を踏み出した。そのまま歩調を合わせるようにしながら城壁をくぐり抜けた。
城壁の内側の地面には灰色の四角い石が隙間なく並べられていた。その表面は滑らかに磨かれていて、まるで鏡のように日の光を反射していた。リュウは、一瞬、目が眩んで思わず掌で瞼を覆ったほどだった。
「大丈夫ですか?」
慣れているようで、サラはいっこうに平気な様子だった。
「ごめんなさい。ちょっと目が眩んで。でも、もう大丈夫です」
リュウは額に皺を寄せながら目を細めた。
背後でギギッーと扉が閉まる音がした。振り返ると、紫色のウロコに全身が覆われた二頭のナーガが扉の左右にいた。
石畳みの反射に目が慣れてくると、真正面に灰色の石造りの巨大なドームがあるのに気づいた。そのドームを囲むように三本の塔が空に向かってそそり立っていた。
辺り一面に広がる石畳みの上には、ヒトはもちろん、ナーガの姿さえ見えなかった。周囲に響き渡るのは、石畳みを踏むサラとリュウの足音だけで、怖いぐらい静かだった。
緊張した面持ちのサラは正面に見える灰色のドームに向かって、ひたすら足を運んでいた。その歩くペースに遅れないように、リュウはちょっと小走りになっていた。
灰色のドームに近づくと、その端部に一ヶ所だけ丸く穴がくり抜かれていた。どうやらそれが入口のようだった。
二人はドームの入口の手前で立ち止まった。ドームの高さは周りを囲む城壁の高さと、ピッタリ揃っている。その入口は半円形で、ドームの半分ほどまでの高さだった。
「神殿の巫女のサラでございます」
サラが声を張り上げた。その声がドームの内側に反響して、幾重にも重なるようにコダマした。その残響が消えた瞬間、アイラがヒトの姿をとって現れた。肩まで伸びた銀髪が薄っすらと光を放っているように見えた。
「待っていましたよ、サラ。よく来てくれましたね、リュウ。さあ、二人とも中にお入りなさい」
アイラがニッコリと微笑んだ。
サラがアイラに向かって深々とお辞儀した。横に並んでいたリュウもぎこちなく頭を下げた。二人が揃って足を踏み出すと、トンと、サンダルで石畳みを叩く音がドームの中で反響した。
ドームの中は丸い天井が光を発していた。その天井から吊り下げられた大きな幕が床まで届いている。頑丈そうな厚手の生地の幕を縦横に垂れ下げることで、個別の部屋として仕切っているようだった。幕は赤、黄、青、白などの様々な色をしている。その光景は、まるでドームの中に七色の虹が広がっているようにも思えた。
先導するアイラに従って、サラとリュウは幕の裾をまくっては、更に奥の部屋へと進んでいった。
薄いグリーンの幕が四方を囲む部屋で、アイラが足を止めた。部屋の中には木製の小さなテーブルがあり、それを囲むように背もたれのある椅子が四つ置いてあった。
「さあ、座りましょう」
サラとリュウに声をかけると、アイラが椅子の一つに座った。サラはアイラの真向かいに座り、リュウは、アイラを右、サラを左に見る椅子に腰を下ろした。二人の横顔に目をやると、張り詰めた雰囲気にサラが頬を引きつらせていた。
「サラ、ここに入るのは久しぶりでしょう」
「はい……」
アイラの視線から逃れるようにサラが目を伏せた。アイラはリュウのほうに顔を向けると、「リュウ、この部屋はジューイが幼い頃から過ごした部屋なのですよ」と微笑んだ。
そして、ちょっと視線を上に向けると、「あの子は、昔からナーガの姿よりヒトの姿でいることが好きな、変わった子でした」と、昔を懐かしむような遠い目をした。その横顔を見つめていると、リュウはなぜか胸がキュッと苦しくなった。
それからサラはリュウに視線を戻すと、「また、あなたと会えて嬉しいわ」と、愛おしそうに淡い褐色の瞳を細めた。
「こちらこそお呼びいただいて、ありがとうございます」
リュウは軽く頭を下げた。
「まあまあ、あなたは本当にしっかりしてるんですね。今、いくつなのかしら?」
「十歳です」
「まだ十歳で……きっとご両親の良き薫陶を受けてこられたのでしょうね」
思わずサラが頬をピクッと引きつらせた。うんうんと満足そうに首肯しているアイラに向かって、サラは、「アイラ女王陛下、本日、バウル様は?」と、わざと話を逸らすように問いかけた。
アイラがサラに向き直った。
「心配することはありません。バウルは昨日から出かけております。また、近習を引き連れて森の方に行っているのでしょう」
「バウル様はヒト狩りに?」
サラの眼差しに影が差した。
「そうです。反乱者たちを根絶やしにするのだと息巻いています。こんなことをしても何にもならないのに……もはや、あの子は私の言うことに全く聞く耳を持ちません」
アイラは悲しそうに項垂れた。
サラが口にした『ヒト狩り』という言葉に、リュウは衝撃を受けていた。
(ナーガに反乱を起こすヒトたちを根絶やしに……)
思わず背筋に冷たいものが走って、ブルッとリュウの体が震えた。すると、アイラとサラが同時にリュウのほうに顔を向けた。
「サラ、この話はやめましょう。バウルは一旦留守にすると一週間は帰ってきませんから何も案ずることはありません」
怯えた様子のリュウに向かって、アイラが諭すような口調で言い切った。
「リュウ、あなたの話を聞かせてくれないかしら?」
「アイラ女王陛下、リュウはこの街に来たばかりで、まだ右も左も分からないのです……」
「分かっていますよ、サラ」
口を挟もうとしたサラを遮るように、アイラがサラを横目で睨んだ。
「では、リュウ、ここの印象はどうですか?」
真っ直ぐに見つめるアイラの遠慮のない視線に、リュウはちょっとたじろいだ。
「とても素敵なところだと思います。このドームもとてもキレイだし……」
アイラは嬉しそうに頷いた。
「そうですか。気に入ってくれて嬉しいわ」
「女王陛下、お聞きしてもいいですか?」
「なんでも構いませんよ、リュウ」
「このドームには壁は無いのですか?」
「ありません。だからこのように幕を吊り下げて部屋を区切っているのです」
「なぜそんなことを?」
「ここはナーガの城です。万が一の時には、ここにナーガたちが集まることになります。その時のために壁を作らないのです」
「万が一の時?……ナーガはこの世で最も強いはずなのに……」
「言い伝えでは、ナーガが滅びかけた時代があったそうです」
「ナーガが滅びかけた?……」
リュウがちょっと首を傾げた。
「五千年ほど前と言われる伝説ですが、ナーガに災いをもたらすものが現れたそうです」
「災い……それは……」
「それはガルダと呼ばれています」
「ガルダ?……なんですか、それは?」
「詳しくは分かりません。氷の刃を使って、この世を滅ぼす存在という言い伝えが残っているだけです。ですが、その難局を救ったのはアーシャという王族の姫だったそうです」
サラは軽く頷きながら、「私も聞いたことがあります。たしか、そのアーシャ様の子孫が今のナーガ族となったと言われているんですよね」と相づちを打った。
「そうです。とりわけジューイはその伝説が好きで、子供の頃から古い文献を探しては、一心に読み耽っていましたよ」
遠い昔を懐かしむようにアイラが遥か彼方を見るような眼差しを浮かべた。
左右に視線を向けながら、リュウは、幼い頃から父が過ごしていた部屋を眺めた。周囲の幕と同じ薄緑色をした小さな書棚が一つ、部屋の隅に置かれていた。
「あれは何ですか?」
リュウがその書棚を指差した。
「あれはジューイの書棚です。子供の頃から色んなことを書き留めていたんですよ。時折あれを眺めると、幼い頃のジューイの姿が蘇ってきます」
アイラがフフッと笑みを零した。リュウは、アイラの瞳を窺うように上目遣いで、「僕も見てもいいでしょうか?」と尋ねた。
すると途端にアイラが、パッと顔を輝かせた。
「ええ、ええ、いいですよ、リュウ。是非見てほしいわ」
そんな二人のやり取りを、サラは心配そうに眉根を寄せながら聞いていた。
リュウは椅子から立ち上がると、書棚に近づいた。背中に注がれているアイラの熱っぽい視線を感じて、いつのまにか額に汗が噴き出ていた。
その書棚は縦に三段、幅は五十センチほどの小さなもので、冊子が整然と並べられていた。それらの背表紙には象形文字のような見慣れない文字が書いてあった。
「ずいぶん沢山あるでしょう。これはみんなジューイが書いたものなんですよ」
いつの間にかアイラが横に立っていた。
リュウは、アイラに向かって軽く頷き返すと、書棚に並んでいる冊子の背表紙に目をやった。その中の一冊の背表紙を目にした瞬間、驚きのあまり、「あっ!」と、小さく声を漏らした。
そこには〈まだ見ぬ君へ〉と日本語の文字が刻まれていた。
震える指先でその冊子の背表紙を摘まむと、ゆっくりと書棚から引き出した。
大きく目を見開いているリュウの顔を覗きこみながら、アイラが訝しげに眉根を寄せた。
「その冊子だけは、何が書いてあるのやら、サッパリ分からないのです。こんな文字は見たことがないですから」
リュウが、黄ばんだ表紙を指で撫でると、古い和紙のようなゴワゴワした感触がした。震える指先で表紙を捲った瞬間、思わず息を呑んだ。
「リュウ、顔色が真っ青ですよ。いったいどうしたのです。まさか……この文字が分かるのですか?」
アイラがリュウの肩に手を置いて揺さぶった。ハッと我に返ったリュウは、「すっ、すいません……」と声を絞り出した。
「これを読めるのですか、あなたは?」
リュウの肩を握る手に力を込めながら、アイラがリュウの瞳を見据えた。有無を言わさぬような真剣な眼差しに抗うことができず、リュウがコックリと頷いた。
「リュウ、ダメ!」
途端にサラが悲鳴のような声を上げた。アイラが振り向きざまに、「お黙りなさい!サラ!」と鋭い声で一喝した。サラは、アイラのほうへにじり寄りながら頭を垂れた。
「アイラ女王陛下、お願いです。リュウまでも失うわけにはいかないんです!私にとっても、陛下にとっても……」
サラは涙に声を詰まらせていた。
アイラは眉間に皺を寄せながら、サラを鋭い眼差しで見つめていた。一呼吸おいて、不意に、フッと軽く息を吐いた。
「分かりました、サラ。これ以上は、やめましょう。ですが、今こそ確信しました。リュウは、ジューイの……」
そこでアイラは一旦口を噤むと、ゆっくりと首を振りながら、「いや、言葉にするのはやめましょう、それでいいですね、サラ」と微笑んだ。
サラは顔を上げると、「ありがとうございます……陛下……」と、瞳を真っ赤にしながら声を絞り出した。
そんな二人のやり取りを、リュウはぼんやりと眺めていた。
(どうして父さんはこんな冊子を残したんだ……それも日本語で……いったいなぜ?……)
呆然としているリュウのほうに、アイラが視線を向けた。
「リュウ、ジューイが書き残した冊子を読んでくれませんか?」
無言のまま、リュウがアイラに顔を向けた。
「これを読むことができるのは、この世界であなただけなのです。お願いです。何が書いてあるのかおしえて」
リュウは助けを求めるようにサラのほうに目をやった。リュウの瞳を見据えながら、サラはゆっくりと頷き返した。リュウはアイラに向き直ると、「分かりました」と頷いた。
それから三人はテーブルについた。リュウの左にはサラ、右にはアイラが座っていた。
リュウが震える指先で表紙を捲った。サラとアイラが、同時にゴクリと唾を呑む音が微かに聞こえた。
リュウは、サラとアイラに代わるがわる視線を向けると、一度深呼吸するようにフーッと大きく息を吐いた。そして、父が書き残した文字を声に出して読み始めた。
まだ見ぬ君のために、これを書き記す。
私は、十歳を迎えた日から一年間、神殿に籠もった。それは、ナーガの王族が必ず果たさなければならない義務だった。
神殿に籠っている間、私はナーガの鏡を使って異世界に旅立った。その異世界での体験は、私にとって決して忘れることのできないものだった。
私はアーシャ姫の伝説を調べていた。その真実をどうしても知りたかったのだ。
アーシャ姫は白のナーガだった。そのうえ、己の体をヒトの姿に変えることのできる初めてのナーガだった。そしてある時、神殿から異世界に旅立ち、しばらくして戻ってきた時には身籠っておられた。
時を同じくしてガルダが現れた。ガルダによって他のナーガは全て滅ぼされた。生き残ったのは、ヒトの姿をとって身を潜めていたアーシャ姫お一人だけで、今のナーガは全てその子孫だ。
私が異世界で見たもの。それはヒトだけが暮らす世界だった。その世界で私が出会った少女、それが同い年の紗也花だった。心根が美しく、可愛らしい女の子だった。紗也花は、一人ぼっちだった私の傍にいてくれた。何も分からない私に異世界のことを教えて、優しく導いてくれた。ここに書き記す文字も紗也花が教えてくれたものだ。紗也花の存在が私の心を癒してくれた。
今の私を見ても、紗也花はあの時の少年のことは思い出せないだろう。
それでも、私は再び彼女に会うために、そして未来を変えるために、異世界へ旅立つ。
アーシャ姫がヒトの子を宿されたのは間違いない。
今のナーガたちは全てヒトとナーガの混血なのだ。アーシャ姫の子孫たちはヒトの姿に変わる能力を持っていた。それなのに長い年月を経るなかで徐々にその能力が失われ、今となっては王族のみがその能力を持ち合わせるだけになってしまった。
このことは決して他のナーガたちには受け入れられないだろう。だからこそ、私は異世界の言葉でそのことを書き記している。
予言を司る黒のナーガであった我が父、ジルニトラ王は私の腕の中で息絶えた。死の直前にガルダの復活を私に告げた。ガルダが何者かは分からない。父は、ナーガは炎の化身。ガルダは、その正反対の存在。氷の化身だと、私に言い残した。
今、これを読んでいる君に願う。
どうか真実を受け止め、ナーガとヒトを繋いでほしい。共に繁栄する世界を築いてほしい。
そして、迫りくるガルダの災厄からナーガたちを救ってほしい。
私は、今こそ異世界へ旅立たなければならないのだ。自らの願いを成就するために。
ジューイが書き残した冊子を読み終え、リュウがページを閉じた。
アイラもサラもその話に衝撃を受けていた。とりわけアイラはナーガの秘密を初めて知らされ、顔色が真っ青になっていた。
そしてリュウ自身も、今の自分と同じ十歳の時に、父と母が出会っていたことを知らされ、驚きのあまり、虚ろな瞳で空中に視線を漂わせていた。
(母さんが口にした『あのことを聞かなければ』っていうのは、二人の本当の出会いのことなのかもしれない……)
すると、アイラがゆっくりとリュウのほうに顔を向けた。
「あなたのお父様は……今、どうしているのですか?……」
ハッと顔を上げたリュウが、アイラの瞳をじっと見据えた。二人の瞳は合わせ鏡に映したように、同じ淡い褐色をしている。
「父さんは……僕が生まれて、そのすぐ後に死にました……」
その言葉に、小刻みに唇を震わせながら、アイラが目を閉じた。その瞼から次々に涙が溢れ、頬をつたって落ちていった。
そんなアイラの姿にサラとリュウは言葉もなく、ただ静かに見つめていることしかできなかった。しばらくの間、重苦しい沈黙が三人を押し包んでいた。
ようやくアイラが瞼を開いた。その瞳は充血して真っ赤になっていた。
「リュウ、話してくれて、ありがとう。心から感謝します」
アイラがリュウに向かって頭を下げた。
「あなたが教えてくれた話は、私にとってよもや想像もできないほどの衝撃でした。他のナーガたちにとってもそうでしょう。ジューイがどんな思いでいたのか、やっと分かった気がします」
アイラの瞳には涙に滲んでいた。その瞳を見つめながらリュウが微笑むと、その頬に小さなエクボが浮かんだ。
「どうか今夜はここで一緒に食事をしましょう、リュウ。もちろんサラも一緒に」
「もちろんです、ねぇ、サラ」
「ああ、そうですね。女王陛下と食事をご一緒にできるなんて光栄です」
「では、さっそく用意をさせましょう。しばらく待っていて。準備が出来次第、食事の部屋に案内しますから」
そう言い残すと、アイラは部屋を囲う幕を捲り上げて姿を消した。部屋にはリュウとサラだけが残された。
「これで良かったんですか?」
心配そうな顔をしているリュウを見つめながら、サラがフッと小さく笑った。
「あなたがこの世界になぜ遣わされたのか、分かったような気がしたわ」
サラはテーブルに両肘を突きながら、左右の掌を自分の両頬に当てていた。
「でも、本当にこれで……」
「大丈夫よ、アイラ女王陛下のことなら。ショックを受けられたでしょうけど、お強い方だから」
「そうですか……」
眉を曇らせているリュウに向かって、サラはテーブル越しに右手を伸ばすと、リュウの肩にそっと掌を置いた。
その時、ドンと地面が激しく揺れた。ハッと身構えながら、リュウが「地震?」と呟いた。サラは険しい顔つきで眉根を寄せていた。
「まさかこんなに早く……」
サラの言葉に、リュウは嫌な予感がした。
「母上!」
男性の野太い声がドームの中に響き渡った。咄嗟にサラがリュウの手を握った。サラの手は小刻みに震えていた。
話し声が微かに聞こえてきた。リュウは瞼を閉じると、その声を聞き取るために意識を集中した。
「何を言ってるの、バウル」
「とぼけても無駄ですよ、母上。今朝、城に入っていくサラと少年を見た者がおるのです」
「知らないわよ、私は」
「ラチが明かないようですね。まあ、確かめる方法はいくらでもあるので」
「ちょっと、何をするつもりなの、あなたは」
ダンダンと乱暴に床を叩く靴音が続いた。
「バウル、やめなさい!」
「これが一番早いので」
次の瞬間、ギギッーと軋むような大きな音がドーム全体にコダマした。鼓膜を引っ掻くような不快な音だった。リュウの手を握るサラの指先に力が込められた。
思わずリュウが瞼を開くと、部屋を囲む緑色の幕が上へと昇っていた。どうやらドームの屋根から垂れ下げられていた全ての幕が一斉に巻き上げられているようだった。
ギギッーという鈍い音が反響し続けるなかで、ダンダンと床を叩く靴音が近づいてきた。
幕が半分ほど巻き上げられたところで、リュウたちに向かって真っ直ぐに歩み寄ってくる人影が見えた。黒髪を短く刈り込んだ男性で、真っ白なローブを身に纏っている。その背中に追い縋るように、銀髪を振り乱しながらアイラが続いていた。その間も止まることなく幕は昇っていった。
完全に幕が巻き上げられたところで、ドームの中で反響していたギギッーと軋むような音がパタリと消えた。その男性はテーブルを囲んでいるリュウとサラの目の前で立ち止まった。
その男性は太い眉毛を吊り上げながら、分厚い唇を真一文字に結んだまま、刺し貫くような眼差しで二人を見下ろしていた。白いローブ越しに胸の筋肉が盛り上がっているのが分かり、いかにもスポーツマンといった感じだった。威圧感がハンパなくて、リュウはブルッと身震いをすると、その視線を避けるように俯いた。
サラが姿勢を正すように背筋を伸ばすと、「これはバウル様、お久しぶりでございます。本日は女王陛下からお招きいただき、こうしてお城に参らせていただいております」と、頭を下げた。その間も、リュウは頬を強張らせながら顔を伏せていた。
バウルは不愉快そうにフンと鼻を鳴らすと、「しらじらしい。くだらん挨拶は無用だ」と野太い声を響かせた。
サラとリュウを庇うように、アイラがバウルの前に立ち塞がると、「聞いたでしょう。この二人は私の客人です。あなたには用がないはずですよ」と、まるで通せんぼをするように両手を広げた。
バウルは、リュウに向かってアゴをしゃくり上げた。
「あの子供は何者です?」
「サラの遠い親戚の者ですよ。サラと一緒に暮らしているのです」
「ふーん、サラと一緒にね。おかしいですな。ジラントからの報告では昨日初めてこの街を訪れたと聞きましたが?」
「だから、昨日から暮らしているのですよ。何もおかしなことはありません」
バウルは、アイラに向かって人差し指を向けた。
「では聞きますが、なぜ母上は、わざわざこの街の城壁の外で、この者たちとお会いになったのです?」
「そっ、それは……」
思わずアイラが言葉に詰まった。
「お答えいただけないのなら直接聞くまでですな」
バウルは目の前に立ち塞がっているアイラを片手で押し退けると、ズンと前に足を踏み出した。アイラが、「あっ!」と声を上げながらよろめいた。
そのままバウルはリュウの真横に近寄った。俯いたまま、リュウは膝の上に置いた両手の拳を震わせていた。
「バウル様、アイラ女王陛下が仰られたとおり、この者は私の遠戚でして……」
バウルはサラの言葉を黙殺しながら、「顔を上げよ!」と、リュウに向かって怒鳴った。
リュウが顔をゆっくりと上げると、バウルと目が合った。バウルは太い眉毛を吊り上げながら、リュウと同じ淡い褐色の瞳を大きく見開いていた。まるで痙攣しているように、その唇が小刻みに震えている。
バウルは、バッと後ろに振り向くと、背後にいたアイラに詰め寄った。
「母上、これはどういうことですか!」
黙り込んだまま、アイラは目を伏せていた。バウルがリュウのほうを指差した。
「こやつは……兄上の?……」
何も答えようとしないアイラに業を煮やしたように、バウルが再びリュウに近寄った。リュウは座ったまま、頬を引きつらせながらバウルを見上げていた。バウルは右手を伸ばすと、リュウの襟首を掴んだ。
「立て!」
そのままバウルがリュウの体を持ち上げた。
途端にリュウの首元の布が喉に食い込んだ。息ができず懸命にリュウは、喉を締める布に両手の指先をかけていた。
「やめなさい、バウル!」
「おやめください!」
アイラとサラが悲鳴のような声を上げた。そんな二人に構うことなく、バウルはリュウの襟首を掴んだまま、ドームの中央に向かって駆け出した。ズルズルと引きずられながら、リュウは全く声が出せなかった。
バウルの背中に追いすがるように、アイラとサラが駆け出した。
「あなた、なにをするつもり!」
「どうか、どうか、バウル様!」
ドームの中央までやってくると、バウルがリュウの体を放り出した。そのままリュウは背中から石畳の床に叩きつけられた。その衝撃で全身が痺れ、床の上で大の字に伸びていた。
そんなリュウを見下ろしながら、バウルが、「きさま、ナーガの姿を見せよ!」と怒鳴り声を上げた。
その後ろから、やっとアイラとサラが追いついた。サラは床に寝転がっているリュウの体に覆い被さると、「バウル様、この者はヒトです。ナーガではございません!」と声が擦れるほどの大声を張り上げた。
「ヒトだと……」
苦々(にがにが)しげに呟くと、次の瞬間、バウルの体が眩ゆいほどの光に包まれた。目を射るほどの強い光に、サラはリュウの体を庇いながら、掌で自分の瞼を覆った。
一瞬のうちにその光が消え、目の前には巨大な赤いナーガが姿を現わしていた。
赤いナーガは肩口から背中にかけて生えた翼を左右に大きく広げながら、首を高くもたげている。炎のような真っ赤なウロコに全身が覆われていて、その両手と両足は丸太のように太かった。その指先から生えている鋭い爪を石畳の床に食い込ませながら、ギシギシと黒板を引っ掻くような不快な音を立てていた。
赤いナーガはドームの天井に向かって大きく口を開けると、ゴゴゴーとまるで雷鳴のような咆哮を上げた。ドームの中でその咆哮が反響した。思わずリュウは両手で耳を塞いだ。
赤いナーガは床の上でうずくまっているサラとリュウに鋭い眼光を向けた。その口元からは鋭い刃物のような白い牙が伸びていた。
全身が小刻みに震えるのを、リュウは止められなかった。
サラとリュウの盾となるように、アイラが赤いナーガの前に立ち塞がった。
「何をするつもりです、バウル。リュウはあなたの甥でもあるのですよ」
赤いナーガは、「私の甥?ヒトが?」と、割れ鐘のような低い声を響かせた。
赤いナーガの瞳を見据えながら、アイラが両手を広げた。
「リュウに手出しをすることは許しません」
赤いナーガが再び上を向いて雷鳴のような咆哮を轟かせた。そして、アイラのほうに向き直った。
「兄上は気が狂われたのだ。よりによってヒトと交わり、子をもうけるなど、正気の沙汰ではない……忌まわしく穢らわしいこの者は……この世から消さねばならない」
「なりません!」
アイラの体が眩ゆい光に包まれ、瞬時に白いナーガの姿に変わった。
互いの隙を窺うように、鋭い眼光で赤いナーガと白いナーガは睨み合っていた。
次の瞬間、赤いナーガがクルリと体を回転させると、太い梁のような尻尾で白いナーガを弾き飛ばした。ドスンと鈍い音を立てながら、白いナーガが石畳の床に叩きつけられた。もしあの尻尾で叩かれたのがヒトであれば全身の骨が粉々(こなごな)に砕かれただろう。
不意を突かれた白いナーガは気を失ったようで、そのままピクリとも動かなかった。
間髪を容れず、赤いナーガが再びクルリと回転した。床にうずくまったままのサラとリュウに向かって、真っ赤な丸太のような尻尾が迫ってきた。
その時、リュウの頭の中でキンと甲高い音が響いた。まるで何かのスイッチが入ったように周囲の風景が凍りついたように固まった。真空の中に放り出されたように物音一つ聞こえない。
サラは、リュウの体に覆い被さったまま、固まっていた。リュウは、サラから身を離しながら立ち上がった。
その間も、赤い尻尾はスローモーションのように近づいていた。
リュウはサラの体を引きずるようにして、赤い尻尾が届く距離から遠ざかった。
次の瞬間、再び頭の中にキンという甲高い音が響き、周囲の風景が元のように動き始めた。
ブンという鋭い音を立てながら、赤い尻尾が空を切った。そのままバランスを崩して、赤いナーガがよろめきながらドンと床に尻もちをついた。思いも寄らぬことに赤いナーガは、ポカンと大口を開けていた。
リュウの隣にうずくまっているサラも何が起こったのか理解できずに、呆然とした表情で瞳を大きく見開いていた。
赤いナーガが石畳の床に爪を立てながら態勢を立て直した。そして、かま首を高く持ち上げると、淡い褐色の瞳をギラリと光らせながら二人を睨みつけた。
その瞳を見据えながら、リュウはサラから距離を取った。
すると、もう一度、赤いナーガが体を素早く回転させた。それと同時に、頭の中で再びキンと甲高い音が響いた。
先ほどと同様に周囲の風景が固まり、赤い尻尾がゆっくりとした速度でリュウに近づいてきた。
今度は床に張り付くように身を伏せると、体の上を掠めるように尻尾が通り過ぎた。遠ざかっていく赤い尻尾を横目で見ながらリュウが床から立ち上がった。
頭の中でキンという音がすると、ブンと空気を切り裂く音とともに、クルリと正面に向き直った赤いナーガと目が合った。ギリギリと軋むような歯ぎしりの音が耳に聞こえた。
突然、赤いナーガが上下に口を開けた。次の瞬間、その喉元から赤い炎が飛び出した。同時に、リュウの頭の中でキンという音が響いた。
赤いナーガが吐き出された炎が、コマ送りのようなゆっくりとした速度でリュウに向かってきた。
全身を焦がすような熱を感じて、リュウは真横に駆け出した。十分な距離を取ったところで赤いナーガのほうに向き直った。既に炎は床に達して、辺り一面の石畳が炎によって赤く染められていた。
リュウには、まるで高速度カメラで撮った映像のように、炎の様子がはっきりと見えていた。そこで再びキンという音が響いた。
忽然と目の前から消えたリュウの姿を探すように、バウルが左右に首を振った。リュウが離れた石畳の上に立っているのに気づくと、その方向にゆっくりと顔を向けた。
「お前は兄上の子に間違いない。それは認めてやろう。確かにお前は兄上の能力を引き継いでいる」
赤いナーガがリュウのほうに足を踏み出した。石畳に鋭い爪が食い込んで、ギシギシと不快な音を響かせていた。
「だからこそ、お前は許されない存在なのだ。気の狂った兄上が残した穢らわしい存在。この世からお前は消えねばならない」
バウルは首を高くもたげたまま、更に一歩踏み出した。首を振り下ろせば目の前のリュウを一飲みにできるような距離まで近づいていた。
リュウはバウルの出方を窺うようにしながら、赤いナーガの瞳を見上げていた。そして一度大きく息を吸うと、「父さんは狂ってない!」と、バウルに向かって叫んだ。
リュウの言葉に、バウルがカッと瞳を見開くと、鋭い牙を剥き出しにして大口を開けた。その喉の奥には炎の塊が満ちていた。
リュウは腰を落として身構えながら、燃え滾る赤い炎を見据えていた。
突然、赤いナーガがドッと横倒しになった。いつ間にか起き上がっていた白いナーガが真横から体当りをしていた。そのまま白いナーガと赤いナーガが石畳の上で絡み合うように格闘していた。
「リュウ!行きなさい!」
アイラの叫び声が聞こえた。
サラがリュウの手を握りながら、ドームの出口に向かって駆け出した。
サラに引っ張られるようにしてリュウも走り始めた。ドームの中には、ドーン、ドーンと二頭のナーガがぶつかり合う轟音が鳴り響き、石畳の床がまるで地震のように激しく揺れていた。
全速力でドームの出口から外に出ると、夕日が石畳を赤く染めていた。
二人の行く手に立ち塞がるように、紫色のウロコで覆われた一頭のナーガが石畳に伏せていた。左右にダラリと翼を伸ばしているが、ギョロリとした目玉はサラとリュウに向けられていた。城壁の入口の門番をしていたナーガの一頭に違いなかった。
ギョッとして、サラとリュウは立ち止まった。やっとドームの外に出られたのに、ここで捕まるわけにはいかない。
紫のナーガはゆっくりと首を持ち上げながら、二、三回、バタバタと翼をはためかせた。その様子を目にして、思わずサラとリュウは身構えていた。
「女王陛下から外に連れ出すように言われております。お急ぎください」
巨大なナーガの姿からはとても想像できないほど、上品そうで、たおやかな女性の声が耳に聞こえた。
紫のナーガは片方の翼を石畳につけた。その仕草にリュウが戸惑っていると、サラがリュウの手を取って走り出した。サラは石畳についた翼に足をかけながらナーガの肩に乗った。それに倣うようにして、リュウもナーガの肩にまたがると、前に座っているサラのお腹に手を回した。ナーガの全身を覆うウロコは鋼鉄のように硬くて冷んやりとしていた。
サラは首を捻って後ろを向くと、「リュウ、絶対、手を離さないで」と念を押した。
「わっ、分かった……」
リュウが頷くと、サラは、「さあ、飛んで!」と大声を張り上げた。
紫のナーガが手足を伸ばして四つん這いの姿勢になると、翼を左右に広げた。そのまま前に走り出しながら、翼を激しく上下に羽ばたいた。リュウは左右から吹きつける風に体が煽られてバランスを崩しそうになり、必死にサラの体にしがみついていた。
ドンという音とともに紫のナーガが強く石畳を蹴ると、フワッと空に舞い上がった。そのまま速度を上げながら、宮殿の城壁の上を越えた。
正面から吹きつける風にリュウの髪の毛が逆立っていた。リュウは歯を食いしばりながら、サラのお腹に回した手に力を込めていた。
すると、その時、キンという音が頭の中で響いた。
左右を見下ろすと、街並みがスローモーションのようにゆっくりと後ろに流れていく。目の前で身を屈めているサラの肩越しに前方に目をやると、街を囲む木造の城壁が眼下に迫っていた。
ふと後ろを振り返ると、赤のナーガが城の上空に姿を現わしていた。再びキンと頭の中で音がして、周囲の風景の速度が元に戻った。
「サラ、バウルがくる!」
サラの背中に向かって、リュウは大声を張り上げた。
「えっ!」
首を捻るようにしながら、サラが振り向くと、その顔色が真っ青に変わった。サラは前屈みの姿勢に戻ると、「急いで!バウルが追ってくるわ!」と叫んだ。
サラの声に反応して、紫のナーガが翼を激しくはためかせた。グンと速度が上がって、正面から吹きつける風の勢いが更に強くなった。
瞬く間に街を囲む城壁を越えて、眼下に草原が広がった。草原の先には鬱蒼とした森がどこまでも続いていた。空は夕焼けで赤く染まっていた。遥か遠くには白銀の万年雪を戴いた山脈が霞んでいた。
また、頭の中でキンと乾いた音が響いた。
周囲の風景がコマ送りのように後方に流れていく。リュウが後ろを振り返ると、赤い翼を羽ばたかせながら、バウルが徐々(じょじょ)に距離を縮めていた。
紫のナーガが草原を越えて鬱蒼した森林の上に差しかかった。その時、バウルが口を大きく開けると、次の瞬間、大きな火の玉が吐き出された。
スローモーションのように近づいてくる炎の塊に、リュウは息を呑んだ。このままでは紫のナーガの肩に乗っているサラとリュウに直撃するのは間違いない。
リュウはサンダルの裏で紫のウロコを踏み締めながら立ち上がった。目の前で身を屈めているサラの脇の下に手を入れると、思いっきり体重をかけながら、両足に力を込めてジャンプした。
「あっ!」
悲鳴を上げるサラの声が聞こえた。サラの身体を引っ張り上げるようにしながら、リュウは紫のナーガの肩から飛び上がった。二人の足下を紫のナーガの体がゆっくりと通過していく。近づいてくる火の玉までの距離は十メートルほどしかなかった。
紫のナーガの尻尾の先端がサラとリュウの下を通り過ぎたところで、二人の体が落下し始めた。リュウは、近づいてくる火の玉の熱を全身で感じていた。
落下し続けるサラとリュウの体を掠めるように、火の玉が通り過ぎた。そのまま二人は鬱蒼とした森林に向かって落ちていった。
なすすべも無く身体を大の字に広げているサラの体を庇うようにしながら、リュウは、目の前に近づいてくる濃緑の梢に目をやった。太い幹から伸びた枝の先には、絨毯のような大きな葉っぱが幾重にも生えていた。
(よし、あれだ!)
リュウは巨大な葉っぱの上に、自分とサラの体を預けるようにした。そのまま葉っぱを突き破りながら、二人の身体は落下を続けた。次々に目の前に現れる葉っぱをクッション代わりにしながら、二人の落下する速度が徐々(じょじょ)に落ちていった。
最後の葉っぱを突き破った時、目の前に苔むした薄緑の地面が見えた。思わず体を丸めると、リュウは地面に叩きつけられ、同時にキンという音が頭の中に響いた。
地面に背中から叩きつけられた衝撃で、リュウは呼吸ができなくなった。真横にはサラが横たわり、「ううぅ……」と、苦しげな呻き声を漏らしていた。
リュウは、無理やり肺から押し出すように、フーッと大きく息を吐いた。すると、なんとか呼吸が元に戻ってきた。地面に仰向けになったまま、ゆっくりと手や足を曲げてみた。どこにも痛みは走らず、とりあえず怪我はしていないようだった。
リュウは、苔むした地面に両手を突きながら起き上がった。周囲を見廻すと、生い茂った樹木の枝葉が日光を遮り、辺りは薄暗かった。
ふと横を見ると、サラはいまだに息ができない様子で身体をくの字に曲げたまま、苦しげに呻いていた。リュウはサラに駆け寄ると、「サラ、しっかりして!」と背中を擦った。
サラは、〈大丈夫よ〉とでも言うように、横たわったまま、無言で何度も頷いていた。そのままサラの背中を擦っていると、ようやく呼吸が戻ったようで、サラがリュウの顔を見上げた。
「ありがとう……バウルが吐いた火の玉に気づいてくれて……危なかったわ……」
ヨロヨロとサラが立ち上がった。
「怪我は無い?」
「ないよ。サラは?」
「私も大丈夫よ。葉っぱがクッションになって助かったわ」
サラが上を見上げると、巨大な枝葉の間から微かに夕日が漏れていた。これなら上空から見つかる心配はまず無いだろう。
その時、遥か遠くで、ゴーッと風が唸るような音が聞こえた。その音に反応するように、サラが身を固くした。
「なんだろう?今の音は?」
リュウに向かって、サラが自分の唇の前に人差し指を立てた。
「しっ、声を落として。バウルが森を焼き払ってるんだわ。私たちを燻り出すつもりよ」
再びゴーッと風が唸る音が響いた。さっきよりも確実に近づいている。
「ここから逃げないと、炎に囲まれたら一巻の終わりだわ」
リュウが黙って頷き返すと、サラが先導するように歩き始めた。だが、夕日が落ちる寸前の森林の中はまるで暗闇を手探りで進むようだった。苔むした地面に足を取られながら、二人の歩みは遅々(ちち)として進まなかった。
ゴーッという竜巻のような轟音が背後から近づいてきた。
(なぜ狂いも無く近づいてくるのだろう……まるで僕たちがいる場所が上空にいるバウルに分かっているみたいだ……)
リュウがそんな不安に襲われていると、ゴーッという轟音とともに、背後の樹木が燃え上がった。バウルの吐く炎がついに真後ろまで迫ってきた。
「まずいわ、走りましょう」
炎に包まれた樹木の熱を背中に感じながら、サラがリュウの手を取って駆け出した。背後の炎の照り返しのおかげで周囲の視界は明るい。
すると今度は、ゴーッという風の唸る音とともに前方の樹木が燃え上がった。
慌てて二人が立ち止まって左右を見渡した。
「このままじゃ炎に囲まれるわ」
左右のどちらに進めば良いか迷っているうちに、前後の炎が瞬く間に広がった。
肌を焦がすような炎の熱を間近に感じながら、逃げ場を失ったリュウとサラは身を寄せ合っていた。