ラヴレター
おもちゃ箱のような部屋でした。雰囲気だけで選んだというアパートは、駅から走って15分かかり、鍵穴が錆びていたのか、鍵を差し込むだけで耳に痛い音がする上、なかなか開きませんでした。早く入りたいときに不便だから油を差してと言ったのに、あなたは泥棒のようで楽しいからと、ずっと直してくれませんでした。数年に一度の大雪だった冬、一刻も早く温まりたい気持ちがとうとう頂点に達して鍵を変えてもらうことを決心したようですが、それからすぐに別れてしまったので、私はあなたの新しい鍵穴を知りません。
あなたとは一年とすこし一緒にいましたが、400日であなたの25年を知るなんて到底無理でした。最後まで他人のようで、そのくせ私の一番やわらかいところに触れてしまえる、ほんとうにずるいひとでした。
あなたはよく私に晩御飯を作るように頼んで、指定された時間にあなたの家を訪れると、あなたは寝起きだと分かる顔で私を抱きしめました。おとこのひとの匂いがしました。あなたは私の作るものをなんでも食べたけれど、一度もおいしいと言いませんでした。私が半分も食べきらないうちにお皿を空にして、私がだらだらと咀嚼するのを飽きずに眺めていました。静かで、温かな食事でした。私が食べ終わるのを見届けると、あなたは上機嫌に宇多田ヒカルを歌いながら皿洗いをして、それから終電ぎりぎりまで私を触って、満足すると帰っていいと言い、足りないなら有無を言わさずおもちゃ箱に閉じ込めてしまうのでした。
あなたの家はとんでもなく物が多く、収納がうまいのでなんとかなっていたけれど、一歩間違えたら天井ごと落ちてきてしまいそうな危うさをはらんでいました。あなたのベッドの上で目を閉じるとき、私は宇宙と同化してゆくような気がしました。大きな黒い塊が音もなく膨張して限界を迎え、目を開けていられないほどの光と一緒に飛び出してもうもどらない、そういう幻を何度も見ました。そういうときはあなたの腕の中に滑り込んで、あなたの呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりしました。おとこのひとの匂いもわからなくなるほど近くに行きました。
あなたとは人生のはなしをたくさんしましたが、あなたは適当なことばかり言って、私が言い返すのを待っていました。私の反論を最後まで聞くと、それだけ考えられるならあなたは大丈夫だよ、と頭を撫でてくれるのでした。そのときだけは真面目な顔をするので、なにが大丈夫なの、とはとうとう聞けませんでした。それからあなたは壁にかかった絵に、世界を見せてやれなくてごめん、と詫びるのでした。
就職浪人だったあなたは、カフェでバイトをしながら女の子の絵を描いていて、ネットにあげたりもしていたようですが、私はそういうのに全く疎くてよくわかりませんでした。あなたの描く女の子は皆表情に乏しく、完成された美など飽き飽きだ、というように死んだ魚の目をしていました。
パネルの向こうと目が合うとき私は羨ましく思いました、だって彼女たちは四六時中あなたと一緒にいて、私よりも遥かに、ほんとうのあなたに近づくことができるのですから。あなたと世界を共有できるのですから。それは私にとって、新しい世界を知ることよりも魅力的に思えました。
そんなようなことをあなたに打ち明けたときには、嬉しいけれどそれはだめだよ、と遠ざけられてしまったのでした。人恋しそうな目をしているのに。ほんとうにあなたは、ずるいひとですね。
セックスってとても傲慢だよね、とあなたは言っていました。誰かの窪みに自分のを当てはめてしまうっていうのは、とんでもないことなのに、と。ひとはなんでもないような顔をして、もともとひとつだったでしょうと言わんばかりの自然さで、セックスをしてしまうけれど、そんなの傲慢だよ、おれたちはどこまでも他人なのに、と。あなたがそういうのならそれが世界の真理のような気がして、私たちはとうとうからだを重ねることはありませんでした。
あなたの次に付き合ったひとと初めて寝たとき、私は、こんなものか、と思って泣いてしまいました。恋人は痛い思いをさせて悪かったと見当違いに謝っていましたが、私はあなたのために泣いたのです。あなたの怯えを、孤独を、決して触れることのできなかったやわらかいところのことを思いました。たいていの人たちが、すべて忘れてしまったような顔をして快楽に溺れるところを、あなたはそうできなかったのです。私たちは他人であるという、変わることのない事実の前に怯えていたのです。ただ抱きしめてあげればよかったと、強く後悔しました。しかし私の腕で包み込むには、あなたのからだは大きすぎました。
私たちは子供のようで、確かに大人だったのです。
あなたとお別れをしたのは、私が20歳になった誕生日の夜のことでした。いつものように私が夕飯を振る舞って、あなたが家の近くで買っておいてくれたホールケーキを半分まで食べて、残りは明日の朝に食べようねとか言って、片付けはそこそこにベッドの上でくつろいでいました。あなたが私のことをじっと見ていたので、くちびるをつきだすようにして目を瞑りました。あなたは少し間をおいてからそっとキスをしました。中をこじ開けるような強欲なものではなく、境界線をなぞって私を向こう側に取り残すような、繊細で寂しい口づけでした。それからあなたは吐息に紛らわせるようにお別れしようかと言って、反論ごと閉じ込めてしまうように強く強く私を抱きしめました。そして私はついに気づいてしまったのです。どれほど強く抱き合っても私たちはひとつになれないこと、私はあなたの窪みにぴったりとはまる形をしていなかったこと、それは私たちが他人であることの証明であり、おそらく出会った時から決まっていたことだったのです。しかし私たちは、いいえ私は、楽しさに目が眩んでしまってわかりませんでした。擦れる音を無視して、あなたをこじ開けようとしていたのは私の方でした。
目を閉じると、私の宇宙が膨張していくのがわかりました。私が息をするたびに、膨らんだ内側が苦しくて喉がいやな音を立てて、涙が溢れました。こんなにも私はあなたをすきだけれど、気持ちなんて不確かなものでは埋めきれないものが、この世界には、宇宙には、確かに存在するのです。あなたは私の涙を綺麗にふき取って、お片付けの一環というように、私の両肩に手を置いて距離をとりました。あなたも泣いていました。目の前にいたはずのあなたは、望遠鏡を通して覗く星のようでした。
ねえ、愛って結局、何なのでしょう。私はあなたが答えをくれると思っていましたが、きっとあなたも、知らなかったのですね。知りたかったのですね。でも愛を知ろうとすることが、私たちが別個の存在であることを浮き彫りにしてしまったのですね。あなたにも私にも罪はありません。大丈夫です。いまもあなたは、私の見えないところで静かに、あなたの宇宙を膨張させているのだと思います。そして境界も曖昧になるくらい膨らんでしまったら、あとはもう、思いのままに飛び出してしまえばいい。あなたを馬鹿にするひとがいるなら、パネルの向こうの死んだ魚の目の少女たちと一緒に殴りにゆきます。だから安心して飛び出して、世界を知ってください。あなたの光を、大衆の目に焼き付けて、そうしたら消えてしまってもいいのです、一瞬のうちに彼らを虜にしてしまえばいいのですから。あなたならできます。私がそうであったように。私はあなたがすきです。この言葉が決して届かないことを知っていて言います。あなたがすきです。どうしようもなくすきになってしまいました。あなたの孤独は宇宙一美しかったのです。誰にも触れられないものは、寂しさの代償に美しさを得るのです。どうか、星屑に埋もれてしまわないで。宇宙の隙間に身を投じたりしないで。もがいてください。これが私なりの愛です。
どうか、生きてください。